ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年10月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『浦島太郎』と『星の銀貨』

夢の中で、驚くほど美しいものを見ることが稀にある。
だが、それを憶えている場合、その美しいものは、マンダラや星、あるい、女神といった形をとっていたのだろうが、それは、目覚めた後で心がとりあえず、そのような形に創り上げたのである。
本当のことを言えば、「何を見たのか全く憶えていないが、最高最上の美であった」というものなのだろう。
昔からよく言う、「絵にも描けない美しさ」、「言葉にできない美しさ」とは、そのことである。

浦島太郎が訪れた竜宮城が、「絵にもかけない美しさ」であったことが童謡に歌われている。
それなのに、その光景を絵にすることが何度もされたのだから(多くは安っぽいものだ)、罪な話ではあるが、まあ、それも仕方がなかったのだろう。
竜宮城とは、心の深奥にある神秘な世界で、精神分析学では、そこは無意識の領域であるから、顕在意識(自我、心)で意識することはできない。
だが、人間はそことつながっているのであり、その領域に入り込むことは可能なのであるが、現代人は、その世界との間に厚い壁を作り、そこから離れてしまっているのだ。
浦島太郎は、亀を可哀想と思って慈悲をかけ、何らかの犠牲を払って亀を助けたのだ(助け方には様々なバリエーションがある)。
それが、心の奥深くの光に満ちた領域に入り込む秘訣である。
グリム童話の『星の銀貨』では、(グリムが創作を加えた部分もあるのだが)貧しいが心優しい少女は、乞われるままに、持っているものを、衣服を下着まで含めて全て差し出してしまった時に、神が少女の心を愛でて、銀貨に象徴される宝を授けるが、話の真意としては浦島太郎も同じである。
つまり、自我にとっての犠牲を払うことが、エリュシオン(楽園)行きの切符と引き換えということになる。

『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、クリシュナの世界に入る方法は、「我を愛せよ」「我のみ崇めよ」「我を常に想え」であると言う。
法然や親鸞の教えでは、ただ、阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよとなる。
これらは、浦島太郎や、星の銀貨の、「絵にもかけない」世界に行く方法とは、一見異なるように見えるが、実は、全く同じことである。

クリシュナのみ想い、愛するとは、自分のことを忘れ、自分を愛さないことだ。
阿弥陀如来を信じ切るには、自分の力を一切頼らず、ただ、阿弥陀如来の力にすがることができなければならないと、法然も親鸞も教えているのである。
自分のことを忘れ、持っている全てをあげてしまった『星の銀貨』の少女は、ただ神のみを見ていたのだ。
自我は、なかなか自分を忘れることはできず、自分を愛さずにはいられず、自分に力があると思うことをやめられない。
だが、そんな自我の想いを犠牲にし、殺してしまえば、竜宮城への門は開かれ、神は輝く宝を降らせる。
しかし、浦島太郎は、せっかくの幸福の中にあって、世間を思い出し、そこに返ろうとした。
ただし、浦島太郎には最後のチャンスが与えられており、世間には、自分が愛しいと想っていたものはもう無いのだと気付き、さっさと竜宮城に戻る道が与えられていた。
ところが、神の配慮も虚しく、太郎は未練がましく玉手箱を開けてしまったので、世間の人間として死んでしまい、永遠の命を得そこなったのである。

