ラマナ・マハルシのような聖者達は、意識を外ではなく、内に向ける目的については、ただ、真の自己(真我)になる・・・即ち、悟りを開くためであると言い、何か物質的な利益があるとは言わなかった。
そして、それは確かに言わない方が良い。
物質的な利益を目的にしながら自己を探求していると、真の目的(真我の実現)を忘れ、あらぬ方向に行ってしまいかねない。
だが、あえて禁を破ったのは親鸞で、どれだけの相手に聴かせる気だったかは分からないが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることで、無窮(果てしない)利益を得られるという、いわば、本当のことを素直に言ってしまった。
念仏を称えれば、念仏に導かれて心は内に向かう。
本当は、念仏でも、南無妙法蓮華経でも、その他の呪文でも良く、感覚を外界から引き上げ、意識を内に向ければ良いのである。
ラマナ・マハルシは、最も効果があるのは、「私」という想念だけを持つことだと言った。
では、意識を内側に向ければどうなるのだろう?
人間の潜在意識には、計り知れない力があり、そこに刻み付けられたことは、天を動かし、地を揺るがしてでも実現してしまうことはご存知かもしれない。
意識を内側に向ければ、潜在意識に到達するのだが、そのことを潜水に喩えると良く分かる。
深い水の底が潜在意識だ。
内側に意識を向ければ、心は精神の深い海に潜り、潜在意識に達する。
それを何度もやっていれば、身体が海底に慣れるように、心は潜在意識に馴染んでしまうのだ。
そうなれば、潜在意識に望みを伝えることなど、いとも簡単なことになる。
滅多にはやらなかったが、ラマナ・マハルシだって、普通の人から見れば奇跡としか言いようのないことを、その気になれば即座にやれたという話はいろいろある。
それに、マハルシは、ほとんど何も所有しなかったとはいえ、願わずとも用意された立派な広いアシュラマム(道場)に、一生悠然と暮らし、常に平和そのものであった。
また、自分のものにしなかったとはいえ、世界中から豪華なプレゼントも沢山届いたし、マハルシのために、あらゆる奉仕、サービスを提供したい者は、若老男女、庶民から富豪、権力者まで、沢山いた。
これを豊かと言わずに何と言おう。
地上の魑魅魍魎(化け物)のような欲深い連中は、あの手この手で、あなたの注意を引き、あなたを食い物にしようと必死だ。
美食、スマートフォン、自動車、服、セクシーなグラビア、イケメン、金融、「お得ですよ」の言葉・・・
あなたは、そんなつまらないものに関心を持ってはならない。
ただ、拒否し過ぎてもいけない。
美食を求めてうろついてもいけないが、あまりに少食で空腹だと、食べ物に強い魅力を感じて、結局は惹き付けられてしまう。
あまり食べ物に興味を持たない程度に、清らかなものを適度に食べることだ。
同じように、一切を、ほどほどに求め、それによって、何物にも過度な関心を持たないことだ。
そして、心のエネルギーは内に向けるのだ。
念仏を称えたり、胸に意識を置いて「私」という想いに集中するのだ。
そうすれば、やがて、全ては魔法のように自在になる。
確実にそうなるが、その時に執着に囚われるという罠に落ちず、世界はお伽噺、あるいは、夢と見なすことだ。
本当に幸福なお金持ちの話をよく、「現代のお伽噺」と言うが、まさに言い得て妙(巧みな言い方であるという意味)である。
人生とはお伽噺であり、幸福なメルヘンにすれば良いのである。
聖者にとって、世界はマジックショーだと、昔から言われている。
そのためには、くれぐれも、外側の世界に過度に関心を持たず、全てを、悠然とした態度で、あるがままに静かに眺めることだ。
そして、注意は内側に向けるのだ。
仏典や聖典にはこう書かれている。
「なぜ、人々はそうしないのだろう?こんな簡単なことなのに」
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そして、それは確かに言わない方が良い。
物質的な利益を目的にしながら自己を探求していると、真の目的(真我の実現)を忘れ、あらぬ方向に行ってしまいかねない。
だが、あえて禁を破ったのは親鸞で、どれだけの相手に聴かせる気だったかは分からないが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることで、無窮(果てしない)利益を得られるという、いわば、本当のことを素直に言ってしまった。
念仏を称えれば、念仏に導かれて心は内に向かう。
本当は、念仏でも、南無妙法蓮華経でも、その他の呪文でも良く、感覚を外界から引き上げ、意識を内に向ければ良いのである。
ラマナ・マハルシは、最も効果があるのは、「私」という想念だけを持つことだと言った。
では、意識を内側に向ければどうなるのだろう?
人間の潜在意識には、計り知れない力があり、そこに刻み付けられたことは、天を動かし、地を揺るがしてでも実現してしまうことはご存知かもしれない。
意識を内側に向ければ、潜在意識に到達するのだが、そのことを潜水に喩えると良く分かる。
深い水の底が潜在意識だ。
内側に意識を向ければ、心は精神の深い海に潜り、潜在意識に達する。
それを何度もやっていれば、身体が海底に慣れるように、心は潜在意識に馴染んでしまうのだ。
そうなれば、潜在意識に望みを伝えることなど、いとも簡単なことになる。
滅多にはやらなかったが、ラマナ・マハルシだって、普通の人から見れば奇跡としか言いようのないことを、その気になれば即座にやれたという話はいろいろある。
それに、マハルシは、ほとんど何も所有しなかったとはいえ、願わずとも用意された立派な広いアシュラマム(道場)に、一生悠然と暮らし、常に平和そのものであった。
また、自分のものにしなかったとはいえ、世界中から豪華なプレゼントも沢山届いたし、マハルシのために、あらゆる奉仕、サービスを提供したい者は、若老男女、庶民から富豪、権力者まで、沢山いた。
これを豊かと言わずに何と言おう。
地上の魑魅魍魎(化け物)のような欲深い連中は、あの手この手で、あなたの注意を引き、あなたを食い物にしようと必死だ。
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あなたは、そんなつまらないものに関心を持ってはならない。
ただ、拒否し過ぎてもいけない。
美食を求めてうろついてもいけないが、あまりに少食で空腹だと、食べ物に強い魅力を感じて、結局は惹き付けられてしまう。
あまり食べ物に興味を持たない程度に、清らかなものを適度に食べることだ。
同じように、一切を、ほどほどに求め、それによって、何物にも過度な関心を持たないことだ。
そして、心のエネルギーは内に向けるのだ。
念仏を称えたり、胸に意識を置いて「私」という想いに集中するのだ。
そうすれば、やがて、全ては魔法のように自在になる。
確実にそうなるが、その時に執着に囚われるという罠に落ちず、世界はお伽噺、あるいは、夢と見なすことだ。
本当に幸福なお金持ちの話をよく、「現代のお伽噺」と言うが、まさに言い得て妙(巧みな言い方であるという意味)である。
人生とはお伽噺であり、幸福なメルヘンにすれば良いのである。
聖者にとって、世界はマジックショーだと、昔から言われている。
そのためには、くれぐれも、外側の世界に過度に関心を持たず、全てを、悠然とした態度で、あるがままに静かに眺めることだ。
そして、注意は内側に向けるのだ。
仏典や聖典にはこう書かれている。
「なぜ、人々はそうしないのだろう?こんな簡単なことなのに」
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