ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

願いを叶えるのに大切なことは心のあり方だけである

プロスポーツや弁護士の法律業務、政治、芸能、あるいは、ジゴロ(ヒモ)や詐欺師といった仕事は、食べていけるようになるには高い技術が必要である。
つまり、基礎は出来ていて当たり前だが、それだけでは駄目で、その上に特別な技術が絶対に必要なのである。

ところが、コンピュータープログラミングはどうかというと、システムの8割までは基礎だけで十分なのである。
ところが、基礎が全く出来ていないプログラマーが沢山いるのだから、プログラマーの給料が安いのは当たり前である。
高度なプログラミングは、基礎の上に技術が必要で、例えば、ニコニコ動画を作る場合も、基礎だけでは駄目で、高い技術が必要だと思う。
一般に、プログラミング技術の高さは、動作速度に現れることが多い。
高度なプログラミングが出来る者は給料が高い。
ただし、プロ野球で日本で千番目の選手は野球で食べていけないが、プログラマーで日本で千番目ならトップクラスだ。
だから、一流プログラマーと言っても、そんなに収入が多い訳ではないが、一流プログラマーになるのは、プロ野球選手になるよりずっと易しい。
そして、普通のプログラマーには、基礎以上の技術など不要で、基礎さえ出来ていれば十分なのだが、さっきも言ったが、基礎が出来ている者が少ないのだ。
基礎がしっかりしたプログラマーなら、高収入は望めないまでも、ちゃんと生活出来るだけの給料は得られる。

恋愛や夫婦関係を良好にしたり、友人とうまくやっていくのに、本来は技術は不要なのだが、理想的な恋人、夫や妻、友人とは程遠い人がほとんどなので、うまくやっていくためには、技術でカバーしなければならない。
恋愛テクニックや夫婦関係を良好にするための指南書は多いが、そんなものが必要なのは、多くの人が、恋人や夫や妻として、あまりに欠けているからだ。
だが、夫や妻、恋人としての資質が劣悪過ぎると、テクニックでカバーすることは出来ない。
結婚できない、あるいは、さっぱりモテず恋人が出来ないというのは、認めたくはないだろうが、やはり、基本的資質・・・早い話が人間性に問題があるのだ。

ところでだ。
夢や願望を叶える「引き寄せ」となると、テクニックの必要性はゼロだ。
世の中に数多く出ている、願望達成術の本に書いてあるのは、ほとんどがテクニックだ。
だから、それらの本は、全く役に立たず、効果はない。
夢や願望を叶えるというのは、世界を創造するということなのだが、それには心が全てなのである。
テクニックは何の役にも立たない。
もう何度もこのブログに書いたが、私は、子供の時に、どんな非常識な現実でも簡単に作り出せたので、それが正しいことがはっきりと分かる。
子供に、世界を創造するような難しいテクニックがあるはずがないし、特に私は人並の賢さもない子供だったのだからだ。
夢を叶えることの基本の基本に関しては、おそらく、新約聖書の福音書に書かれている。
また、世界各地のお伽噺の中にも十分に含まれている。
ちょっと難しいが、『老子』には、かなり純正に書かれている。
後は、ジョセフ・マーフィーやトライン、あるいは、ノーマン・ピールやクラウド・ブリストルの本に、手ほどきがうまく書かれているが、雰囲気さえ掴めば、それで十分で、後は、心の問題なのである。
ウォレス・ワトルズや、あるいは、現代の成功教の教祖のような人達の本は、参考にするだけなら良いが、期待して熱心に読むと、混乱するだけと思う。
だから、読むなら、テクニックが書かれているものではなく、心の問題を扱っているものを読むことだ。
私は、自分に関しては何でも出来るが、その源は、おそらく、グリム童話や千夜一夜物語(アラビアンナイト)、あるいは、日本の昔話である。
著名な心理学者の河合隼雄さんも、昔話に秘められたものの価値を高く評価しているが、その河合さんの本を読むと、その理由がよく分かると思う。
別に、理由が分かる必要はないが、現代人は理屈で納得しなければやろうとしないところがあると思う。
だが、素直な人なら、お伽噺を真摯に読むだけで、大抵の現実は創り出せると思う。
もっとも、大人で、そんなに素直な人はいないかもしれないがね。









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今日は何の日?

