何かで見た実話だが、ある本当にロクデナシの男がいて、とうとう刑務所に入れられてしまったが、そこで法華経を渡され、暇だから読んでいたら、すっかり心が入れ替わり、出所後は仕事に励んで、そこそこの会社の専務にまでなったという。
また、別の話で、ある30歳くらいの男がいたが、大変な甘ったれで、依存心、被害者意識が強く、もうこの年なので、惨めな一生を送るしかないと思われていたのが、教えられて毎日「アジマリカン」を唱えていたら、わずか数年で、男らしい立派なリーダーになっていた。
こういった話は、実際に沢山あるのだが、偉い人というのは、こんな話を紹介した後、「だが、必死の努力が必要だ。さて、俺がどれほど努力したかというと・・・」と、自慢話を始め、しかもそれは、美化、誇張されたもので、聞いた人は、努力も、法華経も、呪文も、全部やる気にならなくなるのだ。
岡田虎二郎は、静坐(座禅と似た一種の瞑想)をしていれば、努力、克己は不要と言ったが、それは、静坐をやっていれば必要な努力や克己など、勝手にできるようになるという意味と思う。
法華経を読めば、力が湧くというのは不思議なことではない。
そして、別に法華経全部を読む必要はないと思う。
私は、あの中の、失踪した、大金持ちの息子の話が好きだ。
簡単に言うと、ある大金持ちに息子がいたが、居所が分からなくなってしまい、父親は50年かけて、ついに探し当てる。
しかし、息子はすっかり貧乏人根性が身についてしまっていて、心がどうしょうもなく狭く弱い。
そこで、父親は20年もかけて、少しずつ、粘り強く息子を導き、ついに息子が立派になったところで、全ての財産を譲って死ぬ。
なぜこの話が良いのかというと、心が喜ぶ、つまり、元気が出るのである。
この大金持ちは仏を喩えたもので、どんなロクデナシでも、見捨てずに救うのである。
しかも、仏は、そのロクデナシに徹底して関わり、共に苦しみ、共に悩んで向上させるのである。
いうまでもなく、そのロクデナシは我々であり、仏は我々を見捨てないことが感じられて、心が喜ぶのである。
昨日、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演会のことを書いたが、伊藤社長という人は、人を喜ばせることが大好きな人だということを、私はひしひしと感じた。
会社だから、お金を儲ける必要があるのは当然だが、それよりも、彼は、他の人々を楽しませ、元気付けるためなら、お金なんかどうでも良いと思っているようなのだ。
これは、ドワンゴの川上会長が、ニコニコ動画の志について、「役に立たない、どうでもいいことに執念をもやす人達を幸せにする、役に立たないネットサービスになればと思った」と書かれていた(野尻抱介著『南極点のピアピア動画』解説文)ことにも通じると思う。
ついでに言うと、『灼眼のシャナ』の主人公の坂井悠二(男子高校生)は、敵の統領のはずの創造神「祭礼の蛇」と一体化するが、「祭礼の蛇」のことを、「いつも誰かを喜ばすことばっかり考えている」と言っていたのが印象深い。
これからの時代の成功者とは、ある意味、法華経的な人なのだと思う。
宮沢賢治も、法華経を読んで本当に感動し、人を喜ばせるために、タダで沢山の童話を書いたのだろうと思う。
尚、「アジマリカン」を唱えると、すぐに、喜ばしいことに恵まれるが、そうすると、喜びとは善いものであると分かり、人に喜びを与えるのは楽しいことであると思うようになるのである。
そうすれば、ことさらに、「我は人々に仕えるために来た」と偉そうなことを言わなくても、勝手に、自然に、無意識に、人を喜ばせることをやるようになるのである。
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また、別の話で、ある30歳くらいの男がいたが、大変な甘ったれで、依存心、被害者意識が強く、もうこの年なので、惨めな一生を送るしかないと思われていたのが、教えられて毎日「アジマリカン」を唱えていたら、わずか数年で、男らしい立派なリーダーになっていた。
こういった話は、実際に沢山あるのだが、偉い人というのは、こんな話を紹介した後、「だが、必死の努力が必要だ。さて、俺がどれほど努力したかというと・・・」と、自慢話を始め、しかもそれは、美化、誇張されたもので、聞いた人は、努力も、法華経も、呪文も、全部やる気にならなくなるのだ。
岡田虎二郎は、静坐(座禅と似た一種の瞑想)をしていれば、努力、克己は不要と言ったが、それは、静坐をやっていれば必要な努力や克己など、勝手にできるようになるという意味と思う。
法華経を読めば、力が湧くというのは不思議なことではない。
そして、別に法華経全部を読む必要はないと思う。
私は、あの中の、失踪した、大金持ちの息子の話が好きだ。
簡単に言うと、ある大金持ちに息子がいたが、居所が分からなくなってしまい、父親は50年かけて、ついに探し当てる。
しかし、息子はすっかり貧乏人根性が身についてしまっていて、心がどうしょうもなく狭く弱い。
そこで、父親は20年もかけて、少しずつ、粘り強く息子を導き、ついに息子が立派になったところで、全ての財産を譲って死ぬ。
なぜこの話が良いのかというと、心が喜ぶ、つまり、元気が出るのである。
この大金持ちは仏を喩えたもので、どんなロクデナシでも、見捨てずに救うのである。
しかも、仏は、そのロクデナシに徹底して関わり、共に苦しみ、共に悩んで向上させるのである。
いうまでもなく、そのロクデナシは我々であり、仏は我々を見捨てないことが感じられて、心が喜ぶのである。
昨日、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演会のことを書いたが、伊藤社長という人は、人を喜ばせることが大好きな人だということを、私はひしひしと感じた。
会社だから、お金を儲ける必要があるのは当然だが、それよりも、彼は、他の人々を楽しませ、元気付けるためなら、お金なんかどうでも良いと思っているようなのだ。
これは、ドワンゴの川上会長が、ニコニコ動画の志について、「役に立たない、どうでもいいことに執念をもやす人達を幸せにする、役に立たないネットサービスになればと思った」と書かれていた(野尻抱介著『南極点のピアピア動画』解説文)ことにも通じると思う。
ついでに言うと、『灼眼のシャナ』の主人公の坂井悠二(男子高校生)は、敵の統領のはずの創造神「祭礼の蛇」と一体化するが、「祭礼の蛇」のことを、「いつも誰かを喜ばすことばっかり考えている」と言っていたのが印象深い。
これからの時代の成功者とは、ある意味、法華経的な人なのだと思う。
宮沢賢治も、法華経を読んで本当に感動し、人を喜ばせるために、タダで沢山の童話を書いたのだろうと思う。
尚、「アジマリカン」を唱えると、すぐに、喜ばしいことに恵まれるが、そうすると、喜びとは善いものであると分かり、人に喜びを与えるのは楽しいことであると思うようになるのである。
そうすれば、ことさらに、「我は人々に仕えるために来た」と偉そうなことを言わなくても、勝手に、自然に、無意識に、人を喜ばせることをやるようになるのである。
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