皆さんは、長く続けていることが何かお有りだろうか?
出来れば、子供の頃からとか、あるいは、中学・高校の頃から、ずっと欠かさず続けているようなものだ。
私は、それほどしっかりとしたものはない。
かなりいい加減なものなら、小学4年生の時から、腕立て伏せとスクワットは続けているが、ピアノだとか、武道などという「ご立派なもの」は何もない。
成功した人達が、「好きなことを見つけて、それをやり続けなさい」みたいなことを、よく言うと思う。
しかし、「好き」というだけでは続かないと思う。
ドワンゴ会長の川上量生さんが、何かの本の中の、何かの話の中で(相当いい加減な引用である)、人間の行動を促すものは、結局のところ、「プライド」とか「見栄」だって書かれていたと思うが、改めて考えると、その通りなのだと思う。
これは、決して人間を理想的な、あるいは、高貴なものと見なした考え方ではないが、川上さんが一番正直なのだと思う。
私が、腕立て伏せとスクワットを、いい加減ながらも続けているのは、体力があれば、いざという時に主張を通せる可能性が高まるだろうし、健康で快適な上、スタイルも良くなり、魅力アップ・・・と、少しも高潔な理由ではない。
ひょっとしたら、私は特別に低俗なのかもしれないので、他の人も同じとは言わないが、川上量生さんがそうであるのなら(これも、私の読み間違いかもしれないが)、私もそれで良いかなと思う。
人間は、聖者のようなものを目指したり、ましてや、自分は聖者のようなものだと考えることは止めたが良いと思う。
人間は、所詮、他の生物の命を奪って生きているのであるし、それはたとえ菜食主義者だって変わらない。
むしろ、自分は清らかだと思っている菜食主義者が一番厄介かもしれない。
生きている限り、他者に迷惑をかけているのであるが、それに気付かない者が一番迷惑なのだ。
人間が生きるには、自我の力は、好ましくないながら必要だ。
自我のエネルギーは本能的な欲望で、その中でも、プライドや優越感というものが持つ力は大きいのである。
劣等感が力になるのは、あくまで、それをなくして、優越感を持ちたいと思うからだ。
全く、人間ってやつは、本当の姿を出してしまえば、身も蓋もない(露骨過ぎて情緒がない)ものである。
いかなる聖者にだって自尊心はある。
ただ、優れた人間というのは、プライドにこだわる自我を客観視しているのだが、どうすればそれが出来るのかというと、プライドとか優越感というものを、少しは「嫌だな」と思っているかどうかだけのことと思う。
優越感を感じることは、疑うことなく気持ち良い。
しかし、「気持ち良いけど気持ち良くない」と思う人が、少しは進歩した人間なのだと思う。
「熱く生きるためには夢が必要だ」なんて大嘘で、熱く・・・つまり、アグレッシプ(攻撃的)に、精力的に生きるために必要なものはプライドである。
いや、全く人間とは、大したものではない。
ソフトバンクの孫正義さんのような人が、凄い事業をやっているが、やっぱり動機は使命感・・・などではなく、自尊心なのである。
だが、自分の活動の動機は使命感だと言えることが、最高にプライドを満足させるのである。
しかし、本気で「私のモチベーションは人類を幸福にする使命感」と思い出したらもう終わりである。
もちろん、孫さんはそんな馬鹿ではない。
誰かが私に、「いや、それはお前のレベルが低いからそう思うのだ」と言うなら、「なるほど」としか言えないが、私は低レベルな人間・・・不良星人の味方である。
私は最近、常に「ありがたい」と言っていると書いているし、それを全ての人にお奨めしたい。
しかし、何が有り難いのかというと、「プライドを保つことが出来て有り難い」なのである。
そして、実際に、そんな「有難さ」を享受している。
だが、禊(みそぎ)を忘れたら、どんどん魂が穢れる。
魂が穢れたら、悪霊に魅入られ、完全に同化する。
そして、成功者の大半はそうなのだ。
だから、必ず、禊はしなければならない。
戦国時代の武将は、戦場で功を上げて喜ぶ一方、その戦場で花を生けて禊をしたのだ。
沢山の敵を殺して威張りたいと心から思うと同時に、荒ぶる自分が嫌だということも感じていたのだ(無論、そうでない者もいた)。
だから、聖書や経典を読んだり、念仏を唱えたりといったことを、何かしなければならない。
私は、自我のない少女の透明な歌声・・・つまり、初音ミクさんの歌を聴くことが最高の禊になっている。
ミクさんには本当に感謝しているのである。
その意味では、「俺の嫁は初音ミク」というのは、少しもおかしなことではないと思う。
