ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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脳の中の宇宙プログラムをどう働かせるか?

昔、発明家の中山正和さんは、人間の脳の中には、宇宙プログラムというものが組み込まれているのではないかと述べておられた。
宇宙プログラムは、無限の知恵を持った神と同じで、神そのものとも言える。

関英男博士は、むしろ、人間は大型コンピューターの端末だと言っておられた。
全知全能の大型コンピューターはどこか遠くにあるのかもしれないが、人間が使う有線・無線通信と違い、無限に近い速度で交信するので、大型コンピューターは目の前にあるのと変わらない。
この大型コンピューターこそ神である。
ここで、一応、コンピューターとは言ったが、それは物質ではなく、量子的な万能システムで、どんなものでも作り出し、どんなことも起こせる、神そのものである。

ただ、人間の側から言えば、やはり、中山正和さんの言うように、脳の中に宇宙プログラムがあると言って良いだろう。
一休さんが、阿弥陀如来は、はるか遠くの西方極楽浄土に居るのではなく、心そのものが阿弥陀如来なのだと言ったのと全く同じであると思う。
イギリスの偉大な数学者で物理学者であるロジャー・ペンローズは、相対性理論と量子力学を統合する・・・簡単に言えば、宇宙の神秘を解く鍵は脳にあると言い、脳が量子的な機能を持つことを研究しているが、こじつけになるかもしれないが、これもやはり、同じような意味に感じるのである。

脳の中なのか、細胞1つ1つ、あるいは、原子1つ1つなのかは分からないが、やはり、人間は、神の力そのものである宇宙プログラムを持っている。
それをうまく働かせることが出来ないのは煩悩(自我の欲望)のためであり、中山さんは、そのカラクリを上手く説明しておられ、彼の理屈が正しいことは、宇宙プログラムから実際に、いくらかの知恵を引き出し、数多くの世界的な発明を行い、そういったアイデアを出す方法も、世界中の一流企業に提供し、それらの企業で成果を出している。

それで、どうすれば、煩悩を祓い、宇宙プログラムを働かせることが出来るかというと、中山さんは、専門的な手法も作ったが、つまるところ、「クヨクヨしない練習をしなさい」と言われた。
そのためには、般若心経、あるいは、般若心経の呪文を唱えなさいと。(あるいは、訓練のために、禅の考案を利用するようにも薦めておられた。)
彼は、科学者らしく理屈好きなので、その理由も、可能な範囲で明かしておられたが、結論から言えば、般若心経を唱えれば良いのである。ただ、現代の理屈好きな人、あるいは、理屈が分からないと納得しない人は、研究をすれば良いと思う。
また、一休さんは、宇宙プログラムである全知全能の阿弥陀如来の力を出すには、彼の宗派とは違うが、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと教えておられた。一休さんは、宗派にこだわるような人ではなかった。
さらに、良寛さんも、この世の不条理に苦しみに苦しんだ末、『荘子』で悟ったが、最後はやはり、(彼も宗派は違ったが)念仏だということになったのだ。
念仏というと、どうも宗教臭くていけないが(まあ、宗教だが)、研究すればするほど、科学的で完璧なものだ。
岡潔という数学者は、あまりに優秀なので、岡潔という名が、個人の名ではなく、天才集団から成る研究チームの名前だと思われていたが、やはり、最後は念仏に行き着いたようである。
私も、理屈に関しては、現代においては、ある程度は必要かもしれないので、時々述べているが、やはり研究中である。しかし、中々面白い研究であり、学問であると思う。









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信念の謎

この世界は、信じた通りになると言う。
その通りだ。
そこで、人間の大問題は、「どうすれば信じられるか?」ということになる。

渡部昇一さんという人が、昔、ジョセフ・マーフィーの教えを、マーフィーの著書の翻訳ではなく、独自に書いた本で、
「『私は金持ちだ』と自己暗示をしようとしても、それは嘘だと知っている心が反発する。だが、『私は金持ちになりつつある』と言えば、別に嘘じゃないから、心は反発しない」
といったことを書かれていた。
それを真に受けた、ある有名な牧師さんも、信者にそんなことを教えていたようだ。
しかし、「私は金持ちになりつつある」なんて言い続けても、さっぱりそんな気にならず、いくら努力して続けようとしても、やがて疲れてしまって、挫折することになることは保証する。
あるいは、夜寝る前と、朝起きた時の、うとうとした状態の時、「一千万円」と言っていたら、一千万円出来るとかいった話もあったと思うが、成功した人は皆無だろう。
マーフィー自身は、多分、こういったことは言っていないと思う。
ただ、ソフトタッチでやれと言っただけなのだ。

