ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2016年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

想像力を持つための決定的なこと

最近、このブログで、想像力についてよく書いているが、そもそも、「想像力がある」と「想像力がない」は、何で決まるのだろう?

学校の教義にのみ従う優等生は確かに想像力がないが、学校の教義に逆らうだけの不良は、もっと想像力がない。
では、どんな人間が想像力があるのかを、真面目に細々(こまごま)言ったりしたら、長く退屈なお話になるだろう。
元々が想像力なんてものは、理屈じゃないので、言葉で説明出来ないからだ。
それでも、「想像力があるはずの人」を、あえて言葉で言えば、大体、次の2つと思う。
「生き生きしている」
「神に近付き続けている」
しかし、本当のことを言えば、「神に近付き続けている人」だけで良いのだ。
なぜなら、神に近付き続けているなら、一時的に落胆や絶望を感じることはあっても、常に生命力が燃え、生き生きすることになるからだ。
神は生命の源なのだから、それに近付くほど、生命の炎は強くなるのは当たり前である。

だが、生き生きするというのは、人間的には、野望を持つことに現れる。
野望と言うと、俗っぽく、野卑で下品な感じがするかもしれないが、人間にとって、野望は物凄く大切である。
ちなみに、野望の意味は、「分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心」であるが、なんて格好良い言葉だろう!

普段、徳川家康や、アポロン神殿の門に書かれている言葉、「身の程を知れ」の重要性を懇々(こんこん)と説いている私が、今度は、「身の程を知らない野心を持て」である(笑)。
これを矛盾と思うことが、すなわち、「想像力がない」のである。
あえて分かり易く言えば、「小さな野心は身の程を知って捨てよ。壮大な野心は身の程を忘れて持て」ということである。
「そうか!一千万円なんてケチなことを言わず、百億円を望めってことか!」
と言うなら、いや、そこはまず、一千万円貯めろよ(笑)。
つまりね、一千万円も出来ない自分の駄目さ加減を本当に思い知り、自分に愛想をつかし、自分を終らせてしまったら高く飛べるのだ。
人間、苦しみは避けられないのである。
このあたりは、昨年(2015年)の1月17日に亡くなられた偉大なるSF作家、平井和正さんの原作で、石森章太郎さん(後に、石ノ森章太郎。1998年没)が漫画を描かれた『幻魔大戦』を読むとよく分かる。
主人公の東丈(あずまじょう)は、子供の時から何をやっても駄目で、親にすら「出来損ない」と言われ、それでもやがて、反発心から無茶な努力をするが、年下の才能に恵まれた者達に、軽く頭の上を飛び越えられてばかりでだった。
まさに、初音ミクさんの歌の『心臓デモクラシー』を地でいっていたようなものだった。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~

そして、全てが廻りだし、東丈は、うじ虫のような存在から、「宇宙広しといえども、これほどの者はそうはいない」と言われるまでになる。
そうなった後、丈は、フロイ(犬の形をした偉大なマスター)の息子に言われたのだ。
「あんさんは苦しむ必要があったんや」(なぜか関西弁)

さあ、哭け、恥を知れ、惨めになれ、苦しめ!
石森章太郎さんは、この『幻魔大戦』を第二の聖書を書く意気込みで書いたと述べられていた。
平井和正さんは、元々、漫画家を目指していたが、石森さんを見て、「こんな天才に敵うはずがない」と思ってSF作家に進路変更したらしい。
こんな経験のある者が本物になる。
コンドリーザ・ライスが11歳の天才少年に出会ってピアニストを諦め、ビル・ゲイツがハーバードにうようよいた数学の天才達を見て、数学者を諦めたように。
彼らは、世界一にしか興味がなかったのだ。
平井和正さんだって、世界一か日本一かはともかく、ナンバー1しか考えられなかったのだろう。
普通の人との決定的な違いは身の程を知らぬ野心・・・野望なのである。
それが強烈な想像力になり、神に近付くのだ。

