対談を本にしたものには素晴らしいものが多い。
ところが、対談書が良かったので、それぞれの対談者が書いた本を読むと、ひどく下らないと感じることがよくある。
別に、その個々の人達が書いたものが悪い訳ではないかもしれない。
しかし、対談の時ほどは良いことを言っていないのである。
対談では、相手に同調するというのではないが、相手との接点を見出そうとはするものであり、ある程度は自己主張を抑え、相手の考え方を受け入れようとする意思は働くものだろう。
それは、自我を抑制することであり、それが優れた作用を起こすのだ。
能力発揮の鍵は、「無に近付く」ことであることは間違いない。
自我が弱くなればなるほど力は増していき、完全に無になれば、無敵・・・万能、自由自在であり、神に近いと言って良い。
ただ、対談書にも、あまり良くないものもある。
一方の立場が強過ぎる場合だ。
精神分析学者の岸田秀氏と映画監督の伊丹十三氏の対談がそうだった。
伊丹氏は岸田氏の崇拝者であるのだから、立場の違いは明白だ。
幻想である自我を取り去っていくと、最後には何も残らないというのが岸田氏の考え方だ。
だが、伊丹氏は、「私は何か残ると思いますが・・・」と言うが、岸田氏はそんな発言は全く問題にせず、「残りません」と切り捨てると、伊丹氏は何も言えない。
飛躍し過ぎかもしれないが、伊丹氏は岸田氏からさっさと離れていれば、自殺するようなことはなかったと思う。
ところが、この岸田秀氏と養老孟司氏の対談が素晴らしかった。
おかしなことに、岸田氏の対談集と、養老氏の対談集という違う本に、そっくり同じ内容が収められているのである。これは、出版倫理に反すると思うのだが、何かの間違いだったのだろうか?
それはともかく、なぜ、岸田氏と養老氏の対談が良いのかというと、養老氏は、知識などにおいても岸田氏に優っている上、話上手で、岸田氏に押されることも自分が上に出ることもなく、岸田氏の良いところを上手く引き出しながら対談をコントロールしていたからだ。
岸田氏も養老氏も、それぞれ個人の本も沢山あり、人気があるが、この対談ほど良いものはないと思う。
それは、さきほど述べた通り、養老氏に負う部分が大きい。
ところが、面白いことに、個人の本では、岸田氏の本の方が、むしろ、養老氏の本より良いのではないかと感じるのだ。
岸田氏は、相手がいると自我が出てくるタイプで、1人だとむしろ慎み深い人なのだろうと思う。
逆に、養老氏は、相手がいると気を使って自分が引くが、1人になってしまうと自己主張が激しくなるタイプではないかと思う。
養老氏がホスト役を務める対談書『見える日本、見えない日本~養老孟司対談集~』は奇跡的なほど優れた書であると思う。
世界的芸術家の横尾忠則氏は著書も数多く、素晴らしい本が多いが、やはり最も良いのは対談書なのである。
対談書は、横尾氏がまだ若い(と言っても40代、50代が多いかもしれないが)頃のもので、対談の相手が年配の大物の場合が多いので、いかに横尾氏とて、自分が控えて相手に譲ることが多いので、結果、素晴らしいものになったのだろう。
特に、岡本太郎氏を迎えての対談は圧巻であり、その短い対談(実際の長さの数分の一なのだろうが)記録が、横尾氏、岡本氏のどの本よりも良いと思うほどだ。
この対談は、『今、生きる秘訣~横尾忠則対話集 ~(知恵の森文庫)』に収められているが、あとがきを書いたユング派心理学者の河合隼雄氏が、その対談に限らないだろうが、「大事な部分に赤線を引いたら、本が真っ赤になった」というのも頷け、古い本でありながら、復刻され、評判が良くロングセラーを続けている。
横尾氏個人の本も面白いものが多い。特に、最近の、老人になったことを自覚した横尾氏のものが良い。
一方、横尾氏の比較的若い時の著書は、良いのではあるが、他にも多くある横尾氏がホスト役を務める対談書ほどではない・・・というか、ひどく劣ると感じる。
横尾氏は、自我を抑えるしかない、ホスト役対談書でこそ素晴らしい思想家になる。
また、年をうまく取って、自我を抑えることができるようになったのではないかと思うのだ。
それは、横尾氏が言う、「芸術家は神の道具」という精神になっているのであり、横尾氏の対談書は芸術なのだろうと思う。
先程も述べたが、自我をなくすことが、限りなく向上し、強く大きくなる秘訣である。
長く高度な文章も散々書いた道元や法然、あるいは、親鸞が、結局は、「ただ座れ」、「ただ念仏しろ」という結論であるのは、それが自我を自然に抑え、消すことだからだろう。
ただ、座禅や、それに似た静坐は良い指導者の下で行う必要がある。
自己流でやるのはむしろ危険なこともある。
しかし、念仏であれば、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけであるし、『歎異抄』という、易しいが至高の指南書(実際は、念仏の教本ではないが)もある。
念仏の真義を説いた、法然の『選択本願念仏集』は、法然は、これはと思った相手にしか渡さなかったらしいが(印刷のない時代で、法然は見込みのある相手に貸して写させた)、我々も、注意して読めば益があると思う。
すぐには納得できないかもしれないが、念仏は、至上の能力開発法でもあるのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
