ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

努力不要という言葉はいつも誤解される

岡田式静坐法で知られた、明治、大正の教育家、岡田虎二郎は、「努力、忍耐、克己の必要を全く感じない」と言ったらしい。
しかし、誰だい?こんなことを我々に教えたやつは。
岡田虎二郎は49歳で亡くなったが、死ぬ直前まで元気だったそうだ。
しかし、自分が死ぬことを知っていたのか、死の直前に、書いたものは全部燃やしたらしい。
文書だと、読んだ人が必ず誤解するからという理由と思う。
ところが、虎二郎の、そのような素晴らしい配慮を無視し、虎二郎の本を書いたり、虎二郎語録を作ったりする愚か者がいたということだ。
「努力、忍耐、克己の必要を全く感じない」なんて、いきなり言われたら、虎二郎が言ったように、普通の人は皆、大誤解をする。
しかし、それを本に書いた人は、人々が迷い、虎二郎の教えが誤解されることより、自己満足の方が大切だということなのだ。

虎二郎に意識を向ければ、虎二郎に通じてしまう人もいるかもしれず、そんな人には、虎二郎が言ったことの本当の意味が分かるのだろう。
だが、ほとんど全ての人はそうではないし、虎二郎のことを本に書くような人もそうなのだ。
努力は必要ないと言われると、普通の人は怠惰になれば良いのだと解釈する。
しかし、それでは「怠惰になる努力」だ。
怠惰なら怠惰で良いのだが、怠惰になってはいけないのだ。
ここらになると、普通の人にはもうチンプンカンプンなのだが、虎二郎の本を書いた人も、意味が分かって書いているのではないから、全然説明ができない。
努力ってのはだね、「何かになろう」とすることだ。
「怠惰になる」ってのも努力だ。
「今は年収200万円だが、いつか年収1000万円になる」ってのは努力の意思を感じさせる。
ところで、年収200万円と年収1000万円でどっちが偉いなんてこともない。
たまたまそうあるだけだ。
年収200万円の人が年収1000万円になろうってのも、年収1000万円の人が年収200万円になろうってのも、どっちも努力で、どっちも愚かなことだ。

私が岡田虎二郎について知っていることは、まず、そんな名前の人がいたらしいということだ。
そして、大勢の人達に尊敬されていたようだが、書いたものを、死ぬ前に全部燃やしたってこと。
それだけだ。
それだけで、虎二郎が優れた人であることが分かる。
以前は、私も、虎二郎について書かれた本を何冊も読み、いろいろ憶えていたが、全部忘れてしまった。
虎二郎について書かれた本の記憶は全て捨てたのだ。
それで、深刻な束縛から解放され、自由になったのである。

奥義ってのは、伝えようとして伝わるもんじゃない。
今は、名工とか、武道の達人といった道を究めた人がいないから分からないが、彼らは、いつも一緒にいる弟子や息子にさえ、本当に肝心なことは、どうやったって教えることは不可能なことを知っている。
だから、本当に優れた人、真理を知っている人、悟りを開いた人は皆、高弟達に、「自分で自分の道を見出しなさい」と言うのだ。
ただし、「自分で自分の道を見出しなさい」と言う相手は、相当なレベルの者たちだけだ。
普通の人達には、「あるだけのもので満足しなさい」と教えるのだ。
虎二郎の本を書いたのは、「自分で自分の道を見出しなさい」と言ってもらえなかった凡庸な者たちなのだろう。

虎二郎は、イソップ(童話)は薦めたらしい。アメリカで読んだのだろう。
教育については、小学生の時、ルソーの『エミール』の序文を読んで感銘を受け、生涯の方向を決めたという話もある。
しかし、エミールの誤りは、間接的に、クリシュナムリティが完全に解き明かし、修復していると思う。両方読むと参考になるかもしれない。









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誰もやりたがらないが実に簡単な自由になれる方法

何を幸福と思うかは人それぞれだという。
ある人は、「幸福とは夢中になることだ」と言い、別のある人は、「幸福とは自己満足だ」と言う。
そんなものは、全部嘘か、無知の妄想である。
幸福とは1つしかない。
それは、一切の束縛がないこと。
つまり、自由である。
こう言えば、「最大の富、最大の権力を持って、何でも自由にできることか?」と考える者もいるだろう。
愚かな考え方である。
最大の富や権力を使って、何でも思うがままにすれば、最大の束縛に囚われることになるだろう。