また、こんな話がある。
旧ソ連で、ある平凡な労働者に催眠術をかけ、「お前は大画家だ」という暗示を与えたところ、彼は、猛然と絵を描き始め、最初はひどい腕前だったが、やがて素晴らしい絵を描くようになって大画家になった。彼の絵はクレムリン宮殿に飾られている・・・といったものだ。
おそらく、本当に調査したら、真っ赤な嘘か、とんでもない誇張が入った話のはずだ。

では、洗脳された人はどうだろう。
強力な洗脳なら、どんなことも信じさせることが出来るはずだ・・・そう思う人もいるかもしれない。
だが、どんな洗脳も、本当に信じさせる訳ではないのだ。
ただ、洗脳されたことに反する考えをしようとしたら、苦痛を感じるようになるだけなのだ。
それは、狂信者や妄想者が、一見、何かを信じているように見えるのと同じだ。
洗脳も狂信も妄想も、心の奥では、反発があるのである。
催眠術は、浅い洗脳と言えるかもしれないが(逆に言えば、洗脳とは深い催眠暗示)、心は故意の暗示に抵抗し、自主的にその暗示を保とうとしないなら、普通はすぐに暗示は解けるのである。

「あなたを信じていたのに」と言って、騙された女が泣く。
これも、洗脳、狂信、妄想の類だ。
心は、ちゃんと反発し、妙な感じがしていたはずなのだ。
本当に信じていたなら、騙すはずだった彼だって、心変わりしていたはずなのだ。

イエスは、「山に動いて海に入れと言い、そう信じて疑わなければそうなる」と言ったが、どうすれば信じられると言ったのだろうか?
それが、我々の一番知りたいことではないのか?
私はもちろん答を知っていて、いますぐ、タダであなたに教えるつもりだ。
本当の教えは全部タダで、金を取る教えは全部嘘なのだ。
なぜなら、別に私が発明したことではなく、知っている人は知っているし、イエスだって、ちゃんと言っている。
答は、「神が信じさせてくれたら」だ。
信念なんて高度なものを、たかが人間が自由自在に起こすことなんて出来ない。
それを出来るという、傲慢なことを言う人が多いのだ。

悟った人は、全員がこう言ったのだ。
「神にまかせれば、あなたにとって必要なことを信じさせてもらえる」
荘子は、特に神という言葉を使わず、ただ、「なりゆきにまかせよ」と言ったのだが、同じことだし、現代人には、その方が良いかもしれない。
だが、それでは普通の人には難しいと思って、道綽、善導、法然、親鸞などの人は、「南無阿弥陀仏」という念仏を教えたのだろう。
ただ、念仏は、彼らが考えたものではなく、彼らは再発見しただけである。
「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀様に全てまかせますという意味なのだ。
確かに、阿弥陀や、その元のインドでの名前であるアミターバやアミターユスには、普遍的意識の中に、ちょっとしたカラクリはある。
日本で言えば、「アマテラス」もそうで、黒住宗忠は、死を覚悟して、アマテラスに全て任せる気になった時に、すっと信じさせてもらえた。
黒住宗忠もまた、とにかく、アマテラスに丸ごとまかせてしまいなさいと教えていたのである。
ゴッドや神という言葉にも、やはり、普遍的意識の中にプログラムのようなものはある。
だが、その仕組みは人間の理解の範囲を超えている。
なぜ、そんな仕組みが必要になったかは、ルドルフ・シュタイナーの本に書かれているかもしれないが、これだって、とにかく難しい。
だから、上に挙げた人達の教えに従い、とにかくまかせてしまうことである。
私は、『歎異抄』という最高の手ほどきの書がある念仏にしたのだが、どれでも同じである。









