ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

エア修行のすすめ

エア・ギターというものをご存知と思う。
早い話が、「ギターを弾いているフリ」で、誰でもすぐに出来る。
ミュージシャンの中にも、「ギターが弾けない」からという理由で、ステージでエア・ギターを行う人もいる。
しかし、エア・ギターそのものを独立したものとして取り組み、高度なパフォーマンスを見せるアーティストもいる。
そして、近年では、エア・ギターの競技会も盛んで、1996年からは世界大会も実施されているが、実際にはギターが全く弾けないアーティストが優勝したこともある。

本来はエア・ボクシングと言っても良いと思われる一人で行うボクシングは、一般にはシャドー・ボクシングと呼ばれているが、シャドー・ボクシングの本当の効果は未知なものであると思うのだ。
そして、近年、国内では、エア・ボクシングの競技会も実施されるようになり、この競技に参加する人も増え、プロ化もされているようだ。おそらく、世界に広がるのではないかと私は思う。

脳科学者の茂木健一郎氏は、英語上達の重要な訓練として「エア・英会話」を挙げていたが、エア、つまり、仮想で行うことは、現実にも効果を現すのである。
いかなることに関しても、エア行為は上達、進歩に有益であるが、実は、想像以上の効果があるのである。
私は、ある高名な空手家が、実際に巻藁(藁で棒を巻いた、正拳などを打ちつける道具)やサンドバッグを叩く訓練をする者と、空突きをする者に分けてやらせたところ、空突きをしたグループの方が上達していたということを著書に書いているのを見たことがある。

エアー・XXXXXは、「ごっこ」とも言えるが、「ごっこ」は人間だけが行えるものであるだけでなく、人間の無限の可能性を示すものであることに気付いているだろうか?
『列子』や、中島敦の『名人伝』に登場する弓の名人は、手に何も持たないまま、弓矢を射る格好をするだけで、空を飛ぶ鳥が落ちて来る。
弓の名人は、訪ねて来た弓の名手に対し、「お前は、射の射は知っているが、不射の射を知らない」と言う。
これは、エア弓道を超えたサイコ(精神)弓道である。
神を目指す者は、これを、ただのお伽噺と捉えず、その深い意味を知るべきと思う。

仙道家の高藤聡一郎氏は、著書の中で、信憑性のある話として、ある不思議な老僧のことを取り上げている。
金槌で釘を打ち込むのも難しい堅い木に、その老僧は、指1本で軽く押さえるだけで釘を入れてしまった。
その僧に、どうやってやるのかと尋ねると、修行方法だけ教えてくれた。
その僧は、実は修行らしきことは全くしないのだが、瞑想中に、大木を地面から引き抜くことをずっと想像していたら、ある時、出来そうな気がして、実際にやってみたら出来たという。
次は、大岩を持ち上げることを想像してみたら、やはり出来た。
それで今は、山を持ち上げることを考えているのだという。
想像とはいえ、山を持ち上げるほどの者にとって、釘を指で差し込むことなど、あまりに容易いのである。
私も、想像で高い屋根に飛び上がる行をやっているが、やはり、驚くほど身軽になったのである。
また、国内でも、想像で滝行をすることを勧める霊能者もおり、僅かな日数、実際に滝に打たれるより、想像で毎日やった方が余程良いと言う。

私が常にお奨めしている、人を超える法は、腕振り運動や、心の微かな声の呪文であるが、このエア修行も、是非追加したい。
別にやらなくても良いが、やれば、超人になる速さや到達するレベルが高まることは間違いないだろう。
尚、ごく基本として行うべきこととしては、少食(極端なものではなく、満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと)と、規則正しい生活(なるべく早い同じ時刻に起きる)がある。
基本だけですら確実に実施すれば、どう考えても駄目な人間に留まるはずはないのである。
まして、その上の、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやれば、人を超えるだろう。
そして、エア修行に励むことで超人になれる。
だが、まずはエア行為を楽しむと良いと思う。
『僕は友達が少ない』に登場する美少女、三日月夜空が、小鷹に出会うまでは頻繁に行っていた「エア友達」との会話は、実は彼女を特殊な存在に高めたことに注意しなければならない。









