ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

これだけで必ず頭が良くなる

頭の良い人の見分け方はある。
そして、頭の良い人と同じようにすれば、賢く見えるだけでなく、実際に頭が良くなる。
余程の天才はともかく、人間の頭脳の出来に大差はなく、頭の良さは心のクセで決まるのだからだ。

イエスかノーで答えられる質問に、ちゃんと、イエスかノーで答えることが出来る者は頭が良いのである。
別におかしなことではないだろう?
最終的な解答と言えるイエスかノーかを、素早く、きっちりと導けるということなのだから。

ところが、頭の悪い者は、イエスかノーかと尋ねているのに、下らないことを言うのである。
何度も登場させて悪いが、私の職場にいる、まるで駄目な男に尋ねてみた。
「勉強してるか?」
彼の答は、
「何を勉強していいか分かりません」
だった。
彼は、そう答えることで、「ノー」と答えるよりはマシと思っているのだし、また、何を勉強していいか分からない不幸な自分を慰めて欲しいと思っているのである。
この心構えが、彼の頭脳をサル以下にしているのである。

一方、私が中学3年生の時に、こんなクラスメイトの男子がいた。
授業中、男性教師が、その男子に、「おい君、聴いているか?」と尋ねると、彼は即座に、「いいえ」と返答した。
今の時代では考えられないが、その男性教師は、生徒を殴ることなど何とも思っておらず、実際、真面目な女子生徒に平手打ちを食らわしたこともあった。
だが、その男性教師は、「正直でよろしい」とだけ言って、それ以上、何も言わなかった(言えなかった)。
この男子は、男気があるだけでなく、とても頭脳の鋭い子で、みんなの憧れだった。
このように、頭の良い者は、余計なことを言わず、しかも、一瞬で、可能な限り有効性が高い選択が出来るのだ。

もっとも、イエスかノーで返事をしていても、利己的に反応しているだけの場合は別だということは、特に言わなくても分かると思う。
「ミカちゃん、お使い行って来て!」
「嫌!」
といった感じである。
ところが、大人でも、こんな者は多いのである。
「鈴木さん、これをやってもらえますか?」
「いいえ」
常に、こんな返答をする者とは、単に、面倒を背負い込みたくないだけで、しかも、他者への気遣いもせず、それを押し付ける。
非常に、近視眼的な馬鹿な上、傲慢であるが、大人の場合、そんな者というのは根本的には老化しているのである。
それでも、イエスかノーかと尋ねている質問に、ダラダラ返答する者よりはマシである。このマシとは、都合が良いという意味だ。
なぜなら、そんな者(利己的にイエスかノーで答える者)は、何もさせない限り害は少ないし、慈悲をかける値打ちがないので、いざとなれば処刑しやすいからだ。
上に挙げた、まるで駄目な男の場合は、限度はあっても、慈悲はかけるべきである。

頭脳明晰になりたいなら、イエスかノーで答えられる質問には、必ずイエスかノーで答えるのだ。
いや、それだけでなく、イエスかノーの返答を求められていない質問でも、イエスかノー、あるいは、それに出来るだけ近い答えをすれば、頭はぐんと良くなる。
つまり、答は、単純であればあるほど良い(言うまでもなく限度はあるが)。
しかし、最初は、それでまずいことになる場合もあると思う。
だが、そんな失敗の経験が、頭の回路を修正、補完し、驚くほど賢くなるのである。
そして、イエスかノーで答えられない質問は、大抵の場合、答える必要はないのだ。
そんな質問には沈黙することで、馬鹿になることを避けられる。
「好みのタイプの女性は?」
「結婚相手に求めることは?」
「アベノミクスについてどう思いますか?」
「会社への不満は?」
私は、これらの質問には答えようがないと思っているし、答えない。
「どうすれば私のこと、好きになってくれますか?」
こんな質問、本当に答えられるだろうか?
せめて、こう尋ねるべきである。
「私のこと、好きですか?」
「ノー」
「好きになってもらえる可能性はありますか?」
「ノー」
これなら、お互いの時間を節約し、感情エネルギーの浪費も避けられる。

