ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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極小の力に極大の威力がある

いかなることも、極意は力を抜くことである。
だが、力を抜くとは言っても、力がゼロになるのではない。
極小の力が極大の力なのである。
それは、小さな種の、細く柔かい芽が、土を押し分け、あるいは、アスファルトを破って成長する力である。
極小の力でなければ、アスファルトに出会うと、自分が傷つき、そこから先に進めない。

だが、人間は植物とは違う。
確かに、植物の極小の、絶え間なく働く力は偉大であるが、人間には、脳と精神がある。
それは、時空に影響を与える神秘な構造を持っている。
達人は、時間を千倍に拡大し、千倍に圧縮する。
神人になれば、万倍に拡大し、万倍に圧縮する。
政木和三さんは、薬瓶の中にビー玉を瞬間移動させたが、本人に聞いたら、時間を一万倍に拡大して、薬瓶の蓋を開け、普通にビー玉を入れて蓋をしたのだそうだ。

合気道の達人である藤平光一さんは、小指一本でアメリカ人の大男5人と押し合いをして、全く引くことが無かったそうだが、これも、極小の力を、相手を傷つけない程度の、多時間分、作用させたのだろうと思う。

まず、筋肉の力を十分に抜かなくてはならない。
筋肉の力を抜くことで、骨が効率よく動き、最大の力を発揮するのである。
ホームランを打つとか、重いバーベルを上げるには、強い筋肉が必要であるが、スポーツのような力を見せるものでない限り、さほどの力は必要ない。
だが、達人は、ほとんど力を使わずに、刀で竹を切るものであるらしい。
中島敦の『名人伝』のように、矢を射ることもなく、空の鳥を落とすことも出来ないとも限らない。

腕振り運動は、うんうん唸りながら必死でやるのではなく、後に振った腕を前に振る時、完全に脱力することを心がけてやれば、力を抜くコツを掴めると思う。さらには、後に振る力もほとんど不要になり、自然に腕が振られている状態になるだろう。

また、肩が凝った時や目が疲れた時などに、肩や目の周辺を広い範囲で、触れているかどうか分からないほどの微かな力で、指先で押さえてみると良い。
うまく極小の力を働かせることができれば、痛みや疲れが消えて、あっけにとられるだろう。
腕力のある男に腕を強い力で掴まれても、極小の力で腕をねじれば、相手の手があっさりと外れてしまう。

さらに、最も微かな声で、呪文や念仏を唱えれば、その音は宇宙の果てにはまで響き、現実を変えてしまう。
学校の授業中、オフィスの中、映画館の中などで、隣の人にも気づかれない小さな声で、念仏や呪文を唱えると良いだろう。
ただし、数回でよろしい。
しつこく唱えることもまた、力が入っているということなのである。









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猫を上手に撫でる人が成功する

猫を撫でるのが下手な人がいるだろう。
飼い猫の場合は、下手でも、餌をくれる人なら我慢して撫でられているだろうが、あまり寄ってこなくなる。
飼っている猫ではない場合は、猫は、撫でるのが下手な人には近寄らない。
概ね、猫は、大人の男性からは遠ざかる。

ある時、3つか4つの幼い女の子が歩いていると、道端に寝そべっていた猫が立ち上がって、その女の子に近寄っていき、アピールするかのように、女の子の顔を正面から見上げていた。
しばらくしたら、寝そべった猫の横で、その女の子が座り、猫の身体を撫でている・・・と言っても、ほとんど触っているだけといった感じだ。
だが、猫は、首を伸ばし、明後日の方向を見ている。つまり、気持ちいいのである。

『穢れなき悪戯』という映画で、リウマチか何かに苦しむ老人に、マルセリーノという名の幼い男の子が、「僕が触ってあげよう」と言って触ると、その老人は、「こりゃ奇跡だ!治ってしまった」と言って喜ぶが、それは、マルセリーノを喜ばせる演技だった。
しかし、さっきの、猫を触っていた女の子が触ると、大抵の痛みや不快感は、治るか、少なくとも、軽減するのである。

