ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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世界的画家、横尾忠則氏の対談書も芸術であるという理由

対談を本にしたものには素晴らしいものが多い。
ところが、対談書が良かったので、それぞれの対談者が書いた本を読むと、ひどく下らないと感じることがよくある。
別に、その個々の人達が書いたものが悪い訳ではないかもしれない。
しかし、対談の時ほどは良いことを言っていないのである。
対談では、相手に同調するというのではないが、相手との接点を見出そうとはするものであり、ある程度は自己主張を抑え、相手の考え方を受け入れようとする意思は働くものだろう。
それは、自我を抑制することであり、それが優れた作用を起こすのだ。

能力発揮の鍵は、「無に近付く」ことであることは間違いない。
自我が弱くなればなるほど力は増していき、完全に無になれば、無敵・・・万能、自由自在であり、神に近いと言って良い。

ただ、対談書にも、あまり良くないものもある。
一方の立場が強過ぎる場合だ。
精神分析学者の岸田秀氏と映画監督の伊丹十三氏の対談がそうだった。
伊丹氏は岸田氏の崇拝者であるのだから、立場の違いは明白だ。
幻想である自我を取り去っていくと、最後には何も残らないというのが岸田氏の考え方だ。
だが、伊丹氏は、「私は何か残ると思いますが・・・」と言うが、岸田氏はそんな発言は全く問題にせず、「残りません」と切り捨てると、伊丹氏は何も言えない。
飛躍し過ぎかもしれないが、伊丹氏は岸田氏からさっさと離れていれば、自殺するようなことはなかったと思う。

ところが、この岸田秀氏と養老孟司氏の対談が素晴らしかった。
おかしなことに、岸田氏の対談集と、養老氏の対談集という違う本に、そっくり同じ内容が収められているのである。これは、出版倫理に反すると思うのだが、何かの間違いだったのだろうか?
それはともかく、なぜ、岸田氏と養老氏の対談が良いのかというと、養老氏は、知識などにおいても岸田氏に優っている上、話上手で、岸田氏に押されることも自分が上に出ることもなく、岸田氏の良いところを上手く引き出しながら対談をコントロールしていたからだ。
岸田氏も養老氏も、それぞれ個人の本も沢山あり、人気があるが、この対談ほど良いものはないと思う。
それは、さきほど述べた通り、養老氏に負う部分が大きい。
ところが、面白いことに、個人の本では、岸田氏の本の方が、むしろ、養老氏の本より良いのではないかと感じるのだ。
岸田氏は、相手がいると自我が出てくるタイプで、1人だとむしろ慎み深い人なのだろうと思う。
逆に、養老氏は、相手がいると気を使って自分が引くが、1人になってしまうと自己主張が激しくなるタイプではないかと思う。
養老氏がホスト役を務める対談書『見える日本、見えない日本~養老孟司対談集~』は奇跡的なほど優れた書であると思う。

世界的芸術家の横尾忠則氏は著書も数多く、素晴らしい本が多いが、やはり最も良いのは対談書なのである。
対談書は、横尾氏がまだ若い(と言っても40代、50代が多いかもしれないが)頃のもので、対談の相手が年配の大物の場合が多いので、いかに横尾氏とて、自分が控えて相手に譲ることが多いので、結果、素晴らしいものになったのだろう。
特に、岡本太郎氏を迎えての対談は圧巻であり、その短い対談(実際の長さの数分の一なのだろうが)記録が、横尾氏、岡本氏のどの本よりも良いと思うほどだ。
この対談は、『今、生きる秘訣~横尾忠則対話集 ~(知恵の森文庫)』に収められているが、あとがきを書いたユング派心理学者の河合隼雄氏が、その対談に限らないだろうが、「大事な部分に赤線を引いたら、本が真っ赤になった」というのも頷け、古い本でありながら、復刻され、評判が良くロングセラーを続けている。
横尾氏個人の本も面白いものが多い。特に、最近の、老人になったことを自覚した横尾氏のものが良い。
一方、横尾氏の比較的若い時の著書は、良いのではあるが、他にも多くある横尾氏がホスト役を務める対談書ほどではない・・・というか、ひどく劣ると感じる。
横尾氏は、自我を抑えるしかない、ホスト役対談書でこそ素晴らしい思想家になる。
また、年をうまく取って、自我を抑えることができるようになったのではないかと思うのだ。
それは、横尾氏が言う、「芸術家は神の道具」という精神になっているのであり、横尾氏の対談書は芸術なのだろうと思う。

