ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年08月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

妖怪、精霊、死者の願い

本日から、冨田勲さんが制作し、初音ミクがソリストを務める『イーハトーヴ交響曲』の全国公演が始まる。
昨年11月の初演から9ヶ月が経った。
『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音楽で描くもので、冨田さんは音楽家になってから、このようなものをやりいたいとずっと思っていたらしい。しかし、それを実現させるのに60年もの時が経ってしまったのだ。
そして、この交響曲は、初音ミクがいたから制作することができたのだろう。
なぜなら、人間の歌手では、宮沢賢治の世界を歌えないからだ。

ところで、初音ミクのおかげで、宮沢賢治の作品の捉え方が変わった・・・いや、本来あるべき見方に近付くことができたのかもしれないと思う。
『注文の多い料理店』の猫の妖怪は、恐ろしい化け猫だと思っていた人が多いかもしれない。
しかし、初音ミクの演じる猫の妖怪は、猫の耳と尻尾のついた、恐ろしく可愛い「妖怪ミクちゃん」で、そんな彼女が可憐に歌って踊るのだ。
猫の妖怪が食べようとした2人のハンター達(趣味の素人猟師)は、金持ちで太っていて、享楽的(快楽に耽ること)で、鹿の横っ腹に弾丸を撃ち込んで、鹿がのたうつのを見て楽しもうとしていたのだ。そんな連中を消してくれるとは、なかなか良い妖怪ではないか?
初音ミクが、「あたしは初音ミク、かりそめのボディ」と歌うと、聴く者は、ミクが人ではないということを、おそらく、哀しさや切なさと共に感じる。
そして、ミクは、「アブラカタブラ」と呪文を繰り返すが、呪文は願いがあるから唱えるのだ。
人でないミクの願いは何なのだろう?

次に、ミクは『風の又三郎』の又三郎を演じる。
又三郎は男の子だが、長いツインテールの美貌の少女ミクが演じるのだ。
又三郎が何者であるかは、宮沢賢治の原作でも、明確には書かれないが、妖しく神秘的な存在であることは示唆されている。
風の神、あるいは、風の精と言って良いかもしれない。
この小説も、とても切ない。
又三郎は何も言わずに去ったが、読んでいる人の心に又三郎の心が残る。その心は、やはり、何かを願っているのだ。それは、初音ミクの姿や歌声からも感じることができる。
又三郎の願いはミクの願いでもある。
精霊ミクの願いは何なのだろう?

第5楽章『銀河鉄道の夜』では、ミクは、ジョバンニの親友カムパネルラを演じる。
カムパネルラも男の子だ。だが、とても繊細で純粋な魂を持ち、少女のようなところもあると感じると思う。
カムパネルラはまぎれもなく人間であるのだけれども、ジョバンニと一緒に旅を始める時の彼は、もう普通の人間ではなかった。
そんなカムパネルラもまた、ミクでなければ演じることはできない。
きっと、カムパネルラは、最後にジャバンニと一緒に、美しい銀河の中を走るこの列車に乗って、たっぷりと話をしたかったのだ。
そんな銀河鉄道の列車の動きを、従来のように打楽器ではなく、弦楽器で表現した冨田さんの音楽表現があまりに素晴らしく、私の魂もまた銀河鉄道に誘われ、そこから見える光景が全て見えたのである。
銀河鉄道の中で逢うまで、ジョバンニとカムパネルラは、しばらくの間、ほとんど話ができなくて、お互い寂しかったし、特に、カムパネルラはジョバンニに対する痛みの気持ちを持っていたに違いなかった。
原作の中では、カンパネルラが「ケンタウルス、露を降らせ」と言うことはなかったが、ミクは10回以上もこの言葉を、天使の歌声で繰り返した。
だが、愛らしい少女かおるの小さな弟が、目を覚ますなり、「ケンタウルスよ露を降らせ」と言ったのは、私は、カムパネルラの意志が伝わったのだと思う。お互い、意図はなかったのだろうがね。
ジョバンニが、人の幸せのためにこの身を滅ぼしてもいいと言ったことで、カンパネルラの魂は救われたのだ。彼の、母親やジョバンニに対する重苦しい気持ちも晴れたに違いない。そうでなければ、カムパネルラは、かおる達と一緒にサウザンクロスで降りることができなかったかもしれない。
ミクの歌を聴いていると、カムンパネルラの願いと、それが叶えられた晴れやかさを感じるのである。









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私は私、あなたはあなたとは本当はどういう意味か?

