人気オリンピック選手が、特にテレビインタビューで、「金メダルを取ります」と言うのは、自分のためにも、見ている子供達のためにもやめたが良い。
ただ、熱心にやってもらえれば良い。
ロサンゼルスオリンピックで、難しい状況で体操男子個人総合で優勝した日本人選手が、彼自身は「神さんのおかげ」と言ったのに、テレビアナウンサーやマスコミは「執念の勝利」とか言い、書いたものだった。
熱心にやった結果、どうなるかは神様に任せるしかない。
そうであれば、たとえ望んだ通りの成績でなくても、悔し涙を流したり、精神不安定になって、現役を退いてほっとするようなこともない。
金メダルに執念を持ったり、執着したり、こだわったり(どれも同じ意味だが)すると、うまくいかなかったら、悲惨なことになる。
執念で金メダルを狙っていたりすると、たとえば、フィギュアスケートで、特に難しくもないところで転倒したりもする。
そりゃ、選手の中には、スポンサーの指示通り、「金メダルを取ります」と言っているだけの人もいるが、そんな時は、嫌々わざとらしく言っているのが分かる。だが、それを見ている人が、「素朴」「シャイ」と勘違いすることも多い(今の男子体操選手に、そんな人がいたような気がする)。
スポンサーなしにはできない状況なので、やむなく言うのだろうが、そんな人は、自分では結果に執着がない場合はうまくいくものだ。
しかし、やっぱり心は重く、どこか義務的にやっている気がして、スポーツを楽しんでいないのである。
そして、やっぱり、引退して初めて安らげるのだろう。
馬鹿げたことである。
たまたま、金メダルを例にしたが、我々も同じである。
何をやっても、ただ熱心にやれば良く、結果は神様にまかせる、あるいは、なりゆきにまかせれば良いし、そうするしかない。
失敗が許されない状況なんてものは作らないことだ。
しかし、見栄や欲のために、そんなハメ(失敗が許されない状況)になってしまった時でも、やっぱり、結果は神様にまかせるしかないのだ。
『バガヴァッド・ギーター』にもある通り、我々は結果を自分で決めることは決してできない。
神様にまかせきってしまえば、大抵は良い結果になるが、本当にまかせきっていれば、首尾よくいかなくても、心は爽やかである。
努力、克己(自己に打ち勝つ)なんてものは必要ない。
それは結果に執着している者がやることだ。
正しい人は、ただ熱心にやるだけだし、熱心にやれないようなことはしない。
結果には執着しているのに、熱心にやらないという人は非常に多い。
それは、サカサマの人生を送っている気の毒な人だ。
熱心にやるとは、1年365日、毎日、同じ時刻に同じ時間、決して1日も欠かさずにやることを言う。
それが努力とか克己と感じるなら、それは執念であり、執着であり、こだわりである。
毎日、決まった時刻にきまったことを必ずやる人に関して、周囲の人は、彼を大変な努力家だと思っているかもしれないが、本人は、自分は怠け者だと思っているものだ。
それで、彼が実際に、「素晴らしい努力ですね」「執念ですね」「根性ありますね」と言われると、誉められてはいるのだろうが、やはり本人は違和感があって、少しも嬉しくなく、むしろ、嫌悪感を感じてしまうのである。
例えば、毎朝6時に、念仏を称えると決めたとする。
千回称えるとかいうのは、執念である場合が多いように思う。
それはシンドイし、長続きしないし、無理に執着すれば、心が歪み、当然、念仏の効果もない。
しかし、10回なら熱心にやれるのなら、それを1年365日、1日も絶対に欠かさずにやれば、親鸞の言う通り、「この世の利益は無限」である。
肛門を締めながら行うクンバハカは素晴らしい効果があるが、「何回やればいいでしょうか?」と聞く者がいる。
クンバハカは、息を十分に吸って止めると同時に肛門を締め、そのまま数秒保ち、ゆっくり息を吐いて、また息を止めて肛門を締め、少しそのままでいるというもので、中村天風さんが教えたものである(下記にご紹介した書籍を参照して欲しい)。
何回やれば良いかというと、1回でもやれば良いとしか言えない。
回数ではなく、毎日、必ず、同じ時間にやることが大切と思う。
念仏だって、親鸞は1回でも良いと言ったのだ(称えなくても良いとも言っているが、これは深い意味があるので別とする)。
しつこく回数をやるのは、むしろ執着である場合が多い。
ラマナ・マハルシも、「私は誰か?」と問えとは言ったが、「呪文みたいに繰り返すな。1回で良い」と言ったことを、ちゃんと言ってくれている人はほとんどいない。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者である、ベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉には最大の威力があるので、声でも心の中でも良いから言えば良いと言ったが、やはり、何度もしつこく繰り返すなと言っている。
熱心にやることは努力ではないし、克己も不要だ。
楽なのだ。
執念を持って苦しいことをやれば自滅する。
ただ、楽でも熱心にやることだ。
尚、『ヒマラヤ聖者の生活探求』は、もちろん1巻から順に読むのが良いが、秘法満載の第5巻を単独に読んでも良いと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
