ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年04月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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英語よりプログラミングの勉強を勧める訳

私はこれまで、自分がやってきたコンピュータープログラミングというのは、特殊な技能なので、これを人に勉強することを勧めるのは気が引けるところがあったのだが、どうもそうではなくなってきたし、元々そうではなかったのだと思う。
プログラミングは誰でもできないといけないし、少なくとも、今後の世の中ではそれができることが、あらゆる意味で有利なことになる。
だが、そうは言っても、多分、認めない人は多いと思う。
そんな人は仕方がない。
コンピュータープログラミングを学ぶ必要などないと主張する人の考えを変えることは極めて困難だし、私もそれをするつもりはない。

ところが、英語を学ぶ必要があると思っている人は非常に多いと思う。
あなたの身の回り、会社の同じ部署の中でも、かなり英会話が堪能という人も珍しくはないと思う。
しかし、それが本当に実益になっているだろうか?
それによって、その人は本当に自分の価値を高めているだろうか?
その人が、何かの分野のスペシャリストである場合を除き、そんなことは決してないと思う。
なまじ英語ができるので、ちょっとした使い走りみたいなことをやらされたり、翻訳を押し付けられたりはしても、英語しかできないなら、責任ある仕事をさせられるはずがない。
また、日常の会話くらいなら、中学英語で十分で、相手がいればすぐに話せるようになれるだろう。

ところが、プログラミングは、すぐに役に立つし、正しいプログラミングの仕方を学んでいれば、IT全体の理解が深まるだけでなく、思考能力自体が高くなるので、そのメリットは計り知れない。
ただ、プログラミングがすぐに役に立つと言っても、事務や営業をやっている人がJavaやC言語の勉強をしても仕方がない。
現在で言えば、マイクロソフトExcelやAccessのVBA言語を学ぶべきである。
また、言うまでもなく、プログラミングができる人がみんな賢い訳ではない。
それどころか、安月給に甘んじている多くの職業プログラマーは、いい加減なプログラミングを身に付けている場合が多く、むしろ普通の人より思考法に欠陥がある場合が珍しくはない。

確かに、PerlやRubyなどのWeb開発用のプログラミング言語は素晴らしいところがあるのだが、これらを使うには、HTMLやCSSを習得する必要があるし、実用にしようと思えば、データベースシステムの使い方や、SQL言語も必要だ。さらに、セキュリティを守るテクニックも必要で、正直、2年や3年で一人前になれるものではない。
JavaやObjective-C言語でスマートフォンやタブレットPCのアプリを開発するのは面白いが、面白いというだけに終わる場合がほとんどだ。そういったことは、むしろ、ライフイズテック社などがやっているように、小学生や中高生に薦めたいと思う。若い人なら、時間があるので、適性があれば、将来、そういった分野で専門技術者になれる可能性があるからだ。
そして、そんな若い人の場合でも、ExcelのVBA言語を学ぶことは価値があると思う。
さっき名前を挙げたライフイズテック社もそうだし、教育大手のベネッセでは、MIT(マサチューセッツ工科大学)の学習科学の権威ミッチェルレズニック教授が開発したScratch(スクラッチ)でプログラミングをすることを教育しているが、私は、それよりも、ExcelとVBA言語をやる方が良いと思うのである。
Excelは12,000円くらいするが、学生なら8,600円くらいで買えると思う。

また、VisualBasic2010 Expressは無料だが、最新のVisualBasicがほとんど丸ごと使える。しかし、普通の人がこれを実用にするのは程遠い。
ViaualBasic20XXなどの、VisualStudio20XXは、やはり、大規模な、セキュリティ上も危険な場所で使えば良く、普通の企業では、ほとんどの場合、基幹システムでもAccessかExcelで作る方がはるかに効率が良く、実際的と思う。

プログラミング習得のコツは、本を眺めるのではなく、手を動かすこと・・・タイピングすることである。
そして、高速で正確なタイピングができるよう練習することが大事だ。
前にも書いたが、普通の人が驚くほど、タイピングが速く正確になれば、プログラミングはマスターしたも同然である。これは本当だ。









