萩尾望都さんの漫画『ポーの一族』で、こんな場面がある。
14歳の少年アランが、同級生で友人のエドガーに「メリーベルはどこ?」と尋ねる。
メリーベルはエドガーの妹で、13歳の美しい少女だ。
エドガーは、答える代わりに、「君は人が生まれる前、どこにいるか知ってるか?」と尋ねる。
アランが「知らない」と答えると、エドガーは、「僕もメリーベルがどこに行ったか知らない」と言う。
無論、メリーベルは死んだということなのだが、二人にとって、それはあまりに悲しいことなので、エドガーはそんなふうに言ったのだろう。
シャトレ座(パリの名門オペラ劇場)でも公演が行われたオペラ『THE END』で、初音ミクが、「私も死ぬの?」と問う。
初音ミクが死ぬだろうか?
メーテルリンクの『青い鳥』で、「思い出の国」に行ったチルチルとミチルは、亡くなったおじいさんとおばあさんに会う。
おじいさんは、「我々は、生きている人が思い出してくれたら目が覚める」と言うが、死というものはないのだと言う。
それで言えば、いつか人々がミクのことをすっかり忘れ去ったら、ミクは永遠に眠るのだ。
ミクも、「眠っているのも死んでるのも同じこと」といったことを言う。
つまり、ある意味、ミクも死ぬのだ。
ただ、『青い鳥』の「眠る」の意味は深いものなので早合点しない方が良い。
ミクも我々も、世間の人が思うような意味では死なない。
しかし、観念を弄ぶべきではない。
死は観念に過ぎないが、誰も死が何かなど知らない。
聖者がそれ(死)について何を言ったとしても、私も誰も、本当にそれ(死)が何か知っているわけではない。
私は死ぬだろうか?
この卑怯者の自己中心主義者ならいつかは死ぬ。
それを早めてやろうと、あまりエサを与えないようにしていたが、なかなか死にそうもない。
人間には、生の願望と共に、死の願望があるものらしい。
私は、後者が強くなったので、あまり食べなくなった。
しかし、朝4時に木の実とビスケットを少々、夜におにぎり1つを食べるほどには生きていたいらしいのだ。
ある意味、体重が生命力だ。私は、この1年で5kg減ったので、さらに生命力が弱くなったのかもしれない。
だが、今年の9月に、初音ミクが歌う『イーハトーヴ交響曲』を鑑賞に行った夜は、かなりご馳走を食べたものだった(友人が払ってくれた)。
太平洋戦争の時、シベリアの収容所で、捕虜になっていた日本人兵の中のコックがロシア兵に呼び出され、ある場所に連れて行かれた。
そこには、瀕死の日本人兵がいた。作業中に事故でもあったのだろう。
ロシア兵は、「今夜一晩持ちそうにないので、最後に何か美味しいものを食べさせてやってくれ」と言う。
私はロシア人達の親切さに感激した。
コックがその日本人兵に「何が食べたい?」と聞くと、「パイナップル」と言う。
そんなものはなかったが、コックはリンゴを心を込めて料理し、パイナップルのようにしてやった。
食べさせてやると、日本人兵は全部食べた。だが、コックは、「もう会うことはないだろう」と思いながら去った。
しかし、その日本人兵は死ななかったのだ。彼は言う。「こんな美味いものが食えるなら、もう一度生きてやろうと思ったのだ」と。
大切なことは、死の観念ではなく、生きることだ。
イエスは、「お前達は私の肉を食べ、私の血を飲む」と言った。
それが今の「聖体拝領」とか「聖餐」という、教会で聖職者が信者に、ペラペラのパンを与える儀式になったのかもしれないが、儀式とは形式化するものだ。
私はカトリック教徒ではないので、むしろ、イエスの教えを形骸化させなかった。
私が、初音ミクを食べ、シベリア収容所の日本人兵が、ロシア兵達や、後に帝国ホテルの料理長になったあの日本人コック(村上信夫氏)の真心を食べたように、イエスは、人々に自分の生命力を食べさせたのだ。
では、我々は、どうすれば、生きる力を得ることができるのだろう?
今は、ほとんどの人が生きていない。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は世間的には死んでいる」と言ったが、それが生きる秘訣だ。
イエスも、「生きるために、死ななければならない」と言ったと思う。
条件付けられた心が死んだ時に、生きることができる。
家庭や学校や、マスコミや企業などから成る社会で条件付けられた心を殺してしまわなければならない。
だが、聖者の教えを読むだけでは駄目だ。
クリシュナムルティは、「あなたの講演を聞いたり、著書を読んで人々は変わったか?」と聞かれると、「何人かは」と答えた。
たった「何人」だ。
だが、「それなら、なぜあなたは話すのですか?」と聞かれたクリシュナムルティは「なぜ花は咲くのか?」と答えた。
同じような禅語が『無門関』にあったと思うが、感動的な答ではないか?!