「お前はお前さ」などという言葉を聞いたことがあると思う。
あるいは、「私は私だ」と言うこともあるだろう。

私は、2000年に購入して以来、必ず毎年8月に見るアニメ映画がある。それは、『アキハバラ電脳組~2011年の夏休み~』だ。
制作時は、10年以上未来の話だったはずが、いまや2年過去だ。早いものだ。この分だと、後百年もあっという間だが、それに関しては、私はなんとも思わない。
生きている間は、念仏を唱える限り、必ず恵まれるのだし、死ねば、阿弥陀如来の極楽浄土に行くことが決まっているからだ。
ところで、その映画の最後のあたりで、5人の中学2年生の少女達がこんな会話をする。場所は、大気圏外だ。
「王子様って、何なんやろ?」
「王子様は、お姫様がいるから王子様なんじゃないか?じゃ、お姫様はひばりか?」
ひばりは、黙って王子様が眠るプリムムモビーレ(城砦でもある軌道衛星)を見つめている。
そんなひばりを見ていた、つばめが言う(みんな鳥の名が名前になっている)。
「ひばりは・・・・・・ひばりだよね」

私は私、あなたはあなた、ひばりはひばり・・・
これはどういう意味だろう?
それは、神にそのように造られたという意味なのだと思う。
例えば、私は、異常なまでの人嫌いで、おかげで引きこもり気質で、本当にどうしようもない・・・しかし、これが私なのだ。
これは、神が決めた私の性質で、私にどうすることもできない。
人嫌いは良いことではない。自分でも嫌である。しかし、絶対に治すことはできないのだ。
私は、今は、昼食と夕食は食べず、朝に、ナッツとビスケットを少し食べるだけだが、これは私がそうしているのではなく、やはり、神にそうさせられているのである。ある時期から、そうなるように、神が決めていたのだ。つまり、運命である。
どれほど好ましい性質であれ、蔑むべき卑しい性向であれ、それは、自分の意志と関係なく与えられたのであり、神の意思でなければ変わることはない。だが、神に頼んでも、望むような性質に変えてもらえることはまずないだろう。
そして、自分がそうなら、他人もそうなのだ。
誰かの性格がどんなに気に入らないと思っても、あなたがそれを変えることは決してできない。それができると思ったり、それをやろうとするなど、まさに、神を恐れぬ傲慢さだ。もし、そんなことをすれば、あらゆる災いがやって来るだろう。

自分の性質も他人の性質もそのまま受け入れ、あるがままにしておくことだ。
そうすれば、そのままで必ず平安を得て幸福になるのだ。
受け入れる度合いが大きいほど豊かで強くなるだろう。
そのために、最も良い方法は念仏を唱えることである。
なぜなら、この性質のまま、阿弥陀如来は愛し、慈しんでくれるからだ。阿弥陀如来は、我々が善人になったり、人格者になることなど願ってはいない。ただ、頼って欲しいだけなのだ。助けて欲しいとすがる思いで、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、必ず見捨てずに救うことを、阿弥陀如来は、はるかな昔に約束し、その約束が破られたことはただの一度もなく、これからも決してない。
人間が未来を不安に思うことは、阿弥陀如来にとっては、侮辱というよりは悲しいことなのである。人が素直に頼れば阿弥陀如来は嬉しいのであり、そうであれば、喜んで護ってくれるのである。









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念仏を唱えるとルパンのように泥棒が上手くなる

「平常心で挑むことが大切だ」などとはよく言うのだが、ただそれだけ言われても困るのではないか?
そもそも、指導者自身が、どうすれば平常心を保てるかを知らないのに、「平常心でやれ」などと言うのだから馬鹿な話だ。