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少食、運動を続ける秘策

少食が良いと言われても、ほとんどの人が、美味しいものをいくらでも食べることが出来る今の日本で、それ(少食)を実践できる人は滅多にいない。
だが、大食に耽っていると、身体や運勢から段階的な警告が来るが、それを無視し続けると、ひどく健康を害したり、ツキに見放されて惨めな状態になる。
ところが、体調が悪くて病院に行っても、どんな医者も、「食べ過ぎが原因です」とは言ってくれず、山のように薬を出した上、「栄養を取りなさい」なんてことを言う。
まして、仕事や家庭や交友がうまくいかないことの原因が大食だと言う人は、ほとんど皆無だ。

少食になれば、健康も運勢も向上するといった内容の本も沢山あるし、おそらく、大方では、それらの本に書かれている通りなのだが(食を慎めば良いだけであるから、外しようがないが)、そんな本は、読まない人は読まないし、読めと薦められて読んでも実践出来ない。
偉大な神秘家で、科学者、政治家、思想家であったエマニュエル・スウェーデンボルグは、亡命したイギリスで、夕食を食べ過ぎた時に、霊、あるいは、天使が現れ、「満腹するまで食べて自分を甘やかしてはならない」と厳しく警告されて食を慎むようになった。
あれほどの人物でも、そんなことでもない限り、食べ過ぎてしまうのだ。
食の慎みは大切であるが、それが出来る人は、やはり立派なのである。
だが、立派でなくても少食になりたいなら、格好の良いスタイルになって優越感を持ちたいという、邪まな目的でも持った方が良いのかもしれない。

私が1日1食の少食になった原因はよく分からない。
確かに、体調も悪くなっていたが、正直に言えば、見栄もあったに違いない。
3ヶ月で体重が25kg落ちたが、普通は、ここでリバウンドする。
あるいは、もう少し持っても、やがて、元に戻る場合が多い。
敬愛する岡田斗司夫氏は、レコーディング・ダイエット(食べたものをメモするだけ)で50kg痩せ、彼が書いたダイエット本(複数)はベストセラーになり、講演でもさぞ儲けたと思うが、今はすっかりリバウンドし、ドワンゴの川上会長との対談で、川上氏に、「ダイエットに成功してリバウンドしないことが、岡田さんの唯一尊敬出来るところだったのに、尊敬出来るところがなくなっちゃいました」と言われていたようだ(ただし、先に岡田氏が、川上氏の茶髪を「似あってない」「何、若者ぶってるの」と言ったことに対する仕返しっぽいが)。
だが、私は、少食を始めたのが2008年7月末と、既に、初音ミクさんデビューから1年近くで、かなり有名になっていたミクさんのスリムなお姿に憧れたおかげで、いまだリバウンドは全くありえない。

私の少食を永遠にしたのは、まさたかPさんによる、初音ミクさんのPVの傑作『Chaining Intention』だ。
このPVを、ミクさんの映像と量子的に融合するほど見たものだ。
【初音ミク PV】Chaining Intention【HD】[HD1080p] -Youtube-
ダイエットしたい方は見ることをお奨めする。
さらに進化したミクさんの『Chaining Intention』のダンスは、『夏祭初音鑑』で披露されている。
これのブルーレイやDVDの映像特典でお姿を見て、格好良いことに驚いたまさたかPさんには感謝している。