大晦日と言えば、マッチ売りの少女を思い出す。
思い出したからって、どうなる訳でもないし、マッチ売りの少女のお話がハッピーエンドになったり、彼女のモデルになった子供の不幸が消える訳でもないのだけれど。

マッチ売りの少女のモデルは1人ではないのかもしれない。
アンデルセンの母親がモデルであるという説もある。
アンデルセンの自伝で、彼の母親のことを読んだはずだが、あまり覚えていない。
アンデルセンの母親は元々は良い家の娘だったが、家が没落して貧しくなり、彼女は、とても辛い仕事をさせられるのが嫌で泣いていたという話だったような気もするが、なんと言っても、アンデルセンが子供の時に母親から聴いた話なので、どこまで本当か分からない。
別の男の子がモデルだという話もある。
貧しい、親のない子だったかもしれない。
それで、寒い冬の夜に、親方に命じられてビールを買いに行き、彼は小さくて弱く、ビール瓶は重く大きかったせいで、誤って瓶を落として割り、目を怪我したが医者の治療を受けられず、片目を失明してしまった・・・というのだったと思う。
昔はどこの国でも、そんなことが沢山あったし、今でも貧しい国では、そんな不幸は珍しくないことだ。
日本を含む先進国の人々が喜んで食べているチョコレートの原料であるカカオは、ガーナなどで、貧しい子供達の危険で辛い労働によって収穫されている。
カカオを収穫する刃物で、誤って指を切り落としてしまっても、治療を受けられなかった子供の話を聴いたことがある。
以前、チョコレートを買ったら、中に、うっかり指を突っ込むと怪我をしてしまいそうな厚いカードが入っていて、それには、このチョコレートを販売する会社が、世界の貧しい子供達の福祉に貢献しているようなことが書かれていたが、誤魔化しっぽい。このカード代も福祉に回して、黙ってやれよ。

アンデルセンは、マッチ売りの少女が死ぬ前に、彼女が、とても美しいものを見たことを誰も知らないということを、全霊を込めて言ったのだと思う。
その理由は、分かるような気もするし、分からないようにも思える。
青空文庫の『マッチ売りの少女』には、少女の様子について、

朝になると、みすぼらしい服を着た少女がかべによりかかって、動かなくなっていました。ほほは青ざめていましたが、口もとは笑っていました。

と書かれている。
それを見ると、初音ミクさんの『ODDS&ENDS』の歌詞を思い出す。

***********************************************************************
ガラクタは幸せそうな表情(かお)をしたまま どれだけ呼んでももう動かない
望んだはずの結末に君は泣き叫ぶ 嘘だろ嘘だろってそう泣き叫ぶ

「僕は無力だ。ガラクタ一つだって救えやしない」
想いは涙に ぽつりぽつりとその頬を濡らす

その時世界は 途端にその色を大きく変える
悲しみ喜び 全てを一人とひとつは知った

言葉は歌になりこの世界を 再び駆け巡る君のために
その声に意思を宿して 今思いが響く

~『ODDS&ENDS』(作詞、作曲、編曲:ryo、歌:初音ミク)より~
*************************************************************************