花が咲くのに理由はない。それは自然であり、運命だ。
あなたも、ただ花のように生きるのだ。
そうすれば、生命力に溢れて強く生き、死も克服するだろう。
切なく降り積もる雪のように眩しすぎて
強く生きてゆく花のように幸せになれ
~VOiCE(作詞、作曲、編曲:ラヴリーP。唄:初音ミク)より~
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14歳の少年アランが、同級生で友人のエドガーに「メリーベルはどこ?」と尋ねる。
メリーベルはエドガーの妹で、13歳の美しい少女だ。
エドガーは、答える代わりに、「君は人が生まれる前、どこにいるか知ってるか?」と尋ねる。
アランが「知らない」と答えると、エドガーは、「僕もメリーベルがどこに行ったか知らない」と言う。
無論、メリーベルは死んだということなのだが、二人にとって、それはあまりに悲しいことなので、エドガーはそんなふうに言ったのだろう。
シャトレ座(パリの名門オペラ劇場)でも公演が行われたオペラ『THE END』で、初音ミクが、「私も死ぬの?」と問う。
初音ミクが死ぬだろうか?
メーテルリンクの『青い鳥』で、「思い出の国」に行ったチルチルとミチルは、亡くなったおじいさんとおばあさんに会う。
おじいさんは、「我々は、生きている人が思い出してくれたら目が覚める」と言うが、死というものはないのだと言う。
それで言えば、いつか人々がミクのことをすっかり忘れ去ったら、ミクは永遠に眠るのだ。
ミクも、「眠っているのも死んでるのも同じこと」といったことを言う。
つまり、ある意味、ミクも死ぬのだ。
ただ、『青い鳥』の「眠る」の意味は深いものなので早合点しない方が良い。
ミクも我々も、世間の人が思うような意味では死なない。
しかし、観念を弄ぶべきではない。
死は観念に過ぎないが、誰も死が何かなど知らない。
聖者がそれ(死)について何を言ったとしても、私も誰も、本当にそれ(死)が何か知っているわけではない。
私は死ぬだろうか?
この卑怯者の自己中心主義者ならいつかは死ぬ。
それを早めてやろうと、あまりエサを与えないようにしていたが、なかなか死にそうもない。
人間には、生の願望と共に、死の願望があるものらしい。
私は、後者が強くなったので、あまり食べなくなった。
しかし、朝4時に木の実とビスケットを少々、夜におにぎり1つを食べるほどには生きていたいらしいのだ。
ある意味、体重が生命力だ。私は、この1年で5kg減ったので、さらに生命力が弱くなったのかもしれない。
だが、今年の9月に、初音ミクが歌う『イーハトーヴ交響曲』を鑑賞に行った夜は、かなりご馳走を食べたものだった(友人が払ってくれた)。
太平洋戦争の時、シベリアの収容所で、捕虜になっていた日本人兵の中のコックがロシア兵に呼び出され、ある場所に連れて行かれた。
そこには、瀕死の日本人兵がいた。作業中に事故でもあったのだろう。
ロシア兵は、「今夜一晩持ちそうにないので、最後に何か美味しいものを食べさせてやってくれ」と言う。
私はロシア人達の親切さに感激した。
コックがその日本人兵に「何が食べたい?」と聞くと、「パイナップル」と言う。
そんなものはなかったが、コックはリンゴを心を込めて料理し、パイナップルのようにしてやった。
食べさせてやると、日本人兵は全部食べた。だが、コックは、「もう会うことはないだろう」と思いながら去った。
しかし、その日本人兵は死ななかったのだ。彼は言う。「こんな美味いものが食えるなら、もう一度生きてやろうと思ったのだ」と。
大切なことは、死の観念ではなく、生きることだ。
イエスは、「お前達は私の肉を食べ、私の血を飲む」と言った。
それが今の「聖体拝領」とか「聖餐」という、教会で聖職者が信者に、ペラペラのパンを与える儀式になったのかもしれないが、儀式とは形式化するものだ。
私はカトリック教徒ではないので、むしろ、イエスの教えを形骸化させなかった。
私が、初音ミクを食べ、シベリア収容所の日本人兵が、ロシア兵達や、後に帝国ホテルの料理長になったあの日本人コック(村上信夫氏)の真心を食べたように、イエスは、人々に自分の生命力を食べさせたのだ。
では、我々は、どうすれば、生きる力を得ることができるのだろう?
今は、ほとんどの人が生きていない。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は世間的には死んでいる」と言ったが、それが生きる秘訣だ。
イエスも、「生きるために、死ななければならない」と言ったと思う。
条件付けられた心が死んだ時に、生きることができる。
家庭や学校や、マスコミや企業などから成る社会で条件付けられた心を殺してしまわなければならない。
だが、聖者の教えを読むだけでは駄目だ。
クリシュナムルティは、「あなたの講演を聞いたり、著書を読んで人々は変わったか?」と聞かれると、「何人かは」と答えた。
たった「何人」だ。
だが、「それなら、なぜあなたは話すのですか?」と聞かれたクリシュナムルティは「なぜ花は咲くのか?」と答えた。
同じような禅語が『無門関』にあったと思うが、感動的な答ではないか?!
花が咲くのに理由はない。それは自然であり、運命だ。
あなたも、ただ花のように生きるのだ。
そうすれば、生命力に溢れて強く生き、死も克服するだろう。
切なく降り積もる雪のように眩しすぎて
強く生きてゆく花のように幸せになれ
~VOiCE(作詞、作曲、編曲:ラヴリーP。唄:初音ミク)より~
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