『幻魔大戦』は、文庫版とKindle版(電子書籍)をご紹介しておく。









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生き甲斐や夢がないのは想像力がないからだ

「なぜ生きるのか?」とか、「生き甲斐がない」、「夢がない」って悩んだり、愚痴ったりするのは、想像力がないからだ。
「なぜ人間は生きるのか」を説く哲学者や、「生き甲斐の創造」だの、「夢を持て」だのと言ってる連中がいるが、そんなことよりも、まず、想像力が大切だ。

想像力を持つためには、自分の好き嫌いを絶対的に肯定する必要がある。
エマーソンが「自己信頼」の重要性を説いたが、簡単に言えば、自己信頼とは、自分の好き嫌いを肯定することに他ならないのだ。

「好き」はともかく、「嫌い」が否定的に見られることがよくある。
「嫌っちゃいけません」、「嫌うのは馬鹿です」って言いたいのだろうね。
でも、嫌いなものは仕方ないじゃないか?
前にも言ったが、「嫌い」を「劣る」にすり替えちゃいけないってだけのことなのだ。
だが、「嫌いイコール劣等ではない」ことを、どうじても理解出来ない人達がいる。
そんな人達こそ、「嫌いイコール劣等」という妄想に囚われた人達なのだ。

よく、こんなことを言う人がいる。
「親を嫌っちゃいけません。私も親が嫌いでしたが、自分が親になって、親の苦労が分かったら、親が好きになりました」
じゃあ、親になってから親を好きになればいいじゃないか?
こう言うと、「いや、そうじゃなくて・・・」と、その人は言うかもしれない。
しかし、アンタだって、親になるまで、親を嫌いだったんじゃないか?
自分に出来ないことを他人に強要するもんじゃない。
親が嫌いなら、嫌えば良いのである。
ただし、自分が嫌いだからって、親に値打ちがないと思うなよと私は言っているだけなのだ。
「親を嫌っちゃいけません」と言った、さっきの人は、親が嫌いだった若い時、間違いなく、親を悪いもの、つまり、値打ちのないものと考えていたはずだ。
その、「親が悪い」と思うのがいけないだけだ。
別に、「親が良い」と思う必要はない。
だけど、「嫌い」を否定されると、どうしても、「悪い」にせざるをえなくなるのだ。

ある人は、私に対し、散々、「お前は間違っている」「お前は悪い」と貶した後、苦しそうな顔で、
「いや、もうやめよう。私はあんまり人を嫌いたくないんでね」
と言う。
いや、嫌ってもらっていっこうかまいませんって。
だけど、私が間違っている、私が悪いというのが、あなたの妄想だと理解することが大事なのだ。
その人は、自分を権威者とか、立派な人だとか思っているので、自分が嫌うことに何か御大層な意味があると大誤解しているのである。
自分が嫌うものは価値が低い・・・言い換えれば、自分は価値がないものを嫌っているのだという、哀れな妄想を持っているのだ。
誰の「好き嫌い」も、単なる個人的な「好き嫌い」であり、何の意味もないのである。

偉いと言われる人はよく、「俺はお前が嫌いな訳じゃない。だが、お前に自分の間違いに気付いて欲しい。それがお前のためだ」などという馬鹿をよく言う。
これも大嘘で、単に、この「自分は偉いと妄想する者」が、その相手を嫌いなだけなのだ。