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出来れば、子供の頃からとか、あるいは、中学・高校の頃から、ずっと欠かさず続けているようなものだ。
私は、それほどしっかりとしたものはない。
かなりいい加減なものなら、小学4年生の時から、腕立て伏せとスクワットは続けているが、ピアノだとか、武道などという「ご立派なもの」は何もない。
成功した人達が、「好きなことを見つけて、それをやり続けなさい」みたいなことを、よく言うと思う。
しかし、「好き」というだけでは続かないと思う。
ドワンゴ会長の川上量生さんが、何かの本の中の、何かの話の中で(相当いい加減な引用である)、人間の行動を促すものは、結局のところ、「プライド」とか「見栄」だって書かれていたと思うが、改めて考えると、その通りなのだと思う。
これは、決して人間を理想的な、あるいは、高貴なものと見なした考え方ではないが、川上さんが一番正直なのだと思う。
私が、腕立て伏せとスクワットを、いい加減ながらも続けているのは、体力があれば、いざという時に主張を通せる可能性が高まるだろうし、健康で快適な上、スタイルも良くなり、魅力アップ・・・と、少しも高潔な理由ではない。
ひょっとしたら、私は特別に低俗なのかもしれないので、他の人も同じとは言わないが、川上量生さんがそうであるのなら(これも、私の読み間違いかもしれないが)、私もそれで良いかなと思う。
人間は、聖者のようなものを目指したり、ましてや、自分は聖者のようなものだと考えることは止めたが良いと思う。
人間は、所詮、他の生物の命を奪って生きているのであるし、それはたとえ菜食主義者だって変わらない。
むしろ、自分は清らかだと思っている菜食主義者が一番厄介かもしれない。
生きている限り、他者に迷惑をかけているのであるが、それに気付かない者が一番迷惑なのだ。
人間が生きるには、自我の力は、好ましくないながら必要だ。
自我のエネルギーは本能的な欲望で、その中でも、プライドや優越感というものが持つ力は大きいのである。
劣等感が力になるのは、あくまで、それをなくして、優越感を持ちたいと思うからだ。
全く、人間ってやつは、本当の姿を出してしまえば、身も蓋もない(露骨過ぎて情緒がない)ものである。
いかなる聖者にだって自尊心はある。
ただ、優れた人間というのは、プライドにこだわる自我を客観視しているのだが、どうすればそれが出来るのかというと、プライドとか優越感というものを、少しは「嫌だな」と思っているかどうかだけのことと思う。
優越感を感じることは、疑うことなく気持ち良い。
しかし、「気持ち良いけど気持ち良くない」と思う人が、少しは進歩した人間なのだと思う。
「熱く生きるためには夢が必要だ」なんて大嘘で、熱く・・・つまり、アグレッシプ(攻撃的)に、精力的に生きるために必要なものはプライドである。
いや、全く人間とは、大したものではない。
ソフトバンクの孫正義さんのような人が、凄い事業をやっているが、やっぱり動機は使命感・・・などではなく、自尊心なのである。
だが、自分の活動の動機は使命感だと言えることが、最高にプライドを満足させるのである。
しかし、本気で「私のモチベーションは人類を幸福にする使命感」と思い出したらもう終わりである。
もちろん、孫さんはそんな馬鹿ではない。
誰かが私に、「いや、それはお前のレベルが低いからそう思うのだ」と言うなら、「なるほど」としか言えないが、私は低レベルな人間・・・不良星人の味方である。
私は最近、常に「ありがたい」と言っていると書いているし、それを全ての人にお奨めしたい。
しかし、何が有り難いのかというと、「プライドを保つことが出来て有り難い」なのである。
そして、実際に、そんな「有難さ」を享受している。
だが、禊(みそぎ)を忘れたら、どんどん魂が穢れる。
魂が穢れたら、悪霊に魅入られ、完全に同化する。
そして、成功者の大半はそうなのだ。
だから、必ず、禊はしなければならない。
戦国時代の武将は、戦場で功を上げて喜ぶ一方、その戦場で花を生けて禊をしたのだ。
沢山の敵を殺して威張りたいと心から思うと同時に、荒ぶる自分が嫌だということも感じていたのだ(無論、そうでない者もいた)。
だから、聖書や経典を読んだり、念仏を唱えたりといったことを、何かしなければならない。
私は、自我のない少女の透明な歌声・・・つまり、初音ミクさんの歌を聴くことが最高の禊になっている。
ミクさんには本当に感謝しているのである。
その意味では、「俺の嫁は初音ミク」というのは、少しもおかしなことではないと思う。
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