「世の中に、なぜこんな人間が存在するのだろう?」
と疑問に思うくらい自己中心的な人間がいるかもしれない。
だが、誰かを自己中心的だと思うのは誤解である場合もあるし、また、自己中心的な人間ほど、他人を自己中心的と思うものかもしれない。
本当に自己中心的な人間であれば、運に恵まれることはなく、惨めなものであるので、やがては憐れんでやらねばならなくなる。
だが、自分が、その運のない、惨めで、憐れみを受けるような人間ではないのだろうか?
自己中心的という言葉は、自分が世界の中心にあるという考え方のことである。
世界の中心は神の座である。
畏(おそ)れ多くも、そこを自己の座と考えているのであるから、まあ、ロクなことはない。
しかし、やはり、我々もそう(自分が世界の中心であると)考えているのだ。
だが、世界の中心から畏(かしこ)まって(神を恐れ敬って)退散するなら、幸運が得られる。
一方、世界の中心にしがみつくなら、幸運を自分で自分に供給するしかないが、もちろん、人間にそんな力はないし、そこにいる限り、自分のなけなしの幸運は他者に流れ出ていく。
中心にいる者は、外側の者に幸運を与える義務があるからだ。
神は無限の幸運の持ち主であるから問題ないが、人間には、あまりに荷が重い。
ギリシャのデルフォイ神殿の扉に書かれている言葉も、徳川家康が天下取りの秘訣と言った言葉も同じ「身の程を知れ」だが、身の程を知るとは、世界の中心は神の座であるとして、決してそこに座らないことである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える者は、実際に、運にも恵まれる。
なぜなら、念仏とは、自分より上に仏がいることをはっきり表明しているからだ。つまり、世界の中心は自分ではなく、仏である。
丹波哲郎さんは、朝晩、守護霊様に挨拶することを勧めていたが、これも、守護霊という自分より上の存在を認め、それをいつも思い出すことになる。守護霊は、自分よりずっと世界の中心に近いと認識するということであり、この場合も確実に幸運が得られる。
宮本武蔵は、「神仏は貴いが、私は神仏に頼らない」と言ったが、それで良い。神仏が自分より上で、世界の中心にいることさえ認めていれば、求めずとも幸運が得られる。むしろ、求めない方が良い。
黒住宗忠や岡田虎二郎が実践し、弟子達にも勧めた、常に腹に力を込めることにも、実は同じ意味があると言ったら、不思議に思うかもしれない。
しかし、腹に力を込めることは、世界の中心は神であると認めることである。
なぜだろう?
我々は、悲しいことがあると「胸が痛む」などという。
今の若い人は、気に入らないことがあると「ムカつく」と言うが、ムカつく部分は胸であることが分かると思う。
なぜこんな表現になるのかというと、自我とは胸にあるからだ。
一方、神である真我は腹にある。
その腹に力を込めることで、中心は腹であり、地球が太陽の周りを回るように、自我は神の周りを回っていることを知るのである。
ところで、宮本武蔵の必勝の秘訣は、敵を「ムカつかせること」だった。
ムカついた人間は自我である胸を中心にしているのだから、バランスが崩れて実に弱いのである。
武蔵はスポーツマンではない。正々堂々の戦いなど眼中になく、勝つことに全ての価値を置き、そして、無敗であったのだ。
武蔵は、徹底した合理性、論理性、実利を冷徹に追求した。
そんな武蔵が、敵を最も弱体化させる手段が「ムカつかせる」ことだった。
そうすると、「ムカつく」ことが、いかに愚かなことであるか分かる。
ムカつきそうになったら、腹に力を込めて、自我の暴走を食い止めねば、どんな悲惨なことになるか分からない。
腕振り運動をする時も、腹に少し力を入れてやると良い。
そうすると、一振りごとに、中心を意識し、全ては円滑に回るようになる。
まさに、腕振り運動には、あらゆる善い要素が詰まっている。
念仏や神の名を唱えたり、初音ミクさんを崇めたりして、自分より上位の存在があること、自分より中心にいるものがあることをはっきり認識していれば、望まずとも幸運に恵まれる。
徳川家康が言う「身の程を知れ」は、まさに天下取りの秘訣である。
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と疑問に思うくらい自己中心的な人間がいるかもしれない。
だが、誰かを自己中心的だと思うのは誤解である場合もあるし、また、自己中心的な人間ほど、他人を自己中心的と思うものかもしれない。
本当に自己中心的な人間であれば、運に恵まれることはなく、惨めなものであるので、やがては憐れんでやらねばならなくなる。
だが、自分が、その運のない、惨めで、憐れみを受けるような人間ではないのだろうか?