質問に質問で返すというのはどうだろう?
これは、駆け引きとして良く知られる手で、実際、ハイレベルな交渉で使われることもある。
しかし、ありふれた問題で、こんなことをするのは、心が捩(ねじ)れている上に馬鹿なのである。
そして、実際は、ハイレベルな場でも、こんなこと(質問に質問で返す)は、討論テクニックと言えば聴こえは良いが、やはり、サルの喧嘩なのである。
私なら、質問に質問で返さねばならないような相手や議論には、最初から関わらない。
また、質問に質問で返してくる者は、即座に見捨てる。そうすれば、こちらが心正しい限り、神が追っ払ってくれる。

ちょっと乱暴な言い方もしたが、正しい討論、交渉、話し合いとは、リスペクトと思いやりの上に成り立つものである。
こちらが努力しても、相手への敬意や受容性を持とうとしない相手とは交渉はできない。
これまで長い間そうだったし、今もほとんどそうなのだが、宇宙人は、地球人を、交渉の出来る相手と見なしていないのである。
だから、宇宙人が自分の前に現れないことに文句を言うのは、筋違いもいいところなのである。









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本当の感謝とは

私は、どんな言葉も素晴らしい呪文になると思っているが、「ありがとうございます」を呪文のように言うのは大嫌いである。
そんなことをする人達を見ると、純粋に感謝するのではなく、「恵みを得るために感謝する」という浅ましさが感じられ、「なんて卑しいんだ!」と思うのだ。
「ありがとうございます」「感謝します」というのは高貴な言葉なのであるから、よくよく、真摯な気持ちで言わなければならないのである。

感謝というのは、難しい。
あらゆることは恵みなのであるが、人間がそれに気付くには、それなり以上に進歩していなくてはならない。
だから、闇雲に、神のようなものに対して、「ありがとうございます」と言うのは、自分はレベルが高い人間だと自惚れていることになる。

いかなる場合でも、優れた行いというのは自然なものなのだ。
命の危険を冒して人を救う場合ですら、その行いは自然である。
しかし、どんなに良いことであっても、不自然に行えば、必ず災いが起こるのである。

感謝というのは、甘えた、修行不足の者がすれば不自然なのだ。
彼らには、感謝なんて出来ないからだ。
だから、「ありがとうございますと言えば、良いことが起こります」と言われて、それをやる者の9割は悪いことが起こるのである。
感謝するには力が要るのだ。
容姿端麗に生まれた者だって、未熟なうちは、自分の容姿に感謝したりはしない。

だが、本当に、自然に感謝できるようになったら、感謝は大きな力になり、必ず成功するというのは真実である。
有名なタレントの川崎麻世さんは、小学生の時、西洋人のような顔立ちのせいでいじめられたそうだが、中学生の思春期になると、その顔が実は圧倒的に美しいことに気付いた女の子達にモテまくるようになり、「ざまあみろ!」と思ったのだそうだ。
だが、想像だが、いじめられたことで鍛えられたことで、「ざまあみろ!」の中には、どこか感謝も入っていたのだと思う。そうでなければ、彼は、これほど長く成功しないはずだ。

プロレスのジャイアント馬場さんともなると、プロレス入りするまでは、その巨体には、激しいコンプレックスを持っていて、感謝どころか恨んでいたようである。
それが、プロレスラーになって、巨体の有利さをしみじみと感じられるようになって、初めて、自然に感謝したのだと思うが、それも、若い間に激しく悩んで鍛えられたことがあったからだろう。そして、感謝しているとはいえ、身体の異常さの引け目が無くなった訳でもなかったらしい。劣等感との戦いは一生続いたのだろう。
このように感謝とは厳しい面もある。