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敵は共にあるべきである

いやな奴が消えるとほっとする。
しかし、それで後ろめたい気持ちになることがある。
私も、会社の中で、「苦手」なんてものではない、ほとんど憎んでいた者が、会社を辞めたことが(全ては憶えていないが何度か)あった。
事前に全く知らない中で、彼が、「今日で辞めます」と挨拶に来た時には、正直に言って、本当に嬉しかった。
独断的で傲慢な人間だと私は感じていたし、私よりずっと上の立場で、何かと私を攻撃してくるので、私はひどく煩わしく思っていたのだ。
だが、自分の嬉しいという想いに、後ろめたい気持ちもあった。辞めることになった事情は知らないが、彼の表情や雰囲気にどこか虚しさみたいなものを感じてもいたのだ。
普通に考えたって、いい年で、いい立場で辞めるのであるから、あまり結構な事情でないことくらいは分かる。

ところで、手塚治虫さんがまだいくらか若かった頃だとは思うが、彼が既に、日本一の漫画家と認められていたと思われる時の話だ。
福井英一さんという漫画家の人気が出てきて、彼は手塚さんの地位を追い抜いてしまう。
手塚さんは悔しくて、つい著作の中で、福井さんの作品を貶すようなことを書いてしまった。ところが、それを福井さん本人に気付かれてしまい、彼に問い詰められ、白(しら)を切ることもできなくなり、素直に謝ったという。
だが、福井さんは、過労のために急死してしまった。
手塚さんは、自伝的な著書の中で、その時のことを「ほっとした」と正直に告白されていた。なかなか言えることではないと思う。
ただ、手塚さんが、それをあえて書く気になったのは、福井さんが自宅に手塚さんの作品を全て揃えてあったことや、「俺は手塚を超えたとは思っていない」と言っていたことを、福井さんと親しかった人から知らされたこともあったのかもしれない。

あなたも、いやな奴の1人や2人はいると思う。
そんな時、どうすれば良いのかというと、手塚さんにすら言ってやりたかったほどだが、共にあるべき、共存すべきなのだ。
免疫学者の藤田紘一郎さんが昔、ある貧しい発展途上国に研究のため滞在した時のことだ。そこでは、排泄物を直接川に流していた(あるいは、川で排泄していた)のだが、住民は、その川の水で、食器など、あらゆるものを洗い、その水で料理もしていた。
子供達は、その中で遊んでいた。
想像するのも嫌な光景だが、不思議と病気の人はあまりおらず、清潔な日本と違い、アレルギーの子供なんて1人もいない。
調べてみると、確かに大腸菌はうようよいたが、特に病原菌が多いわけではない。
つまり、大腸菌と病原菌が共存し、お互い、相手を抑えているのである。
また、そこでは、人間が、大腸菌や病原菌と共存しているのだともいえる。
O157という大腸菌が猛威を振るった場所というのは、他の大腸菌がいない、清潔な場所だけだったらしい。
無菌状態になっていた学校の中で、特に惨事を引き起こしたのであるという。
少々不潔で、他の大腸菌がいれば、O157は本来弱い菌なので消えてしまうようだ。

いろいろ考えてみると、この世は、敵も味方も共存すべきだし、絶対的な敵や味方はいないのだろう。
CLAMPという人気のある漫画家ユニット(女性4人)が、昔(武内直子さんのセーラームーンの時代)、『魔法騎士レイアース』という作品を描き、アニメ化もされていたが、この漫画における主題は「この世に、絶対的な正義や悪などはない」ということだったらしい。

昔、SFテレビドラマ『Xファイル』を時々見ていたが、その中で、FBIの「Xファイル課」に身を置きつつ、時に、FBIに反逆するような行動をするモルダーに対し、FBI長官はモルダーを放置していた。
その理由について、FBI長官が言った一言が強烈に私の心に刻まれた。
それは、
「友は身近にいて欲しい。だが、敵はもっと身近に置くものだよ」
である。