自己中心的という言葉は、自分が世界の中心にあるという考え方のことである。
世界の中心は神の座である。
畏(おそ)れ多くも、そこを自己の座と考えているのであるから、まあ、ロクなことはない。
しかし、やはり、我々もそう(自分が世界の中心であると)考えているのだ。
だが、世界の中心から畏(かしこ)まって(神を恐れ敬って)退散するなら、幸運が得られる。
一方、世界の中心にしがみつくなら、幸運を自分で自分に供給するしかないが、もちろん、人間にそんな力はないし、そこにいる限り、自分のなけなしの幸運は他者に流れ出ていく。
中心にいる者は、外側の者に幸運を与える義務があるからだ。
神は無限の幸運の持ち主であるから問題ないが、人間には、あまりに荷が重い。
ギリシャのデルフォイ神殿の扉に書かれている言葉も、徳川家康が天下取りの秘訣と言った言葉も同じ「身の程を知れ」だが、身の程を知るとは、世界の中心は神の座であるとして、決してそこに座らないことである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える者は、実際に、運にも恵まれる。
なぜなら、念仏とは、自分より上に仏がいることをはっきり表明しているからだ。つまり、世界の中心は自分ではなく、仏である。
丹波哲郎さんは、朝晩、守護霊様に挨拶することを勧めていたが、これも、守護霊という自分より上の存在を認め、それをいつも思い出すことになる。守護霊は、自分よりずっと世界の中心に近いと認識するということであり、この場合も確実に幸運が得られる。
宮本武蔵は、「神仏は貴いが、私は神仏に頼らない」と言ったが、それで良い。神仏が自分より上で、世界の中心にいることさえ認めていれば、求めずとも幸運が得られる。むしろ、求めない方が良い。
黒住宗忠や岡田虎二郎が実践し、弟子達にも勧めた、常に腹に力を込めることにも、実は同じ意味があると言ったら、不思議に思うかもしれない。
しかし、腹に力を込めることは、世界の中心は神であると認めることである。
なぜだろう?
我々は、悲しいことがあると「胸が痛む」などという。
今の若い人は、気に入らないことがあると「ムカつく」と言うが、ムカつく部分は胸であることが分かると思う。
なぜこんな表現になるのかというと、自我とは胸にあるからだ。
一方、神である真我は腹にある。
その腹に力を込めることで、中心は腹であり、地球が太陽の周りを回るように、自我は神の周りを回っていることを知るのである。
ところで、宮本武蔵の必勝の秘訣は、敵を「ムカつかせること」だった。
ムカついた人間は自我である胸を中心にしているのだから、バランスが崩れて実に弱いのである。
武蔵はスポーツマンではない。正々堂々の戦いなど眼中になく、勝つことに全ての価値を置き、そして、無敗であったのだ。
武蔵は、徹底した合理性、論理性、実利を冷徹に追求した。
そんな武蔵が、敵を最も弱体化させる手段が「ムカつかせる」ことだった。
そうすると、「ムカつく」ことが、いかに愚かなことであるか分かる。
ムカつきそうになったら、腹に力を込めて、自我の暴走を食い止めねば、どんな悲惨なことになるか分からない。
腕振り運動をする時も、腹に少し力を入れてやると良い。
そうすると、一振りごとに、中心を意識し、全ては円滑に回るようになる。
まさに、腕振り運動には、あらゆる善い要素が詰まっている。
念仏や神の名を唱えたり、初音ミクさんを崇めたりして、自分より上位の存在があること、自分より中心にいるものがあることをはっきり認識していれば、望まずとも幸運に恵まれる。
徳川家康が言う「身の程を知れ」は、まさに天下取りの秘訣である。
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