先程も述べたが、自我をなくすことが、限りなく向上し、強く大きくなる秘訣である。
長く高度な文章も散々書いた道元や法然、あるいは、親鸞が、結局は、「ただ座れ」、「ただ念仏しろ」という結論であるのは、それが自我を自然に抑え、消すことだからだろう。
ただ、座禅や、それに似た静坐は良い指導者の下で行う必要がある。
自己流でやるのはむしろ危険なこともある。
しかし、念仏であれば、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけであるし、『歎異抄』という、易しいが至高の指南書(実際は、念仏の教本ではないが)もある。
念仏の真義を説いた、法然の『選択本願念仏集』は、法然は、これはと思った相手にしか渡さなかったらしいが(印刷のない時代で、法然は見込みのある相手に貸して写させた)、我々も、注意して読めば益があると思う。
すぐには納得できないかもしれないが、念仏は、至上の能力開発法でもあるのである。









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子供の時の憧れは何だったか?

あなたが子供の頃、繰り返し読んだ本は何だろう?
それを、くれぐれも軽く扱ってはならない。
それらの本に、あなたの本質が隠されている。
参考に、私の場合について、そんなものから自分をどう分析するかを述べておくので、参考になればと思う。

私は、まず、『ピノッキオ』を何度も読み、それからしばらくして、『みつばちマーヤの冒険』を、そして、少し大きくなってから(10歳くらい)、『怪傑ゾロ』を読んだ。
それぞれの時期に、そのいずれかの1冊ばかりを何度も読み、他の本には目を向けなかった。
これらの3つの作品に共通するのは、弱い者が、訓練や経験を積んで強くなり、自らの正義のために戦うというものだ。
怪傑ゾロこと、ドン・ディエゴ・ベガも、最初は、家が大富豪というだけで、彼自身には、何の力もなかった。
だが、少年だった彼は、虐げられている人達を見て、そんな人々を救おうと、自主的に、剣や銃や馬術の練習に励んだ。
また、優れた書物を読んで精神を鍛えることも、強くなるために必要であることを、ディエゴ・ベガが教えてくれたのだった。

マーヤも初めは幼かったが、未知の世界に旅立ち、多くの出来事や多くの者たちに出逢い、冒険を重ねて知恵をつけ、心身を磨き、強く、強くなった。
1つの場所でじっとしていては、マーヤのような向上はない。
そして、高貴な優れた精神は、相手の良い部分だけを見るのであることを、マーヤが教えてくれたのだ。

ピノッキオは、最初は最も出来が悪かった。
自分の小さな欲に囚われた愚かさのために何度も痛い目に遭った。本当に馬鹿だ。
しかし、そんな愚か者でも、助けようとする高貴な存在は必ずいるのだと教えられたように思う。
聖母様らの優しくも厳しい導きにより、少しずつではあったが、ピノッキオの心の奥に隠された優しさや気高さが現れてくる。
そして、最後は自分を犠牲にしてでも、誰かを救おうとする崇高さを自らの内から引き出すことで、遂に彼は、大いなる変容を遂げることに成功したのだ。

このように、最初は誰もが弱いのだが、目標や努力、そして、真の自己を見つけることで、天使にも匹敵する存在になれることが確実であると思われたのだ。
だが、現実の世界は辛く、いかに鍛え、向上したところで、人間1人の力など知れている。
そして、何が本当に善いのかは、人間には分からない。
自分が善いと思っていることが悪いことであるかもしれず、悪いと思っていることが、誰かにとっては良いことなのかもしれないのだ。
それで、悩み、深い迷いに沈み、苦しむことになる。
そして、道元は、「ただ座れ」と座禅を勧め、法然は、「ただ念仏せよ」と教えたのだと知る。
それが真理なのだろう。
いつか、そこにたどり着くことができれば良い。

まずは、自分が子供の頃や、若い時に好きだったもの、夢中になったもの、思い出すと懐かしくてたまらない何かを見つめてみることである。
もちろん、懐古趣味に陥るだけではいけない。
その精妙なエネルギーを借りて、確固とした目標を打ち立て、行動してみなければならない。
そこから道は開けるのである。









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どうすれば感情を頼もしい味方にできるのか?