我々の心の奥深くには、間違いなく、天国、エデン、極楽浄土とでも言うべきものがある。
それが、シラーの詩による、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の『歓喜の歌』にあるように、「神の火花」、「楽園の乙女」という表象として現れることがある。
だから、普段、我々の内にある高貴なものに近い、優れた絵や音楽や文章に触れていれば、内なる神と和し(親しくなり)、同時にそれは、穢れたものを消していくことになる。
だが、注意すべきことがある。
超高級車は、本来は制作者の心の深奥にある神の意識が反映したものであるが、虚栄心でもってそれを入手し、乗れば、心は穢れ、神の世界との通路は断たれる。
最高のクラシック音楽を聴いても、それで、「俺は高尚なのだ。愚民とは違うのだ」と傲慢になれば、やはり同じである。
そんな者達の、なんと多いことか!
ベンツやフェラーリに乗っても良いが、それをただ純粋に楽しむことだ。
素晴らしい音楽を、ただ無心に聴き、美しい詩をただ静かに味わうことだ。
そして、それらの音や言葉の中に、心を溶かしきって消してしまうのである。
そうすれば、天の岩戸から天照臣神が出てきたように、あなたの中の貴いものが現れる。そして、決して後ろに戻ってはならない。









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老子もバガヴァッド・ギーターも、元々あなたの中にある

本を読むってことは、その本を、その場で自分が書くってことだ。
どういうことか分かるだろうか?
本が外にあるのではない。その本が、自分の中にあるのだ。
絵画を見れば、あなたの中にある神秘な存在が、その瞬間にその絵を構築して、あなたの網膜に映してみせるのである。
音楽を聴けば、あなたは、その曲の作者になっている。
ある楽章のある音を、どういうつもりでその音にしたのか、あるいは、全く考えずに音が浮かんだのか、そんなことも全部分かるだろう。
エマーソンは述べている。シェイクスピアを読む子供達を観察すれば、彼らがシェイクスピアそのものになっているのがはっきり分かると。
そして、彼はこうも言う。
いかなる英雄の物語を読んでいても、それはあなたの物語でしかないのだと。
人と人が会うことは、ジュピター(神々の王)とジュピターが会うことだ。
そう思えと言うのではない。そうであることを知べきなのだ。

我々が目を向けて見たものは全て、内なる何者かが、一瞬で造り上げた結果である。
もし、悪いもの、嫌なものを見ているなら、あなたの中にそれがあるだけのことだ。丁度、フィルムに光が当たって、スクリーンに像を結んだようなものだ。
だからって、安っぽい成功哲学が言うように、そのフォルムを変えるなんてことが意図的にできる訳ではない。
しかし、変えてもらうことはできる。
英国の作家コリン・ウィルソンは、同国の偉大なSF作家H.G.ウェルズを崇拝していて、そのウェルズの『ポーリーの物語』(未翻訳と思う)の中の言葉を、若い時からの心の支えにしていた。
それは、
「人生が気に入らないなら、変えてしまえばいい」
だった。
とにかく、あなたが見るもの、聴くものは、全てあなたが創ったのだ。
それなら、一流の本を読み、一流の音楽を聴くことだ。
そんな素晴らしいものが、「元々」あなたの中にあるのだ。
どんなに優れた交響楽団の、どんなに素晴らしい演奏だって、何度も聴けば、あなたは心の中で、その演奏をそっくりそのまま再現できる。それは、憶えたのではなく、元々、あなたの中にあったからだ。
惚れ惚れする音楽を聴いたなら、それを創り出した、あなたの内にある力に惚れ惚れとすれば良い。
難しい漢字で書かれた仏教の経典や、中国の老子を見ても、あなたは、その意味をチャンと分かっている。
今、あなたの内なる神が、それを一瞬で書いたのだからだ。
その神と和らげば(親しめば)、何でも分かる。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者ベアード.T.スポールディングは、4歳の時の貴重な思い出を語っている。大学予備校の教師にアルファベッドを見せられ、ベアードが、それが分からないと言うと、教師は、「そんな態度からは、今日限りサヨナラしなさい。自分はチャンと分かっているという態度でいなさい」と彼をたしなめた。
ベアードはその態度でいたから、名門大学を14歳で卒業できたのだ。

まずは、『バガヴァッド・ギーター』や『老子』を読み、それらが元々、自分の中にあることを確かめると良いと思う。
人類至高の知恵が既に自分の中にあるのだ。それは驚きであるかもしれないが、それが事実であり、これほど嬉しいことはないのである。









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やって良いことと悪いことは何で決まるのか?

