ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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肉食が良いか菜食が良いかは腸内環境の違いによる

ある肉体労働をしている男が、普段は、昼食におにぎりを2つ作って持ってきていたのだが、1つにした方が疲れないことに気付いた。
これをもって、「少食は身体に良い」とか、「普段、食べ過ぎているのだ」と言う者がいるかもしれないが、それは間違いだ。
糖分に変わる炭水化物の塊であるおにぎりは、食べた直後は血糖値が上がって快感があり、元気が出るような感じがするが、消化は遅いし、実際に身体に吸収される栄養はあまりない。おにぎりを多く食べるほど疲れるということなのだ。
これが、ゆで卵やチーズなら、1つより2つの方が疲れないだろう。

私は新入社員の頃、先輩のおじさん社員の中に、「米を食わないと力が出ないだろ」とよく言われたが、迷惑なことだったのだ。彼は、昼食に米のご飯をしっかり食べていたが、自分はしょっちゅう、「シンドイ」と言っていた。
正しくは、「米を食うと力が出ない」のである。
沢山本も書いていた素晴らしい医者でもあったある神道家は、「日本人は古代から米を食べていて、米が一番身体に合っている」と本に書かれていたが、庶民が米を食べるようになったのは、そんなに古いことではないらしい。
米の、効率的に作れて保存が効くというメリットは認めても、これは決して身体に良い食物ではない。
岡本太郎は、縄文土器を見て驚愕し、「現代人にこんな素晴らしいものは決して作れない」と断言したが、縄文土器の造形に現れたデザインには、卓越した空間感覚が感じられるが、これを見ても、古代の日本人が狩猟民族であったとしか考えられないそうなのだ。
狩猟をしていた頃の日本人は、現代人など足元にも及ばない精神的能力を持っていたのだろう。
『古事記』に出てくる、天照大神の孫である、天孫降臨の神であるニニギの息子が火遠理命(ほおりのみこと)であるが、彼は山で狩猟をしていたとされている。
やはり、狩猟をしていた日本人が多かったのことを示しているのだろう。

米は大量生産が効き、保存性が高いが、昔は身分の高い者だけが食べたのである。支配者が好んで食べたのは、その糖質のために美味しく、中毒性があるからである。しかし、徳川家康などは米を食べず、麦ご飯を食べていたのは、これを食べると身体が駄目になるのを感じたのだと思う。
炭水化物とはいえ、食物繊維がずっと多く、糖分の吸収が少ない大麦の方が身体によく、家康は60過ぎても強健で、子供をどんどん作っていたのである(それが良いことかどうかは別として)。
一方、白米を食べていた家康以外の将軍家の者は、男も女も、病弱な者が多く、息子の秀忠は子作りの方もさっぱりで、庶民も米を食べるようになってから病気が多くなった。

フィギュアスケートの浅田真央さんは、試合前におにぎりを2つ食べるという話を聞いたことがあるが、彼女が本来の実力を出せないことが多いのも、それに無関係とは思えない。
また、菜食は肉食より優れている訳ではない。
柔道の山下泰裕さんや、野球の原辰徳さんを指導したと宣伝していた、ある自己開発セミナー講師は、「マラソンのアベベは菜食だからスタミナがあったが、肉食のジャイアント馬場はスナミナがなかった」などと言っていたが、こんな詐欺的なもののな言い方をする者が多いので騙されてはならない。
優れたマラソンランナーにも当然、肉食の人はいるし、むしろ、菜食主義者は少数派である。
ジャイアント馬場さんは、世界の一流のライバル達が、そのタフさを恐れていたし、馬場さん自身、1時間でも2時間でも動ける身体を作っていたと言い、実際、長時間の熱戦などは、何度も行っている。
馬場さんは、驚くべきことに、それで糖尿病だったが、肉食のおかげで体力を保っていたのだろう。
肉食が良いか、菜食が良いかは、体質、ことに、腸内環境の影響もある。
自分にはどちらが向いているか、あるいは、どちらにも偏らない方が良いのか見極めることが大切で、世間や権威者の偏見に惑わされてはならない。