ところが、対談書が良かったので、それぞれの対談者が書いた本を読むと、ひどく下らないと感じることがよくある。
別に、その個々の人達が書いたものが悪い訳ではないかもしれない。
しかし、対談の時ほどは良いことを言っていないのである。
対談では、相手に同調するというのではないが、相手との接点を見出そうとはするものであり、ある程度は自己主張を抑え、相手の考え方を受け入れようとする意思は働くものだろう。
それは、自我を抑制することであり、それが優れた作用を起こすのだ。
能力発揮の鍵は、「無に近付く」ことであることは間違いない。
自我が弱くなればなるほど力は増していき、完全に無になれば、無敵・・・万能、自由自在であり、神に近いと言って良い。
ただ、対談書にも、あまり良くないものもある。
一方の立場が強過ぎる場合だ。
精神分析学者の岸田秀氏と映画監督の伊丹十三氏の対談がそうだった。
伊丹氏は岸田氏の崇拝者であるのだから、立場の違いは明白だ。
幻想である自我を取り去っていくと、最後には何も残らないというのが岸田氏の考え方だ。
だが、伊丹氏は、「私は何か残ると思いますが・・・」と言うが、岸田氏はそんな発言は全く問題にせず、「残りません」と切り捨てると、伊丹氏は何も言えない。
飛躍し過ぎかもしれないが、伊丹氏は岸田氏からさっさと離れていれば、自殺するようなことはなかったと思う。
ところが、この岸田秀氏と養老孟司氏の対談が素晴らしかった。
おかしなことに、岸田氏の対談集と、養老氏の対談集という違う本に、そっくり同じ内容が収められているのである。これは、出版倫理に反すると思うのだが、何かの間違いだったのだろうか?
それはともかく、なぜ、岸田氏と養老氏の対談が良いのかというと、養老氏は、知識などにおいても岸田氏に優っている上、話上手で、岸田氏に押されることも自分が上に出ることもなく、岸田氏の良いところを上手く引き出しながら対談をコントロールしていたからだ。
岸田氏も養老氏も、それぞれ個人の本も沢山あり、人気があるが、この対談ほど良いものはないと思う。
それは、さきほど述べた通り、養老氏に負う部分が大きい。
ところが、面白いことに、個人の本では、岸田氏の本の方が、むしろ、養老氏の本より良いのではないかと感じるのだ。
岸田氏は、相手がいると自我が出てくるタイプで、1人だとむしろ慎み深い人なのだろうと思う。
逆に、養老氏は、相手がいると気を使って自分が引くが、1人になってしまうと自己主張が激しくなるタイプではないかと思う。
養老氏がホスト役を務める対談書『見える日本、見えない日本~養老孟司対談集~』は奇跡的なほど優れた書であると思う。
世界的芸術家の横尾忠則氏は著書も数多く、素晴らしい本が多いが、やはり最も良いのは対談書なのである。
対談書は、横尾氏がまだ若い(と言っても40代、50代が多いかもしれないが)頃のもので、対談の相手が年配の大物の場合が多いので、いかに横尾氏とて、自分が控えて相手に譲ることが多いので、結果、素晴らしいものになったのだろう。
特に、岡本太郎氏を迎えての対談は圧巻であり、その短い対談(実際の長さの数分の一なのだろうが)記録が、横尾氏、岡本氏のどの本よりも良いと思うほどだ。
この対談は、『今、生きる秘訣~横尾忠則対話集 ~(知恵の森文庫)』に収められているが、あとがきを書いたユング派心理学者の河合隼雄氏が、その対談に限らないだろうが、「大事な部分に赤線を引いたら、本が真っ赤になった」というのも頷け、古い本でありながら、復刻され、評判が良くロングセラーを続けている。
横尾氏個人の本も面白いものが多い。特に、最近の、老人になったことを自覚した横尾氏のものが良い。
一方、横尾氏の比較的若い時の著書は、良いのではあるが、他にも多くある横尾氏がホスト役を務める対談書ほどではない・・・というか、ひどく劣ると感じる。
横尾氏は、自我を抑えるしかない、ホスト役対談書でこそ素晴らしい思想家になる。
また、年をうまく取って、自我を抑えることができるようになったのではないかと思うのだ。
それは、横尾氏が言う、「芸術家は神の道具」という精神になっているのであり、横尾氏の対談書は芸術なのだろうと思う。
先程も述べたが、自我をなくすことが、限りなく向上し、強く大きくなる秘訣である。
長く高度な文章も散々書いた道元や法然、あるいは、親鸞が、結局は、「ただ座れ」、「ただ念仏しろ」という結論であるのは、それが自我を自然に抑え、消すことだからだろう。
ただ、座禅や、それに似た静坐は良い指導者の下で行う必要がある。
自己流でやるのはむしろ危険なこともある。
しかし、念仏であれば、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけであるし、『歎異抄』という、易しいが至高の指南書(実際は、念仏の教本ではないが)もある。
念仏の真義を説いた、法然の『選択本願念仏集』は、法然は、これはと思った相手にしか渡さなかったらしいが(印刷のない時代で、法然は見込みのある相手に貸して写させた)、我々も、注意して読めば益があると思う。
すぐには納得できないかもしれないが、念仏は、至上の能力開発法でもあるのである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。

