ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年10月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

価値感よりはるかに大切なもの

人間には、やってはならないことがあるようだ。
極端に言えば、殺人、泥棒、強制猥褻、嘘の証言で誰かを陥れること・・・等で、これらは、モーセの十戒に一致する。
ところが、世界を見れば、これらのことを、まるで「わが使命」とでも言わんばかりに大挙してやっている者が沢山いるし、国家の支配者達が堂々やっているし、そして、多少遠慮がちかもしれないが、我々の身の周りの多くの人達、さらには、自分がやっている。
それどころか、「どうして人殺しがいけないの?」という議論まで起こる始末だ。

どうしてこういうことになったのかと言うと、理由は一つで、物質的なものにしか価値を置かなくなったからだ。
物質的なものだけが価値があるなら、別に殺人も盗みも痴漢も、それらをやってはいけないという理由はない。
単に、法で罰せられるからやらないというだけのことになる。
よって、罰せられないようにやれば良いということになる。
物質的なものにしか価値を置かないなら、それで矛盾がなく、論理的ですらある。
金融の操作で大儲けして何が悪いのかということにもなる。
物質的なものにしか価値を置かない人間には、それのどこが悪いのかさっぱり分からないのである。

悪い理由が納得できないなら、やっても良いという考え方が人々の間に定着している。
だから、殺人の何が悪いのかを説明しようとする人がいたりする。
それはとても滑稽なことだ。
殺人や盗み、あるいは、強制猥褻がいけないという理屈は別にないのである。
なぜ、これらを法で罰するのかを説明することはできないのだ。
だから、本当はやっても良いというのが、物質的な価値感に囚われた者には当然の結論になる。

中島敦の『名人伝』で読んだが、古代の中国では、自分の息子を塩焼きにして主君に食べさせるというのは、悪いことではなく、忠義の証拠として賞賛されたというようなことが書かれていた。
そういったことが、当時の人々には疑ってもいない常識だというような書かれ方であった。
それなら、殺人や強盗が悪いというのも単なる価値感の問題ということになる。
内海康満さんの本で読んだが、「貧しい国では、泥棒は悪いことではない。盗まないと生きていけない」といったことが書かれていた。
(ただし、内海さんは、そんな価値感を認めるという意味で書いていた訳ではない)
だが、私はこれらの価値感に同意しないのである。
いや、どのような価値感にも完全には同意せず、二次的なもの(本質的でない)と見なしている。

私は、殺人も盗みも、絶対にしないとは言い切れないが、したくないと思っている。
それは理屈ではない。
私は、そういったことを、してはならないことを知っているだけなのである。
それは、教えられたことでも、何かを読んで覚えたことでも、個人的趣味でも価値感でもない。
私がそのように出来ているというだけのことだ。
私がそう言ったら、理屈でしかものを考えられないが自分を賢いと思っている人には、、「いや、それはお前が知らないだけで、教育された価値感なのだ」と言われるかもしれない。
だが、私が家庭や学校、社会で教育された価値感でいえば、それらはやってはならないことにはならないのである。
別に、教育されたことに反発して、その反対をやっているのではない。
たまたま、そう見えるだけのことだ。

神というのは曖昧な概念かもしれない。
しかし、万物を・・・物質だけでなく、法則やエネルギー全てを創造し、創造しつつあり、支配する至高の存在が、もしあるなら、それを神としよう。
私はその至高者である。
エマーソンは、自分は世界の所有者で、七つの星と太陽年(つまりは、最も価値の高いもの)の所有者であると言ったが、同じ意味である。
これには、どんな理屈もないし、どんな説明もできない。
ただ、知っているだけだ。
しかし、別に個人としての私が、それを信じているのではない。
むしろ、全く信じていない。
だが、覚えていて、忘れないのである。
物質的な価値感、理屈で言えば、全く馬鹿げたことである。
それは、個人の私としては、全く同感である。
だが、私は、私が至高者であることを覚えているのである。
こんなことを言うと、「わけ分かんないよ」と言われだろう。
私個人もそうである。
だが、私は私の意志として、そのことを覚えているのである。









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心の苦しみを消す道は必ずある

誰もが、悩みや苦しみを持っていて、心はいつもぐらぐら揺れている。
そして、心は敏感で傷付き易い。
誰もが、辛い心の悩みを消す方法を切望しているが、それを求める声は、ただ、切なく、虚しく、闇の中に消えていくだけだ。