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原罪から解き放たれる方法が分かった

今朝は不思議な夢を見たが、目覚めると、例によってほとんど憶えていなかった。
しかし、美しい少女が歌を歌っていたのを憶えているし、なぜか、聴いたことのないその歌を私は歌えた。
どんな歌だったのかは憶えていないが、ただ、「人生は優しくない」というフレーズだけはよく憶えている。
歌詞が示されていた訳ではないが、この「やさしくない」は、「優しくない(不親切だ)」であって、「易しくない(簡単じゃない)」という意味ではないということも、なぜか分かった。
全く同感だ。
人生は優しくない。
人生は思い通りにならない。願い通り、希望通りにならない。
少しの間うまくいっているように見えても、やがて、積み木を崩すように全て駄目になる。
お釈迦様の悟りも同じだったと思う。
お釈迦様は、人生は地獄だと理解し、それを受け入れた。
年を取って老い、病気になり、死ぬ。その苦しみを味わうために生まれるのだ。
そのように、人生の基本は生老病死の4つの苦しみで、その上に、「愛する人に会えない」「憎む人に会う」「欲しいものが得られない」「心身が自由にならない」という4つの苦しみがあり、以上をまとめて、四苦八苦と言うのが、仏教の根本的な考え方だ。

「人生は優しくない」と言うのを、運命は優しくない、あるいは、神様は優しくないと言うこともできるだろう。
なぜ、運命は優しくないのだろう?
それは、神か悪魔か分からないのだが、人間に「甘いもの好き」という、とんでもないトラップ(罠)をしかけたからだ。
甘いものが潜在的に好きというだけなら、それは何も人間だけではない。
犬や猿だって、甘いものを与えればその虜になり、犬や猿特有の優れた特性を全て失う。
犬が可愛いからといって甘いお菓子を与えると、犬はそれを得ようとばかりして、他のことをしなくなり、素晴らしい性質を持っていたとしてもそれを失う。
そして肥満し、心臓病や癌になって死んでしまう。
甘いものの味を覚えた猿は、凶暴になって人間を襲って甘い食べ物を強奪する。そんな猿は、群の中でも異常性を発揮し、やはり病気になって死ぬのだ。
だが、犬や猿は、人間が与えないと甘いものを食べることはないが、人間だけはそうではない。
人間は、1万年も前から、噛むと甘くなる穀物を作り続けてきた。
これこそが、知恵の木の実を食べたアダムとイブと、その子孫・・・つまり、人類への罰だろう。
アダムとイブの罪を原罪と言うらしいが、原罪の罰こそが、甘いものを生産する知恵であった。

ある人達は、少食が、悪い運命を解き放つ鍵だと言う。
食を慎めば幸福になるというのだ。
それは、結果的にそうなる場合があるというに過ぎず、嘘であり、間違いである。
甘いもの(砂糖や穀物)をやめれば幸福になるのである。
少食になれば、相対的に甘いものを食べる量が減るので、多少は幸福になる。
しかし、どれほどの少食であっても、砂糖や、炭水化物の豊富な穀物を食べていれば不幸になる。
逆に、大食であっても、砂糖や炭水化物を一切食べなければ幸福になれる。

上にも述べたが、アダムとイブが神の言いつけを破り、知恵の木の実を食べたということが原罪だ(異説もある)。
その罪によって得た知恵で小麦などの穀物を大量生産することで、あらゆる病気や争い、利己主義、階級、差別等を生み出してきたし、今も生み出している。
甘いものを求める欲望こそが原罪と言っても良いかもしれない。
そして、人間は、この原罪から逃れることは不可能と思えた。
そもそも、原罪に気付くことすらできなかった。
人間はただ、「何か分からないが、得体の知れない不安や恐怖を持っている」と感じるだけだった。
その不安や恐怖を自分勝手に解釈した宗教家、思想家が人々を混乱させ、さらに不幸にした。
だが、その不安や恐怖の本当の正体は、甘いもの好きな性質だけである。
砂糖や炭水化物を食べることをやめれば、原罪からも逃れられるのである。