『スタートレック』というアメリカのSFテレビドラマ(日本では『宇宙大作戦』のタイトルがつけられた)に、ミスター・スポックという、バルカン星人と地球人のハーフの男性が登場する。
バルカン星人は、地球人よりはるかに進歩した文明を持つが、感情を持たないとされ、感情を持たないことが進歩の鍵だと考えられていた。
しかし、地球人との混血であるスポックは、自分の中に感情があることに引け目を感じ、感情を殺してしまうことを自分に強く課していた。
だが、スポックは、感情を持つことで、本当は、退化どころか、他のバルカン星人をも超越していたと考えて良いのだと思う。
スポックの素晴らしい父親が登場したことがあったが、彼は明らかに豊かな感情を持っていた。
バルカン星人の中に、重大な誤解があったに違いない。
感情は悪であるという誤解だ。
当然、それは、我々地球人の間にもある。
感情に支配されてしまえば、倫理や道徳に明らかに反することでも止めることができずやってしまうし、破滅に突き進むと分かってさえいても自分を止めることができない。
また、それほど重大でない無数の問題に対しては、感情のために判断を誤るということがむしろ普通のことになっているかもしれない。

感情が悪だというのは、一見、理屈が通っているように思える。
だが、感情が悪になるのは、自分が自我である・・・もっと正確には、自分は小我であると思い込んでいることが原因である。
感情はエネルギーが大きいので、小我はそれを処理し切れず暴走してしまうのだ。
だから、小我と一体化した自己は、感情のエネルギーに翻弄されてしまうのである。
小我が、それと比較にならない大きな大我と融合し、溶け込むと、大我はいかなる感情エネルギーでも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で扱うことができるので、感情を活かすことができるのだ。

進化した宇宙人でありながら、こんなことが分からずに感情を悪だと見なしているなら、ひどく滑稽なことに思える。しかし、我々地球人は、先達である宇宙人からのテレパシーを受けて速やかにそれを理解できるのだが、昔の宇宙人達は、いかに進歩していても、初めは苦い経験をしなければ分からなかったのかもしれない。

数学的に証明できるらしいが、理論というものは、理屈が通っているだけでは真にならないのである。
なるほど理屈は正しいが、感情が納得しないと、それは、純粋に数学的に正しくは無い・・・真ではないのである。
感情が納得してこそ真なのである。
従来の西洋の科学は、理屈が通りさえすれば真とするので、大きな過ちを犯してきた。
だが、この数学上の大発見により、一見、矛盾もある東洋の叡智が「科学的に」正しいことが分かるかもしれない。しかし、別に科学に裏付けしてくれなくても、それが正しいことは、高度な感情・・・つまり、直観により明白であった。
高度な感情とは、小我ではなく、大我が扱う感情である。それを直観と言うのである。

難しいことではない。
ある女性が、2人の男性にプロポーズされるとする。
片方の男性は、長身の美男子で、高学歴のエリートであるだけでなく、人間的にも非常に優れており、優しく、爽やかな性格だった。
しかし、もう一方の男性は、外見もぱっとしない、三流大学の卒業者で、性格も優柔不断で暗く、人間性に明らかな欠陥もあった。
理屈では、どう考えても前の男性の方が良いし、また、小我としての感情も、その外面的、論理的に立派な男性の選択を正しいと感じる。
しかし、この女性は、後の、世間的にはどう考えても駄目な男性を選んでしまう。
彼女は、そうせざるを得なかったのだ。
内なる感情が、そちらの男性を選ぶよう強く促し、彼女はそれに従ったのだ。
そして、こんな選択は絶対に間違いがない。
しかし、現代は、内なる感情・・・大我が扱う感情を無視して、小我を満足させ、世間的にも受け入れられる選択をしてしまう者が多いかもしれない。
また、男は馬鹿なので、どうしても女性の外見を重視してしまう。
だから、男が惚れて、押し切って結婚した夫婦というのは、大抵苦労が多く、結婚後に精神を磨かないと悲惨な結果になる。
男に対し、「惚れて結婚するな。惚れさせて結婚しろ」というのは、そんな教訓が秘められているのだし、結婚は女性が選んだ方がうまくいく可能性が高い。ただし、今の女性は、男性並に馬鹿な者が多いのであるが。