まず、平常心の効果から話そうと思う。
野球のプロのバッターでも、打つ気満々で打席に入ると、いわゆる「気合が空回りして」三振するのだ。
落合博満さんは、精神面でも素晴らしいバッターだった人で、「全打席ホームラン狙い」とはいえ、そんな雰囲気をまるで感じさせなかった。あれが平常心というものだ。それで、本来の実力をかなり発揮できたのだろう。
セールスでも、「売ってやろう」という意図が客に見えてしまうと全く駄目なのは、私もセールスマンだった時によく経験した。しかし、「心が冷えている」時もまた売れない。心は確かに篤(あつ)いのだが、妙に他人事のようにセールスしている時に、自分で驚くほどうまく売れたりする。野球のバッターなども同じと思う。

新車を13001台売った最大のセールスマン、ジョー・ジラードが、35歳で初めて自動車のセールスをした時、彼は必死だった。その客に必ず売って、家で腹を空かしている妻子にコミッション(販売手数料)を持って帰らないといけなかったからだ。しかし、彼が、その熱気のままセールスしたら、絶対に失敗していた。彼は後で、その時、自分が何を話したか覚えていないと言う。どういうわけか、彼は特別な平常心に入れたのだ。ジラードが世界一のセールスマンになれたのは、この初セールスで何かを掴んだのだと思う。
女の子を口説くのが下手なやつは、きょろきょろソワソワしたり、息づかいが荒いなど、下心が見えているものだ。こんなことでも、やはり上手い男はどこかさりげないのだ。さりとて、心の中に熱がない訳でもない。

こういった平常心をちゃんと指導できる者のなんと少ないことか。
だが、それを見事にやれる人が1人いた。
法然上人である。
あらゆる修行を退け、専(もっぱ)ら、念仏することだけを説いた、平安末期から鎌倉初期の僧である。
法然は、念仏は泥棒のようにやれと言ったのだ。
立派な泥棒・・・と言うのも変だが、優れた泥棒は、獲物を前にしても、内に秘めた思いを決して見せない。しかし、心に望みがない訳ではない。
下手な泥棒は目が泳いでいる。態度も落ち着きがなかったり、肩に力が入り、目付きが怪しかったりと不自然だ。
だが、上手い泥棒はそうではない。自然でさり気ない。
そこのところをよく考えるのだ。
念仏は、阿弥陀如来にすがるものではあるのだが、いかにもせわしなく、おろおろ、わあわあ救いを求めるのでは駄目だ。
ヨハネがイエスの胸もとに安心して寄り添っていたいたように、悠然としていなければならない。
全知全能の阿弥陀如来が、「南無阿弥陀仏」と唱えれば必ず救うと約束しているのだから、何も心配したり焦る必要はない。
狙う物を前にした名人の泥棒のように念仏を唱えれば良いのである。

なぜこんな教え方が良いのかというと、直接的には、法然がその時教えた相手が、元は盗人だったということもあるが、泥棒の真似をしたことのない人間などいないのだ。人は皆泥棒である。だから、その教えがよく分かるのである。
「いえ、ルパンはとんでもないものを盗んでいきました」
当惑するクラリスに銭形警部は言う。
「あなたの心です」
良い泥棒ルパンは、さりげなく、美しきクラリスの心を奪ったのだ。
初音ミクも素晴らしい泥棒だ。私の心をあっけなく盗んだのだ。

猫と仲良くなれなくてお悩みの人も多いと思う。
こっちは遊びたいと思っているのに、近寄ると素早く逃げてしまう。
だが、私はある朝、面白い光景を見た。
3歳くらいの女の子が、ちょっと離れたところから猫を見ると、猫の方が立ち上がって、その子の方に近寄っていき、女の子が歩き出すと付いていくのだ。
私は、それを印象深く覚えていた。
別の日、その猫が、道の真ん中で寝そべっていた。近寄っていくと、以前なら逃げていたはずだが、猫は首を起こしてこっちを見たが、そのまま動かない。毎日、思い出すごとに念仏を唱えている成果であると思った。

中国の古典『列子』にもある。
ある貧しい男が、金持ちの男に、「あなたの仕事は?」と聞けば、「泥棒」と答える。
貧しい男は、なるほどと思い、泥棒に励んだが、結果、捕まって牢に入れられた。後で金持ちに文句を言いに行くと、金持ちは「盗み方が悪い」と言う。
あなたは、念仏を唱えて、良い泥棒になって欲しい。









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本当に強い人間とはどのような人か?