イエスが触ると、盲人は見え、らい病人は清められ、死人は蘇った。
イエスほどのことは無理でも、誰でも、ある程度のことは出来る。
Youtubeの動画で、肩こりに悩む女性の脇のあたりを、治療家が指で何度か触ると、それで治ってしまって、女性が驚くという有名なものがある。
横になった女性の脇の下に、折りたたんだタオルを置き、まるで、タオルが主役になってしまっていたが、肝心なのは、指先で軽く、リンパ節や、その周辺の筋肉に触れたことだ。
私が思うに、タオルは、単に、脇に触りやすいように置いただけのような気がする。
極めて弱い力で触れると、筋肉が弛緩し、その影響もあって、リンパ線の圧迫が止まるので、肩こり、その他の痛みが軽減し、生体機能が回復するのである。
長期間に渡る悪い姿勢の影響で骨が歪んでいるような場合や、強い眼精疲労の場合は、すぐに治るという訳にはいかないが、時間をかければ治る。

霊能者を名乗る者が、「あなたの肩に悪霊がいる」と言って、肩を手で払うと、確かに肩が軽くなったという話がある。
力を入れて払っているように見えても、手と肩自体は、かすかに接触する程度なのである。
これも、大抵の場合は、上に述べたのと同じ原理で、極めて弱い力で触ると、凝っていた筋肉が柔らかくなって、楽になるのである。
十代も前半の敏感な女の子の身体を、親しい人であってもぞんざいに触ると、良くてもひどくくすぐったがるし、不快に思われる。
だが、かすかに触れるように触ると気持ちが良いものだが、これはなかなか難しいのである。
娘に好かれる父親は、そのあたりの感覚が発達しているのかもしれない。

あなたも、痛いところ、不快なところがあれば、指先で軽く触れると良い。
もし、幼い女の子が猫を撫でているところを見たら、よく観察すると良いと思う。

ちょっと発展した話を少し述べると、ジョセフ・マーフィーが、願いを叶えるテクニックは、ソフトタッチでやる必要があると言っていたのも、同じような意味がある。
つまり、潜在意識というのは、軽く、優しく働きかけないと動いてくれないのである。









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楽な念仏ほど、西洋の成功哲学をはるかに超えている

最近、よく念仏のことを書いているが、念仏と言えば、死後に救われるという宗教だと思っている人が多いと思う。
しかし、念仏とは、今、この場で、幸運やエネルギーといった利益を得ることが出来る未来科学である。
その点は追々、説明するが、今回は、法然の念仏と親鸞の念仏の違いを採り上げる。

法然の念仏と、親鸞の念仏は、根本精神は同じとはいえ、かなり違う。
どっちが上と言うのではないが、私は、今は、親鸞の念仏を取っている。
なぜなら、単に、楽だからである。
そもそも、念仏そのものが楽なのだが、親鸞の念仏は、とびきり楽なのである。
それでいて、意外に思うかもしれないが、法然も、親鸞も、共に、利益は無限とはっきりと書き残しているのである。

法然は、もちろん、一般人にまでは強要しなかったと思うが、戒律といったものも重視していたと思う。
戒律とは、簡単に言えば、酒、女(女から言えば男)、肉食といったものの禁止である。

だが、宗派が違いながらも法然を尊敬していた一休は、そういった戒律を全部破り、酒を飲み、肉食し、77歳になっても若い美女と同棲し、それでパワーがついたのか、80歳で大徳寺の住職になっている。
ただし、一休は、弟子達には、戒律を守らせたらしい。
ところが、親鸞は、自分も戒律を破って、当時の僧としては常識外れの妻帯をし、肉食もしていたが、弟子を含む他人にも、固いことは一切言わなかったと思う。
親鸞は、誰がどんな悪いことをしようが、咎めるつもりはなかった。
さらには、善いことをしようと思うなと言っていたのである。
もちろん、進んで悪いことをする必要はないし、また、自然に善いことをするのは、言うまでもなく結構だが、自主的に、自分の力で善いことをする必要はないと言った。
縁があれば、心が善くなくても善いことをするし、心が悪くなくても悪いことをしてしまうのである。
それは、自分ではどうすることも出来ないのである。

次に、念仏の唱え方である。
法然は、とにかく、数多く唱えることを勧めた。
法然自身、1日6万回とも、7万回ともいう数を唱え、いついかなる時も唱えるべきと言った。
そこまでは出来ないとしても、1日に唱える回数を決め、それをやり抜くよう励ましたのである。

