「机上の空論」とは、役に立たない考えのことで、確かにそんなものもあるかもしれない。
しかし、実践のない論が全部悪いという訳では決してない。
企業などで、ちょっと偉くなると、優れた意見に対して、「やってから言えよ」という者はいっぱいいるのだ(ほぼ全員かもしれない)。
そんな者は、単に、相手の方が頭が良いことをひがんでいるだけで、そんな言い方でしか自分の立場を守れないと思っているのだ。
だいたいだね、優れた考えの中で、実際にやってみて確かめられるものなんて1パーセントもないのだよ。
「いや、俺は全部やる」という者は、単に、知恵がなくて、ほとんど何も思いつかないだけなのだ。
本当に頭が良く、想像力のある者のアイデアなんて、実際にやってたら、日本の国家予算なんて、あっという間に使い切る。
そして、そんな者は、自分でやらない方が良いのだ。
なぜなら、せっかくの知恵を失うか、地球をぶっ壊すかのどっちかだ。
行動が良い成果を収めるのは、「たまたま」でしかないのだ。
それが証拠に、同じようなことをやっても、うまくいくのはせいぜい数パーセント。
だが、成功者はやたら目立つし、目立ちたがる。しかし、それも長続きはしないのだ。
そして、さっきも述べたように、成功するのは、「たまたま」で、偉い訳でも、賢い訳でも何でもない。
だから、成功するためにやるんじゃなく、楽しいからという理由でやることだ。
アインシュタイの相対性理論なんて、後で誰かが実験してくれたものもあったが、アインシュタインには実験のしようがなかったし、やる気もなかった。
だから、ある意味、それはアインシュタインの予言のようなものだったが、その予言が実験で確認できた時でも、本当は、アインシュタイは特に感動しなかったのだ。
アインシュタインが実践主義者だったら、彼は、ノーベル賞を受賞した光量子理論も思いつかなかったかもしれない。
とはいえ、何も、一切行動するなと言っているのではない。
これは皆が覚えておいた方が良いが、行動とは、「する」ものでも、「させらられる」ものでもなく、「させていただく」ものなのだ。
それをするべく運命づけられていれば、どんなにやりたくなくてもやるだろうし、そうでなければ、どれほどやろうとしてもできないのだ。
もう少し身近で言えば、働く運命なら仕事は避けられないが、そうでなければ、いくら探しても仕事は見つからない。
どれほど犯罪を憎んでも、やってしまう運命なら犯罪者になることは避けられないが、いくら悪いことをしたくても、縁がなければハエ一匹殺せない。
無理にしゃかりきに動き回る必要はないが、さりとて、怠惰になる必要もない。
これを、インドの聖者ラマナ・マハルシは、こんな言い方をしていた。
「偉大なビジネスマンが、大きな事業を成し遂げようとしているが、彼は何もしていない」
「仕事をするのに、自分が行為者だという自覚を持たねばならないという法はない。仕事は自動的に進んでいく」
私は、仕事や、リアルな交流においても、普通の人より、少しは実践経験が多いと思うし、ある時期はしゃにむに行動していたこともあった。
しかし、冷静に考えれば、今の私の考えより、高校生の時に思いついていたようなアイデアの方がはるかに優れているのである。
行動して経験を積むことで、分かるようになる部分も当然あるが、我々はそれを過大視し過ぎる。
むしろ、行動と経験で盲点が増えることの方がずっと多い。
しかし、運命に従った自然な行動をする限りは、知恵から切り離されることはない。
経験を積んだ人が賢く見えるのは、単に、頭を叩かれているうちに分をわきまえるようになっただけで、最初から謙虚な人が一番賢い。ただ、そんな人は滅多にいないので、苦しい経験が過大視されるのだ。
騙されて大損した人が、「経験が足りなかった」と言うのは大間違いで、多くの場合、単に欲張りだったのだ。
老子は「曲則全」(自ら身を曲げる者は自由自在)と言い、「この言葉に間違いはない」と言ったが、全くその通りである。
そして、呪文(真言と同じ意味で言っている)を唱えていれば、行動は正しくなり、自分は本当は何もしていないことが分かり、「机上の論」はどんどん冴えてくるだろう。
最も良い呪文は「私は在る」だが、「あ・うん」でも良いし、「あ」の一言だって構わない。
他のものでも良いのだ。
唱えてみて、自分のフィーリングを信じて選べば良し、別に1つでなければならないこともない。
ただ、呪文だけが知恵と力に導くことは、私も個人的には変な感じはするが本当なのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