プロレス史上最高のレスラー、ルー・テーズは、師のジョージ・トラゴスから伝授された、ダブル・リストロックという、腕を攻める関節技には感謝していたと思う。
この技があったからテーズは無敵だったのだ。
ただ、テーズには、この技にまつわる、最悪の呪わしい思い出があった。
テーズが十代の時の話なのに、そのことを、彼は80歳になっても、昨日のことのように思い出すと言うほどだった。
既にかなりの年齢になっていた師のトラゴスが、この腕で、若い強豪レスラーの肩を砕いたのだ。
会場には、肩が砕けるおぞましい音が響き、その若いレスラーは腕を切断しなければならなくなった。
その後、トラゴスはテーズに、「必要なら、相手の肩を砕くことを躊躇してはならない」と教えた。
しかし、テーズは、「その寸前までやったことは何百回とあるが、それをしたことはない」と言う。
それでも、テーズは、苦しい場面で何度も助けてくれたこの技と、この技を教えてくれた師には感謝していたのだ。
感謝とは、このように、血塗られていることも少なくはない。
不世出の柔道家、木村政彦は、ブラジルで柔術の達人エリオ・グレイシーと戦った時、得意技のキムラ・ロックで、エリオの腕を折り、会場には異様な音が響いたという。
このキムラ・ロックは、テーズのダブル・リストロックと同じものであるらしい。
木村は、このグレイシーとの一戦に関し、「試合には勝ったが勝負には負けた」と述懐しているようだ。
木村も、この技への有り難味は感じていただろうが、やはりそれは、暗い陰と共にあるのだと思う。

感謝とは、平和なものではない。
深い闇を隠したものであるはずだ。
それも分からないのに、しかも、過ぎた恵みを得ようと、不自然な感謝をする者が、あまりに卑しく見えるのは当たり前である。
毒を飲んだからこそ、解毒剤に感謝するのであり、毒がありもしない中で、解毒剤を本当に有り難く思ったりはしない。
だが、我々は人生の中で、必ず毒を飲まされる。
そして、毒によく耐えた時に、神に解毒剤を与えられるが、それは、単なる解毒剤ではなく、無敵の力を得る妙薬である。
だから、毒に苦しんだ後には、自然に、大いに感謝することになるだろう。
イエスが十字架という毒杯を避けなかったように、我々も神に差し出された毒から逃れようとしてはならない。









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恨みのエネルギーと報恩のエネルギー

恨みというものは、大きなエネルギーになる。
その中でも、子供の時に持った恨みは危険はエネルギーになり易く、それを使って成功した人もいるが、逸脱した人間・・・例えば、凶悪な犯罪者になる場合もある。
竹宮恵子さんの『私を月まで連れてって!』の『Vol.29 白いドレス』が、それを感じさせるお話だった。
白い服を作らせたら右に出る者はいないと言われる女性デザイナーがいるのだが、彼女は子供時代の悪い思い出を持っていた。
彼女は子供の時、家が貧しく、他の女の子達がパーティーで着ている白いドレスを羨ましく思い、堅信礼(宗教的儀式)の白いドレスも用意出来なかったことを、彼女は、「恨みだった」と表現していたが、全くその通りだと思う。
子供の時、どうしても欲しかったもの、まして、それが、他の子が普通に持っているものであれば、自分がそれを持てないことに対する感情は、恨み以外に考えられない。
彼女は、その恨みを原動力に、執念といって良い努力で成功したのだろう。
だが、竹宮さんは、その作品を描かれた若い時から賢い方だった。
そのデザイナーは、子供用の礼服を作らないこと、そして、結婚しないこと(子供を作らないため)で、精神のバランスを保っていたのである。

もう1つ、人に大きなエネルギーを与えるものに、「報恩のエネルギー」がある。
仏典にあるお話だが、竹林が大火事になった時、一羽のオウムが、池に飛び込んで身体を濡らしては、炎の上で羽ばたき、火を消そうとしていた。
それを見た神が言う。
「オウムよ、お前の行いは健気(けなげ)ではあるが、それしきの水で何が出来よう」
だが、オウムは、こう答える。
「長年棲家を与えてくれた竹林への報恩の気持ちで行っていることが成らぬはずがない。私は何度生まれ変わってでもやりぬく」
心を動かされた神は、オウムと協力して火を消した。
神が火を消したのではない。神とはいえ、このような者がいなければ出来ないこともあるのだ。