ある中学校は、昼食は弁当持参ということになっていた。一応言っておくと、パンなどを売る購買施設もなかった。
その学校で、数名の生徒のグループが、カップラーメンを持参して昼食としていた。
その様子は、「この方が美味くていいじゃないか」と、嬉々として自慢げに食べていたようだ。

当然、ほとんど全ての学校で、カップラーメンを昼食にすることは間違いであるが、なぜ間違いかなんて説明することじゃあない。
しかし、生徒どころか、その親が、「なぜいけないの?説明してよ」と言うことも有り得るんだろうなあと思う。
数日後、学校は全生徒の保護者に対し、「お母さんの愛情のこもったお弁当を持たせてやって下さい」という通達をした。
言うまでもなく、愛情の問題ではない。
また、学校(実際は、この問題を押し付けられた教師)が言い方(説明の仕方)に困るようなことでもない。
当たり前のことだが、学校は一人一人の生徒に熱湯を用意している訳ではない。当たり前だから、説明するようなことじゃあない。

学校で、携帯電話やスマートフォンを充電する生徒もよくいると思う。
禁止する以前の問題だが、いちいち禁止と明言しなければ、それをする生徒・・・いや、大学生にもなって、そんなことをする者もいる。
以前、あるコンビニエンスストアで、店の外ではあったが、店所有の電気コンセントから携帯電話の充電をして逮捕された若者がいた。
逮捕された若者は驚いたのかもしれない。そして、その数円であろう電気代を「払うわよ」と主張するかもしれない。無論、電気代の問題ではない。

先日、電車の中のポスターで、床に座っている若者に対し、趣旨としては「邪魔だから」という理由で、そんなことをしないよう訴えていた。
また、ある公益法人が、電車の中で飲食をする者に対し、「電車はあなたの部屋じゃない」と言って、それ(車内での飲食)を戒めるテレビCMを流したこともあった。
だが、大人がタバコを吸いながら道を歩いたり、駅などの人混みでスマートフォンなどを見ながら歩いているのも、全く珍しくはない。
それこそ、大人が、電車の中や駅のホームで、臭いの強いパンやおにぎりその他を、平気で食べていたりする。

ところで、学校と違い、会社で携帯電話の充電をするのは、学校ほどの不都合がないので(不都合の問題ではないが)、堅いことを言わない場合もあるが、それでも、しないにこしたことはない。だが、やるならやるで、「恥ずかしげに」「こっそり慎んで」やって欲しいものであるが、部長などの偉い人はもちろん、若い社員が「堂々」とやっていることが多いのである。
会社では、オーナーたる社長(あるいは同等以上)であれば、そんなことは勝手である。法的には会社は株主のものであっても、実質においては社長のものと言って差し支えない。
しかし、社長より下の者であれば、部長だろうが役員であろうが、そんな権利はない。
だが、公立学校では、学校の所有者はいないので、校長といえど、許可がなければやってはならない。まあ、実際は咎めるほどのことではないが、上に立つ者とは模範を示すものである。
全社禁煙の会社であろうが、社長が社長室でタバコを吸うのは勝手であるし、問題ないとも言える。
しかし、こんなことは、社長も社内ルールに従った方が結果として良いとは思う。だが、あえて社長が特権を示すことも、社員に対し、「身の程を知れ」という警告を与える意味などで良い場合もあるし、実際、わざとそうしている社長もいるのである。そこらは、会社で一番賢い社長の知恵に任せれば良い事だ。社長とは、どんなことにも責任を取るから社長なのである。逆に言えば、責任を取れない者が、社長の真似をしてはならんということだ。