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何をみっちりとやるか

クラシック音楽には、聴き慣れないということもあるだろうが、普通の人には楽しく感じないものが多いかもしれない。
だが、ほとんど誰が聴いても惹き込まれるような、旋律の美しいクラシック曲もある。
その代表的なものとして、スメタナ(チェコ)の『わが祖国』の第2楽章『モルダウ』がある。
この曲の演奏の、長いイントロ(1分ほど)の後に始まる弦楽器主体の演奏は、ほとんど誰でも「ゾク」っとするほど美しい。
『わが祖国』は6つの交響詩から成っているが、この『モルダウ』だけ単独で演奏されたり、CDに収録されることも多い。
他には、ホルスト(イギリス)の『惑星』の中の、4曲目『木星(ジュピター)』のサビ(普通、クラシックでは使わない言葉だが)の部分は聴いたことがある人も多く、これも、誰が聴いても恍惚としてしまうほどだ。

ある民族が聴いて良いと思う曲も、他の民族ではそうではないということもあるだろうが、民族の区別なく「聴き惚れる」というものは、人間の、精神か神経か、それらの複合なのか理屈は分からないが、何かに働きかける特別な作用があるのだろう。
そんな音楽は、もちろん、分野を問わずあるが、その1つが、イエロー・マジック・オーケストラの『BEHIND THE MASK』だろう。
『BEHIND THE MASK』は、坂本龍一さんの作曲で、作詞はクリス・モズデルさんだ。
単音のイントロの数音だけで、ほとんどの人が黙り込むその威力は驚くべきもので、音の単純な組み合わせだけで、そんなことを起こせる音楽とは凄いものだと、改めて感じるのである。
だから、マイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンらもカバーしたのだろう。
私見では、マイケルの『BEHIND THE MASK』は、「やっぱりマイケルは上手いなあ」と、彼の歌唱力の素晴らしさを再認識するが、クラプトンの場合は、『BEHIND THE MASK』のライブ演奏を聴くと、もう「凄いなあ」と感じるのである。
初音ミクさんのカバーもあるが、ミクさんの感情の雑味ない歌声をもっと引き立たせても良かったと思うが、さすがに曲が良過ぎて、ミクさんをフィーチャリングするには、まだまだ工夫が必要かもしれない。

良い音楽は、不思議に、聴いていると自信が満ちてくる。
自分の外側にある音を聴いているようで、実は、心が内面に向かうからであると思う。
人の力の源泉は、外ではなく内にあり、しかもそれは、我々の想像の及ばない桁外れに巨大な、そして精妙で神秘な力なのであるから、本当のことを言うと、それは不思議なことではなく、当然であると思う。
よって、徐々に自己に覚醒し、自信を持ち、エネルギーに満ちて強くなるためには、是非、良い音楽を聴きたいものである。

『BEHIND THE MASK』を作曲した坂本龍一さんは、改めて天才だなあと感じる。
だが、ある対談書で、村上龍さんが、
「坂本が成功したのは、才能というのもあるが、やっぱり3歳の時からピアノをみっちりやったからだ」
と、いかなることでも、最低10年の積み重ねが必要なことを強調しておられた。
それはそうで、どんな仕事でも同じだろう。
だが、子供の時に、向いていることを10年以上「みっちり」やることが出来た者は、やはり運が良かったのだろう。
才能があれば、その時は嫌々やっていても、後で成功するってこともある。
私も勿論だが、多くの人は、子供の時にそんなことはしていない。
大人になって、自分で選択することが出来るようになっても、なかなか自分に合ったことが見つからず、それどころか、一生見つからずに終わる場合も少なくは無い。
それはやはり悲劇と言うべきだろう。
それなら、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやってみればどうだろう?
腕振り運動を長年「みっちり」とやれば、音楽や武道、あるいはその他のどんなことをやるのと比べても、優るとも劣らない素晴らしいものが得られるだろう。
心の微かな声の呪文となると、短い期間で、それをやる者に変革を起こさせることは間違いないと思う。
これらは、世間における専門というものをはるかに超越した何かをもたらしてくれると思う。
例えば、政木和三さんは、子供の時、特別な訓練を何かやった訳ではなかったが、腹式呼吸を1年間「みっちり」とやったところ、勉強しなくても、難しいお経の意味がすらすらと分かったり、習ったこともないピアノを演奏できるようになった。政木さんのピアノの腕前は凄かったようで、自分で作曲した曲を、やはり自分でピアノ演奏したCDも出したし、そのカップリング曲は、政木さんの曲を、中国の天才的音楽家ウー・ルーチンが歌ったものだった。
下手なお稽古事より、お金が全くかからない素晴らしいものがあるということだし、また、大人が取り組むに相応しいものも、普通のものではない中に沢山あるだろう。