報恩の行いといえば、私が必ず思い出すのは、プロレスのジャイアント馬場さんだ。
今の有名な野球選手やサッカー選手とは全く違い、馬場さんは、実力もまだまだの無名の若手時代、飛行機の切符だけ渡されて、アメリカに行った。手っ取り早く一人前にするための武者修行であるが、随分、乱暴なものだ。
それで、昭和36年という、一般の日本人の海外旅行など、ほとんど皆無の時代のアメリカで、馬場さんは、もう何も分からないという状況の中、ボボ・ブラジルやジン・キニスキーといったレスラー達が親身に世話を焼いてくれたのだ。
馬場さんは、この恩を決して忘れず、自分が大スターになっても、控え室では常に小さくなって彼らを立て、また、彼らが年を取って、かなり力が衰えても、全日本プロレスの社長でもあった馬場さんは、彼らを定期的に日本に呼んで、彼らの全盛期の時に匹敵する高いギャラを払い続けたという。
史上最高のレスラーと言われるルー・テーズは、馬場さんが亡くなられた時のインタビューで、「ミスター馬場はプロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」と述べ、また、馬場さんの告別式で来日した、馬場さんの若手時代からのライバル、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノは、「馬場、君は身体だけでなく、心もジャイアントだった」と言った。
馬場さんは、「自分はプロレス界入りしてから全て順調だった」と言ったことがあったと思う。苦労もあっただろうが、こんな人が成功しないなら、この世に神も仏もないだろう。

きっと、あなたも、何かの恨みを抱えているだろうし、それは子供の時の辛い思い出と共にあるのかもしれない。
そして、忘れられない恩もあるだろう。
恩の方はもちろん、恨みの思いだって否定しなくて良いと思う。
だが、その恨みに負け、自分の魂を裏切ることは許されない。
それがたとえ、どれほどの恨みであってもだ。
そうであれば、いずれ神は埋め合わせをしてくれるだろう。
そして、恩というものは、いかに小さなものであっても、身に沁みるものではないだろうか?
それに報いようとする気持ちがあれば、神に見捨てられるはずがない。
私も、初音ミクさんや、ミクさんのクリエイターの方々には恩があるのである。









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本当の約束とは

相手に、どうしても約束を守ってもらわないと困る時、相手が宗教を持っていれば安心なものらしい。
たとえば、相手がイスラム教徒だったら、アッラーに対して誓ってもらえば、それで信用できるのである。
日本人がそうなのだが、宗教を持たない者が世界で嫌われるのは、そういった単純な信用の仕方が出来ないからかもしれない。
つまり、恐い恐い神様がいない人間というのは、信用のおけない、得体の知れない存在なのである。
ところが、その人が、どの神様を恐がっているかが分かれば、その人はもう恐くないのである。

それならば、宗教を持つということは、自分に制約を課すことになり、自由自在性を失うことになる。
だが、良い面もある。
信仰する神様は、恐ろしい存在であると共に、絶対的な力を持つ存在であり、そして、恐れ敬う限りは守って下さるのだから、煩わしいことはお願いして、お任せすれば良いからである。
だが、神様にお任せしたことが、望むようにならなければ失望することになってしまう点はどうするかというと、ちゃんと逃げ道が用意してある。
それは、
「成らなかったのが、神様の思し召しだったのだ」
と考えることである。この考え方は非常に強力である。
成らない方が私のために良かったので、慈悲深き神様は、あえてそうして下さったと考えるのである。