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砂糖をやめれば願いも叶うだろう

今朝はナッツを少し食べてみたが、全然食べたくないことに気付き、残りをチャック付の保存袋に入れて保管した。
昼食はいつも通り摂らず、飲み物(砂糖の入っていないもの)は別にして、何も口にしなかったが、夜になっても全く空腹を覚えない。
帰りにコンビニで、ゴボウサラダと豆乳、卵サンドとフィッシュソーセージ」を買い、卵サンドはパンは食べずに卵だけ食べた。
出し巻き卵もあったが、砂糖が入っていたのでやめた。
買ってきたものはどれも美味しかったが、別に喜びを感じるというのではなく、淡々と食べた。
砂糖と炭水化物さえ入っていなければ何でも良し、食べることは取り立てて楽しいことでもない。
別に肉でも構わないが、コンビニで売っている調理された肉や魚は、どれも砂糖をたっぷり使って調理してあるようだ。
せめて鳥のから揚げでもあれば良かったのだが。

砂糖と炭水化物を摂らないと決めたら、全く空腹を感じることはない。
空腹とは、麻薬的に糖分を欲しがっていることで感じるのだとはっきり分かる。
また、病気でもないのに、無理な絶食をしなくても良い。

ヨガの指導者などで、「普通の人は食べ過ぎている」と言う人は多いが、どうすれば食べずにいられるかを言う者は、私の知る限りいなかった。
まるで、自分は精神が高度だから、ほとんど食べずにいるのだとでも言いたいようだが、私のように、砂糖や炭水化物を摂るのをやめれば、自然に少食になる。
また、インドの賢者達は、極めて深遠な哲学を説くが、彼等は誰も幸せにしなかった。
難解で、一生かかっても意味が分からない抽象的な教えなどより、まずは、砂糖と、パンと米を食べるのをやめる努力をしなさいと言えば良かったのだ。

私は、今でもジョセフ・マーフィーが好きだし、彼が説いた潜在意識による成功法則は本当だと思っている。
しかし、彼が教えたようにやっても、誰も願いを叶えていないことも知っている。
たとえ20歳から始めても、60歳になっても「相変わらず・・・」ということになるだろう。
砂糖と炭水化物をやめなければ、願いは叶わない。
なぜか?
願望を叶えるには、1つの目標にエネルギーを注ぎ込まなければならないのに、砂糖や炭水化物を摂っていると、意識的か無意識的かの別はあっても、それらを激しく求めて、エネルギーはそのためにほとんど持っていかれてしまい、願いを叶えるための十分なエネルギーが残らないのだ。
よって、もしマーフィーの成功法則を信じるなら、砂糖や炭水化物を出来得る限り食べないようにすれば、あの本に書かれた通りになると思う。
尚、肉や魚はいくら食べても構わないが、砂糖の入ったタレやソースや醤油、それに、ご飯やパンがなければ、そんなに沢山食べようとは思わないだろう。
砂糖や炭水化物をやめた後なら、賢者達の教えも分かるようになり、高みに達することもできるかもしれない。
しかし、私は、まずは、まともな・・・逸脱のない人間になりたいと思うのである。









