ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

努力嫌いの怠け者で良い

人気オリンピック選手が、特にテレビインタビューで、「金メダルを取ります」と言うのは、自分のためにも、見ている子供達のためにもやめたが良い。
ただ、熱心にやってもらえれば良い。
ロサンゼルスオリンピックで、難しい状況で体操男子個人総合で優勝した日本人選手が、彼自身は「神さんのおかげ」と言ったのに、テレビアナウンサーやマスコミは「執念の勝利」とか言い、書いたものだった。
熱心にやった結果、どうなるかは神様に任せるしかない。
そうであれば、たとえ望んだ通りの成績でなくても、悔し涙を流したり、精神不安定になって、現役を退いてほっとするようなこともない。
金メダルに執念を持ったり、執着したり、こだわったり(どれも同じ意味だが)すると、うまくいかなかったら、悲惨なことになる。
執念で金メダルを狙っていたりすると、たとえば、フィギュアスケートで、特に難しくもないところで転倒したりもする。
そりゃ、選手の中には、スポンサーの指示通り、「金メダルを取ります」と言っているだけの人もいるが、そんな時は、嫌々わざとらしく言っているのが分かる。だが、それを見ている人が、「素朴」「シャイ」と勘違いすることも多い(今の男子体操選手に、そんな人がいたような気がする)。
スポンサーなしにはできない状況なので、やむなく言うのだろうが、そんな人は、自分では結果に執着がない場合はうまくいくものだ。
しかし、やっぱり心は重く、どこか義務的にやっている気がして、スポーツを楽しんでいないのである。
そして、やっぱり、引退して初めて安らげるのだろう。
馬鹿げたことである。

たまたま、金メダルを例にしたが、我々も同じである。
何をやっても、ただ熱心にやれば良く、結果は神様にまかせる、あるいは、なりゆきにまかせれば良いし、そうするしかない。
失敗が許されない状況なんてものは作らないことだ。
しかし、見栄や欲のために、そんなハメ(失敗が許されない状況)になってしまった時でも、やっぱり、結果は神様にまかせるしかないのだ。
『バガヴァッド・ギーター』にもある通り、我々は結果を自分で決めることは決してできない。
神様にまかせきってしまえば、大抵は良い結果になるが、本当にまかせきっていれば、首尾よくいかなくても、心は爽やかである。
努力、克己(自己に打ち勝つ)なんてものは必要ない。
それは結果に執着している者がやることだ。
正しい人は、ただ熱心にやるだけだし、熱心にやれないようなことはしない。
結果には執着しているのに、熱心にやらないという人は非常に多い。
それは、サカサマの人生を送っている気の毒な人だ。
熱心にやるとは、1年365日、毎日、同じ時刻に同じ時間、決して1日も欠かさずにやることを言う。
それが努力とか克己と感じるなら、それは執念であり、執着であり、こだわりである。

毎日、決まった時刻にきまったことを必ずやる人に関して、周囲の人は、彼を大変な努力家だと思っているかもしれないが、本人は、自分は怠け者だと思っているものだ。
それで、彼が実際に、「素晴らしい努力ですね」「執念ですね」「根性ありますね」と言われると、誉められてはいるのだろうが、やはり本人は違和感があって、少しも嬉しくなく、むしろ、嫌悪感を感じてしまうのである。