ただ、熱心にやってもらえれば良い。
ロサンゼルスオリンピックで、難しい状況で体操男子個人総合で優勝した日本人選手が、彼自身は「神さんのおかげ」と言ったのに、テレビアナウンサーやマスコミは「執念の勝利」とか言い、書いたものだった。
熱心にやった結果、どうなるかは神様に任せるしかない。
そうであれば、たとえ望んだ通りの成績でなくても、悔し涙を流したり、精神不安定になって、現役を退いてほっとするようなこともない。
金メダルに執念を持ったり、執着したり、こだわったり(どれも同じ意味だが)すると、うまくいかなかったら、悲惨なことになる。
執念で金メダルを狙っていたりすると、たとえば、フィギュアスケートで、特に難しくもないところで転倒したりもする。
そりゃ、選手の中には、スポンサーの指示通り、「金メダルを取ります」と言っているだけの人もいるが、そんな時は、嫌々わざとらしく言っているのが分かる。だが、それを見ている人が、「素朴」「シャイ」と勘違いすることも多い(今の男子体操選手に、そんな人がいたような気がする)。
スポンサーなしにはできない状況なので、やむなく言うのだろうが、そんな人は、自分では結果に執着がない場合はうまくいくものだ。
しかし、やっぱり心は重く、どこか義務的にやっている気がして、スポーツを楽しんでいないのである。
そして、やっぱり、引退して初めて安らげるのだろう。
馬鹿げたことである。
たまたま、金メダルを例にしたが、我々も同じである。
何をやっても、ただ熱心にやれば良く、結果は神様にまかせる、あるいは、なりゆきにまかせれば良いし、そうするしかない。
失敗が許されない状況なんてものは作らないことだ。
しかし、見栄や欲のために、そんなハメ(失敗が許されない状況)になってしまった時でも、やっぱり、結果は神様にまかせるしかないのだ。
『バガヴァッド・ギーター』にもある通り、我々は結果を自分で決めることは決してできない。
神様にまかせきってしまえば、大抵は良い結果になるが、本当にまかせきっていれば、首尾よくいかなくても、心は爽やかである。
努力、克己(自己に打ち勝つ)なんてものは必要ない。
それは結果に執着している者がやることだ。
正しい人は、ただ熱心にやるだけだし、熱心にやれないようなことはしない。
結果には執着しているのに、熱心にやらないという人は非常に多い。
それは、サカサマの人生を送っている気の毒な人だ。
熱心にやるとは、1年365日、毎日、同じ時刻に同じ時間、決して1日も欠かさずにやることを言う。
それが努力とか克己と感じるなら、それは執念であり、執着であり、こだわりである。
毎日、決まった時刻にきまったことを必ずやる人に関して、周囲の人は、彼を大変な努力家だと思っているかもしれないが、本人は、自分は怠け者だと思っているものだ。
それで、彼が実際に、「素晴らしい努力ですね」「執念ですね」「根性ありますね」と言われると、誉められてはいるのだろうが、やはり本人は違和感があって、少しも嬉しくなく、むしろ、嫌悪感を感じてしまうのである。
例えば、毎朝6時に、念仏を称えると決めたとする。
千回称えるとかいうのは、執念である場合が多いように思う。
それはシンドイし、長続きしないし、無理に執着すれば、心が歪み、当然、念仏の効果もない。
しかし、10回なら熱心にやれるのなら、それを1年365日、1日も絶対に欠かさずにやれば、親鸞の言う通り、「この世の利益は無限」である。
肛門を締めながら行うクンバハカは素晴らしい効果があるが、「何回やればいいでしょうか?」と聞く者がいる。
クンバハカは、息を十分に吸って止めると同時に肛門を締め、そのまま数秒保ち、ゆっくり息を吐いて、また息を止めて肛門を締め、少しそのままでいるというもので、中村天風さんが教えたものである(下記にご紹介した書籍を参照して欲しい)。
何回やれば良いかというと、1回でもやれば良いとしか言えない。
回数ではなく、毎日、必ず、同じ時間にやることが大切と思う。
念仏だって、親鸞は1回でも良いと言ったのだ(称えなくても良いとも言っているが、これは深い意味があるので別とする)。
しつこく回数をやるのは、むしろ執着である場合が多い。
ラマナ・マハルシも、「私は誰か?」と問えとは言ったが、「呪文みたいに繰り返すな。1回で良い」と言ったことを、ちゃんと言ってくれている人はほとんどいない。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者である、ベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉には最大の威力があるので、声でも心の中でも良いから言えば良いと言ったが、やはり、何度もしつこく繰り返すなと言っている。
熱心にやることは努力ではないし、克己も不要だ。
楽なのだ。
執念を持って苦しいことをやれば自滅する。
ただ、楽でも熱心にやることだ。
尚、『ヒマラヤ聖者の生活探求』は、もちろん1巻から順に読むのが良いが、秘法満載の第5巻を単独に読んでも良いと思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