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現代人の「お腹が空いた」は嘘の感覚だ

我々が言う「お腹が空いた」というのは、ほとんどが本当に空腹なわけではない。
単に甘いものが欲しいだけなのだ。
これは、ケーキやチョコレートを食べたいという意味だけでなく、噛めばすぐに甘くなる米やパンもそうであるし、焼肉やステーキを食べたいと言っても、それに付ける甘いタレや特製ソースとのコンビネーションによって食欲をそそられるだけなのである。
刺身が好きだと言っても、糖分が多い醤油がなければ食べたいと思わないだろうし、「熱いご飯と一緒に食べる刺身が最高だ」という人が多いように、米が本当の目的であるのだ。寿司というのも、米と魚が一体だから美味しいと思うのだ。
もし、タレもソースもついていないステーキ、砂糖の入っていないすき焼き、醤油がない生魚だけというなら、空腹だと言っているはずが、さっぱり食べたくないに違いない。

私は、今月(2014年3月)の21日からこの4日、砂糖や炭水化物をほとんど断った結果、こういうことに気付いた。
以前は、朝起きるのがとても楽しみだった。
1日1食の食事は朝に摂っているが、ビスケットやドーナッツ、ワッフルや、ことによったら、ヨウカンを食べていたのだから、朝、目が覚めると、もう目が爛々と輝き(無論、自分の目は見えないので、そんな感じであるという意味)、喜び勇んでベッドから出た。
また、夜に食事をしていた時は、就業時間が終り、会社を出る頃には飢餓感に襲われ、駅から自宅まで、ただでさえ普通の人の倍の速さで歩く私が、走っている人を追い越すほど速足で歩いて、家までまっしぐらだった。
帰れば、米やパン、ことによったら金時豆が食べられる。豆腐や野菜は、あくまで引き立て役だったのだ。

しかし、買い置きしてあったビスケットやワッフルを全部捨て、アーモンド、クルミ、松の実だけの食事にすると、別に食欲はなく、少し食べるだけになった。
ビスケットやワッフルと一緒に食べていた時は、ナッツも沢山食べていたが、ナッツだけだと、あまり食べたくないし、空腹感も全くない。
この数ヶ月は夜にコンビニのおにぎりを1つだけ食べることを楽しみにしていたが、やはり空腹感があって、食べると大変に嬉しかったが、それをやめると、何のことはない。ちっとも空腹でないことが分かったのだ。代わりに、キャベツのサラダを食べてみたが、美味しいとは思ったが、歓喜するというほどではない。
確かに、コンビニで卵サンドを見ると、物凄く美味しそうに見えたが、パンに挟まれていなければさほどでないに違いない。
もし私が卵サンドを食べるとしたら、パンは捨てて卵だけ食べるだろう。そして、1日や2日食べていなくてそれを食べるとしても、むさぼり食うなどということはないだろう。

つまり、我々が普通に言う「お腹が空いた。何か食べたい」と言うのは、酒やタバコ、あるいは、麻薬を求めるのと同じなのだ。あるいは、刺激的な破壊行為やマスターベーションをしたがるのと同じである。
本来は、人間が食べなければならない量なんてほんのわずかで、私の場合、1日に、ナッツを、アーモンドなら20粒くらいで良いと思う。

イエス・キリストの時代のパンは、今のパンとはかなり違い、せんべいに近いと思われるほど薄くて硬いパンだったと思うが、小麦よりは大麦やライ麦で作られることが多かったのではないかと思う。
大麦やライ麦は、食物繊維が多く、小麦ほどは糖分が吸収されない。
徳川家康や水野南北、それに、昭和天皇は米は食べられず、麦ご飯を常食とされていたが、麦ご飯の麦は大麦である。
麦ご飯を食べていたことが、彼らが健康で長寿であった理由の1つであると思う。
よって、イエスの時代のパンは悪いものではなかったが、それでもイエスは、
「人はパンのみで生きるのではない」
「パンがなくても人は生きられる」
と言い、
「獣を屠って食べよ」
と敢えて言って、肉食も薦めたのである。魚はイエスもよく食べていたと思われる。
水野南北は、米は決して食べなかったし、美食を戒めたが、肉食自体を全面的には禁止していなかった。特に老人の場合は、消化が良いので、肉を少量食べることを奨めてもいた。
釈迦も肉食をしていたことは知られている。
特に昔は、肉や魚以外に適当な食べ物が手に入り難かったのだろう。
今でも、肉や魚は別に悪い食べ物ではない。
ただし、砂糖のたっぷり入った調味料やソースやタレを使わず、なるべく、そのまま食べればだ。
正しい食べ方をすれば、ほんの少しで良いし、少ししか食べる気にならないはずだ。
つまり、本当は、お腹いっぱいになるまで肉や魚を食べる必要はないし、それは馬鹿げたことである。