では、良いことを教えよう。
あなたの悩みを消してしまう方法はある。
それがどんな方法かと尋ねてはいけない。
あなたは知ることはできないのだ。
ただ、その方法があるということを覚えておくのだ。
「そんなものがあるとは信じられない」
と言うだろうか?
構いはしない。
誰も、信じろとは言っていない。
覚えていろと言っただけなのだ。
あなたは信じる必要はないし、信じることはできない。
だが、全ての悩みを解決する道があることを覚えておくのだ。
そうすれば、求めずとも、道の方からやってくる。

何かになりたいだろうか?
そんなことを思ってはならない。
自分がその何かであることを覚えていることだ。
だが、自分がそれであることを信じる必要はない。
ただ、自分がそれであることを覚えていれば良いのだ。
自分がそれであることを、決して忘れてはならない。
いつも思い出さなくてはならない。
だが、「私はそれだ」と呪文のように言ってはならない。
自分がそれであることに執着してはならないからだ。
もし、呪文が欲しいなら、
「覚えているか?」
「思い出せ」
と言うことだ。
自分が至高者であること。
自分が世界の所有者であることを覚えていることだ。
そのことを、「覚えているか?」「思い出せ」と言いながら、いつも思い出すのだ。
信じる必要は全くない。
覚えてさえいれば、事実は自ずから明らかになる。
事実とは、覚えている通りのことである。









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魔法の杖は簡単に得られる

「強い者が勝つんじゃなくて、勝った者が強いんだ」と、うまいことを言った人がいたと思う。
しかし、やっぱり強い方が勝つんだ。
ただ、世間の人間には、何が強いのか分からないだけだ。
そして、世間の人間には、何が勝ちで何が負けかが分からないのだ。
つまり、真の意味で強い者が、真の意味で勝つのである。
また、「正しい者が必ず勝つ」という言葉を、世間では死語のように感じている。
だが、これも、真の意味で正しい者が、真の意味で必ず勝つのである。

世間では、会社と株主のために、リストラし、社員を契約社員や派遣社員に替え、給与や福利厚生(従業員の給与以外の利益)を削減し・・・等をフルに行って利益を確保することが、正しいことで、強い経営ということになっている。
しかし、真の意味では全く正しいことではなく、完全な間違いであり、その会社は確実に弱くなる。
正しくて強い会社というのは、「初めから」社員をリストラするつもりがなく、経営者と社員が平等な会社である。
ひどい会社になると、値段は同じままで、製品やサービスの品質を落とし、顧客の利益を少なくして利益を守ろうとするが、これは絶対勝てない弱い会社である。
もちろん、会社は利益がなければ成り立たないが、真に正しい方法で利益を得る者が正しく、そして、勝つのである。

世間では、手段を選ばずにライバルを蹴落として良い地位や利益を得た者を勝利者、強者と見る。
しかし、そのような者は、真の意味では敗者であり、弱者であり、いずれは、物質的、世間的にも惨めな姿を晒すことになる。
世間的には、敗者、弱者と見える者が、真の勝者、強者である場合もあり、その者は、現象界でも、やがて栄えるようになる。

よって、大切なことは、真に正しいこと、真に強いことを知ることで、それを知ったなら、真に正しい者、真に強い者を目指さなければならない。
そして、真の意味で正しいということは、真の意味で強いということであるのだから、ただ、真に正しければ良いのである。
自我(個別の心)には、真に正しいことが分からない。
自我には、真に正しいことは、間違ったことに思える。
自我には、真の意味で間違ったことが、正しいことに思えるのだ。
だが、真我は、正しいことを知っているのであり、それを自我につながった深い心に伝えてきているはずなのであるが、自我はそれを否定したり、無視したがるのである。
だから、自我が弱ければ、何が本当に正しいのかが分かる。
自我が真我に溶けこみ、あたかも消えたようになって、真我と一体化しているなら、常に正しく、常勝である。
稲盛和夫さんが、重要な決定の際は「私心なきか否か?」と問うらしいが、私心がないということは、自我が真我に溶けて、自我が弱くなっているので、真に正しいことが分かり、その真に正しいことに乗っ取れば勝つのは当然である。

稲盛さんがそうだとは言わないが、重要な判断の際は私心を捨て、正しく、強い人も、講演や著述は自我でやっていることが多く、その内容の多くは、むしろ間違いで、その通りにやった者は間違えてしまい、弱くなる。
だから、老子は「知る者は語らず」と言ったのだし、ラマナ・マハルシは沈黙で教えたのだ。
正しくなるには、まず、口で沈黙し、そして、心で沈黙することだ。
簡単に言えば、無駄口を叩かない、つまらないこと、余計なことは言わないことだ。
文句、恨み言、泣き言を言わず、愚にもつかない批評、批判をしないことだ。
一言で言うなら、「言い訳を絶対にしない」ことだ。
全ての悪い言葉、悪い想いは、「言い訳」なのだ。
あなたは、何をしても良いが、言い訳だけは許されないのだ。

