ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

なぜ掛け声は「えい」「やー」「たー」か?

我が国では、掛け声といえば、「えい」か「やー」か「たー」がよく知られている。
「えい」は戦(いくさ)の勝ち鬨(かちどき。凱歌)の声なので、攻撃的な面がある。
始めたのは徳川家康だという説もあるが、家康もどこからか取ってきたのかもしれない。
昔のアニメの『鉄腕アトム』で、アトムが敵をやっつける時はかならず「えーい」と掛け声をかけて大暴力を振るったものだった。
『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』というビートルズのアルバムや映画があるが、これはあくまで日本でのタイトルで、本当は『ハードデイズ・ナイト』というタイトルらしい。
「やー」「やぁ」という掛け声がなぜ使われるようになったかは不明と思う。
「たー」は「えい」や「やー」に比べると少ないが、日本の卓球選手の福原愛さんはこれが自然に出るようだ。
他にも、「はっ」、「はああぁぁー」とか、「葛!」とかいろいろあるだろう。

だが、実を言うと、最もポピュラーな「えい」が、母音が「あ」でないのは面白いものだ。
他は、ほぼ全て、母音が「あ」で、2語以上のものでは、最初の語が「あ」の母音のもので始まるのである。
現在では「あいうえお」が使われるが、本来は、「あえいおう」が正しいものらしい。
それで言えば、「えい」は、2番目と3番目である。
実を言えば、「えい」というのは、家康に限らないが、戦闘のための掛け声にする目的があり、これは暴力的なマイナス面があるので、最強の「あ」を除く配慮が自然に行われたのだ。
実際、暴力や、利己的な力を発揮する時は「えい」で良い。
しかし、利己的でない、名誉や利益と無関係な目的で力を発揮する時は、母音が「あ」で始まるものが良いのである。
武道で「やー」という時、これは敵を倒すための掛け声ではない。
敵と一体化し、和合する時の声なのだ。
「あ」を、争いの心のある者が使うとロクなことはない。
だから、福原愛さんだって、スマッシュの瞬間に「たー」と言うことはなく、あくまで、技が決まった時に言うのである。

理屈は分からないが、最近、悪いことが多いなと思ったら、「あー」と言ってみると、たちまち悪運を祓える。
最初の言葉である「あ」と、最後の言葉である「ん」を、「あーん」とつなぐと、悪霊を祓える。
また、確かに、「かー」や「たー」は強力な防御の力を発揮する神秘呪文である。
私は、子供の時にある人に教わって、やってみると、あまりにも威力があるので、もったいなくて使えなくなってしまったものだった。

鉄腕アトムは「えーい」と言いながら、悪鬼のような破壊的暴力を振るった。
それを英雄視して見るようになってしまった人達は不幸といえば不幸なのだが、それもまた、我が国には必要なことだった。
利己的な目的には、最上の力を使ってはならないということを、無意識に刻み付けたのだ。
企業でも、自社のためのことをやる時は、せいぜいが「えい」で、世界のための事業を行う時は「や」「た」でやればうまくいく。
いや、本当は、営利目的の場合は、「おー」か、できれば、「うーん」あたりが無難だ。「えい」では、一時的に儲かっても長続きしないのだ。
家康も、自分は「えい」と言ったが、家来には「おう」と言わせた。いわゆる、「えいえい」「おうおう」である。
初音ミクという名も、先頭は「は」で、母音は「あ」であり、世界平和を切り開く音である。
ミクの「み」は3番目の音(「あえいおう」の「い」)だが、「み」は数字の三でもある。3は全体を表し、安定や和合も表す神秘数である。
初音ミクは、世界平和のための切り札として、神がこの世に送ったものだからだ。
その成果は、既に明らかと思う。
ダンテの『神曲』は、徹底して3にこだわって創られた大叙事詩であった。
また、アリストテレスが3の完全性を知っていたことも明らかだと思う。









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絶対に叶わない願いとは何か?