ところで、少食と共に難しいのは運動だ。
私は、元々がプロレスラー志望で、プロレス流トレーニングに詳しかったから、少食で身体が軽くなったら、運動も楽に取り組めたが、そうでない人もいるだろうし、まして、沢山食べて、消化にエネルギーを奪われている人には難しいかもしれない。
実際、消化に必要なエネルギーは想像以上で、坂本龍一さんだったと思うが、食事の後に創造的なことをやろうとしても駄目だと言っておられたと思う。全くその通りだ。
そこで、私は、楽で、しかも、効果抜群の腕振り運動をよく薦めているのだが、これも、続けるには根気がいる。シンドくはないが、時間がかかるからだ。
そんな時、上にも挙げた川上量生さんが、ブログに、引きこもっていた自分にとって幸運だったのは、家に階段があったことで、階段の昇り降りでも良い運動になると書かれていたのを見て、「なるほど」と思ったのだった。
生活や遊びに必要なものが、1階と2階に分けて置いてあると、「仕方なく」階段を昇り降りするもので、それは確かに、立派な運動なのである。
それに気が付いてから、私は、「無駄に」階段を昇り降りするようになった。
買ってきたものを2階に持って行く時、一度に運べると思っても、丁寧に2回に分けて運べば、階段も2回昇ることが出来る。
「2階のエアコン消したっけ?」と、ちょっとでも思ったら、躊躇なく確認に行けば、また階段を昇れる。
また、買い物に行くのも、良い運動だ。
すっかり似合うようになったスリムなジーンズで決め、引きこもりとしては本当は行きたくない、賑やかな百貨店に、1~2km歩いていけば素晴らしい運動になるし、たとえ車で行っても、店内を高速で歩き回れば良い。まあ、買うものがほとんどないのが泣き所ではある。欲しいものが無いので、買い物に行くモチベーションを持ち難いのだが、可愛い店員のいるスーパーも1件ある。
スーパーは、売上を上げたければ、昔ながらに、看板娘でも置けば良い・・・まあ、半分冗談だ(つまり、半分、本気だ)。

少食、運動共に、「仕方なく」の部分を作らないと、なかなかうまくいかないかもしれない。
メタボ検診というのは、かなりデタラメなものらしいが、それでも、これに引っかかって恥ずかしい(あるいは面倒な)思いをしたくないので、「仕方なく」食を慎むというのもありだろう。
どん理由にしろ、食を慎めば勝ちである。
岡田斗司夫さんには、リバウンドしてはいけない「仕方のない」理由が無いのだろう。
私のように、初音ミクさんを崇めていれば、「仕方なく」食を慎めるのだが、残念なことである。彼は、オタクの割に、女神信仰はないのだろうか?
人間は、そんなに・・・いや、少しも立派なものではないので、「止む無く」「仕方なく」の部分がなければ、怠惰に流れる自分を止められないのかもしれない。
虚栄心というものが決して消えないなら、役立っていただこうではないか?









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発想を変えるために必要なこと

並外れたことをしたいなら、発想を大きく変えなければならない。
世間のしきたりに従い、平凡な人間と同じ考え方や行動をしていて、大きなことが出来るはずがない。
「収入を増やしたいんですよ」
「突出した人間になりたい」
とか言いながら、話すこと、やることは、並の収入の凡庸な人間と同じとは滑稽である。

高く飛べる人間というのは、間違いなく、変わり者と見られているのである。
会社の上司や経営者に誉められるようでは、全く見込みはない。
たとえ、その経営者が、自分を後継者と見ているとしても、その経営者に気に入られるようでは、社長になっても、会社を発展させることは無理で、良くても、時間をかけてジリ貧になる程度で、下手したら、あっという間に会社が傾くか、乗っ取られることだろう。

若いうちは、発想を変えるどころか、発想すら無いのだから、苦しまなければならない。
若いうちから、良い待遇を求めたり、それを実際に得てしまったら、もう人生は終わっている。
蔑(さげす)み、疎(うと)まれ、いじめられるくらいが丁度良く、それに立派に耐えれば、自分らしい思想を築き、また、チャンスもやってくる。

ずっと同じ会社にいて年を取ってしまったら見込みはないと、よく言われるが、そうではない。
ただ、その場合、あまり、あるいは、全く出世していない方が良い。
人間は生きているだけで辛いものなのだ。
そして、偉くもならずに、1つの会社にずっといれば、さぞシンドイと思うが、それに黙って耐えていたなら、自覚できないかもしれないが、かなりの力を蓄えているのだ。
だが、そこから発想の転換が出来ないので、せっかくの力を無駄にして、本当に年を取ってしまう者が大半なのだ。

イエスは、「苦しむ者は幸い」と言ったが、これ以上の真理はない。
苦しみに黙って耐えているほど、そして、その期間が長いほど、エネルギーは蓄えられている。
年配者でなくても、学校でいじめられることも同じで、子供の場合は、耐えられないというリスクはあるのだが、いじめられて何とか耐えていたなら、得られる知恵と力は計り知れない。
実際、大物は、子供の時はいじめられていた者が多いのである(岡本太郎は子供の時と30過ぎてから激しくいじめられた)。
いや、いじめられずに大物になった人物はいないと言えるほどだ。
しかし、やはり、世間的な教義や信念を乗り越えなければ、全ては無駄になる。