『木枯し紋次郎』を読むと、紋次郎は決して言い訳をしないから強いということがよく分かるのである。
剣の腕そのものは紋次郎よりはるかに上の者でも、言い訳をするなら、必ず紋次郎に破れているのである。
小説の中でさえ、言い訳をしない者が勝つようにしか書けないのである。
これは興味深いことである。
それほど、言い訳をしないことの威力は大きいのである。

神は決して言い訳をしない。
言い訳をしない者が神である。
言い訳をしてはならないことを覚えているなら、自分が神であることを覚えていることである。
そして、言い訳をしないなら、即ち、自らが神なのである。
正しさ、強さの秘訣は、ただ、言い訳をしないことである。
「言い訳をしない」ことは魔法の杖のようでもある。
未熟であっても、極めて強力なアイテムである。
あなたは魔法の杖を手に入れた。
これからは常勝である。









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幼い女の子達がプリキュアになれない理由を知っておけ

いつも述べている通り、人間は、ふりをする通りの者になる。
真似をしている通りの者と言ってもよろしい。
では、なぜ、園児や小学生の女の子達はプリキュアにならないのだろう?
プリキュアシリーズは、もう10年ほどになるのだから、二十歳くらいまでの若い女性の多くがプリキュアになっていてもよさそうなものだ。
かつて、セーラー戦士達に夢中になった、現在、20代と思われる女性達は、セーラー戦士にならないならおかしい。

答は簡単で、彼女達はちゃんとふりをしていなかったのだ。
自分の気の向いた、1日のほんの僅かな時間、ふりをしていただけだ。
「ごっこ」をしている時は、自分がプリキュアであると主張していても、プリキュアらしくご飯を食べていなかったし、プリキュアらしくお風呂に入っていなかった。
プリキュアの自覚が無さ過ぎたのだ。
そんなことでは、ふりをしている、真似をしていることにならないのだ。
気分の良い時だけプリキュアの顔をするが、そうでなければ、ただの我がままっ子の顔だ。
もっと真面目にプリキュアのふりをしていれば、プリキュアになれたのだ。

ひろさちやさんの『空海入門』にも書かれている。
密教とは、仏陀の真似をすることだ。
仏陀の真似をすれば、即ち仏陀なのだ。
これが、まことに真実である。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしく飯を食い、仏陀らしく糞をしなければならないのだ。
そして、仏陀は顔が大事なのだ。
仏陀が間抜けな顔や、卑しい顔、意地悪な顔、自己満足に浸った顔、情けない顔をしたりはしない。
もし仏陀になりたいなら、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の、あの素晴らしいアルカイック・スマイルをいつも忘れてはならない。
常にあの顔でいるなら、即ち仏陀なのだ。

あなたは、幼児や小学生レベルであってはならず、真面目に、熱心に、なりたいもののふりをするのだ。
そのためには、「敵を欺くためには味方から」ではないが、自分で自分を、なりたいもののように思わなければならない。
ただし、あなたは妄想病の患者になるわけではない。
なりたいもののふりはしても、そうであることに執着してもならないのだ。
社長のふり、女優のふりをすれば良いのだが、どこかソフトタッチでもなければならない。
では、どうすれば良いのだろう?
簡単である。
その秘訣は、単に肩の力を抜くことだが、そのためには、人差し指を立てることが秘法である。
なぜなら、人差し指を立てると、肩の力が抜けるからだ。
そして、肛門を締めれば、もう執着することはできない。
これで、あなたはなりたいものになったも同然である。









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目標を紙に書く楽しい方法

あなたの職場や、学校のクラスなどで、目標を紙に書いている人がいるだろうか?
ほとんどの場合、一人もいないだろう。
だから、あなたの周囲の人達は、皆、平凡な人間なのだ。
営業マンの売上げが高いとか、学生の試験の成績が良いとか、スポーツが得意というのは、もちろん良いことではあるのだけれども、それはあくまで二次的(本質的な価値ではない)なことであり、なければないで別に良いことだ。