一方、親鸞は、何と、別に唱えなくても良いと言う。
ただ、阿弥陀如来に全てまかせてしまうと決めたらそれで良く、その感謝の気持ちとして、唱えたくなったら、唱えれば良いと言ったのだと思う。
もちろん、念仏を唱えるのは良いことであるが、無理に唱える必要はないのである。
こういった教えは、確かに、法然に怒られたこともあったようだが、親鸞は別に、法然の教えに背いた訳ではない。
親鸞は、法然のことは心から尊敬しており、それは生涯変わらず、晩年になっても、自分の念仏は、法然に教わったものだと明言していた。
ただ、時代が変われば、新しい考え方が必要になる場合がある。
親鸞の念仏は、現代では、多少のマイナーチェンジが必要としても、僅かな修正で十分であると思う。
念仏は、もちろん、成功哲学などではないが、その力としても、西洋の引き寄せなどの成功法則とはレベルが違うと思う。









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なりゆきにまかせる強さをどう持つか?

この世界は、なりゆきにまかせることが一番安全だし、そう出来る者が最も強い。
ニーチェはそう考えていたのかもしれず、いかなる偶然の出来事も、自分が望んだことだとした。
だが、イェイツは、少し進んでいたかもしれない。
戯曲の中の登場人物に、こう言わせている。
「予期出来ないことでさえあれば、どんなことも起こることが最善だ。サイコロが私の神だ」
また、イェイツは、こんな手記を残している。
「神がサイコロを振って出した目を、私は、私の意志とする。その時、私は限りなく神に近付く」
ニーチェは、運命を司る神と自分に分離があったが、イェイツは、神との一体化を求めた。

荘子の根本的な教えもまた、「一切をなりゆきにまかせる」だ。
荘子は、それで良くなるとも、悪くなるとも言っていない。
しかし、なりゆきにまかせることで、荘子は、道(タオ)という、おそらく、神々すら生み出した、本来は名付けようもない万物の根源と一体化すると言った。
なりゆきにまかせる者には、神々すら平伏(ひれふ)すとまで言う。神以上の道と一体化しているのだから、そうなるのだろう。
これは、暗に、なりゆきにまかせて悪くなるはずがないと言っているも同じと思う。

イエスは、いかなることも神の意思によらなければ起こらないと言う。
つまり、人間は、なりゆきにまかせるしかない。
だが、イエスの場合は、神は、あなた方一人一人に、この上ない関心と思いやりを持っているのだから、絶対的に安心しなさいと言ったのである。
だから、モーセの十戒の中でも第一の掟は、神を愛することだと言ったのだ。
だが、やはり、神と人間に分離があるように思える。

一休さんは、臨済宗という禅宗系の僧侶でありながら、浄土宗の法然の念仏を高く評価していた(元々、一休は宗派にこだわる人ではないが)。
だが、面白いことを言っている。
「阿弥陀如来は西に居るのではない。南に居る」
この南とは、「皆身」であり、全ての人の内に居ると言うのである。
そして、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、内にある仏が出てくるのである。
それは、火打石を打ったら、火打石の中に元々あった火が出るようなものだと。
一休さんにおいては、仏との分離があるどころか、最初から、一体化しているのである。

黒住宗忠もまた、「人間と天照大神は一体である」と言い、宗忠に2度、こう言われてすぐに悟った人もいたのである。
そして、宗忠も、「神に丸ごと一切まかせなさい」と教えた。
ただ、宗忠は、イエスほどうるさくはなかったが、道徳的なことも少しは述べた。

親鸞となると、どんな善いこともする必要はないし、むしろ、しようと思ってはならないと言った。
なぜなら、念仏以上の善は無いし、念仏の威力を妨げるほどの悪も無いからだ。
そして、阿弥陀如来に全てまかせると決めた瞬間に、阿弥陀如来はぴったりくっついて離れず、オールオーケーとなる。
そしたらもう、念仏を唱える必要もないが、感謝のつもりで一度、唱えると良いだろう程度なのであるが、自ずと、感謝の念仏は続くかもしれない。
これは、理屈の上では、仏との分離があるように思えるが、気持ちの上では、これ以上の一体感はない。
これが究極ではないかと思う。
これに関し、『あしたのジョー』で、力石が死んだ時、丈が魂が抜けたようになったことを思い出す。
丈自身にも、その理由が分からなかったが、やがて悟る。
他の、少しは親しくなった人達・・・西や丹下のおっちゃんらは、どこか、自分(丈)から一歩離れていた。
だが、力石だけは、自分と完全にぴったりくっついて殴り合ってくれた。
そんな力石だけが本当の友達だったのだと。
阿弥陀如来は、人間にとって、丈にとっての力石と同じものなのだと思う。

上にも挙げた通り、なりゆきにまかせれば、悪いようにはならない。
連休も終わったが、まあ、気楽に行こうではないか?