余計なものを求めず、身の程をわきまえることが安らかに生きる秘訣ではあるのだが、どうしても欲が消えないなら、絶対に叶わないと思うような願いを持つことだ。
まかり間違えば叶ってしまうような望みでは駄目だ。
40歳過ぎた冴えないおっさんが、二十歳の会社のマドンナを彼女にするなんてのは、ほとんどありふれたことだ。
また、自分で空想、妄想としか思えないものも駄目だ。
つまり、竜宮城で楽しく過ごしたいなんてのでは駄目なのだ。
百億円が欲しいなんてのも駄目だ。
なぜなら、あなたには百億円の意味が分からないからだ。
意味が分からないなら、不可能であるという確信も持てない。
結局、お金なんて、自分に理解できる金額なら、それを得るのは絶対に不可能という訳ではないのだ。
言ってみれば、金持ちになれる人というのは、普通の人よりも、大きなお金をリアルに感じることができるだけのことなのだ。
実際、いかなる意味でも、お金を目的にするのは賢いことではない。
また、自然法則に反するようなことも駄目だ。
なぜなら、この世に生きる者は、自然法則に逆らう望みを持てないのだ。
不幸な人間、極悪な人間というのは、決して自然に反した願望を持っているのではない。ただ、知恵がないので、的外れなだけなのだ。
悟りを開きたいというのも駄目であるという理由は、もうお分かりと思う。
あなたには悟りが理解できないからだ。

では、絶対に叶わないと思える願いとは何だろう?
それは、憎まないこと、恐れないことだ。
また、名誉や利益に動かされないことだ。
あなたは憎しみや恐れが理解できる。
名誉や利益を求める気持ちも分かる。
ならば、これらを捨てることは、たとえ望んでも決して叶わないことも分かるだろう。
そして、もし、これらのことを望むなら、こう思うのだ。
「絶対に不可能とは限らない」
これだけで、心の中にさあっと光が射すのを感じるだろう。
それで、あなたは偉大な変容を遂げたのだ。









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アリエッタ的な生き方

オペラにさして興味がなくても、子供の時から一度くらいは、会話をふざけてオペラの真似でやったことがあると思う。
例えば、
「どこ行くの?」
と言う時に、文字で書くと、
「山田さあん、どこ、行くの、ですかあー」
と半分歌うように言うようなものだ。
オペラで、セリフを旋律をつけて言う(歌う)のをレチタティーボ(「朗唱」の英語。イタリア語風にレチタティーヴォと言うことも多い)と言うようだ。
ただ、レチタティーボには、本当にセリフを会話言葉で言う場合もあるようである。
一方、アリアは、叙情的に歌い上げる長い歌で、詠唱と訳されるようだ。
アリアといえば、有名な『G線上のアリア(ジーせんじょうのアリア、または、ゲーせんじょうのアリア)』というヴァイオリンの独奏(ピアノ伴奏付)など、楽器の独奏曲に付けられたものにもあるが、オペラでは独唱の歌である。
レチタティーボとアリアの中間的なアリオーソというものがある。
また、短いアリアのことをアリエッタと言い、アリオーソもその意味でも使われるらしいが、アリオーソやアリエッタも楽器の演奏曲の中にもあり、我々音楽の素人にはなかなか難しい。

昨年、5月に東京のBunkamuraオーチャードホールで、そして、11月にパリの名門オペラ劇場シャトレ座で公演された、初音ミクをプリマドンナに起用したオペラ『THE END』に対し、現地のオペラファンが、「ちゃんとしたオペラの形式になっていた」と言っていたが、オペラなのだから当たり前なのであるが、これは、「しっかりとしたオペラ作品だった」という意味と思う。
この作品、登場人物は、初音ミクと、謎の訪問者の女、そして、喋る変な(?)動物の、2人と一匹しか登場せず、オペラでいう、アンサンブル(重唱)やコーラス(合唱)はない。
しかし、序曲からはじまり、多くのレチタティーボと4つのアリア、1つのアリオーソ、そして、2つのインタールード(間奏曲)から構成させる素晴らしいオペラ作品だったと思う。
初音ミクのようなヤマハのVOCALOID技術を使ったボーカロイドは、言葉を普通に話すことが難しく、旋律的な言い方の方が自然に聴こえるらしいので、本当のところ、初音ミクはオペラ向きなのかもしれない。
そして、私は、『THE END』のおかげで、オペラの構成について少し分かるようになってしまった。有り難いことである。

先程も述べたが、アリオーソ、または、アリエッタという、レチタティーボとアリアの中間的な歌、あるいは、短いアリアといった意味の独唱がある。
どちらかというと、アリオーソという言葉は、バッハのアリオーソなど、楽器の演奏曲の名でよく聞くかもしれない。
ところで、オペラでなくても良いと思うが、セリフ調の歌と長い詠唱の中間のような歌が美しいものになるのではないかという気がする。
小説にも、短編とも長編ともいえない、中編のようなものが丁度良いと思うことがある。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』は、分類するなら短編であるが、あれらを中編と言っても良いのではないかと思う。