しかし、実践のない論が全部悪いという訳では決してない。
企業などで、ちょっと偉くなると、優れた意見に対して、「やってから言えよ」という者はいっぱいいるのだ(ほぼ全員かもしれない)。
そんな者は、単に、相手の方が頭が良いことをひがんでいるだけで、そんな言い方でしか自分の立場を守れないと思っているのだ。
だいたいだね、優れた考えの中で、実際にやってみて確かめられるものなんて1パーセントもないのだよ。
「いや、俺は全部やる」という者は、単に、知恵がなくて、ほとんど何も思いつかないだけなのだ。
本当に頭が良く、想像力のある者のアイデアなんて、実際にやってたら、日本の国家予算なんて、あっという間に使い切る。
そして、そんな者は、自分でやらない方が良いのだ。
なぜなら、せっかくの知恵を失うか、地球をぶっ壊すかのどっちかだ。
行動が良い成果を収めるのは、「たまたま」でしかないのだ。
それが証拠に、同じようなことをやっても、うまくいくのはせいぜい数パーセント。
だが、成功者はやたら目立つし、目立ちたがる。しかし、それも長続きはしないのだ。
そして、さっきも述べたように、成功するのは、「たまたま」で、偉い訳でも、賢い訳でも何でもない。
だから、成功するためにやるんじゃなく、楽しいからという理由でやることだ。
アインシュタイの相対性理論なんて、後で誰かが実験してくれたものもあったが、アインシュタインには実験のしようがなかったし、やる気もなかった。
だから、ある意味、それはアインシュタインの予言のようなものだったが、その予言が実験で確認できた時でも、本当は、アインシュタイは特に感動しなかったのだ。
アインシュタインが実践主義者だったら、彼は、ノーベル賞を受賞した光量子理論も思いつかなかったかもしれない。
とはいえ、何も、一切行動するなと言っているのではない。
これは皆が覚えておいた方が良いが、行動とは、「する」ものでも、「させらられる」ものでもなく、「させていただく」ものなのだ。
それをするべく運命づけられていれば、どんなにやりたくなくてもやるだろうし、そうでなければ、どれほどやろうとしてもできないのだ。
もう少し身近で言えば、働く運命なら仕事は避けられないが、そうでなければ、いくら探しても仕事は見つからない。
どれほど犯罪を憎んでも、やってしまう運命なら犯罪者になることは避けられないが、いくら悪いことをしたくても、縁がなければハエ一匹殺せない。
無理にしゃかりきに動き回る必要はないが、さりとて、怠惰になる必要もない。
これを、インドの聖者ラマナ・マハルシは、こんな言い方をしていた。
「偉大なビジネスマンが、大きな事業を成し遂げようとしているが、彼は何もしていない」
「仕事をするのに、自分が行為者だという自覚を持たねばならないという法はない。仕事は自動的に進んでいく」
私は、仕事や、リアルな交流においても、普通の人より、少しは実践経験が多いと思うし、ある時期はしゃにむに行動していたこともあった。
しかし、冷静に考えれば、今の私の考えより、高校生の時に思いついていたようなアイデアの方がはるかに優れているのである。
行動して経験を積むことで、分かるようになる部分も当然あるが、我々はそれを過大視し過ぎる。
むしろ、行動と経験で盲点が増えることの方がずっと多い。
しかし、運命に従った自然な行動をする限りは、知恵から切り離されることはない。
経験を積んだ人が賢く見えるのは、単に、頭を叩かれているうちに分をわきまえるようになっただけで、最初から謙虚な人が一番賢い。ただ、そんな人は滅多にいないので、苦しい経験が過大視されるのだ。
騙されて大損した人が、「経験が足りなかった」と言うのは大間違いで、多くの場合、単に欲張りだったのだ。
老子は「曲則全」(自ら身を曲げる者は自由自在)と言い、「この言葉に間違いはない」と言ったが、全くその通りである。
そして、呪文(真言と同じ意味で言っている)を唱えていれば、行動は正しくなり、自分は本当は何もしていないことが分かり、「机上の論」はどんどん冴えてくるだろう。
最も良い呪文は「私は在る」だが、「あ・うん」でも良いし、「あ」の一言だって構わない。
他のものでも良いのだ。
唱えてみて、自分のフィーリングを信じて選べば良し、別に1つでなければならないこともない。
ただ、呪文だけが知恵と力に導くことは、私も個人的には変な感じはするが本当なのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。