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蔑まれる変人よ、こうして頑張れ

いくら能力があっても、他人と仲良くなれない者は活躍できないし、居場所もなくなることが少なくない。
これを、異分子の排除だとか、差別だ、などと文句を言っても仕方がない。
世の中、そんなものだし、人間も含め、生物の身体だって、異物が入ってきたら、免疫系がそれを攻撃して殺すのだから、善悪の問題ではなく、それも必要なことなのだ。
つまり、生命体も、学校や企業などの組織も、毛色の違ったものは、とにかく叩いて排除することが、安全と平和を保つ最も良い方法なのである。

学校でも会社でも、いじめられる者というのは、間違いなく、変わり者だ。
変わっている者というのは、他人とは違う趣味や価値観を持っていて、周りに理解されない者のことだ。
また、変わり者の方でも、自分の良いところを見てもらえず、蔑み、疎まれているうちに、人間嫌いになるものだ。
他人に対し、「こっち見ないで」「近寄ってこないで」と思うようになったら、もう、社会での安定なんて諦めるしかない。
いじめられないまでも、仲間外れは免れない・・・というより、こっちから仲間に入りたくないだろう。
しかし、それでは、学校や会社では、全く務まらず、やっていけない。

もちろん、特に変わり者とか、人嫌いでなくても、仲間外れにされる者もいる。
大方では、そんな者達は、実力に見合わないプライドを持っているのであり、早い話が、甘ったれているのだが、これは鍛えるより他に方法がない。
よって、そういった者達のことは除外とする。

さて、変わり者はどうすれば良いのだろう。
1つには、ちょっと冗談で言うが、危ない雰囲気を持つという手もある。
しかし、変なファッションをしたり、気違いじみたな態度、発言をするといった、表面的なことで通用するほど世の中甘くない。
では、本当に強くなろうと思って、空手道場に入門しても、それこそ、道場内の人間関係でうまくいかないだろう。
ところで、昔、栗山天心さんの本に、大きな銃を持つ大人より、いつもナイフを磨いている少年の方が不気味だと書かれていたのをよく覚えている。
つまり、柔道や空手といった健全で常識的なことを考えず、いざとなったら、一撃で相手を殺す方法を本気で考え、それを熱心に、達人になるまで練習することだ。
それが本物になれば、実際に、その危険な技を使うことはなくても、危ない雰囲気が滲み出るものだ。
もちろん、そんなことを本当に勧めるのではないが、大切なことは、それほど本気になるということで、その訓練のためであれば、そんな馬鹿なこともやってみる価値はある。
だが、こんな方法は、結局は、何の解決にもならないのだ。

最良にして、唯一の方法は、黙って耐えることである。
こう言うと、拍子抜けするかもしれないが、自主的に「耐えてやる」と思えば耐えられるのである。
「辛いのは嫌だ」と思っているから耐えられないのだ。
良い待遇を望むという、卑しい考え方をしているのが問題なのである。
自分のような、半端な変わり者は、蔑み疎まれて当然と思わなければならない。
そこまで悟れたら、それだけで、かなりの進歩をしたと言える。
そして、自分が異分子であるということは、実は、素晴らしい恵みなのだ。
他の、凡庸な者には絶対に縁がない、人間を超える道が開かれているのだ。
我々とは比較にならない、耐え難いほどの苦しみを背負った良寛さんは、『荘子』を読んで悟り、実際のところ、人間を超えたのだ。
『荘子』なら、どれでも良いから、内篇だけでも繰り返し読み、そして、読むだけでなく、教えを実際に試してみるのだ。
※個人的には、『荘子』は岸陽子訳を、Kindleなら西野広祥訳をお奨めしている(下に紹介した)。
そうすると、『荘子』の教えは、空論ではなく、巨大な力であることが分かるだろう。
実際、『荘子』の中にも、「道」の教えを実践して、超人になった人の話が出てくる。
そして、良寛さんは、念仏は、『荘子』と全く同じで、はるかに簡単であることが分かったのだと思う。
だが、まずは、『荘子』の教えを試した方が面白いに違いない。
私も痛快で面白い、人には出来ない経験をしたのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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