「成功する人はこんな傾向がある」
「成功する人と失敗する人では、このことに関して、こう異なる場合が多い」
といったものは、数百、数千・・・いや、無限に言うことができるに違いない。
しかも、そんなことを調査したとしても、調査対象の選択によって、結果は全く異なるのである。
そのようなものは、話としては面白いかもしれないが、実際の役に立つことは全くない。
よって、時間の無駄で頭の無駄遣いにしかならないので、相手にする必要はない。
もし、記憶しておくべき法則があるとすれば、「例外ゼロ」のものだけである。
例えば、ニュートンの運動法則は、適当な大きさ、重さ、時間の範囲で適用する限り、決して例外はないので、覚えておく価値はある。
また、「10分間呼吸しなければ死ぬ」、「炭水化物を摂り過ぎれば、肥満や病気になる可能性が高まる」というのも、普通の人間の普通の状況に関しては例外はない。
(「普通とは何ぞや?」といった極端論は、やりたければ個々でやれば良い。極端論を一々取り上げていたら、いかなる話もできない)
だが、「このダイエット食品を食べれば痩せます」というのは、単に傾向について述べているのであり、実際、必ず、「個人差があります」という但し書きがある。
私なら、そのようなものは相手にしない。
自分が悪い方の例外になっても誰も責任を取らないし、その可能性は十分に高い。
そんなものは、相手にするだけ時間の無駄である。
水野南北は、「少食粗食なら幸運で幸福になり、大食美食なら不運で不幸になる」と言ったが、そのことに関して、万に一つの例外もなかったと言っていたのだから、一応、覚えておく価値はある。
もちろん、少食とか粗食、あるいは、幸運とか衰運の定義をはっきりさせている訳ではないことには多少は留意すべきだが、それは、ぎりぎり共有できる常識の範囲内と考えられるし、そう(常識の範囲内と判断できる)であるなら、これは絶対的な真理である。もし、常識を共有できないと判断するなら、その者は水野南北の論を相手にしなければ良いだけであり、誰かがかまってやる必要もない。
よって、幸運で幸福でありたく、そして、不運で不幸でありたくないなら、少食粗食であるべきで、大食美食でなければ良いのである。
ただし、ここでも極端論を好む者がいて、極端な少食粗食の必要を主張したり、自分はそうやっていると言う者がいるが、そのような者は、一人で勝手にやっていれば良い。
『バガヴァッド・ギーター』では、神クリシュナは「食べ過ぎるな、ただし、少食過ぎてもいけない」と述べ、エマニュエル・スウェーデンは、天使、あるいは、高級霊に「食を過ぎるな」あるいは「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と戒められたことを忘れないようにしていたが、これらのように、賢い判断は何事にも必要である。
私は、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」という言い方が気に入っており、これを守ることにしているが、おかげで間違いなく、いつも幸運なのである。
ある現代の大事業家は、「ツイてる」と口に出して言えば「ツク」、つまり、運に恵まれ、千回言えば揺るぎなく幸運になると言うが、これは、傾向性とすら言えない。精神衛生において何らかの効果はあるとは言えるかもしれないが、単に個人的意見、あるいは、趣味的な思想と思えば良い。
言ってみれば、大食美食でいながら、「ツイてる」といくら口に出しても、運が良くなることは決してないだろう。
個人の勝手ではあるが、趣味よりも原則を重要視する方が賢いと言えるだろう。
さて、こんな話もある。
「社長さんが必ず朝7時半までに出社する会社が倒産したことは皆無である」
無論、極端な例外はあるだろうが、かなりの調査結果でもあり、信じて良い。
つまり、会社を作って、倒産したくないなら、朝7時半までに出勤し、仕事か仕事の準備を始めれば良い。
また、次の2つも、例外はないだろう。
「毎日例外なく朝5時までに起床する駄目人間はいない」
「ほぼ常に穏かな呼吸をしている無能者はいない」
次の2つも、信じて良いと思う。
「日常的に公共の場所でスマートフォンを見ながら歩いている者で有能な人間は皆無である」
「度々、公共の道を歩きながらタバコを吸っている者で有益な人間は皆無である」