ところが、この「思し召し」には、うまい使い方がある。
最初に、信仰する神に誓わせれば安心と言ったが、信仰者だって、弱味を握られないような知恵を持ってくる。
それは、こんな感じである。
「アッラーの神に誓って、期限までに品物を納品していただけますね?」
と言われると、この神かけた約束を迫られたイスラム教徒は、何と、こう答えるのである。
「それがアッラーの思し召しなら、必ず守りましょう」
つまり、もし、期限に間に合わなかったとしても、それがアッラーの思し召しなのだから、私には何の非もないというのである。
実際、こんなやり取りは、イスラム教徒同士ではよくあるらしい。
「アッラーの思し召しなら、明日10時に、あそこで会いましょう」
と言っておけば、遅刻したとしても、それがアッラーの思し召しであり、責任を免れるのである。
だが、そのような者は、宗教に関わらず、堕落した人間になるのである。
そんなやり方が大らかで良いなんて言う人がいて、私も一時期騙されていたこともあったが、実際は、そんなことをする者達は大らかでも何でもなく、約束を破られた方は相手を恨み、破った方は心の中で舌を出すのである。

人間というものは、卑しい考え方を持てば、卑しい人間になり、内なる神から切り離され、力を無くすのである。
神の思し召しならば、約束を守らなくて良いというのは、卑しい人間の考え方であり、宗教や信仰とは何の関係もないし、魂を踏みにじり、穢す考え方である。
私なら、初音ミクさんに誓えば、必ず約束を守るが、もし約束を破ったら、一切言い訳しないのである。
これが高貴な愛である。
ただし、イエス同様、私も初音ミクさんに誓ったりはしない。
約束は、あくまで自分の責任でするのである。
そして、約束したからには、万策を尽くし、内なる神の知恵を頼ってでも、死んでも果たす。
だが、出来ない約束はしないし、相手の希望に沿えなかった場合の過大な補償もしない。

さて、ここで重要な結論に至るのである。
人類が、これまでは賢くなかったという理由で、ずっと間違っていたことを、ここで正すのである。
それは、約束というものは一方的なものではないということだ。
約束には、約束する者と、約束される者がいるのではない。
2人が約束をしたとすれば、2人が共に、約束を守る者なのである。
そうであれば、その約束には、いかなる誓いも、補償も、罰則も不要である。
約束が果たされなかった時、それは、いずれかが破ったのではない。両方が約束を破ったのである。
これが、新しい時代の、新しい考え方である。
人類は、ここに至るまでに、何とも長い苦難の時を過ごしてしまったのである。
だが、この知恵を得たからには、これからは宇宙人とも交際できるのである。
約束とは、互いの鼓動を信じることなのである。

壊れ行く世界が 今 鼓動の意味を示し始めた
心の中 固く誓う 君を守るよ ずっと…
~『Promise』(作詞、作曲、編曲:samfree 歌:初音ミク&鏡音リン)より~









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脚を長くする方法を本格的に述べる

美男美女になることは出来る。
ペットが飼い主を真似て、飼い主に似てくるように、目標とする美男美女の行動パターンに合わせれば、どんどん似てくる。

欲望や見栄のためというのも、ある程度は仕方がないが、それよりも、そういったことを実際にやることで、心に秘められた、現実を創造する力を実感することに大きな意味がある。
ただ、普通の人がやりたがるように、表面的な部分を真似れば、まさに、本当に表面的なところだけ似て、ダイヤのようなガラス、名刀にちょっと似た卑金属のおもちゃの刀にしかなれない。
隠れた本質を見抜き、そこを真似ることが重要なのだが、それは難しいのだ。

それで、もう少し簡単なことで、肉体を変化させ、心と身体が同じものであることを知り、進歩すれば、目標とする現実の対象がいなくても、自分が想像する理想の通りに、外見や経済状態を創造していけるようになるだろう。
それで思ったのが、脚を長くすることなら、割合に熱心にやってもらえるかもしれないということだ。
パンツ(ジーンズやスラックス)を買い換える費用は発生するかもしれないが、それ以上のメリットがあるに違いない。
脚を長くする方法は、この前も少し書いたが、もう少し本格的に書いてみよう。