以上、似たような問題に対し、なるべく批判を加えずに書いた。
実際のところ、私は、全く批判をしないようになりたいが、未熟であるという理由で、それは無理である。
「いや、批判しなきゃいけないだろう」と言う人もいるだろうし、それもそうだと思うのであるが、2つの理由から、できれば差し控えたい。
1つは、私には、全く他人のことは言えない。つまり、批判したい相手以上に批判されるべき者だからだ。
もう1つは、目の前に批判すべき人間がいるということは、自分が、その批判したい相手と全く同等だと言うのは、科学的真実である。
この2つは、実質は同じことであるが、前者は、やや良心や道徳の問題として、後者は、やや物質科学を超えた古代科学や量子科学的な面から述べた。
しかし、やはり同じことであると思う。
そして、本当のことを言えば、批判しない理由は、今回取り上げたようなことが、既に述べた「なぜ悪いのか説明するようなことじゃあない」のと同様、言葉で批判するようなことでもないからだ。
「なぜ殺してはいけないか?」なども、説明することでも、言葉で批判するようなことでもない。
殺すと、自分より無慈悲な殺人者と関わることになる(本当は自分と同等だが、間違いなくそう感じる)。
殺すことが運命だとしても、自分が会う殺人者が慈悲深いことを願うなら、自分が最も慈悲深くあるべきなのである。









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ゆっくり力の驚異

どういう理屈かは分からないが、ゆっくりやれば、ほとんどのことはうまくいく。
ゆっくりやれば、定められた時間に遅れてしまうという危険は確かにある。
立派な人間は、普通のことでは約束の時間を守らなければならない。
しかし、大事なことでは、時間には間に合っても、出来が悪いよりは、遅れても仕上がりが素晴らしい方が良いのである。
一流の作家が原稿を締め切りまでに仕上げたら、翌日は嵐だ(稀な例外はある)。
こういうことをあまり大っぴらに言うのははばかられるかもしれないが、最高の仕事は、約束の時間からとんでもなく遅れた末に出来るのである。
だが、それは理屈で説明できる。締め切り日を決めるのは三流の仕事だからだ。
一流の仕事には、凡人が思うよりはるかに時間が必要なのである。

今の時代は、何でも、ぱっぱと早くやることが推奨される。
その結果、手抜きが流行る。
手抜きをやって、良い結果になることなんか絶対に、ただの1つもない。
そんなことは分かりきっているのに手抜きは後を絶たない。なんとも愚かなことだ。
建築などの仕事でも、手抜きをすれば、ほんの少しは得をすることもあるかもしれないが、その後で全てを失うである。

ゆっくりやるとは、先送りにすることじゃあない。
怠惰になることとは違うのだ。
すぐに着手し、常に、そのことを考えたり手を付けてはいるのだが、ゆっくりやるのだ。
種子がアスファルトも破って芽を出すように、ゆっくりやれば、驚くべき力を発揮する。

ゆっくりやるとは、丁寧にやることだ。
だが、丁寧にやっても、ゆっくりやればしんどくはない。むしろ、丁寧にやれば、宇宙からエネルギーがどんどん流れ込んできて、気持ちが良いし、元気になる。
そんなことは、誰もが経験済みではないのかな?

ゆっくり丁寧に食べれば百倍美味しいし、栄養が正しく吸収され、少食になり、身体がスリムになるだけでなく、健康で美しい体形になり、さらに肌まできれいになる。
ダイエット食品をかっ込んだって、仮に痩せても、どこかゴツゴツ、カサカサした身体になって魅力がなくなる。
美容なんて、実際は1円も必要ないのだ。

お風呂で身体を洗う時は、ゆっくり丁寧にやる練習と思って、楽しくやると良い。
特に頭を丁寧にゆっくり洗えば、抜け毛はなくなって、薄い髪も濃くなり、血行もよくなって気分は爽快となり、卒中も防ぎ、頭も良くなる。
薄毛対策にもお金なんて必要ない。