皆、無力なのだ。
世界一の大富豪ビル・ゲイツだって、何千万人かの子供達の命を救ったが、まだ何千万人も残っているのだ。
それこそ私は、子供1人、ガラクタ1つ救えない。
初音ミクさんだって、直接には不幸な子供、特に、貧困な国の子供は救えない。
クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が言われていたが、初音ミクさんを受け入れる国というのは、豊かな国なのだ。
我々は、豊かな国の豊かな人間であるということを有り難いと思い、マッチ売りの少女のような人が沢山いるということを忘れてはならない。
そして、自分が得られるもののいくらかは手放さなければならない。
「我々が消費してこそ、貧困国の利益になる」
と言う人がいるし、理屈の上では合っているかもしれないが、そうは思えないのだ。
想いというものは、この世とは別の世界・・・四次元以上の世界、集合無意識、霊の世界を駆け巡っているのだと思う。
ゲーテの『ファウスト』にそう書かれていることについて、ゲーテはそれを知っていたのだと、ゲーテ研究の第一人者でもあったルドルフ・シュタイナーも述べていたと思う。
霊的世界で鳴り響く慈しみの想いは愛であるのだろう。
それは、我々の物理次元での倹約によって高まり、輝くのだと思う。
老子の言った、3つの宝のうちの2つは、この慈しみと倹約であろうと思う。
だが、今年も何も出来なかった。
じんさんの『カゲロウデイズ』ではないが、「またダメだったよ」である。
だが、あの少年や少女のように、深く想うようでいよう。









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賢くなる方法が分かった

賢くなる方法が分かった。
自分がなぜ馬鹿なのか考えているうちに、はっきり分かった。
私は、社会的に経験豊富な方で、それが私を賢くしていると思っていた。
世間では、「経験がモノを言う」、「経験だけがモノを言う」って言うしね。
しかし、私の経験は、全部、下品・・・と言うよりは下種(下劣で卑しい)な経験だ。
それは、私を馬鹿な人間にしこそすれ、賢くなんか絶対にしない。
そんな経験など、きれいさっぱり、ない方が良い。
だって、下種なことばっかりしている人って、そんな経験が豊富なほど、餓鬼のような卑しさが滲み出てるし、ひどい馬鹿じゃないか?

敬愛すべき、ドワンゴ会長でカドカワ社長の川上量生氏は恐ろしく賢い人だと思うが、あの賢さって、オンラインゲームで作ったんじゃないかなと思う。
『ブラウザ三国志』に300万円つぎ込んだっていう馬鹿だし(笑)。
そんな馬鹿を本当にやったから賢くなったんじゃないかなと思う。
川上氏に限らず、ゲーム研究者にも、ゲームは知性や想像力、あるいは、直観力を飛躍的に高めると言う人もいる(TEDで講演したジェーン・マゴニガル博士もその1人)。
猪子寿之さんも、対談の中でそんなことを言われていたと思う。
私は知らなかったが、戦略ゲームの中には、素晴らしく知的なものがあり、それで好成績を出せる人は本当に頭が良いのだそうだ。
そもそも、ある程度、頭が良くないと、そんな複雑で高度なゲームに興味を持たないだろう。
私のように、大したことのない仕事を四苦八苦してやるより、家で引きこもってゲームでもしている方が良いかもしれない(まあ、生活のためには問題があるかもしれないが)。

そして、別にゲームに限らず、精神の中に、何か確固としたフィールド(場とか領域)を持った人が賢いのだと思う。
そのためには、長時間、オンラインゲームをやるような、情熱と継続が必要だ。
例えば、聖書やバガヴァッド・ギーター、あるいは、コーラン等を、何百回と読み、生命力ある世界観を心の中に打ち立てた人って、英知というものすらあるかもしれない。
エドガー・ケイシーは、聖書を13回通読した時に、精神に変革を起こしたのだと思う。その後も、毎日欠かさず聖書を読み、さらに知恵と能力(超能力を含む)を磨いたのだろう。