例えば、毎朝6時に、念仏を称えると決めたとする。
千回称えるとかいうのは、執念である場合が多いように思う。
それはシンドイし、長続きしないし、無理に執着すれば、心が歪み、当然、念仏の効果もない。
しかし、10回なら熱心にやれるのなら、それを1年365日、1日も絶対に欠かさずにやれば、親鸞の言う通り、「この世の利益は無限」である。
肛門を締めながら行うクンバハカは素晴らしい効果があるが、「何回やればいいでしょうか?」と聞く者がいる。
クンバハカは、息を十分に吸って止めると同時に肛門を締め、そのまま数秒保ち、ゆっくり息を吐いて、また息を止めて肛門を締め、少しそのままでいるというもので、中村天風さんが教えたものである(下記にご紹介した書籍を参照して欲しい)。
何回やれば良いかというと、1回でもやれば良いとしか言えない。
回数ではなく、毎日、必ず、同じ時間にやることが大切と思う。
念仏だって、親鸞は1回でも良いと言ったのだ(称えなくても良いとも言っているが、これは深い意味があるので別とする)。
しつこく回数をやるのは、むしろ執着である場合が多い。
ラマナ・マハルシも、「私は誰か?」と問えとは言ったが、「呪文みたいに繰り返すな。1回で良い」と言ったことを、ちゃんと言ってくれている人はほとんどいない。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者である、ベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉には最大の威力があるので、声でも心の中でも良いから言えば良いと言ったが、やはり、何度もしつこく繰り返すなと言っている。

熱心にやることは努力ではないし、克己も不要だ。
楽なのだ。
執念を持って苦しいことをやれば自滅する。
ただ、楽でも熱心にやることだ。
尚、『ヒマラヤ聖者の生活探求』は、もちろん1巻から順に読むのが良いが、秘法満載の第5巻を単独に読んでも良いと思う。









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現代の秘密警察に十二分になりうる者

秘密警察といえば、ナチスドイツのゲシュタボや、後にこれを吸収した国家保安本部を思い出す人もいると思う。
それは、国民の言動を見張り、国家の思想に反している者がいないか取り締まり、盗聴、脅迫・拷問などによる自白、密告の奨励などで不満分子を狩り出して消す、権力の手先であるというイメージは何となくお持ちと思う。

だが、今、初音ミクさんの人気曲『秘密警察』を聴くと、本当にゾっとする。
なぜなら、これが現実になり得るからだ。

無駄だぞ! オマエは見張られてる どこへ逃げようとも
国家の転覆 企む輩を 決して 我らは 逃しはしない
オマエの すべての 行動パターン 把握している 何もかもをな!
<中略>
朝から 晩まで オマエを 監視する(みる)×4
<中略>
来る日も 来る日も オマエを 調査する(みる)×4
<中略>
朝から 晩まで オマエを 監視する(みる)×8
~『秘密警察』(作詞、作曲、編曲:ぶりるP、歌:初音ミク)より~

これを本当にやれるのはGoogleだ。
いや、冗談を言う気はサラサラない。
Googleのモットーは "Don't be evil" (悪いことはするな)であるらしい。
だが、もしこれが本当でなければ、Googleは世界を恐怖に陥れる力がすでにあり、世界征服も可能である。

Googleで検索する際には、Googleが提示する予測検索語で、大抵間に合ってしまう。
Googleは「お前の知りたいことなんか、最初から分かっているよ」と言っているのである。
思想家、批評家の(というより、私には、初音ミクの『イニシエーション』の作詞者の)東浩紀氏(東大学術博士)は、
「ネットを触っているかぎり、他者の規定した世界でしかものを考えられない。そういう世界になりつつあります」
と述べている(東浩紀著『弱いつながり』より)。
それだけではない。
こんなことが、もう本当に起きている。
私は、関西在住だが、私のスマートフォンのグーグルナウ(Googleのタブレット端末用サービス)が、「伊藤さんが、後39分で関空に到着します」と知らせて来る。
だが、伊藤さんが北海道から関西に来るということは、私も伊藤さんもGoogleに教えても、登録してもいない。
Googleは、私と伊藤さんのネット上の行動を収集して予測し、私に知らせるのが適切と判断して、それを実施したのだ。
Googleは、情報収集、ビッグデータ解析等により、世界、国家、地域、個人の動向を正確に予測し、管理することができ、さらにその精度を無限に高めつつある。
データ収集の手段は、Google検索以外にも、Gmail、SNSはもちろん、スマートフォンに普通17個も入っているセンサー、そして、これらからは、ウェアラブルコンピューター(メガネや時計等と一体化したモバイルコンピュータ)から、我々の情報は、Googleや、その他の巨大IT企業に吸い取られていくのである。