手抜き料理で彼を虜にしようなんて無理だ。
一度や二度は、便利な調味料による表面的な味の良さで誤魔化せるが、そんな料理はすぐに飽きる。
下手でもゆっくり作った料理は、たとえ不味くても、可愛いと思ってもらえるだけでなく、かえってすごく愛されてしまうことが多い。そして、ゆっくり丁寧に作っていれば、そのうち、それなりに上手くなる。

そして、ゆっくりやれば、結局は速い。ここが不思議なところなのだ。
プロレスのジャイアント馬場さんは、スローモーさを笑いのネタにされることがよくあったが、一流の対戦相手からすると、あの遅さが恐ろしかったのだ。
そして、分かる人が見れば、それは単に無駄がないのであり、しかも、危機一髪の場面では、信じられない速さで反応して逆転勝利することが実に多かったのである。
馬場さんに限らず、そこが一流と二流との差だ。
古武道の達人なんて、本当にゆっくり動いているが、ここ一番の技は速くて見えない。しかし、達人の技は無意識に発せられているのであり、彼は速く動こうなどとは考えていないのだ。
映画『燃えよドラゴン』で、リーが、「好機が来ても私は打たない。拳が自ら打つ」と言ったのが、そのことを表しているのである。









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善いやつも悪いやつもいない

争い、対立、不和、けんか・・・などがあった時、どちらか一方が悪いなどということは無いものだ。
『忠臣蔵』では、吉良上野介が一方的に悪いように描かれ、浅野内匠頭が悲劇のヒーローとして扱われるが、これも実際には、よく聞く物語のようなものではなかったはずだ。
もし、外面的にはあのような話であっても、それぞれの側に問題があったはずだ。

そういったことの例として、決して取り上げてはならないものがあるが、あえてそれをしてみよう。
『わたしのいもうと』という題の絵本がある。
ある姉が語る、妹についての悲しい物語である。
小学生の時、彼女達は、田舎から都会の学校に転向してきたのだが、妹がいじめに遭う。
方言を話すせいか、「ことばがおかしい」というのがきっかけだったように書かれている。
クラスの誰も、妹と口を効いてくれないばかりか、呼んでも返事もしてもらえず、給食当番で給食を配っても、「きたない」と言って受け取ってもらえない。
遠足での、1日1人孤独に過ごす様子には、この立派な絵本作家の素晴らしい表現力で、見事に描かれている。
妹は学校に行けなくなり、家に引きこもる。
妹をいじめた少女達は、妹のことなど忘れて成長し、セーラー服で姉妹の家の前を、幸福そうに明るく通学する様子が、「光と影」の効果で、妹の悲惨さを印象付ける。
やがて、妹は折鶴を折り始める。何もやることがないので、ただひたすら鶴を折る。
家族は、そんな妹に何もしてやれず、せめて、一緒に鶴折ってあげた。
いつか、家の中は鶴で溢れ返るが、そんな中、妹は生命の火が消え、ひっそりと死んでしまう。

私は妹が、遠足の時に1人で寂しく過ごす様子に、ずきんと胸が痛み、感情を乱された。
私が、ずっとそうであったからで、その辛さがよく分かるからである。
だから、次のように言うのである。
周りの子達は、多少、愛に欠けるとか、狭量であるとは言えるかもしれない。
しかし、冷静に考えると、こちら側に問題がないとは、まさか言えないのである。
確かに、周囲の子供達も、異質の存在を受け入れる豊かで温かい心を持っていれば素晴らしいだろうが、それは、こちらについても言えることなのだ。

どちらが悪いのかといったジャッジメントをしても仕方が無い。
そんなことは、そもそもできない。
どちらも同等に善く、同等に悪い。
しかし、悲劇は防がねばならない。

上の「妹」の場合であるが、おそらく、私と同様、どうすれば周りに受け入れてもらえるかと、真剣に考えたり、そんなことを本当に真面目に行動で試みたということはなかったと思う。
しかしね、自我とは高慢なものであり、そんな自我を持った人間というのは、生命の危機でもない限り、そんな「卑屈なこと」はできない。

