「あなたには愛がない」なんて、そうそう言われる言葉ではないだろう。
しかし私は、2度ほど言われたことがある。どちらも、立派な人からだった。
その時は、私はいずれも無反応であった。おそらく、何も感じなかったのだが、そう言われたことは憶えているのだ。
珍しいことを言われたから記憶しているというなら、その時、もっと感動しそうなものである。
やっぱり、なかなか的を射ていたのだろう。
そして、あれから随分経って、ようやく分かったのだ。
その通りだなあと。
「愛とは何か?」なんてことは、人類の永遠のテーマの1つだ。
なぜそうなのかというと、愛なんてものは理解し難いからだろう。
その理解し難いものを、「あんたにはそれがない」と言われるのだから迷惑な話のはずだが、案外にそうでもない。
アイルランドの詩人、W.B.イェイツがこんなことを言っていたらしい。
「愛は神の領域であり、人間には理解できない。しかし、憎しみは人間の領域のものだ。人間は愛することはできないが、憎むのをやめることはできる」
「愛憎」とか言うが、愛の反対が憎しみかというと、おそらく正しくはないが、仮にそう考えるのはそれほど悪くないと思う。
愛というのは、むしろ「調和」であると思う。
まあ、言葉というものは、いい加減なものだから、ある程度の「遊び」とか「余裕」を持って扱わねばならないこともある。
もっとも、そのいい加減な言葉をいい加減に使う者が多いが、あくまで、大切には使わないといけない。
本論に戻るが、つまり、「愛がない」ってのは、「憎しみが強い」とか「バランスが悪く歪んでいる」といったようなことだろう。
では、その足りない愛を持つにはどうすれば良いのだろう?
「私は愛のある人間になる」
なんて言っても、何の意味もない。
「愛を持て」
なんて人に言うのは、始末に負えない馬鹿だ。
そんな者には、
「あんた、持ってるのかい?」
と言いたくもなるだろう。
さて、いよいよ、重要な核心に迫る。
邪悪な人間に、
「善良になれ」
などと言ったり、
「善良になります」
と言わせても、これほど無駄なことはないのだが、学校などでは、そんな指導がされているのだ。
責任感のない人間が、
「責任感のある人間になります」
と言っても、決してそうはならない。
怠惰な人間が、
「勤勉になります」
と千回言ってもそうなるはずがない。
いつも約束を破る人間が、
「次は必ず約束を守ります」
と言っても、誰が信じるものか。
しかし、世間・・・特に学校では、こんなあり得ないことを、さも起こりうることとして、不条理で無益な指導をするのだ。
大事なことが、すっぽり抜け落ちているのだ。
約束を守らない人間に、「約束を守れ」とか、「約束を守ります」と言わせてもそうにもならない。
そうではなく、「私は約束を守らない人間だ」としっかり認識することが大切なのだ。
責任感がないなら、「私は責任感がない」と、自分ではっきりと認めるのだ。
邪悪な人間は、「俺は邪悪でない」と言うのだ。
だから、ずっと邪悪なままなのだ。
そんな人間に、「善良になれ」と言うのを、馬の耳に念仏って言うのだ。
それどころか、
「何を!俺は善良だ。邪悪なのはお前だ」
と反発されるだろう。まあ、実際、両方共邪悪なのだろう。
本当に大切なことは、邪悪な人間が、自分をよく観察し、「嗚呼、俺は邪悪だ」と理解することなのだ。
そして、「俺は邪悪だ」と、目覚めた意識でもって自分で言った時、何かが起こるのである。
私は、「あんたには愛がない」って言われたことに対し、ようやく、
「そうだ、私には愛がない」
「私の心は、憎しみに満ちている」
「私の心は、歪んで逸脱している」
と認識したのだ。
しばらく、自分の心をよく観察したからだ。
「私はあまりに自己中心主義だ」と分かれば、何かが起こり、心が広くなる。
「俺は本当に無能だ」と実感すれば、既に有能だ。
「自分がクビになるのは当然だ」と分かれば、ただいまより、あなたは会社に必要不可欠な人間だ。
「僕は、彼女に相応しくない」と知れば、彼女はあなたのものである。彼女がそれに見合うほどのものであればね。
ただし、空念仏のように、「僕は彼女に相応しくなーい」と言っても、彼女が君のものになるのは、彼女が、本当はとんでもないひどい女だった場合だけだ。
「俺は首でとーぜんだあ」と言うようなやつは、もちろんクビにすべきである。
利得など忘れ、まず、自分の心をよく観察し、自分をよく理解することである。