糖分のある甘い食べ物、それに、パンや米といった炭水化物を食べないようにすれば、努力などしなくても自然に少食・・・というか適切な量の食事となる。
食べることが楽しみではなくなるのだ。
そうすれば、嫌でも痩せた美しい身体になり、心身共健康になる。
食費もかからなくなる。
「食べる楽しみ無くして何の人生なんですか?」
と言うなら、勝手にすれば良い。
人生の本当の楽しみをまるごと逃すことになるのは気の毒だが、私には何もしてやれない。
「じゃあ、人生の本当の楽しみって何なのですか?」
と聞くなら馬鹿である。
聞けば何でも教えてもらえると思っているのは、学校教育の恐ろしい害悪である。
本当に大切なものは、自分で見つけるしかない・・・というのは、当たり前のことではないだろうか?









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社会で生き抜く武器を持つ

私は日頃、マイクロソフトExcelやAccessに組み込まれたVBA言語でのプログラミングをできるようになるように勧めているが、コンピュータープログラマに素質というものがあるだろうか?
一応、あるように思える。
ビル・ゲイツは昔、それは純粋な知能指数であり、生まれながらのものだと言っていたような気もする。
しかし、私が一番最初に書いたプログラムのことを考えれば、果たしてそうかなと思う。
それは、BASIC言語で書いた十数行の極めて幼稚なプログラムだった。
本当にそれがせいぜいだったし、しかも、書いた時は、なかなかの出来栄えだと思ったのだ。
そして、当分はそんなものだった。
つまり、私に才能があったとは思えない。
しかし、時間をかけて、たゆまずプログラムを書いているうちに、少しずつだが進歩していき、やがて大きなプログラムや、それを組み合わせたシステムを作れるようになったのだ。
おそらく正しいと思うが、コンピュータープログラミング自体が頭を良くし、プログラミングの才能を作り出すのだと思う。

ExcelもAccessも1万数千円で買えるし、Excelが含まれるMicrosoft Office Personalで2万数千円程度だろう。
ExcelもAccessに含まれるMicrosoft Office Professionalでも5万円以下で買える。
私は昔、そこそこの規模のソフト開発会社の社長さんに言われたが、自分が社会で行き抜く武器を得るのに、多少のお金や時間を投資できないなら何もできないだろう。
私も、PCを買って、自宅で、深夜2時過ぎまでプログラミングの練習をしたものだ。
私は、何もできなくて弱い立場にいる人達が、何か社会で戦う武器を得て欲しいと思うのである。

ところで私は、高学歴者ばかりの会社で、VBAの習得を勧めていたが、誰も見向きもしない。
彼らは、有名大学や大学院を出ただけで自分は立派だと思い込んでいる。
また、TOEIC満点とかだと、それでもう自分は目標を達成した人間だと思っているのだ。
そんな人達は、私のような下々の者ができるプログラミングを自分ができなかったらと考えると、恐くて手が出せないだろうし、自分にまだ習得する必要のあることなど、あるはずがないと思っている。
TOEICの点数が高かろうが、それだけでは社会での武器にはならない。専門知識や経験があってこその英語力だし、最も大切なことは、どんな外国の人とでも良好な人間関係を築く能力なのだ。英語は下手だが、実践で身につけた専門能力と人間的魅力で素晴らしい仕事をしている人を私は沢山見ている。彼らは、決して下らないプライドなどは持っていないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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