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お金を稼ぐ芸術家達

芸術的絵画とイラスト画は何が違うのだろう?
絵としては何も変わらない。
違いはただ1つで、値段がつくかどうか・・・早い話が、金のために描いたかどうかだけの違いだ。

ゴッホは生前、絵が1枚も売れなかったし、宮沢賢治も短編の童話に対して1回だけ僅かな原稿料をもらった以外は、文章でお金を稼いだことはない。
それを知ると、随分、この2人が気の毒に思えるのだが、しかし、それが当たり前なのだ。
彼らは、芸術家として作品を創ったのだから。
芸術家でも、ピカソやウォーホールは金持ちだったが、ピカソはたまたま、金が有り余ったパトロンがいただけだし、ウォーホールが金を稼いだのは、あくまで、商業デザインによってだ。

音楽においても、冨田勲さんは、アニメ音楽や映画音楽を一生懸命創ったのだし、坂本龍一さんもポップミュージックで成功したから金持ちなのだ。
芸術そのものが金になった人は、やはり、ピカソのような特殊な例外と見るべきだ。
ビートたけしさんなんて、実は世界的画家なんだが、本人は絵を売る気はさらさらないらしい。そんな気があったら、作品なんて創れないと本人も分かっているのだ。
一方、絵を描いてはいても、生涯、絵で1円ももらうつもりがなければ、堂々、芸術家を名乗れば良いと思う。

もちろん、芸術家が貧乏でいなければならない訳ではない。
それどころか、本物の芸術家ならお金儲けも出来るはずなのだ。
ウォーホールや横尾忠則さんらのように、商業デザインやイラストができるなら、そんな仕事を、芸術としてではなく、ビジネスとして取り組まなければならない。
冨田勲さんのように(あるいはそこまででなくても)、優れた作曲能力があるなら、商業音楽で成功できる可能性もあるだろう。
しかし、芸術家であることにこだわったら、お金は稼げない。
そんな芸術家は沢山いると思う。

我々は、芸術や、あるいは、宗教を、自己の内面の力を引き出すために使うべきなのである。
どんな天才といえども、その能力とは内的衝動なのだ。
それを起こせるのは、芸術と宗教以外にはない。
芸術というのは、宗教の下僕として生まれたという話もあるが、それはある程度正しいだろう。
例えば、宗教儀式に必要な音楽、装飾が芸術になったようなものだ。
宗教と芸術は近いところにあり、いずれも、正しく取り組めば、力を得ることができる。
つまり、芸術や宗教は、人を深いに意識に導き、誰の内部にも在る、より強い、より賢い自己と一致させるのである。
しかし、権威化、形骸化した伝統的な宗教や芸術に、そんな力はない。