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しかし私は、2度ほど言われたことがある。どちらも、立派な人からだった。
その時は、私はいずれも無反応であった。おそらく、何も感じなかったのだが、そう言われたことは憶えているのだ。
珍しいことを言われたから記憶しているというなら、その時、もっと感動しそうなものである。
やっぱり、なかなか的を射ていたのだろう。
そして、あれから随分経って、ようやく分かったのだ。
その通りだなあと。
「愛とは何か?」なんてことは、人類の永遠のテーマの1つだ。
なぜそうなのかというと、愛なんてものは理解し難いからだろう。
その理解し難いものを、「あんたにはそれがない」と言われるのだから迷惑な話のはずだが、案外にそうでもない。
アイルランドの詩人、W.B.イェイツがこんなことを言っていたらしい。
「愛は神の領域であり、人間には理解できない。しかし、憎しみは人間の領域のものだ。人間は愛することはできないが、憎むのをやめることはできる」
「愛憎」とか言うが、愛の反対が憎しみかというと、おそらく正しくはないが、仮にそう考えるのはそれほど悪くないと思う。
愛というのは、むしろ「調和」であると思う。
まあ、言葉というものは、いい加減なものだから、ある程度の「遊び」とか「余裕」を持って扱わねばならないこともある。
もっとも、そのいい加減な言葉をいい加減に使う者が多いが、あくまで、大切には使わないといけない。
本論に戻るが、つまり、「愛がない」ってのは、「憎しみが強い」とか「バランスが悪く歪んでいる」といったようなことだろう。
では、その足りない愛を持つにはどうすれば良いのだろう?
「私は愛のある人間になる」
なんて言っても、何の意味もない。
「愛を持て」
なんて人に言うのは、始末に負えない馬鹿だ。
そんな者には、
「あんた、持ってるのかい?」
と言いたくもなるだろう。
さて、いよいよ、重要な核心に迫る。
邪悪な人間に、
「善良になれ」
などと言ったり、
「善良になります」
と言わせても、これほど無駄なことはないのだが、学校などでは、そんな指導がされているのだ。
責任感のない人間が、
「責任感のある人間になります」
と言っても、決してそうはならない。
怠惰な人間が、
「勤勉になります」
と千回言ってもそうなるはずがない。
いつも約束を破る人間が、
「次は必ず約束を守ります」
と言っても、誰が信じるものか。
しかし、世間・・・特に学校では、こんなあり得ないことを、さも起こりうることとして、不条理で無益な指導をするのだ。
大事なことが、すっぽり抜け落ちているのだ。
約束を守らない人間に、「約束を守れ」とか、「約束を守ります」と言わせてもそうにもならない。
そうではなく、「私は約束を守らない人間だ」としっかり認識することが大切なのだ。
責任感がないなら、「私は責任感がない」と、自分ではっきりと認めるのだ。
邪悪な人間は、「俺は邪悪でない」と言うのだ。
だから、ずっと邪悪なままなのだ。
そんな人間に、「善良になれ」と言うのを、馬の耳に念仏って言うのだ。
それどころか、
「何を!俺は善良だ。邪悪なのはお前だ」
と反発されるだろう。まあ、実際、両方共邪悪なのだろう。
本当に大切なことは、邪悪な人間が、自分をよく観察し、「嗚呼、俺は邪悪だ」と理解することなのだ。
そして、「俺は邪悪だ」と、目覚めた意識でもって自分で言った時、何かが起こるのである。
私は、「あんたには愛がない」って言われたことに対し、ようやく、
「そうだ、私には愛がない」
「私の心は、憎しみに満ちている」
「私の心は、歪んで逸脱している」
と認識したのだ。
しばらく、自分の心をよく観察したからだ。
「私はあまりに自己中心主義だ」と分かれば、何かが起こり、心が広くなる。
「俺は本当に無能だ」と実感すれば、既に有能だ。
「自分がクビになるのは当然だ」と分かれば、ただいまより、あなたは会社に必要不可欠な人間だ。
「僕は、彼女に相応しくない」と知れば、彼女はあなたのものである。彼女がそれに見合うほどのものであればね。
ただし、空念仏のように、「僕は彼女に相応しくなーい」と言っても、彼女が君のものになるのは、彼女が、本当はとんでもないひどい女だった場合だけだ。
「俺は首でとーぜんだあ」と言うようなやつは、もちろんクビにすべきである。
利得など忘れ、まず、自分の心をよく観察し、自分をよく理解することである。
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