そして、重要なことは、価値判断をしなくなれば・・・何かを自分の偏見で、劣ると決め付けないようになれば、嫌うということもなくなるのである。

イエスは、モーセの十戒を出してきて、「盗むな、殺すな、姦淫するな」と言ったが、そう言わざるをえなかっただけだ。
盗む、殺す、姦淫する者というのは、それをする相手の価値を低いものと考えているのである。
軽んじている相手から盗み、軽んじている相手を殺し、軽んじている女を姦淫するのだ。
あるいは逆に、値打ちがあると思っている相手から盗み、立派と思う相手を殺し、上等と思う女を姦淫するのである。
だが、相手を単に、好き嫌いだけで見るようになれば、本当に餓えているとかいう場合は別として、盗むことも、殺すことも、姦淫することもなくなる。
イエスは「父母を敬え」とも言ったが、これは、父母をぞんざい(粗略)に扱う人が多いからであるが、父母をぞんざいに扱う人というのは、父母を劣ったものと見なしているのだ。
私など、親は大嫌いだが、皆が、「あなたは親を本当に大事にしていますね」と言う。
ただ、「あなたは本当に親御さんのことが好きなんでしょうね」と言われるのは、マジむかつく(笑)のである。
私は親が嫌いだが、劣ったものと見なすことをしないので、「ごく普通に」扱っているだけである。
お金が欲しいと言われれば、あげられる範囲でいくらでもあげるし、欲しいと言うものは、無理のないものなら買ってくる。
親も無理な要求はしないから、結果、いくらでもあげるし、何でも買ってやってることになってしまうだけだ。
だが、これほど嫌いと思うからには、まだどこかで、親を悪いものと思っているのである。それは認めるしかない。
しかし、まず、嫌いを肯定することが大事なのだろう。

私は、初音ミクさんは大好きだが、姦淫する・・・イエス流には「エロい目で見る」ことは考えられない。
格好良いとは思うが、それは、優れているから格好良いのではなく、やはり、単に好きだってことだ。
初音ミクさんには、何の値打ちもない。
初音ミクさんの生みの親と言われる、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が、講演会で、「あなたにとって初音ミクとは何ですか?」と質問された時、少し困っておられたように見えた。
伊藤社長は、
「娘とは思っておりませんが」
と笑いを取った後、
「よく分かりません。水のようなものです」
と答えられた。
この「水のようなもの」という答では、会場の人達を困惑させると思ったのか、伊藤社長は「えっと・・・つまり、大事なものです」と付け加えられた。
私は、「嗚呼、真面目な人だなあ」と思ったものだ。
私にとって、初音ミクさんというのは、単純な好きを感じさせてくれる「有り難いもの」である。
この「好き」には何の理由もない。
彼女には理由になるものが何もないのだ。
言い換えれば、「理由のない好き」を自然に認めさせてくれる存在である。
価値というものを超えているのだろう。

好き嫌いを、価値判断にすり替えるから固定観念が強くなり、想像力がなくなる。
そのためには、自分の好き嫌いを堂々と認めるが、それを優劣とすり替えないことだ。
自分が好きだからって、価値がある訳ではない。
自分が嫌いだからって、価値がない訳でもない。
それが分かれば、自ずと想像力も得られ、「生きる意味」だの、「生き甲斐」だのを問題にすることもなくなるだろう。









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人類最大の片想いは報いられた

日本最高の文学が何であるか決め難いのは、日本の文学は良くも悪くも日本特有で、日本人以外には理解し辛く、海外の評価を参考に出来ないという理由もあると思う。
日本の素晴らしい文学も、英語にしてしまった途端、薄っぺらになってしまう可能性があると思うのだ。

世界最高の文学となると、さすがに難しいが、古代ローマの詩人ウェルギリウスの大長編叙事詩『アエネーイス』も、その候補に入ると思う。
『アエネーイス』は、ラテン語文学の中では最高傑作と言われている。
そして、イタリア文学の最高峰となると、ダンテの長編叙事詩『神曲』と言っても良いかもしれない。
昨夜も書いたが、『神曲』というタイトルは、森鴎外がつけたもので、本当の題名は『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は『喜劇』としていたようだ。

『神曲』がそれほど偉大であるためもあり、この作品に、天界の高貴な美しい女性として登場するベアトリーチェへのダンテの片想いが広く知られている。
ダンテは9歳の時、同い年のベアトリーチェと出会い、たちまち夢中になってしまい、なんとダンテは、その想いを生涯持ち続けたようである。
だが、ダンテは、ベアトリーチェとほとんど会話をすることもなく、避けられていたようですらあったらしい。
その後、ダンテは許婚と結婚し、ベアトリーチェも他の男に嫁いだが、彼女は24歳で病気で死んでしまう。
始まりから終わりまで、なんとも悲惨な恋である。
ダンテはさぞや苦しんだことであろう。