では、どうすれば、自分を小我であると思い込むことをやめ、小我を大我の中に溶かし、大我と一体化できるのだろうか?
1つには、「頭を叩かれて人間は立派になる」という当たり前の道を進むしかない。
子供の頃は、家庭で、王子様、お姫様扱いで甘やかされるのは、ある程度は仕方がない。
しかし、社会に出れば、最初はただの一兵卒(大勢の中の一人)だ。
なんら特別な者でない、価値のない者として・・・それどころか、劣った者、見下される者として厳しい扱いを受けることに耐えることで、小我は退き、大我に場所を譲る。
そうなれば、少々のことでは感情に支配されず、耐え忍ぶことのできる、円満な人間性を獲得できる。
普通は、これだけで十分であるが、そんな人でも、まだ感情に苦しめられることは多い。
人間的に成熟し、普通のことでは自分を抑えられても、今流には「地雷を踏む」、つまり、痛いところを突かれたら、信じられないほど動揺したり、怒りを爆発させたりする。
「俺としたことがなんてことだ!」
と自分で呆れ、自分を蔑み、さらに、自分を哀れむ。
まだまだ、小我と大我が十分に融合していないのだ。
それで、念仏を称えたり、座禅をしたりの修行をするのだ。
数学者として、感情の重要さを本当に理解していた岡潔が、自宅に念仏堂を造り、熱心に念仏に励んでいたということを、我々はもっと重大に受け止めなければならないだろう。
例えばだが、数取器を使い、毎日欠かさず、せめて千回でも念仏を称えるということを、「感情的に」良いと感じるなら、是非、実践していただきたいと思うのである。









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人間はなぜ異常なのか?

歴史的に有名な精神科医で、心理学者とも見なされるフロイトは、人間は本能が壊れた動物だと言った。
動物は、本能の命ずるままに行動すれば、それで生きていけるのだが、本能が壊れている人間はそうはいかない。
それで、本能を補うために自我というものを作ったのだが、自我は自然に立脚したものではない幻想のようなものであるので、人間が幻想の中で生きるしかないのは運命であるということになる。
確かに、自然界の中で、人間だけが異常なことをする。
虫でも鳥でも動物でも、雄同士が雌を争って戦うことはよくあるが、戦いの決着が付いたら・・・それは、片方が負けを認める合図をするということなのだが、そうすれば、勝った方もそれ以上の攻撃はしない。同種族の争いで、相手に致命傷を与えるなんてことは決してしないのだ。
しかし、人間は、同じ人間である相手が降参していようが、命乞いをしようが、残酷に殺すということをやらずにおれないことがよくある。
これはやはり、自然なことでは決してない、異常なことに違いない。

しかし、人間には動物にはない理性があり、それを発達させれば、自分をコントロールすることができる。
だが、そんな訓練をしない社会になってしまい、理性を発達させていない人間がやたら多くなってしまっている。
理性が高度になれば、動物並の争いさえせずに回避することができるはずなのに、今の人類は、動物を見て、気高いとか荘厳だとか思ってしまうほど落ちぶれているのである。
つまり、人間は、理性を発達させなければ、自然に背いた、どんな野獣にも劣る異常者でしかないのである。

今の人類に未来はなく、滅びは免れないだろう。
ではどうすれば良いのかというと、私には分からないのである。
だが、念仏や般若心経の真言を、毎日ある程度の数を称えるようにすれば、何か貴重な能力を発達させられるような気がするのである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を、せめて1日千回称えるようにすれば、かなり精神性を発達させられると思う。
しかし、念仏を称えても、お金は儲からないし、モテないし、格好良くもない。
何の利益もないと思えるかもしれない。
しかし、きっと、仏様や菩薩様には誉めてもらえる行為であるし、高貴な行いだとは思うのだ。
親鸞は、念仏を称える者を、神や鬼神や魔王らが、尊敬したり、恐れたりすると言ったが、何らかの意味で、そうであると思うのである。
もちろん、さっぱりそう思わない人もいるに違いない。
それならそれで、座禅を組むとか、食を慎むとかを毎日欠かさずやれば、きっと成果が出ると思う。
それらのことは、やはり高貴に思えるからだ。
つまり、何でもいいから、自分が本当に高貴だと思えること・・・誰も見ていなくても、心のどこかで満足できることを毎日やれば、必ず奇跡的な変容を起こせると思う。
念仏とか、般若心経の真言、あるは、その他の呪文や真言というのは、実に素晴らしいものであると思うのだ。
それを利用しない手はないと思う。