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本当の笑顔はいかなる状況も変える

いつも憂鬱な顔・・・つまり、渋ちんな顔をしている者は、運が悪いし、能力も発揮できず、引き立てもなく、何をやってもうまくいかない。
また、いつも寂しい顔をしている者は、美女や美男なら絵になるということもあるかもしれないが、いずれにしても、やっぱり残念な状況、結果にしかならない。
だが、いつもニコニコと笑顔でいる者は、少々阿呆でも、馬鹿でも、間抜けでも、要領が悪くても、あるいは、無責任な者や、根性のない者ですら、それなりに良い流れに乗るものである。

ところで、昔から、「日本人は、意味のない奇妙な笑顔をする」とよく言われていたし、現在でも、日本人にはやはりそんな人が多いと思う。
しかし、別に意味のない笑顔でも良いのだ。
ただし、相手が消えたら、すぐに憂鬱な顔や険悪な顔にならなければね。

無理にでも笑顔を作れば、元気が出て、健康にもなると言われることもあるが、それは絶対に本当だ。
ただし、いつもそうでなければならない。
そして、1つだけ注意するなら、冷笑とか、見下すような傲慢な笑顔を決してしないことだ。
それは、本当は笑顔ではないのだ。
似て非なるものである。
いや、似てもいない。
それは、復讐を遂げた時の鬼面が笑顔でないようなものだ。
笑顔とは無償の行為だ。
だから、宝くじが当った時の笑顔は、バターに対するマーガリンのようなもので、似てるし、美味しいが、身体に対する作用は全然違う。
マーガリンは、味付きのプラスチックなのだ。
身体に良いはずがない。
得をして「しめしめ」と思いながら作るいやらしい顔が、運命を良くするはずもない。

スポーツの試合で勝った時の笑顔も気をつけないといけない。
負けた相手のことを考え、静かに微笑むべきなのだ。
柔道の試合で勝ち、負けた選手の目の前で、ガッツポーズを取りながら喜色満面していたオリンピックチャンピオンがいたが、彼のその後は何も良いことはない。
笑顔を改めない限り、墓に入るまでそのままだ。

無理にでも笑顔を作れば、幸運もやってくる。
私は、車の運転に慣れない頃、仕事でほとんど知らない道を走り、あっという間に迷ってしまったことがある。
相手には、「必ず15時までに来てくれ」と言われていたのに、相手の会社にたどり着く手がかりが全くないまま、その時刻が近付く。
泣きたい気分であった。
呼吸法をやっても、全く落ち着かない。
しかし、無理に笑顔を作ったら、すっと落ち着き、何か予感が走り、気が付けば、目の前に目的の会社の看板があり、15時30秒前に部屋に入れた。

可愛い猫を見る時のような笑顔を作るのだ。
いつもね。
壮大な自然の風景を見て荘厳な気分になった後、静かに溢れてくる喜びの感情と共にある笑顔はさらに高級だ。

江戸末期の神道家、黒住宗忠は、難病に苦しむ者に、笑う練習をするよう指示したことがある。
その相手は、長い病気ですっかり陰気になってしまっていて、なかなか笑うことができない。
しかし、練習をしているうちに、ついに、心から笑えるようになると、病気は治ってしまったという。

失敗した時や、望む結果が出なかった時でも、笑えば楽しくなるものだ。
そして、笑うことで流れも変わってくる。
すると、結局は、失敗したことが良いことだったことも分かることになる。
笑うことを忘れなければ、不幸になることはないだろう。
ただし、上に述べた注意を忘れないように。









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達人への道

どんなことでも、それを習得したければ、常にそれに触れておかなければならない。
肌身離さずということだ。
イタリアのサッカーの指導者が、「うまくなりたいなら、子供の時から、なるべく長い時間、サッカーボールに触れることが大切だ」と言うのを聞いたことがあるが、それが原則である。
外国語を話せるようになりたければ、その外国語を常に見、聴いていなければならない。

ただ、勉強しようとか、憶えようとかは考えてはならない。
そんなことを考えると、目標そのものではなく、目標を達成すると得られる報酬や栄誉のことを考えてしまうようになるが、それは熟達への障害なのだ。
どんなことも、「無報酬の行い」が、神の助けを受ける唯一の方法なのである。