Googleが、「我々は悪いことをしないから大丈夫」なんて言って、それを信用できるだろうか?
私は、Googleを疑いもしないが、信用もしない。
合衆国政府も、Googleを信用する訳にはいかないようで、個人データ収集に制限を設ける法案を可決したが、Googleが命令に従っていることを確認することは、おそらく不可能だ。

ただ、私にはどうでもいいことだし、どうにもできない。
とはいえ、ゾッとすることだけは確かである。
私は、紋次郎にはなり切れないようだ。









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若くあるためのエネルギーを増大させるには

好きな年齢で老化を止められるとしたら、あるいは、若返るとしたら、何歳になりたいだろうか?

数世紀に渡って現存したといわれるインドの超人ヨギであるババジは、見方にもよるが、パラマハンサ・ヨガナンダの自伝によれば、25歳の際立った美しい青年であったようだ。
ただ、ババジが人間として過ごした時代のインドでは平均年齢が30歳にもならなかったことも考慮しないといけない。だから、現代のババジは35歳くらいに見えたという話もある。
フランスのサンジェルマン伯爵も数十年かそれ以上に渡って老化しなかったというが、彼は、若さと貫禄が両立する45歳位の容姿を選んだとも言われる。ただ、『ヒマラヤ聖者の生活探求』によれば、彼は死んではおらず、いまだ生きているのではないかとも思われる。もしそうなら300歳以上となる。
アダムスキーの著書によれば、進化した宇宙人の容姿は、それぞれではあるのだが、多いところでは、男性は30歳少々、女性は20歳少し前といった若さで、地球でいう数百年を送るのであるらしい。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、数百年に渡って生存する人々の容姿は、それよりはやや幅広いものであるらしい。
アメリカの調査隊と親しく接していた大師(だいし。超人とか師とかいった意味)達は、50歳くらいの外見であったが、その母親は幼さの残る絶世の美少女であり、概ね、女性に関しては10代後半の容姿の者が多いように思える。また、男性でも、20歳くらいの青年の姿をした大師もいる。
イエス、釈迦も、気高くはあっても、力強く美しい青年の姿で登場する。
中国の仙人伝説においても、仙人は、男性では、老人はあまりいないが、40代くらいの容姿の場合が多く、女性の場合は15歳から20歳くらいの姿でいるようである。

ロマンある話ではあるが、もし、これらが空想であるとしたら、人類的に、男性の場合は、若さを残しながらも貫禄があり、思慮深い年齢を理想とし、女性の場合は品格を重んじながらも、若さが尊ばれる傾向があるのだと思う。
実存した長南年恵(ながおさとしえ)という明治時代の女性は、生涯(43歳没)18歳から20歳くらいの容姿を保ち、性質も少女のようであったといわれている。

事業家で文筆家、講演家の斎藤一人さんは、自分は200歳まで生きると言う。「私が子供の頃は80歳まで生きると言ったら笑われた。しかし、今はそれが普通になっている。それなら私は200歳まで生きる」といったことを著書に書かれている。しかし、ヨボヨボの老人になって200歳まで生きても楽しくはないだろう。やはり、せめて50代の若さを保ってでありたいと思う。

男も、若いうち、あるいは、精神が未熟な間は、10代の若さを保ちたいと思うのだと思うが、いわゆる社会で苦労すると、ある程度の貫禄や、深い人間性と思慮を備えた年齢であることを重んじるようになり、大人向けの映画の男性の登場人物では20代よりは30代後半以上のヒーローの方が格好の良いものだ。
一方、女性の場合は、映画などでも、キャリアを積んだ格好の良い女性も数多いが、例えば、『ネバーエンディング・ストーリー』の幼心の君のように、いつまでも少女の姿でいるヒロインは少なくない。
初音ミクも2007年の登場からずっと16歳である。(ただ、実際は12~15歳くらいの雰囲気で描かれることも多いのだが。)