私は、どうすれば自由になれるかを、知的にも分かってしまった。
だが、おかしなことに、特に現代では、それをやろうとする者は、世間の中には全くいないとしか思えないのである。
その方法が難しいのかというと、実に簡単なのである。
例えば、あなたは、学校にしろ、会社やその他の職場にしろ、あるいは、家庭の中にしろ、人間関係の困難に巻き込まれることは、全く難しくはないはずだ。
起こそうと思わなくても、必ずと言って良いほど起こる。
それなら、あなたは確実に自由になれる。
自由になるために必要なことは、人間関係のトラブルから逃げず、解決しようとせず、それをただ冷静に観察することなのだ。
だが、我々は、それから逃げ、できるだけ手早く解決しようとする。
誤魔化したり、騙したり、お世辞を言ったり、あるいは徒党を組んで、力で解決しようとするのだ。
しかし、観察する以外のいかなる方法も、あなたを不自由にし、さらに大きなトラブルを引き起こすのだ。

お金の問題、仕事の成果の問題、健康の問題なども、実は、全て人間関係の問題なのだ。
あらゆる問題の中にある人間関係を、ただ熱心に、しかし、心静かに観察することによって、問題は消えてしまう。
人間関係の問題がなくなった時、あなたは自由である。









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「こわいもの知らず」を取り戻す

「こわいもの知らず」の時代というのは、何をやっても楽しいし、そんな人を見ていると心踊るものだ。
スポーツで言えば、15歳の時の浅田真央さんや、オリックス時代のイチローがそれに近いと思う。
あの頃の浅田さんは、楽しくてスケートをやっていることがはっきり伝わってきて、見ている人達も楽しくさせたと思う。
なぜなら、浅田さんもイチローも、初めはさして期待されておらず、失うものがなくて、文字通り、「何もこわくなかった」からだ。
だが、浅田さんは16歳くらいの頃からは、見ていても、「辛い」としか思えなかった。
イチローは、どういうやり方だったのかは分からないが、マスコミなど、外の声を気にせずにいることができたので、長く、こわいもの知らずでいられたが、やがては、やっぱり楽しそうではなくなってきた。

プロ野球で、大学や社会人で活躍していたり、甲子園の優勝投手や、高校ホームラン記録の更新者となると、初めから期待され、注目されてしまう。
そんな選手達は、みんな最初からつまづき、多くは、大成しないまま消えていく。
田中将大さんが成功したのは、野村克也さんのおかげだろう。
おそらく、野村さは、田中投手に対し、本当にそれほど期待していなかったのかもしれないが、入団した頃は、田中投手をちっとも重く扱っていなかったはずだ。
そもそも、野村さんは、自分がプロ野球球団に入ったのは、優秀な選手達の練習相手に雇われただけで、期待どころか、数年でやめるしかない状態だったそうだ。それは、初めのうちは気楽で楽しかったはずで、野村さんは、そんな時代の良さをよく知っていたのだ。

期待されて入ってくる選手達は、既に栄光を得ている。そんな選手達は、なぜ、やっている本人も、見ている我々も、あまり心躍らないのかというと、そんな選手達は、失う恐れのために奮闘しているからだ。
こういうことなのだ。
期待されておらず、金も栄誉も無い時は、自由を動機にやっている。
しかし、一度、金や栄誉を掴むと、「失敗したら消される」という恐怖を持ってしまい、その恐怖を動機にやっているのだ。
自由が目的であれば、生命力は開き、エネルギーに満ちているが、恐怖の回避が目的であれば、生命力は塞き止められ、エネルギーは枯渇する。
生命エネルギーが足りないと、怪我や病気をするようになり、精神にも躍動感が無くなる。
ミュージシャンなども、いったん成功して人気者になると、「人気がなくなれば消される」という恐怖のために、「うける」曲を創り、歌うようになり、そんな音楽は本当の躍動感がない。
しかし、初音ミクはどれほど人気者になっても、何も恐れない。そして、失うものが無いクリエイター達が次々に新しい曲を創るので、永遠に輝くのである。
初音ミクは、元々がさほど期待されていなかったし、開発会社も、ある程度、初音ミクを手放していたからそうなったのだ。
クリプトン・フューチャー・メディア社が、普通の会社のように、「初音ミクの一切は当社のもの」という態度になれば、ミクもすぐに死んでしまうのである。

自然な状態では、子供には恐怖がないので、生命力に満ちていて、見ていても楽しい。
しかし、大人になれば、「失敗すれば生きていられない」恐怖を知り、身体も心も固くなって老化していく。
だが、老人になって、死をいくらかでも克服すると、また生命力を取り戻し、いわゆる、「子供に返る」。
しかし、死後の世界のことを信じて、死の恐怖を克服するようなことは絶対にない。
あくまで、自然や生命の真理を、頭ではなく、心で感じることによって、あまり死が恐くなくなるのだ。
霊界の研究をやっていたような人の死に際なんて醜いものだ。
しかし、金も名誉もなく、年を取って物欲もなくなった老人であれば、木の葉は枯れて落ちても、また新しい芽が出てくることを美しいと感じるようになり、年を取って死ぬことは、何ら悲惨なことではないことを、自然に分かるようになるのだ。
そんな老人にとって、死後の世界だの、天国だの、極楽浄土だのといったもののことなど、どうでも良いのである。