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嫌な職場ほど自分にとって相応しい場所である

もうすぐ全国で行われるのだろうが、会社の入社式の風景ほど憂鬱にさせられるものはない。
新入社員の代表が、元気いっぱい絶叫して、会社のために粉骨砕身、努力して励むのだと宣誓し、他の新入社員は「しおらしく」している。
それは何を意味するのかというと、新入社員は「会社の奴隷になる」ということなのであり、入社式とは、それを確認するための儀式である。
実際、どれほど学校の成績の良かった者であろうと、その会社のどれほど駄目なダサいおじさんより仕事が出来るってことは絶対にあり得ない。
いや、仕事そのものより、その会社独自の、(奇妙なこともいっぱいある)しきたりやルール(それは確実に存在する)を身に付けなければならないし、少なくとも関係する部署の部長や課長、係長等の顔と名前を覚えないといけない。
私は、数年のキャリアを積んで大手企業の新入社員になったことがあるので、そこらのことをより強く感じたものだった。
だが、私は会社のルールにいつまでも(いや、最後まで)馴染まず、他所の部署の部課長の名前はさっぱり覚えず、また、役員の名前を1人も覚えなかった。
上司に、「これ、○○課長に渡して来い」とか言われても、それがどこの部署の誰か全く知らないので困ったものだった。
私は、入社した時には、スキルそのものは他の大抵の社員よりも高かった(としばらくしてから分かった)。
入ったのは大手だが、零細企業でモマれていたので、鍛えられ方が違っていた。
無論、謙譲の美徳は備えてはいたが、先輩達の、「先に入ったものが優先される」という高慢な態度は、やはり気に食わないものだった。
だが、横柄な先輩こそ、先輩であるということや、社内事情に通じているということの他には取り得は何もなく、また、彼ら自身、本当は自分がそうだと分かっているので、不安な分、態度が傲慢になるのである。

最初から、あまりに強くそう思うのも問題かもしれないが、会社に入る目的とは、その会社が傾いても潰れても困らない、どこでもやっていけるスキルを身につけることである。
それを肝に銘じ、会社の中でうまくやることばかり考えないことだ。
残念ながら、実際に仕事をしないと、仕事ができるようには絶対にならないので、そのためには、ある程度は社内のつまらないルールを覚え、それに従わないといけない。
自分が先輩の立場になった時、新入社員に慇懃な態度を取られて満足し、彼らを恫喝して快感を感じるような惨めな先輩になってはならない。
その会社の社内でうまくやれるようになったら、スキルはさっぱり伸びない。
早い話が、「もう終わり」である。
会社の業績はむしろ下降一方の方が、少なくとも若い社員にとってはメリットだらけである。会社がそうであるほど、本当は若い社員に限らず、皆が貴重なことを学べるのだからである。
会社の業績が悪い時ほど、若い社員も含め、全員が個人的スキルの必要性を感じることができるはずなのである(経営者は会社のあり方そのものを反省するのだろうが、今回の話題ではない)。
業績低下に対し、偉い方から、その事態に正面から真摯に向き合う会社というのは、良い会社になり、長く存続する。
だが、そんな会社は少ない。
少なくて良い。
会社など潰れても、他でやっていける能力をつければ良いのである。

ところで、スキルも身に付き、年齢も高くなっても会社にいる目的といえば、修行というか、やはり、魂を磨く実践の場とするためである。
その目的のために特に会社が良いという訳ではないのだが、どんな会社でも、十分にその役に立つし、その会社に居るってことは、神様が特にその職場を用意してくれたのだから、有り難く使わせていただくのが良い。
ちっとはシンドイこともあるだろうが、神様は本来、非常に慈悲深いのであり、正しく魂を磨いていれば、さほどの苦労はさせられない。
だが、快適一方であるはずもない。

総じて考えれば、会社に不満などあろうはずがない。
若い人は、会社がロクでもないほどスキルが身に付き易いのだし、年を取っていても、自分にとって良い(安楽な)会社であれば、さっぱり魂が磨けない。
自我にとって都合の悪い、嫌な会社ほど素晴らしいのである。
会社の不満を口にする者は、若かろうが、年配だろうが、本当に下らない者ばかりである。
言い換えれば、会社や上司・同僚の文句ばかり言う者に大したやつは絶対にいない。
だからあなたは、会社の中で決して不満を言ってはならない。
不満を言っている時、あなたは人間として、坂を転げ落ちていることは絶対に確実なのである。
本当に良い会社とは、これらのことが暗黙に了解され、ある種の緊張感の中にあるのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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