それぞれが、自分の理想とする年齢はあるだろうが、自分の容姿を自在に決める能力を持つ者はほとんどいない。
ヨーガや仙術では、若さは、肛門を締まる強さだと言われることが多く、年齢と共に、肛門を締める力が弱くなる。
しかし、それは鍛えられるのであり、常に肛門を締めることを心がけたり、特別に肛門を締める訓練をすることで、生命力を高め、若さを保つことができるし、若返ることも可能かもしれない。
また、関英男博士によれば、人間は生まれた時に持っているある特殊なエネルギー(粒子でもある)は、年を取るごとに少なくなっていくが、呼吸数の減少と腕振り運動で増やすことが可能と言うので、深く静かな呼吸をし、腕振り運動を熱心にやることで若くなるようである。
関博士も、90歳を過ぎても元気で世界中を飛び回り、毎日、海外から論文を取り寄せて熱心に研究し、彼を懐疑的な目で見る者から見ても、頭は全くボケておらず聡明であったらしい。

ただ、肉体や思考能力は若者に優っても、容姿には苦労が刻まれるものである。
人を老化させる苦しみとは、憎んだり、妬んだり、悲しんだりすることで、釈迦によれば、これらは全て、執着、こだわりから起こる。
よって、肛門を締めると共に、執着を離れることで若くなる。
そこで、是非とも注意したいことは、肯定的な意味でのこだわりなんてものはなく、それは、熱心にやるということのいい間違いである。
こだわることと熱心にやることの違いは、こだわりでは、結果を自分の力でなんとかしようとするが、熱心にやるというのは、結果は神にまかせるということである。両者は天地ほどの違いがある。
こだわる者は老化するが、熱心なものはいつまでも若いのである。









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「私は私」の真の意味

日本語でも英語でも「私は私」、「あなたはあなた」という言い方をする。
それは、普通には、「私(あなた)は、他の誰とも違う、独特の個性を持った個人である」という意味であると思う。
「私(あなた)は、特別である」
「私(あなた)は、ユニークである」
ということで、『世界に一つだけの花』であるということなのだろう。

ところが、不意に現れた見知らぬ人に、
「お前は誰だ?」
と尋ねると、その者が、
「私は私だ」
と答えるなら、それはおかしいことになる。
つまり、身分を尋ねられている時に、
「私は私」
と言ったり、記憶喪失で自分が誰か分からない相手に、
「君は君」
と言うのは不適切である。

しかし、身分を問われて、「私は私」と言った相手に、
「それは答えになっていない。ちゃんと答えろ。お前は誰だ?」
と再度尋ねたら、その者がこう言ったとしたらどうすれば良いだろう?
「私は私だ。他に言い様がない」

確かにそうだ。
他に言い様がないじゃないか?
世界に一つだけの花でも何でもない。
私は私なのだ。
そして、「お前」なんてものは定義のしようがない。

それはこういうことだ。
『2001年宇宙の旅』で、あるサルは、棒状の骨を握って戦う知恵を持った。
しかし、本当は、それだけでは駄目だ。
それなら、ただのサルでもやるかもしれない。
だが、サルは振り回すのに適当な棒は見つけても、その棒で別の棒を叩いて、適切な長さにすることはできない。
石器を使うことはサルにも出来ても、石器で石を砕いて、別の目的に合う石器にできるのは人間だけだ。
人間にとって、新しい道具は、古い道具を内包してしまうのだ。
それは、自転車を発明する際に、タイヤの発明を、さタイヤを発明する時に、ゴムの発明を内包するようなものだ。