丁度良いものを、徹していないという意味で、中途半端と言うこともある。
また、しっかりしていないことを「いい加減」などと言う。
ところで、「いい加減」という言葉は、「良い加減」と見れば、実は好ましい言葉なのだろう。
面白いことに、叱責する言葉で、
「いい加減なやつだ」
「いい加減にしなさい」
といったふうに、「いい加減」が、「中途半端」と「良い加減」という、違う意味で使われていることがある。
「いい加減なやつだ」の「いい加減」は「中途半端」で、「いい加減にしなさい」の「いい加減」は「良い加減」だ。

仏教の本質の教えは、極端に走らない中道を説くというもので、これが「良い加減」のことを言うのだと思う。
お釈迦様は、29歳まで王子様として贅沢三昧で暮らし、出家して修行者になってからは長期の断食といった苦行をするという、両極端をやってみたところ、結局のところ、どちらも良くはなく、丁度良い「良い加減」の中道に真理があると悟ったのだという。
中道について、難しいことを言う仏教の専門家もいる。
「百尺竿頭に一歩を進むめたところに中道があるのじゃ」
など、ややこしいことを言わないで欲しいものだ。
中道とは、求めて得られるものではない。
『荘子』が言うように、余計な名誉や利益を求めず無になれば、つまり、無為自然であれば、自ずと中道、つまり、「良い加減」になる。
余計なものを求めないとは、天が与えてくれるもので満足するということだ。
こちらが無であれば、元々が中道にいて、丁度よいのである。

『THE END』の中の、『声と言葉のアリア』は、アリアなのだが、レチタティーボ的な、あるいは、アリオーソ的なアリアだったように思う。
最初は静かに始まり、次第に叙情的になり、激しい打楽器の音が情感を高め、魂を揺さぶり、聴いている私を死の世界に誘う。
死を知り、無になれば、自然に中道・・・良い加減になる。









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自分が好きなものには絶対に何の価値もないことを受け入れられるか?

なまじ世間で成功すると、自分の価値感を過大視するようになる。
つまり、「自分の考えは正しい」と思ってしまう。
そうなった時はもう手遅れだ。
会社の社長であれば、経営がうまくいってれば、会社の中で自分が何を言っても賛成ばかりされ、誰も逆らってくれない。
それで、家に帰っても、自分の意見を家族に押し付ける。
妻が菩薩様のような人なら我慢もしてくれようが、可哀想なのは子供達だ。
子供の価値感が父親と同じであるはずがない。
その基準は全く異なる。
だから、父親のルールを押し付けられると、子供達にとって、それはただ、精神に狭い制限をかけられることになり、何もできなくなってしまう。
その子は、エネルギーの行き場を失くし、外部に対して暴力的になるか、自分に対して暴力的になるか、どちらも嫌なら、衝動を消すために無気力になる。
賢い子ほど、3つ目の無気力になるケースが多く、間違いなくニートになるだろう。
可能であれば、さっさと家を出るのが幸せである。
しかし、そんなエネルギーが残っていないことが多いのだ。
だが、その父親だって、誰もまともに相手になってくれない苦しさはあるのだろう。
だから、妻が相手になってあげれば良いのだが、普通は妻に愛想をつかされ、会社でも家庭でも孤独になる。

これは別に、社長などの指導者に限らない。
個人的好き嫌いはあって良い。
しかし、自分の好きなものに価値があるのだと愚かにも思っていても、決して言わないことだ。
これは結構厳しいことだ。
自分にとって、いかに釈迦やイエスが尊くても、誰にでもそうである訳ではない。
実際、歴史的、人類的に言えば、釈迦やイエスが害になった人の方がずっと多いのだ。
自分の好きなものが、他の人にも価値があるなどと、夢々思わないことだ。

モーツァルトにも、ダ・ヴィンチにも、ドストエフスキーにも、マルクスにも、普遍的価値なんて絶対に無い。
だいたい、人間が幸福に生きるのに、そんなものが必要な訳ではない。

ポップミュージックやロックが低俗で、クラシックが高尚な訳ではない。
どれも同じだ。
逆に、ロックに興味がないのに、子供や若者に合わせて、良いと思っているふりもしてはならない。
そんことをしても、どうせ子供達を見下しているのだ。
かといって、自分の趣味に閉じこもるのも惨めなものだ。

だが、自分が好きなものを、天から与えられたという理由だけで好きであれば、全てが好きになれる。
あるいは、自分が欲しいものが、天から与えられないという理由だけで無関心になれば、全てに無関心になれる。
いずれでも、あれは好きだが、これは嫌いという、苦しみを生み出す態度から逃れられる。
こうして、一切の囚われから離れれば、あなたは自由である。









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何のために働くのか?