真の目的とは何かというと、それと一体化することだ。
ヴァイオリンを上手く弾けるようになるということは、ヴァイオリンと1つになるということである。
そのためには、ヴァイオリンがいつも側になければならない。
離れている時間が長ければ、それと1つになることができるはずがない。
化学の真髄を掴みたければ、少なくとも、化学の本を肌身離さずに持っていなければならない。
ある高校生が、修学旅行の時も、プログラミング言語であるC言語の本を持ってきていたが、彼はしばらくしたら、やはりC言語でプログラムをうまく書けるようになっていたのである。
あるサラリーマンは、ジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』を常に手元においていた。莫大な富を掴むといったことは本人が望まなかったので、そんなものは持たなかったが、贅沢な望みはいつも叶えているのである。

神を知りたければ、聖書やコーランやバガヴァッド・ギーターを肌身離さないことだ。
仏を知りたければ、常に念仏を称えたり、あるいは、経典をやはり常に肌身離さず持っていることだ。
死ぬまでそうすることだ。

宮本武蔵は、1本の木刀を、寝ている時だろうが、風呂に入っている時だろうが、常に肌身離さず持っていたが、それは護身のためもあるだろうが、やはり剣の極意と自然に一体化するためには、そうでなければならないと直観していたのだろうと思う。
アメリカのタイプライターは実に頑丈だった。それを1日中使う者が沢山いたからだ。
現在のパソコンのキーボードも、良いものはやはり頑丈で、少々のことでは壊れない。
壊れるようなキーボードを作るメーカーはすぐに倒産する。それが自然の摂理とでもいうものだ。
全てのタブレット機器がそうかどうかは分からないが、iPhoneは、液晶が割れてヒビが入っていてもちゃんと使える。
タブレット機器も、1日24時間使うことを前提に作っていないメーカーは決して成功しない。
スマートフォンの売上げが不振のメーカーの製品は故障が多かったはずだ。そんなスマートフォンは売れなくて当たり前だ。それによって、優れたことを1日24時間やる者がいるかもしれないからだ。
スマートフォンに限らないが、道具というものは故障してはならないのだ。
自動車も、頑丈で故障しないものが愛される。
バイクの場合は使う者がちゃんとメンテナンスをすることで万全の調子を保てるのだが、そうしなければならない分、自動車より一体化しやすいのだ。

無報酬の行いのために、常に共にある。
それが真の達人への唯一の道である。
さて、あなたは、常に肌身離さないものがあるだろうか?









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神を信用しろという教え

スーフィー(イスラム教神秘派)の教えに、「神を信用しろ。だが、まずは驢馬はつないでおけ」という言葉があるらしいが、私は、これが気に入っている。
私は神を信頼している。
神を信頼すれば苦労がなくなるのかというと、むしろ逆かもしれない。
人間は・・・特に私は、辛いこと、苦しいことで鍛えられなければ、向上するはずがない。
人間にとっての最大の喜びは、本物の人格者になることだと私は確信している。
自分がいかに苦しい時でも、優しい顔をして愉快に振る舞い、誰にも公平で、どんな人も決して見下さず、果てのない空のように広い心を持っている。
自分がそうであることほどの喜びなど、この世に決して存在しない。
そのためには、未熟な間は、常に頭を叩かれ、悔しい思いをし、それに耐えられるようにならなければならない。
だから、私に高慢に振舞ってくれる人、価値のない物のように扱ってくれる人が私の友人なのだ。

数日前のことだ。
タクシーに乗ったら、運転手が道を間違え、「メーターを切る」と言ったが、逆に深夜料金にセットし、料金がぐんぐん跳ね上がっていった。
運転手はそれに気が付いて謝った。
私が、
「調子が悪いのではないですか?」
と尋ねると、運転手は、
「いえ、考え事をしていたのです」
と言う。
それは何か悪いことでもあったのかもしれない。
私は、
「気にしなくていい。料金は出ているだけ払うよ」
と言ったが、運転手は受け取らない。
私は何も言わず、運転手の好きにさせた。
私には何の感情も起こらなかった。
確かに少し心配にはなったが、誰の人生にもいろいろある。
最近、かなり鍛えられているので、自分の気に入る反応ができたようだ。
しかし、まだまだ鍛えられる必要があるのかもしれない。
いずれにしても、神を信頼している。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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