今は、子供でも、成績の良い優等性は、「優等性でなくなったら僕は不要な存在。もう生きていけない」という恐怖を持たされ、哀れ、子供のうちから恐怖を動機にして生きるようになってしまう。
そんな子供達の生命力は制限をかけられ、若いうちからエネルギーが枯渇し、何をやっても楽しくないし、実際に、何もする気がなくなってしまうのだ。

楽しく、生き生きとしていたければ、自由を目的に生きることだ。
自由は、いくら金や物を得ても得られない。
むしろ、そんなものを多く持てば、それらに縛られてひどく不自由になる。
自由は、精神の囚われを消すことによって得られる。
主義、信念、こだわり、偏愛、個人的嗜好・・・そんなものを捨てれば自由になる。
そのためには、余計な金や物を求めず、栄誉を得ても、そんなものはさっさと捨ててしまうことだ。
そして、一切の権威を認めてはならない。権威こそが恐るべき束縛なのだ。
私はいかなる権威も認めないし、いかなる個人も崇拝しない。
そのようにして、ただ自由と幸福を目的として自然に生きることだ。
そうであれば、生命は花開き、エネルギーに満ちて楽しく生きることができ、何の恐怖もなく死ぬのである。









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トップの政治家がいつもまずいことをしでかすのはなぜか?

安倍総理の靖国参拝については、まずいことをしたものだと思う。
物事を考える時、それについて、もっともっとよく見て、そして、自分の心の反応にはっきり気付いていることだ。
そして、他人に印象付けるようなことを言うのではなく、自由に導くものであれば、その答は正しい。

安倍総理は、英霊(戦死者の霊を敬って言う言葉)に感謝するというのは二の次で、本音は、「靖国参拝しなければ、中国、韓国の圧力に屈したとして日本がナメられる。いや、俺の面子が立たぬ」ということなのだろう。
でなければ、あれほどまずいことができるはずがない。

私は戦死者に対しては、感謝ではなく、気の毒だと思っている。
そう正しく考えれば、当時の国家や軍部の愚かさを、戦争犠牲者への感謝にすり替えさせられることはない。
ここが肝心なのである。

戦死者も、そして、現代の日本人も気の毒なのだ。
戦争の時の兵隊達は、国家や軍部によって、妄想でしかない馬鹿げた教義や信念を叩き込まれて、正しいと思って勇敢に戦ったのだ。
そして、現代の我々も、国家によって、豊かで幸福な国の国民は、ガンガン美食・大食し、自動車も10年20年と乗るのはみっともなくて、地位に見合った立派な車を短期間でどんどん買い替えるのが素晴らしいことだという、愚かな教義や信念を叩き込まれて、その通りにやっているのだ。
愚かな妄想を叩き込まれているということに関し、戦争中の兵隊も、現代の世間の人達も全く同じなのだ。

だが、今は私のように、ほんの少しの注意力を持っていれば、世間の教義や信念の欺瞞を見破り、世間の人達から見れば驚くべき少食、菜食によって完全に健康になれ、小さな自動車を大切に乗れば、お金も節約できる。実際は、私は母親が脚が悪いので自動車を所有しているだけで、普段、ほとんど車を使わずよく歩くので、強健な身体でいられるのだ。

総理が「日本の面子、俺の面子」と思えば、中国や韓国だって、「国の面子、主席の面子、大統領の面子」にかけて反発してくるのは当たり前だ。
そんなことは、いくらなんでも、小泉総理が参拝した時のことを考えれば、火を見るより明らかだ。
いまやもう、日中関係、日韓関係は、修復のしようがない。
面子や利益より、仲良くすることが一番大切なのに、安倍総理は、本当にまずいことをしてしまった。

安倍総理に同調する者は、国家の権威を自分の権威と錯覚しているのだ。
私は、日本も中国も韓国も、その他のいかなる国も同等に幸福であるべきと思う。
そして、私は、日本の権威も、中国の権威も、韓国の権威も、いかなる国の権威も、また、いかなる組織、いかなる個人の権威も決して認めない。
私は日本人ではない。
地球星人である。
その視点から見れば、日本の総理とやらも、そして、彼に同調する人達は、自分が面子を失うことの恐怖によって束縛された人達であることが分かるのである。
日本だけが良くなるということは絶対にない。
日本をよくしたいなら、中国も韓国も、あらゆる国がよくならなければならない。
その大前提を忘れてはならない。