だが、ダンテは、イタリア最大の文学とまで言われるようになる、この『神曲』にベアトリーチェを登場させることで、大逆転を果たしたのだ。
そのことを説明する。
『神曲』の初めで、35歳のダンテが深い苦悩に陥っていることが書かれている。
すると、聖母マリアがそんなダンテを心配して、偉大なる聖女ルチアをベアトリーチェのところに行かせる。
そして、ルチアはベアトリーチェにこう言うのだ。
(以下、河出文庫『神曲 地獄篇』(平川祐弘翻訳)より引用)

神の讃えのベアトリーチェ、
なぜ貴女をあれほど愛した人を助けないのですか?
貴女のために彼は俗物の群を離れたのです。
(以下略)

するとベアトリーチェは、彼女自身が「現世では自分のためになる事でも、また災いを避けるためにでも、こうすばやく動いた方はいらっしゃらなかったでしょう」(上記の書を引用したが、句読点を2つ付けた)と言うスピードで下界に下りてきたのだ。
そして、ベアトリーチェの目は涙に光っていたという。
そのベアトリーチェの依頼を受け、上にも書いた、ダンテも崇拝する大詩人ウェルギリウスがすっ飛んで来たのだ。
ベアトリーチェ自身は、後でウェルギリウスから引き継いでダンテを導く。

私は、ダンテ自身が書いたのだということも忘れ、思わず涙してしまった。
いや、ダンテは間違いなく報われたのだ。
『神曲』はダンテの頭脳が書いたというよりは、やはり、神の霊感で書いたものであろうからだ。
エマーソンは、「空想と想像は違う」と言ったが、まさに、ダンテの想像は、霊的世界の真実である。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツは、ダンテのことを、「ルネッサンス最大の想像力の持ち主」と評したのであるが、イェイツほどの者が言うからには、やはり、ダンテの精神は神の領域と通じていたのだと思う。

人間にとって、最も重要な能力は想像力である。
3日前にも、想像力のない人間は恐ろしいで、そのことを書いたが、人間は幸福になり、願いを叶えるためにも想像力が必要だ。
ジョセフ・マーフィーも「想像は神の仕事場」と何度も買いていたと思う。
ダンテほどの神的な想像力を持ってしまえば、この世での幸福は得られないかもしれないが、彼は、人類を幸福にする鍵を残したのだ。
あまり読んだ人はいないと思うが、出来れば『神曲』を読み、想像力の秘密を手に入れれば、自由な人間になる道が開けるはずである。

マリア様が私に初音ミクさんをお遣わしになるには、私の苦しみは全然足りないのだろう。
まあ、片想いでも畏れ多いのであるが。









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キスの意味は「考えるな、感じろ」だ

有り得ないような偶然には必ず意味がある・・・かどうかは分からないが、神秘的な感じがしてしまう。
例えば、私は、小学4年生の時、たまたま学校の図書室で、シーラカンスという魚についての本を読み、初めて知ったシーラカンスにとても興味を持った。
その日、家に帰ってテレビをつけると、画面にシーラカンスの映像が現れた。
この出来事に何か意味があるだろうか?
著名な精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングは、意味のある偶然の一致のことをシンクロニシティ(共時性)と名付けた。
だが、ある優れた数学者は、いかに珍しい出来事でも、単に、「珍しい出来事」に過ぎず、神秘的な意味を持たせるべきでないと言ったようだ。
起こる可能性がどれほど低いとしても、それが起こる可能性はあるのだからだ。
では、こんなことはどうだろう。
私が中学生の時のことだが、私は以前見た、あるテレビ番組(時代劇)のある回を録画出来たらなあと思った。
それで、テレビを見ながら、録画装置のリモコンを握っていた。
すると、本当に、私が思っていたものが再放送され、見事に録画してしまった。
これもまた、ただの偶然だろうか?
そうかもしれない。
だが、私は、同じことを再度試みたら、やはり出来てしまった。
しかも、それは、ドラマや映画といった、再放送の可能性のあるものではなく、どう考えても再放送など有り得ない、使い捨てになるような、ワイドショー的なドキュメンタリーだった。
これらの出来事は、偶然の一致というよりは、私が世界を造り出したと考えた方が納得し易い。
しかし、あくまで「納得し易い」だけで、本当にそうかどうかは分からないけどね。