尊敬するだけでなく、敬愛する芸術家の岡本太郎は、子供の時、教師からも生徒からも、そうとう激しくいじめられたらしい。
その岡本太郎が、大人になってクラス会に行った時、いじめられた相手に、「君にはよく殴られたなあ」と言いながら、仲良く酒を飲んでいた。
軍隊で、傲慢な上官に、しごきと称して殴られて鍛えられた成果であろうか?
その通りだろうが、元々が太郎にも問題はあったのだ。
教師に対して、「我が清浄なる頭脳に、教師の穢れた言葉が入ってくるのを赦さず」、授業中ずっと、両手で固く耳を塞いだなんてのは、太郎の言い分も認めない訳ではないが、やはりやり過ぎだ。
穢れた教師の言うことにだって、学ぶべきことはあるし、教師だって鬼ではない。胸を開いて付き合ってみれば、案外にいいやつなのだよ。
だが、太郎はそれをしなかったし、他の子供達に対しても、見下し、汚いものを見るような態度はあったと思うのだ。

だからといって、「妹」や、岡本太郎や、あるいは、私が、聖者か賢者のようであれば良かったというのではない。
我々もまた、あの通りで良かったのであり、実際のところ、それ以外のことはできなかったのだ。

世界は、映画か劇のようなもので、神がシナリオを書いている。どんな一瞬でさえ、そのシナリオに寸分違わず実現するのである。
神がなぜこんなシナリオを書いたのか、その意図は分からない。
時々、「神の意図はこうだ」とか、少し弱く、「こうじゃないのか」などと言う者がいるが、それは傲慢も度が過ぎている。5歳の幼児に大統領の意図が分かるはずがないが、その数億倍以上も、人間に神の意図が分かるはずがないのであるからね。家康も言ったが、「身の程をわきまえる」べきである。
神の意図は分からないが、全てはとっくに神が決めたことで、聖書にもある通り、「神の意思でなければ、スズメ一羽落ちない」のであるし、「髪の毛1本、白くも黒くもならない」のである。
私は、本に書かれてあったからこう言うのではない。
小学3年生のある日、不意に分かったのだ。鮮明に心に浮かび、確信が続いた。そんな直感、あるいは、霊感が誤ることはない。
自分は他の子より偉いのだというようなアイデアも、誰にでも浮かぶのと同様、無論、私にも浮かんだが、そんな考えには、鈍い感情と共に、疑いがあるものである。その疑いを消そうと躍起になると、ヒトラーのようになるのだろう。しかし、彼もまた、単なる神の役者、あるいは、道具だった。
世界の真相が分かったとて、それで気楽になったり、解放される訳でもない。
だが、少しは楽に生きられるようになる。私には、独裁者の素質はなかったのだ。それは、事業家になる素質もないってことだ。事業家は、他人を平気で見下すことも必要なのだ。

ものごとを公平に見ることができるからって、社会的リーダーになれる訳ではない。
社会的リーダーというのは、できるだけ争い事を起こさずに利益を配分するのが仕事だ。別に精神的指導者である必要はないし、実際は、極めて不公平であっても、諍いさえ起こさなければ、義務は果たしているのである。

ラルフ・ウォルドー・トラインという思想家は、世界に良いことが起こった時、崇拝のゆえに、彼がその名をもらったラルフ・ウォルドー・エマーソンに見てもらいたかったと言った。
すると、彼の賢い友人が、「なぜ見てないって言えるのだ?それに、あのことは彼の関与があるのじゃないのかね?」と言ったのだ。
こういったことは、あらゆる聖者達も同意している。
イエスだって、「私はいつもあなた方と共に居る」と言っているのだ。
それは、過去に居たのでも、未来に居るのでもなく、今、ここに居るのである。
見ることはできないのかというと、望めば見えるだろう。
こういったことを覚えておくと良い。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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