せっかくSMAPが、中国や韓国の映画俳優やポップスター達が、そして、初音ミクが、相手国の人々に素晴らしいサービスをして、心を合わせようとしても、政治家がいつもまずいことをしてしまう。
それは、まずい政治家を選んだ我々の責任である。
知名度や宣伝や派手なパフォーマンスだけで政治家を選んできた我々が、もっと自分の心をよく観察し、間抜けなことをしないようにならなければならない。









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学校優等生は能力を消すための実験動物

能力開発に対する人々の関心は高いが、そんな人達が、ことごとに能力を消す方法ばかりやっているし、やらされている。
その意味が分かるだろうか?

能力を高める方法は、根本的にはただ1つで、それは、「予期(予想)せぬ出来事に対処する」ことだ。
だが、誰もが、予期できることばかりやろうとする。
学校でそんなことばかりやるよう「調教」されたからである。
予期できないことを恐れ、そんなものから逃げるよう躾けられてしまっているのである。
学校では、こんなことを言うのではないか?
「今日の数学の問題、予想外だったなあ」
誰かがそう言うと、みんなが同調する。
高校の数学の問題に、小学校の理科の問題でも出たってのかい?
いや、それですら、大して予想外とは言えない。
数学の試験が始まったと思ったら、生徒達は1人ずつ単独でアマゾンのジャングルに連れていかれて、そこで一ヶ月間放置され、生き延びられるかどうかがテストである・・・こんな感じなら、生徒達の能力も「少しは」高まるだろう。
ピアノコンクールに出場したら、言葉も通じないどこか外国の低所得者層ばかりの町に住まいが用意され、ピアノ教室を開いて、自分で生徒を勧誘して食べているかどうか試される・・・こうであったら、世界の芸術レベルも上がるかもしれない。
このレベルでなんとか「予想外」と言えるのだ。
ところが、学習塾や予備校では、「受験予想問題」なんてものを生徒に教え、それがまあ、見事に当ってしまう。それほどまでに予想内のことばかりやらされた生徒達が、たとえ受験に合格し、良い学校を出ても、飼育された動物が野生で生きていけないのと同じで、社会に出ても決まりきったことしかできないし、それどころか、学校の中だけでしかやっていけないようになってしまい、一生ニートになったりするのだ。そんな者達が、今はいっぱいいる。

会社では、「あの部長が急に退職するなんて予想外だなあ」と、馬鹿なことを言ったりする。
その程度は、DeNAが巨人に勝つのと同じくらいありふれたことだ。
5位の選手が3位の選手を差し置いてオリンピック代表に選ばれたって何の意外性もない。
総理大臣が靖国神社に参拝したことを、予想外とか予想内なんて言うのは、哀れなほど世間に飼い慣らされた肥満したネズミのようなものではないだろうか?
昨日まで教育会社だったのが、今日からは麻薬密造会社になったってくらいで、ちょっぴり「予想外」と言うのだ。
本当に能力のある者から見れば、その程度は、愉快とは思うかもしれないが、驚くようなことでは全くない。

通勤電車に乗っていて、どこかの駅についたら、マシンガンを持った大勢のテロリスト達が現れたとしたら、私なら、「うむ、来たか」くらいに思うだろう。
その程度で驚いたりはしない。
だが、他の人達はと見ると・・・いや、予想外、予想内という以前に、スマートフォンに集中してたり、間抜けな顔で眠りこけ、あるいは、悪臭を撒き散らしてパンを食べることに夢中で気付きもしないうちに撃ち殺されるのだ。
私は、逃走方法を冷静に考えるだろう。
もし、本当に予期せぬことだったら、考えても仕方がないので、考える前に直観で動くだろう。
それでうまくいくかどうかは全く分からない。しかし、他の者たちに比べ、緊急事態を切り抜ける可能性は10%でも高くなるかもしれない。
たとえうまくいかなくても、納得して死ぬのである。

能力を高め、好ましい成果を得たいなら、注意深くあることだ。
感覚を澄み渡らせ、眠り込まないことだ。
そうして、災厄に備え、好機を待つ。
本当に注意力が鋭敏になっているなら、何が起こったとしても、心は驚いたり躍動したりするかもしれないが、静かな精神もそこにあるのである。
常日頃、こうあることを自己開発というのである。
世間で言う、あるいは、書籍に書かれている自己開発、能力開発は全て嘘か間違いであり、何の価値もない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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