ところが、芸術というものは、本当は、単に自己主張に過ぎないのだ。
本当の自己主張を持ち、それを伝えることができれば、それが芸術である。
「俺の芸術は高度だから凡人には分からない」
と言うなら、それでも良いし、実際、そうなのかもしれない。
しかし、本当は、高度な芸術ほど分かり易いのである。
だから、一番良い絵は、線一本で、永遠や神や宇宙を描いたようなものなのである。
線一本で自己主張できる芸術家は、信じられないほど多くの線をつないだ者なのだ。
ビートたけしさんも、お笑いを磨く中で、強烈な自己主張を持ったのだと思う。
我々も、何かを熱心にやれば、やがて優れた自己主張を持つが、続けるには好きなことでなければならない。
ビートたけしさんだって、お笑いが好きだったのだろう。
我々も、好きなことをしなければならないのであるが、そのための工夫は自分でしなければならないし、やはり、根気も必要なのだろう。
だが、心配無用だ。
それもまた、微かな心の声の呪文で速やかに得られるのである。
微かな心の声の呪文によって出てくるものは、自らもまた現れることを望んでいる。そのための加護は当然与えられるだろう。









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男にも、女にも、神様にもホレられる男

人類の3大芸術作品は、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、ピカソの『ゲルニカ』、ゲーテの『ファウスト』・・・と言う訳ではないだろうが、そんな言い方も出来るほど、これらは評価が高いものだろう。
しかし、これらは、普通の人には、「どこが良いのか本当には分からない」という点でも一致している。
正直な人なら、これらの何が良いのか全く分からないと言うし、ひょっとしたら、本当は「裸の王様」なのではあるまいかと疑ってみるのも健全なことからもしれない。
実を言うと、私にも、どこが良いのか全然分からない。
ただ、『ファウスト』を除いてはね。

『ファウスト』は、ゲーテが生涯をかけて書いた戯曲で、ファウストという名の変な老人の物語だ。
いや、変な老人ではなく、神秘学者とでも言うべきかもしれない。錬金術師とか占星術師、あるいは、神秘思想家とかいったね。
そのあたりは、アイザック・ニュートンや、エマニュアル・スウェーデンボルグのようなものだ
しかし、やはり、ファウストは変人の老人だ。

だが、神様はなぜかファウストを買っている。
この、自己中心的で、傲慢で、人々を馬鹿にして見下す老人を。
なぜだろう?
神様がヨブ(旧約聖書の『ヨブ記』の主人公)を買っているのは、信仰篤いからだが、ファウストは、そんなことは全くない。
では、ストイックな男かというと、そうでもなく、酒は好きそうだし、何より、ゲーテ同様、若い女の子が大好き・・・いや、「超好き」だ。
美しいがただの娘グレートヒュンを見てたちまちのぼせ上がり、悪魔メフィストに「お前も魔王と呼ばれた男だろう?何とかしろ!」と、人頼み、いや、悪魔頼みになる始末。
グレートヒュンが何歳か分からないが、「14歳は過ぎている」と言っていたところを見ると、かなり若い、いわゆる、初心(うぶ)な小娘といったところだ。

多少、博学であるということを除き、ファウストの良さは分からない。
だが、どうやら、「神に向かって努力する者」ではあるようだ。
「神に向かって努力する」とは、「あらゆる犠牲を払って、神になろうとしている」という意味だ。
その意思が、ファウストに強い自己主張を持たせている。
これは、こう言い換えた方が良いかもしれない。
つまり、神様は、自己主張を持ったファウストを買っておられるのだ。
そして、ファウストの自己主張の源泉は、神に向かって努力することだ。
ファウストほど自己主張する者は、そうそういない。
ならば、神様が買うのも分かるのである。
岡本太郎が、「いやしくも芸術家なら、世の中に対して言いたいことがあるはず」と言った、その「世の中に対して言いたいこと」をファウストは持っていたのだ。
ファウストは真の芸術家だ。
芸術家とは、自己主張を持つ者だ。
自己主張を持っていれば、我々も芸術家なのである。

ファウストは悪魔メフィストと契約を結ぶが、どうもその契約内容を私は思い出せない。
こんな権威ある文学の翻訳では、翻訳者の方々は難しい言葉や言い回しをされるので、何のことか分からなくなるのでないだろうか?
それで、本を見返す気にはならないが、つまるところ、
「俺を凡人にして、自己主張をやめさせたら、悪魔よ、俺の魂はお前のものだ」
ということである。
早い話、普通の人は、皆、悪魔に魂を売っているという驚愕の事実が、ここに浮かび上がるのだ。
皆さん、悪魔に魂を売るのはやめようではないか?