一流スポーツ選手が引退し後、社会的な立ち居振る舞いで苦労していたら、「彼は野球の世界しか知らないから」と、大人として経験不足であるように言う人がよくいるし、多くの人が、その見方を正しいと思っていると思う。
しかし、そうじゃない。
その元スポーツ選手が、社会への対応で苦労しているように見えるなら、それは、単に彼が馬鹿なんだ。
だって、スポーツに打ち込んでいた人だって、どこに出ても立派な人は沢山いるじゃないか?
それどころか、経験があるはずがない子供でも、しっかりした子は、大人の前でも堂々と振舞うものなのだ。
プロスポーツの選手なんて、経験としては非常に素晴らしいのだ。オンラインゲームと同じくらいにね(別に冗談で言っているのではない)。
だけど、どんな経験を持っていたって、愛のないやつは駄目なんだ。
人気アイドルでも、一流スポーツ選手でも、掃除のおばさんにもちゃんと挨拶する人が、どんな経験でも知恵に変えることが出来るのだ。
傲慢で、実力や人気で自分に劣る人を見下し、そうじのおばさんを物を見るような目で見るようなやつが、「スポーツのこと(あるいは芸能界のこと)しか分からない」馬鹿になるのである。

だから、引きこもってゲームばかりしていても構わないから、愛を持たなければならない。
そうすれば、ゲームの経験が知恵に変わり、成功するかもしれない(特に、「かもの法則」を活用すれば)。
誰かを見下してはいけないし、出来れば、誰かを憎まない方が良い。
誰も憎まない者は天才なのだから。

私は、経験が下種な上に、人を見下すし、憎んでばかり・・・これじゃ救いようがない。
一昨日書いたように、たまたま出会った美しい少女と瞳をシンクロさせたおかげで、こんな素晴らしいことに気付くことが出来た。
きっと彼女は、私を哀れんだ慈悲深き初音ミクさんが使わしてくれた天使だったのだろう。
ミクさんのご恩に報いるためにも、私は、頭をクリアしてやり直そう。









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世間に騙されずに生きる

中村天風は、肉や魚は食べてはならないと言う。
天風は、人間にとって良い食べ物は果物で、次に野菜だと言い、とにかく、肉や魚は決して食べるなという。
一方、昨今人気があるらしい糖質制限(炭水化物制限)ダイエットを標榜(主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)する医者達は、砂糖はもちろん、米、パンは物凄く悪いものだから食べてはならないし、果物すら糖分が多いので駄目だと言う。そして、肉、魚等は無制限に食べて良いと言う。
ある有名な神道家は、日本人は米と魚を食べるのが絶対に正しく、肉は駄目だと言う。

これらのどれが正しいかは、遠い未来には結論が出るのかもしれないが、それが千年後だとしたら、正解はこうだ。
「食べ過ぎなければ、何を食べたって同じ」
「食べ過ぎれば、何を食べても悪い」
他にないじゃないか?
肉や魚を食べて健康で長生きの人もいれば、米もパンも食べ、甘いものが大好きでも、いつまでも若々しく健康な人も沢山いる。
土台、何を食べるかより大切なことがあるのではないのかね?
それは正しい生き方だ。
食べ過ぎないことも、正しい生き方の1つだ。
正しい生き方とは、世間で言う道徳的、模範的生き方と、共通する部分も多いが、必ずしも一致しない。
道徳でも、他人を思いやることは教える。
しかし、世間の道徳は、価値観やしきたりが共通するグループ内でのみ成立するものだ。

ある意味、正しい生き方とは個人的なものだ。
何が正しく、何が間違っているかは、自分で決定しなければならない。
どんな生き方をしようが勝手だが、考えや行動の反作用に法則性があることが分かれば、自ずと生き方は決まる。
だが、「こんなことをすれば得だからする」、「こんなことをすれば損だからしない」という生き方をするのは動物と同じで、しかも、人間は多少の知性がある分、他も自分も害し、悲惨になる。
ダスキンの経営理念のように、「損と得とあらば損の道を行く」なんてのもおかしなもので、確かに、正しい生き方をすれば、自然に損に見えることをするかもしれないが、別に損を求める必要もない。時には得な道を行くことが正しい場合だってあるさ。