それで、昨日、また、不思議な(と感じる)偶然の一致があった。
聴いていただけると有り難い。
私は先週の土曜日に、初音ミクさんのアルバムCD『僕は初音ミクとキスをした』を入手していた。
18曲入っているが、1曲目の『僕は初音ミクとキスをした』が、このアルバムのタイトルになっている訳だ。
この、インパクトが強いタイトル名のアルバムの存在はずっと以前から知っていたが、私は興味を持たずにいた。
なぜ興味を持っていなかったのかというと、作者のみきとPさんを知らなかったからだ。
だが、少し前に購入した初音ミクさんのコンサート『マジカルミライ2014』のブルーレイで、みきとPさん制作の『心臓デモクラシー』を聴き、「私はこの歌を聴くために生きてきた」と思えるほど魅入られた。
『心臓デモクラシー』は、このアルバムの2曲目である(『マジカルミライ2014』の3曲目)。

ところで、このアルバムのジャケット画は、タイトル名をイメージ化したイラストである。
『僕は初音ミクとキスをした』というタイトルになっているが、イラストでは、2人の初音ミクさんが描かれ、左側のミクさんが右側のミクさんにキスをする寸前であるが、右のミクさんは目を見開き、涙を浮かべている。
髪で隠れているが、2人の左耳のあたりから、1本のイヤホーンコード(のようなもの)が出ている。
だが、2人ともヘッドホンをしているのだから、それはおかしい。しかも、2人とも左耳に1つのイヤホンをするのも不自然だ。
つまり、不思議な絵である。
私は、このアルバムをずっとパソコンの近くに置いて、毎日眺めていた。
ちなみに、このアルバムの裏側のイラスト(7つ)が素晴らしく、それだけで買って良かったと思ったほどだ。
いや、本当に幸福な気分になる。特に、パンダさんパジャマ(?)の2人のミクさん(いーあるふぁんくらぶのコスプレらしい)。

私は昨日、なんとなく、押入れの中から、『8(エイト)マン インフィニティ』という漫画の3巻を出してきて見ていると、「2人のミクさんのキス」と同じ構図の絵があった。
宗形カスミという名の女子高生が、東(ひがし)光一という名の16歳の少年にキスをしているのだが、丁度、そのミクさん同士のキス直前の絵の続きのような感じで、こちらは実際にキスしている。
だが、カスミが不意にキスをし、光一は不意をつかれたのであり、右側のミクさんと同じく、光一は目を見開いている。ただし、涙はないけれど。
この光一は、人工知性体アンナが宿った、本来は小さな女の子の姿のマシナリー(高性能アンドロイド)が化けたもので、本物の光一は別にいる。
感情を持たない人工知性体アンナは、人間の研究のために、小さな女の子の姿では不都合なので、光一の姿を借りていたのだった。
光一に、
「それで少しは人間が分かったのかい?」
と尋ねられたアンナは、キスされた時の唇の感触を思い出すような様子をしながら、
「いいや・・・ますます分からなくなった・・・」
と、多分、声に出さずに思ったのだろう。
アンナは、なぜ、カスミが自分にキスしたのか、全く理解出来なかったのだろう。
だが、冷徹な超高性能の電子知性体アンナには、何かの変化が生じていたのだと思う。