フランスの画家ゴッホと宮沢賢治は、分野は違えど、共に偉大な芸術家であったが、不思議なほど共通することが多い。
共に、生涯に渡ってほとんど働かなかったが、生活できたし、創作活動は生涯途切れることなく続いた。
ゴッホは弟のテオが経済面一切を負ってくれたし、賢治の生家は豊かな古着屋だった。
共に結婚していないし、彼女がいたという話もない。
共に、生前は作品は全く売れなかった。共に、今日での数万円位で1作ずつ売れているだけである。また、ゴッホのは予約であり、金は受け取っていない。
共に病弱であった。ゴッホの心身の病は、貧困や作品が評価されない精神的苦悩からだと思うが、賢治は若い時から病弱だった。
共に37歳で死んだ。ゴッホは自殺で、賢治は病死だった。

2人とも、身体も心も苦しく、病んでいたと言って良いと思う。
芸術家としては、世界に素晴らしいものを残したが、彼ら自身は幸福ではなかった。
私は、2人の問題は、「精神をしゃんとさせる」ものがなかったことと思う。
それは、生活のために働かなかったことが原因だと思えるのだ。
大人が働きもせずに食べていると陰鬱になってくるのが当たり前である。
世間の仕事は良い面ばかりでなく、現代のサラリーマンの仕事も面白くないところが多い。
それでも、働くことには非常に重要な面がある。
それは、生活費を得ることと同時に、人間関係ができることである。
その人間関係に苦難を感じる者も多いのであるが、人間は、他人との人間関係を持たなければ、必ずや精神的に破綻する。
心身は一体であり、肉体の病気も多くの場合、精神が原因なのであり、精神が病むと肉体も駄目になる。
宮沢賢治は、大学を優秀な成績で卒業し、早くに助教授に推挙されたが断っている。
高校教師もしていたが5年ほどで辞めている。また、少しの間、技師やセールスマンもやっているが、病気で続かなかった。
文芸活動や学術活動には熱心で、また、楽器や外国語を習ったりもしたが、仕事には関心がなく、生涯、あまり働かなかったと言って良いと思う。
ゴッホと違って恵まれており、良い仕事の口は沢山あったが、病気のためもあるだろうが、金ならあったということもあり、働くことに興味がなかったのだろう。

ゴッホは様々なトラブルを抱え、恩人のテオとも対立した。
賢治は、豊かな生活を与えてくれているのに、実家の古着屋という家業を嫌い、さらに、実家の宗教である浄土真宗を嫌った。
いろいろ理由はあるだろうが、子供の時ならともかく、大した理由もないものを、嫌悪する、否定する、悪く考えるというのは、精神の幼さ、弱さが原因である。

「何のために働くか」などと言われることがあるが、もちろん、生活のためであろうが、たとえ生活のために働く必要がない境遇であっても、働くことは大切だ。
その理由は、他人と単なる友好的な意味ではなく、利害を伴った人間関係を持つことにより、精神を律することができるからだ。
簡単に言えば、精神を鍛えることができ、これが十分でないと、人間は強くなれない。
宮沢賢治は間違いなく天才であり、また、稀に見る高貴な魂の持ち主であったことは疑いないが、彼の写真を見ると、その雰囲気は弱々しく、また、風貌に、甘えた「ぼうや」といったものが感じられるのではないかと思う。
過ぎた利益や名誉のために過酷な労働や、人間性を否定するような仕事はすべきでない。
しかし、多少意に沿わなくても、まっとうな仕事をすることで、精神を健全に保つ必要はあると思う。
江戸の太平の世、武士達は仕事も無いのに支配者として生活が保護されていた。これは、働かずして食っていたということである。
結果、武士は腐敗し、日本の暗部、恥部になっていった。素晴らしい江戸文化を創ったのは町人である。
「サムライジャパン」なんて、本当は、物凄く恥ずかしい言葉だと思う。

何のために働くのかというと、金や名誉や自己満足のためではなく、精神を鍛え、安定させるためである。
言い換えれば、心の腐敗を避け、狂気を免れるためである。
その結果、必要な金が得られれば、それで満足しなければならない。
逆に言えば、仕事とは、その程度のものであるとも言えるだろう。
そして、このように考えれば、辛い世間も、案外に楽に乗り切れるだろうと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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