そして、「私は私」の、後の「私」は、初めの「私」を内包しているのだ。
古代からの聖者達の誰も、これを説明しなかったのだ。
いかな聖者でも、頭脳という点では人間だ。
このことに気付かなかったのだろう。
ところで、「お前はお前」というのは、おかしな言葉だ。
「お前」は「私」に内包されるのである。
弟子が師に、生徒が教師に内包されるようなものだ。
しかし、同時に、師は弟子に、教師は生徒に内包されるのである。
「私」と「お前」の区別はない。
それを実感するには、「私は私以外に言い様がない」ことを知らねばならない。
あらゆる「私」は「私」に内包される。
古代から、蛇が自分の尻尾をくわえる絵がある。
蛇は、尻尾というよりは、自分をくわえているのだ。
「お前は誰だ?」
と尋ねるのは、蛇に、
「お前がくわえているものは何だ?」
と聞くようなものだ。
蛇には、「私」としか言い様がないのである。

分からなくても良いから、頭の片隅にでも置いておくと、ある日突然、「点と点がつながり」、不意に悟りを得るだろう。
その時に得る力は計り知れない。
この理解のために役立つと思える叡智の書と文学をご紹介しておく。









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柔らかい心に世界はどう映るか

世間の人々は、奇跡が起こっても見過ごしてしまう。
何かに囚われていて、心が鈍ってしまっているからだ。
本当なら、魂が揺すぶられ、心が震えて、自分の心が宇宙の心に溶け込んでしまうほどのことなのに、つまらないことに目を奪われて、全く気付かずに過ごしてしまうのだ。
心を敏感にして、意識的に生きていれば、人生は奇跡の連続だということが分かる。
ところが、学校が懲罰的な方法で子供達の注意を奪い、心を硬くさせて感受性を奪い、9歳か10歳にもなれば、大切なことを何も分からないようにしてしまうのだ。
だが、世界を意識的に眺めるようになれば、やっぱりこの世は神秘なものだと気付くのだ。
多少、ぼうっとした感じで、利害打算を捨て、何事にも囚われずに、心を自在に流れるままにしておけば、世界の神秘的な動きを感じるし、心と宇宙全体が呼応していることが分かるだろう。
そうすれば、ビートルズの『Nowhere Man』(日本語では『ひとりぼっちのあいつ』と訳されていると思う)にあったように、「The world is at your command」(世界は君の意のままなんだ)だと確信するだろう。

私は7つの時、車の多い道路を渡る時は車を消し、初めて天体望遠鏡を持った9つの時は「どれが土星だい?」と問えば、土星の方から教えてくれたし、「○○時に雨が降らないかな」と思えば、急に空が暗くなって雨が降った。
私がいつも目をつぶって道路に飛び出すのを、私の姉は肝を冷やして見ていたと後で聞いたが、私に注意をしなかったところを見ると、それでも私は大丈夫だと感じていたのだろう。

大人になれば、誰でも程度の差はあっても分別臭くなってしまっていて、心を丸ごと宇宙に投げてしまうことは難しいので(無になれないということ)、崖から飛び降りるような無茶をやってはならないが、思い切って捨て身になれば・・・本当に身を捨てていれば、何でも思い通りになるものだ。
肛門を締めれば締めるほど、余計な思慮や分別を壊し、本当に必要な思慮を払い、直感的な判断をし、世界を生き物だと認識する。
スティーブ・ジョブズは、「あらかじめ点と点をつなげることはできない。後で分かるだけだ」と言ったが、肛門を締めることを忘れなければ、点と点のつながりを感じ、今の点の尊さ、愛しさ、面白さを感じるようになる。
なぜなら、若いということは肛門を締める力が強いことであり、肛門を締めるよう気をつけていれば生命力が強くなるからだ。
そうなれば、世界は、元々、意のままなのだということが分かるし、当然ながら、意のままになる。
初音ミクの『Tell Your World』のように、「たくさんの点は線になって 遠く彼方へと響く 」「いくつもの線は円になって 全て繋げてく どこにだって 」というのが見えてしまって、世界はマジックショーのようで面白いと感じるに違いない。
そして、そのシナリオは自分で書いていて、自作自演の劇をやっているようなもので、世界は自分の遊び場になってしまうだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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