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「成功する人と失敗する人では、このことに関して、こう異なる場合が多い」
といったものは、数百、数千・・・いや、無限に言うことができるに違いない。
しかも、そんなことを調査したとしても、調査対象の選択によって、結果は全く異なるのである。
そのようなものは、話としては面白いかもしれないが、実際の役に立つことは全くない。
よって、時間の無駄で頭の無駄遣いにしかならないので、相手にする必要はない。
もし、記憶しておくべき法則があるとすれば、「例外ゼロ」のものだけである。
例えば、ニュートンの運動法則は、適当な大きさ、重さ、時間の範囲で適用する限り、決して例外はないので、覚えておく価値はある。
また、「10分間呼吸しなければ死ぬ」、「炭水化物を摂り過ぎれば、肥満や病気になる可能性が高まる」というのも、普通の人間の普通の状況に関しては例外はない。
(「普通とは何ぞや?」といった極端論は、やりたければ個々でやれば良い。極端論を一々取り上げていたら、いかなる話もできない)
だが、「このダイエット食品を食べれば痩せます」というのは、単に傾向について述べているのであり、実際、必ず、「個人差があります」という但し書きがある。
私なら、そのようなものは相手にしない。
自分が悪い方の例外になっても誰も責任を取らないし、その可能性は十分に高い。
そんなものは、相手にするだけ時間の無駄である。
水野南北は、「少食粗食なら幸運で幸福になり、大食美食なら不運で不幸になる」と言ったが、そのことに関して、万に一つの例外もなかったと言っていたのだから、一応、覚えておく価値はある。
もちろん、少食とか粗食、あるいは、幸運とか衰運の定義をはっきりさせている訳ではないことには多少は留意すべきだが、それは、ぎりぎり共有できる常識の範囲内と考えられるし、そう(常識の範囲内と判断できる)であるなら、これは絶対的な真理である。もし、常識を共有できないと判断するなら、その者は水野南北の論を相手にしなければ良いだけであり、誰かがかまってやる必要もない。
よって、幸運で幸福でありたく、そして、不運で不幸でありたくないなら、少食粗食であるべきで、大食美食でなければ良いのである。
ただし、ここでも極端論を好む者がいて、極端な少食粗食の必要を主張したり、自分はそうやっていると言う者がいるが、そのような者は、一人で勝手にやっていれば良い。
『バガヴァッド・ギーター』では、神クリシュナは「食べ過ぎるな、ただし、少食過ぎてもいけない」と述べ、エマニュエル・スウェーデンは、天使、あるいは、高級霊に「食を過ぎるな」あるいは「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と戒められたことを忘れないようにしていたが、これらのように、賢い判断は何事にも必要である。
私は、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」という言い方が気に入っており、これを守ることにしているが、おかげで間違いなく、いつも幸運なのである。
ある現代の大事業家は、「ツイてる」と口に出して言えば「ツク」、つまり、運に恵まれ、千回言えば揺るぎなく幸運になると言うが、これは、傾向性とすら言えない。精神衛生において何らかの効果はあるとは言えるかもしれないが、単に個人的意見、あるいは、趣味的な思想と思えば良い。
言ってみれば、大食美食でいながら、「ツイてる」といくら口に出しても、運が良くなることは決してないだろう。
個人の勝手ではあるが、趣味よりも原則を重要視する方が賢いと言えるだろう。
さて、こんな話もある。
「社長さんが必ず朝7時半までに出社する会社が倒産したことは皆無である」
無論、極端な例外はあるだろうが、かなりの調査結果でもあり、信じて良い。
つまり、会社を作って、倒産したくないなら、朝7時半までに出勤し、仕事か仕事の準備を始めれば良い。
また、次の2つも、例外はないだろう。
「毎日例外なく朝5時までに起床する駄目人間はいない」
「ほぼ常に穏かな呼吸をしている無能者はいない」
次の2つも、信じて良いと思う。
「日常的に公共の場所でスマートフォンを見ながら歩いている者で有能な人間は皆無である」
「度々、公共の道を歩きながらタバコを吸っている者で有益な人間は皆無である」
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