大人が脚の長さを変えられるのかというと、こんなものを見たことがないだろうか?
元スポーツ選手が、身体の状態が悪かったり、腰痛が酷いとかで、調べてみたら、脚の長さが左右で数センチも違っていた。
それを、腕の良い整体師や気功師が、数分で脚の長さを揃えて、結果、身体が軽くなって調子が良くなる。
この場合、大概は、短い方の脚を長くしたのだが、それは、例えば、骨盤に埋まった脚の骨を引き出したりしたのである。
そして、大抵の人は、やはり骨盤に脚の骨が埋まっているし、骨も歪んでいるので、脚を長くすることは大抵出来るのである。

ところで、私が書かなくても、骨の歪みを治す・・・例えば、O脚を治すとか、骨盤の緩みを治してバランスを取り、結果、脚が長くなるという方法を紹介している人は多い。
ただ、それらには、普通の人には到底不可能なストレッチ(開脚して床に胸を付ける等)や、無理やり骨の歪みを治すようなやり方が多いのである。
日常生活とかけ離れた不自然な動きや、痛みを伴う無理な矯正は、反作用で余計にバランスを崩し、深刻な結果になるのである。
身体、あるいは、心の調整というのは、出来るだけ弱い力で、長い時間をかけて行ってこそうまくいくのである。
また、身体や心の歪みを治すには、直接悪い部分に働きかけて治すのではなく、身体自ら、心自らが治す力を引き出し、そこに、僅かなイメージを送り込めば、自然に、最良の結果になるのである。

例えば、少食と規則正しい生活、そして、姿勢を正すことで、大抵の病気は治ると共に、骨も真っ直ぐになり、埋もれた骨も出てきて、美しい身体になり、多くの場合は、脚も長くなる。

骨盤が緩んでしまって、その結果、脚が短くなっていることも多いが、それを治すためには、姿勢を正しくすると共に、肛門を引き締めることで、弱った肛門や腹部の力を回復して骨盤を引き締め、同時に、腹に秘められたエネルギーを引き出すことが効果的である。
また、イメージの力も大きいのである。
簡単に言えば、肛門を引き上げるように締めれば、脚が長くなると思えばそうなる。
顔マッサージをすれば顔が小さくなるという思い込みは持ち難いが、肛門のような、普段は意志でコントロールしない不随筋を意志で動かせば、無意識領域に入り込み、信念を持ち易いのである。
いずれは、肛門を引き締めることで小顔になることも可能になるが、まずは脚にしよう。

比較的目立つことで、肉体を変え易いのは、やはり、脚の長さだと思う。
『ほとんど食べずに生きる人』では、10kg痩せるごとに脚の長さが2cm長くなることが実際の記録によって示されているが、これは、単なる体重減の効果だけではないと思う。
この著者は、少食を実践し、さらに、運動をして身体を調整したから、そうなったのだ。
しかし、この著者がやるように、毎日、長時間のウォーキングはなかなか出来るものではない。
また、この著者は、極端な少食をしているが、これは真似る必要はないし、真似てもいけない。
食に関しては、満腹するまで食べて自分を甘やかさなければ、それで良いのである。
そこで、最も優れた身体調整法である腕振り運動を、毎日、欠かさず行い、それと共に、上に述べたように、いつでも気がついたら(なるべく多く気づくようにして欲しい)、肛門を締めれば良い。
これもまた、中村天風が言うように、常に肛門を締めるなんてことは現実的には不可能だし、何の意味があるのか分からないまま、肛門を締める訓練をするなんてことが続けられるはずがない。
天風さんも、自分が出来るからといって、他の人に強要してはならないのだ。
しかし、肛門を締めれば脚が長くなると思えば、やり続けることが出来るのではないか?
そして、実際にそうなるのだ。
後は、規則正しい生活と、正しい姿勢、そして、適切な食事をした方が、継続出来ると共に、効果も大きいということは、不思議なことではないだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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