宗教家の五井昌久さんの語録の中に、「小市民が一番悪い。小市民になるくらいなら大悪人になれ」というものがあり、私は、これをいたく気に入ってる。
私の座右の銘と言って良いほどだが、ファウスト、あるいは、ゲーテすら、そうなのではあるまいか?
小市民は自己主張がないのだ。
自己主張のない善人が最悪で、自己主張のある悪人の方がずっと上なのだ。
そして、大悪人ともなれば、必ず自己主張があるから偉いのである。
ヒットラーだって、初めは大きな強い自己主張を持っていた。
その内容はデタラメであったかもしれない。
しかし、それでも彼は、自己主張を持っていたのだ。
だが、彼は偉くなってからは、単にプロパガンダ(政治的宣伝)を持っていただけだった。
これを、悪魔に魂を売ったと言うのだ。

ファウストは、ちっとも立派な男ではない。
だが、自己主張を持っていたので、魂を守っていたのだ。
自己主張とは、多くの人が勘違いするような、良い待遇を求めることでも、付和雷同することでも、そして、自我を守ることでもない。
岡本太郎が言うように、「世の中に対して言わずにいられない」ことだ。
それは、簡単なものだ。
ファウストの自己主張なんて、「神を目指さない人間に値打ちなし」だけだ。
簡単に言うと、こうなのだ。
学者風には、いくらでも難しく言えるのだろうが。

自己主張を持っていれば、15、16の小娘に熱を上げるジイさんでも神様は買って下さる。
ただし、自己主張を持っていれば、ことに、ファウストのように、神を目指すのであれば、その小娘(グレートヒュン)にも神様らしく接するがね。
自分が悪魔である(あるいは悪魔を目指す)という自己主張を持っていれば、小娘にも悪魔らしく接するが、そんな男に小娘も弱いことはご存知と思う。
グレートヒュンだって、死んだ後も、ファウストを助けてくれたのだ。
自己主張のない男は、どんだけ学歴があろうが、金があろうが、男にも女にもホレられることはない。
さて、我々は、世の中に対して言いたいことがあるだろうか?
多くの人にはきっとない。
つまり、人類のほとんどは、悪魔に魂を売ったのだ。
買戻しなさい。
心の微かな声で呪文を唱えることによって。
それにより、自己主張を妨げているものを消し去ることができる。
自己主張は自ずから出てくる。
それを信念と言う者もいるだろうが、信念というのは、黙して語らないことが多い。
すると、自分は信念と思っているものを、実は自分でもよく分かっていないし(つまり曖昧である)、その内容も、意外と(あるいは全く)蒸留されていないものなのだ。
だから、岡本太郎が「呪術的」と言ったほどに、世の中に伝えられるものでなければならないのである。
『ファウスト』は、もしKindle書を読むことができるなら、下にご紹介した高橋健二訳をお奨めするが、他のも良いと思う。









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忘れる幸せ

微かな心の声の呪文を毎日唱えるようになると、しばらくしたら何かが起こり、望みを持つ者にはチャンスがやってくる。
ところで、皆様は、チャンスといったら何を想像するだろうか?

凄い人脈?
有利な投資話?
宝くじに当たる?