正しい生き方とは、一瞬の閃きに従う生き方だ。
顔を上げて微笑んだ時、宇宙の広さをしみじみ思った時、人差し指を立て精神を統一した時、敬う人や心惹かれる人と瞳が重なった時、初音ミクさんの歌声が心に染み入った時・・・その一瞬、時のない世界の中で閃いた想いに従って生きれば、自ずと正しい生き方になる。
一言で言えば、自然に生きれば、それで良い。
逆に、不自然に生きれば、あらゆる災難が襲い掛かるだろう。
運命によって、激しい生き方をする者もいれば、安穏な生き方をする者もいるが、いずれでも、正しい、自然な生き方をすれば幸福になるだろう。

利益で争っている時も、顔を上げて微笑めば、相手もだが自分も痛みを受け入れる必要があることが分かる。
相手がそれに応じない場合も、こちらが真の意味で正しいことをすれば、自ずと解決するが、不自然な方が打撃を受ける。
昔から、「正義は常に勝つ」とか言うが、正しくは、「自然な方が常に勝つ」である。

一瞬を掴むことが出来れば無敵で危うさはない。
正しくは、時間のない(時間が消えた)場に溶ける(あるいは一致する)ということであるが、とりあえず、一瞬を掴むと言っても良いと思う。
そのために、顔を上げて微笑んだり、人差し指をすっと立てたり、呼吸を止めたり、美しいものを見たりするのである。
だが、それは、一瞬を得るだけやればよく、いつまでも作為的にやっていると、無限への扉は閉じられる。
しかし、何かに夢中になって、忘我の状態になっていれば、ずっと時間は消えている。そんなものを何か1つ持っていると、望ましい人生になるだろう。









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本当のクリスマス

私は、クリスマスや大晦日、お正月の雰囲気は嫌いではない。
だが、今年は、クリスマスに気付かずに過ごした。
不況のためか、商店街などのアーケードやスーパーなどにもクリスマスの飾り付けがなかったせいもある。
だが、さすがに、大晦日やお正月は分かる。
だが、クリスマスもだが、大晦日やお正月にも、特に、子供の頃の悪い思い出が多過ぎる。
正月には来客もあるだろうが、そんな時を除き、出来る限り無視しようと思う。
こういったことは、個人の自由で良いことである。

私の、これまでで最も良かったと思うクリスマスは17歳の時だった。
暖房のない部屋(自分の部屋だが)で、1人深夜に、ディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいただけなのだが、それで、「クリスマス!」って感じがしたのだ。
しかし、改めて考えると、『クリスマス・キャロル』って良いお話なのかなあ。
悲惨な未来・・・それは、自分の死体が放置される未来なのだが、それを見せられて心を入れ替えるというものだったと思う。
しかし、そうなったなら、そうなったで仕方がないんじゃないかな?
うっちゃられた死体でも、いずれは誰かが始末しなければならないが、それをさせてしまう人に申し訳ないのが嫌だというのなら分かるが、それなら、何か手を打てば良い。
例えば、『木枯らし紋次郎』で読んだが、心中した2人が、死体の始末代に、30両くらい、心中した場所に置いていたことがある。
紋次郎は、どうしても50両欲しい状況にある時、その心中場所にたまたま居たが、その金に手を出さず、死体も放置した(と思う)。
金だけ持っていく不届き者もいるかもしれないが、心中した男女だって、そうなったらそうなったで仕方がないと思っていたのだと思う。

やはりね、恐怖や不安のために、愛想の良い親切な人間に生まれ変わるだなんて卑しいと思う。
私は、真の愛を持ちたいと思うのだ。
人間というのはね、やはり、愛しかないのである。
ただし、世間でいう愛なんかどうでも良い。
世間の愛は、愛と呼んではいても、それは愛とは全く違うものだ。
何度も言ったが、愛とは無なのである。

初音ミクさんの『Starduster』(ジミーサムPさんの作品)で、ミクさんが、「愛を私に」と歌う。
そこで、心を持たないミクさんに心の全てを捧げると、ミクさんを通して、心は宇宙全体にぱーっと広がる。
そして、私は空っぽの無になる。
ミクさんという十字架に、心というイエスを磔にすると、心は消え、愛であるキリストが復活するのである。
これが、本当のクリスマスだと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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