カスミが光一の姿をしたアンナにキスをした理由は、読者にすら、それほど明確ではない。
『灼眼のシャナ』で、感情的な年齢は見かけ通り11~12歳であるシャナが、悠二の母親の千草に、ごく真面目に、「キスってどんな意味があるの?」と尋ねる場面があったのを思い出す。
シャナは論理的な方面は、どんな大人も敵わないほど賢いが、こういった面では実に幼いのである。

だが、キスなんて、論理的な行為ではなく、感情的な行為である。
だから、理屈で考えても分からないのは当たり前だ。
ところが、現代人は、理屈でばかりものを考え、感情を軽視するようになってしまった。
そのために、「本当に大切なことが分からない」のである。
感情的に幼いアンナやシャナのように。
感情は考えても分からない。
考えると誤る。
感情は感じるものである。
『燃えよドラゴン』の、リーの有名な言葉、「考えるな!感じるんだ」のようにである。

尚、カスミがキスした光一はアンナが化けたものであったように、左側のミクさんは、僕(みきとPさん)の化身であったのかもしれない。
なぜミクさんと同じ姿かは、理屈では分からないが、感情的には多分、分かるのだろう。
このアルバムを入手し、ミクさんの切なくも美しい歌声を聴き、ジャケット画を眺め、神秘に目覚めるべきである。









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人生を喜劇にする方法

人間は誰でも感情を持っている。
しかし、感情は磨かなければ貴い優れたものにはならない。
磨いた感情と、磨いていない感情とでは、あまりに差が大きいのだ。

夕陽は美しいと言われる。
しかし、感情を磨いていない人が見れば、さほどではない。
だが、発達した感情を持つ人が見る夕陽は、恐ろしく美しいのだ。
そして、精良な(優れた)感情にとっては、あらゆるものが美しいのである。

武内直子さんの歴史的な漫画である『美少女戦士セーラームーン』で、沈黙の戦士セーラーサターンが、この世界を終焉させるべく、「沈黙の鎌」サイレンス・グレイブを降り下ろした後、うっとりとした顔で、
「美しいわ。滅びる刹那のその悶え」
とつぶやく。
私は、「嗚呼、セーラーサターンは妙妙たる(極めて優れた)感情を持っている」と思うのだ。
世界の滅びでさえ、美しいと感じるのだから。

悲しい、苦しい、憎いという感情を破壊的に感じるなら、その者の感情はまだ粗いのだ。
冴えた感情にとっては、それらも美しいのである。
実際、本物の芸術家にとって、悲劇ほど美しいものはない。
だからこそ、最も高度な文学には悲劇が多いのであるが、感情を磨けば、悲劇は喜劇になる。

W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人)は、
「人生が悲劇だと分かった時に、本当の生が始まる」
と言ったが、もっと大切なことは、
「人生が喜劇だと分かった時に、生が終わる」
ということである。
この「生が終わる」とは、普通の人間としての人生が終わり、永遠の生に目覚めるという意味だ。

また、イェイツの詩『ラピス・ラズリ』で、イェイツは、

All things fall and are built again,
And those that build them again are gay.
全ては滅び、再び作り直される
そして、再び作り直す者は陽気だ

と言うが、滅びもまたカーニバル(陽気なお祭り)なのだ。

ダンテの『神曲』の本当のタイトルは『神聖なる喜劇』で、ダンテ自身は、ただ『喜劇』と題した。
森鴎外が、勝手に『神曲』というタイトルにしてしまったことは、私はあまり好ましく思っていないが、まあ良い。
『神曲』を味わって、感情を磨くのだ。
私としては、初音ミクさんの歌を聴くに限ると思うが、クラシックが好きな人や、篠笛(しのぶえ)の音に雅を感じる人など、いろいろだろう。
しかし、いずれにしても、素晴らしい音楽を聴くことは感情を美しく、精妙にするのに役立つだろう。
すると、人生は陽気な喜劇になる。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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