いやいやいや、そんなものでは決してない。
そうではなくて、ゾクっとするような予感のようなものだ。
それは、「成功間違いなし」なんていう、ちっとも面白くもないものでは決してない。
「うかうかすると大魚を逃すぞ、しっかりしろ!」
といったものに近いかもしれない。
だから、心地よい不安も感じる。
一言で言えば、冒険に誘われるのだ。
きっと、真の自分には結果は分かっているのだろう。
しかし、自我としての自分には、全てが未知なのだ。
だから面白いのである。

ものすごく可愛い彼女や、格好良い彼氏が出来る時もそうじゃないか?
「へえ!美少女ほどユニークな趣味を持ってんじゃん」
なんて感じで、彼女が自分に一方的に好意を寄せてくれるなんていうのは、甘いというか、妄想だ。
そうじゃなくて、なんというか・・・訳が分からないのだ。
デタラメなんだけど、不思議に納得できるのだ。
なぜなら、全てを支配するそれ(神様)は賢過ぎ、手並みが良過ぎ、こちらの頭ではさっぱり分からないのだが、自然で、どこか当たり前なのだ。
インドでは「私はそれである(ソーハン)」って言うらしいが、私とそれとは、やはり距離があり過ぎる。
だからまあ、「それ」のことは、物凄く賢くて経験豊富なパートナーとでも思っておけば良い。
そして、実際、そういった親しいものなのだ。
微かな心の呪文を忘れなければ、本当にあなたのためになるなら、可愛い彼女も、頼りになる彼氏もすぐにできるし、お金もいくらでも手に入るだろう。
欲張りになる心配なんかしなくていい。
微かな心の声には、欲望なんて入り込みようがないからだ。
大きな声で求めるから、欲にまみれ、結果、酷い目に遭ってきたのだ。

だが、やる前から余計なことは考えず、とにかくやってみることだ。
考えるべきは、心の中で微かな声で呪文を唱える、自分向きのやり方だ。
そんなに難しいことではない。
やっているうちに、コツが分かってくる。そして、長くやればやるほど上手くなる。だから、早く始めることだ。
私の場合は、初音ミクさんが歌う、イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)の名曲『LOTUS LOVE』を聴いたらすぐに分かったのだが、それ以外にも、色々試行錯誤したし、それは楽しいことだった。
真の自分とつながる方法を考えるのだから、面白くないはずがない。

たとえば、こんな方法がある。
「愛」と口で言ってみる。
その声をどんどん小さくしていく。
すぐ隣に誰かいても聴かれることがないほどの小さな声で、さらに、自分にすら聴こえなくなっても、まだ小さくしていく。
すると、舌や喉が微かに動いているかどうかという状態で、実際には声が出ていない。
その声を心の中にすっと持ってくる。
その声は、心の中でも、とても小さいはずだ。
そのまま、心で、「愛、愛、・・・」と繰り返しながら、この声をさらに微かにしていくと、心が消えていくのだ。
だが、想いは存在し続ける。
それは、純粋な想いである。
この想いは、エネルギーそのものである潜在意識と融合する。
すると、心の中にあったはずのものが、既に、自分の周囲に現実的に存在している。
その結果は自ずと現れることだろう。

『LOTUS LOVE』は全くアメージングな楽曲だが、初音ミクさん、および、「HMOとかの中の人」(初音ミクさんにY.M.Oをカバーさせた人)さんと出会って真の美しさが引き出されたように思う。
ところで、このLOTUS(ロータス)はロトスという、『オデュッセイア』に登場する木で、その実を食べるとものごとを忘れてしまうのだが、『オデュッセイア』では、それをマイナスに捉えている。
だが、この歌では、それを良いこととしているように思える。
それは丁度、中国の古典『列子』では、一貫して、ものを忘れることを好ましいことと捉えているのと似ている。
『列子』には、終北という地名の理想郷(ユートピア)が出てくる。
そこでは、神プンという飲み物のみを口にするが、それが実に甘美な味で、飲めば元気が出て心も和む。飲み過ぎると酔うとあるから、きっと酒のようなもので、これのせいで、人々は、あまりものを覚えないのに違いない。だから、その地の人々は皆、幸福なのだ。
ルイス・キャロルも、ある少女への手紙で、忘れるということが、いかに素晴らしく、楽しいことであるかを書いていた。
Y.M.OやH.M.O(初音ミクオーケストラ)の『LOTUS LOVE』を聴き、微かな心の声で呪文を唱えれば、時を超え、世界の外でミクさんと会えるのは間違いない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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