目標を紙に書かなければ、凡人の群から離れて高く飛ぶことは難しいばかりか、ほとんど不可能であると思う。
だが、あなたは、目標を紙に書くことに障害があるかもしれない。
学生であれば、目標を書いた紙を机の引き出しに入れておけば、あなたが学校に行っている間に、机の引き出しを開けて見ている助平な親は多いものだ。
そんな親は完全な凡人だから、その紙を見て奇異に思ったり、あなたを嘲るだろう。
一応は親なので、あなたは平気ではいられない。
また、紙を持ち歩けば、落としてしまうこともあるかもしれないし、あなたは格好良かったり、美少女だったりするので、あなたが持っているものに過剰な興味を持つストーカー的な者もいるだろう。

その場合の対策は、とりあえず2つある。
1つは、専用のPCやタブレットPCやスマートフォンがあり、それらが得意なら、目標を、ワープロやグラフィックソフトで作成して電子ファイル化し、PCやスマートフォンをパスワードなどでロックすることだ。
ただのメモ帳ソフトみたいなものでも悪くはないが、多少、見栄えが良い方が良いかもしれない。
Gmail等に書くという方法もあるが、中身は、システムかもしれないが閲覧されているかもしれないので、あまり気持ちよくない。
「私は、BMW 320iグランツーリスモのオーナーだ」と書いて、クラウドサービスやアプリに保存すると、Webサイト閲覧中に、やたらBMWの宣伝を目にするというのは、気分の良いものではないだろう。
そういったサービスをする会社の社員が、中身を勝手に閲覧して楽しんでいたり、業務上、目にすることもあるかもしれない(あると思って間違いない)。
また、無思慮にスマートフォンやタブレットPCのアプリをダウンロードしている人もいるが、それらのアプリがどんな権限を要求しているか、しっかり確認しておくことだ。
私は、基本的に、「どんな権限も必要としない」アプリしかダウンロードしないので、せいぜい数種類のアプリしかダウンロードしていない。
私個人のやり方で言うなら、PCのグラフィックソフトで目標を書いた文書をPNGやJPEG画像にし、タブレットPCとスマートフォンに転送して見ている。

だが、もっと簡単で、とても楽しい方法がある。
それは、目標を暗号化して書くことだ。
別に難しいことではない。
例えば、「私は年収1000万円だ」が目標とすれば、「NS 1000M」とでもすれば、誰にも分からない。
あるいは、英語的表現で「10M Y」(M=million、Y=year)とか、「ten M Y」とかでも良い。
言うまでもなく、年収5千万円なら「NS 5000M」「50M Y」「fifty M Y」等だが、自分で分かりさえすれば、好きなようにやれば良い。
尚、以前から何度も書いているが、目標は現在形・・・つまり、「私は年収一千万円だ」と書く必要があり、「年収一千万円になる」とか「年収一千万円欲しい」では駄目である。
理由は何度も書いたが、理由はどうでも良く、現在形(あるいは過去完了形と言う人もいる)で書くと覚えておくと良い。
暗号で書いた場合は、読む時に、必ず現在形にするのだ。
忘れそうなら、現在を示す「N(=Now)」などを付加すれば良いだろう。
これをカードに書いて持ち歩けば、落としたり、見られても問題ないので気楽だ。

目標を書いた紙(あるいはスマートフォン等の画像)は、なるべく、何回も取り出し、可能であれば、暗号を解いて声に出して読むことだ(現在形で)。
そして、朝起きてなるべく早くと、夜寝る前は、必ず声に出して読むことだ。
はっきり聴こえる声の大きさが望ましいが、難しければ、とにかく、口と舌を動かすことが大事だ。
また、紙に書けるなら、毎日、目標を書くと良いが、これも問題があるなら、指で机や空中に書くと良い。
あるいは、PCやスマートフォン等に書くという手もある。
書いたら消しても良い。手を動かすことが大事なだけだから。

そして、大切なことは、1年365日、朝晩、必ず読むことで、日中も、なるべく決まった時間に一度は書くことだ。
カードを取り出すのは、気が向いた時だけでも良いと思う。
もし、上記のことを、数日忘れるとか、カードを取り出すのが億劫に感じるなら、目標が良くないので、毎日、熱心にやれるものに変えると良い。
毎日、紙に書いた目標を読むことを、自分だけの掟にするのである。
だが、良くない掟は変えないといけない。
自分の掟なのであるから、変える権利は自分にあるし、必ず継続する掟を作る義務も自分にある。
これによって、自分が世界の所有者であることを実感し、同時に、本当の責任感も持つようになるだろう。

こんな良いことを誰もしていないのだが、あなたが特別な人間であるなら、これをやれば良いと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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