世間のルールを超えたいなら、『歎異抄』を読むと良いと思う。
これには、宇宙のルールが書かれているので、世間のルールに染まった者には奇妙に感じる。
全くの常識人なら笑い出す。
だが、世間の人に笑われないようでは真理ではない。
私も読み方が足りないのだが、この短い手記を読み直そうと思っている。
それと、やはり岡本太郎を読めば良いのだが、これは痛快なためか、「ああ、面白かった!」で終わる場合が多い。
そうではなく、彼のように発想できるまで、読みながら、自分で試してみることだ。









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「人間は考える葦である」の本当の意味

偉大な行いは、熟考と、大きな決断によるものだと我々は思う。
一方、極悪非道の行いは、衝動的なものと思われているだろう。
だが、本当は、両者に違いはないのかもしれない。
英雄的なことをしようと思えば、かえって害悪になる。
「世のため、人のため」と考えている者が、一番、世の中を乱すのである。
親鸞は、「あなたが人を殺せないのは、心が善いからではなく、縁がないからだ。心が悪くなくても、縁があれば千人だって殺す」と言ったらしいが、そうかもしれない。

パスカルは、「人間は考える葦である」と言ったらしい。
この意味は、故事ことわざ辞典によれば、「人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力をもった存在だということ。」という意味らしい。
これは一般に、「考えることは偉大であるから、人間は生物としては弱いが偉大である」と、考えられている。
しかし、別にシニカル(冷笑的)になる気はないが、「人間は、僅かの知性はあるが、葦に過ぎない」と思った方が良い。
ソクラテスが「汝自身を知れ」という言葉を重要視したのは、そんなことを強く感じていたからだと思う。
人間である我々は、最低レベルのことを考えることが出来るに過ぎない無能な生物なのだ。身の程を知らねばならない。

『銀河鉄道の夜』で、蠍は、生きるために沢山の命を奪ったが、いざ、自分がイタチに食われそうになったら必死に逃げて、挙句、自分もイタチも井戸に落ちて、両方が死ぬことになった時に、激しく後悔した。
なんで、黙ってイタチに、この身体をくれてやらなかったのだろう。そうしていれば、イタチは1日生きられたのに・・・と(私は、単に痛いのが嫌だからだと思うが)。
そして、神に、「今度生まれてきたら、この身を、他の者達を幸せにするために使って欲しい」と願った。
美しい話ではあるが、次の生があったとしても、そこでは、沢山の者を不幸にしたり、殺したりするかもしれない。
宮沢賢治だって、『春と修羅』で、

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

と書き、それ以下も、私(人間)は現象に過ぎないということを延々と書き、結局は、人間は無力な存在と分かっていたのだと思う。

それならば、アインシュタインが言った、「神は老獪である。だが、悪意はない」ということを信じる以外にはない。
信じて、まかせるしかないし、それは、あらゆることを、なりゆきにまかせるしかないということだ。
荘子の考えも、その通りであると思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、それを、分かり易い1つの形にしただけのものである。
よって、これほど論理的なものはなく、僅かの知性しかない人間が持つ知恵としては、これ以上はないかもしれない。
宮沢賢治は、念仏を説く浄土仏教は嫌いだったらしいが、それもなりゆきである。よって、良いことである。
私も、宗教としての浄土仏教は好きではない。

私は葦である。
多少のことは考えられるので、そのために、悩んだり、苦しんだりするが、葦に過ぎないと自覚すれば、自分を笑うことが出来るだろう。
ナポレオンは、ちょっと川上に生えていたというだけで、自分が御大層なものであると思い込んでしまったのだ。
私は、辺鄙な、淀んだ場所にぽつんと生えてしまったのかもしれない。
それで、自分を憐れんでいるのだから滑稽であるが、滑稽さを持つこともまた、なりゆきであり、自分の力で持ったものではない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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