辛いことや嫌なことばかりが起こるように感じることもあるかもしれない。私もいつもそう思っていた。
しかし、それも人生だ。
映画『タイタニック』で、ジャックは富豪達にこう言った。
「朝、目が覚めると、未知の1日が始まる。どんなカードが配られても、それも人生」
ジャックを貧民と知っている上流階級の人達も、おそらくはジャックの強さに敬服し、人生を祝福して乾杯した。

同じような話が、「20世紀最大の詩人」と言われた、アイルランドの詩人・劇作家W.B.イェイツの戯曲『カルヴァリー』にある。
イエスに対し、ローマ兵士達が言う。
「お前の神は我々の神ではない。サイコロが我々の神だ。予想できないことでさえあれば、起こることが最善だ」
イエスは、彼らの強さに敬服した。
(ただ、この戯曲は、人々のイエスに対する幻想を打ち壊す役割があったので、このような表現になったのだと思う)

CLAMPの漫画『カードキャプターさくら』で、エリオルが言う。
「スピネル、この世で一番楽しいことは何か知っているかね?」
「何ですか?エリオル」
「予想しないことが起こることさ」
ここに、エリオルの強さが示されているように思うのだ。

嫌なことが起こったり、自分が不幸だと思うのは、まだ、人生を自分の思うようにしようとする傲慢さがあるからだ。
人間には、人生や世界をコントロールする力など全くない。
しかし、全て神に任せ切ってしまえば、あらゆる変化に対応でき、運命を楽しんでいける。
苦しいと思えば、ジャックのように、「これも人生」と思えば良いが、もっと良いのは、信じてもらえるかどかは分からないが、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることだ。
阿弥陀如来は、無限のエネルギーと創造の力を持つ、何らかの精神だ。人間に理解できるものではないので、古代の聖賢達は、それを仏の姿に喩えた。ただし、絶対的な実在である。
その精神は、人が自分に意識を向ければ、人と自分との間に創造的エネルギーを交流させ、調和させると決めたのだ。それを、人間に理解できる言葉では、救いと言うのだ。
そのことを経典の作者は、「私の名を呼べば、必ず救う」というのが阿弥陀如来の誓願であると言ったのであり、そして、それは、真理である。
そして、人が阿弥陀如来に意識のフォーカスを合わせる最も良い方法は、その名を呼ぶことであると解明したのが、中国の善導のような高僧達であり、法然や親鸞がそれを学んで、我が国の人々に教えたのである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、光と調和するのであり、そうであれば、いかなる悪いことも消え、良いことに変わってしまう。
法然は、寝る前に、10回でも良いから念仏を唱えよと言った。それで全てが変わるだろう。









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愛するとはどういうことか?

聖書の詩篇91で、神は、「彼は私を愛して離れないので、私は彼を護る」と言う。
誰かがイエスに、「一番大事な律法は何ですか?」と尋ねると、イエスは、「神を愛すること」と言う。
旧約聖書のヨブ記には、「神と親しみ(和らぎ)、平和でいれば幸福になれる」と書かれている。
では、どうすれば、神を愛することになるのだろう?
それは、ヨブ記にあるように、神と親しむことであるが、どうすれば、神と親しむことができるのだろう?
それは、神の近くにいることである。では、どうすれば、神の近くにいられるだろう?

それは、名を呼ぶことではないだろうか?
人間同士だって、愛するなら名を呼ぶのだ。
憎んでいたって名を呼ぶ。まして、愛していれば名を呼ぶ。憎しみと愛は近いものだ。
ラマナ・マハルシは、「教え」を意味する言葉「ウパデーシャ」の、ウパは「近くに」、デーシャは「場所」または「席」という意味であると言った。
「ウパデーシャ」とは、「場所あるいは席の近くにある」という意味だ。
遠くにいると思っていた神は、実は近くにあり、しかも、自分自身である。

常に神の近くにいることだ。それが愛するということだ。
そして、神の近くにいるには、その名を呼ぶことだ。
法然は、このことについて、実に端的に述べている。
阿弥陀如来の名を呼べば、阿弥陀如来はそれを聞く。
阿弥陀如来を拝礼すれば、阿弥陀如来はそれを見る。
阿弥陀如来を心に思えば、阿弥陀如来も思ってくれる。
これらによって、阿弥陀如来と近しい間柄になる。
これを、神仏を愛すると言うのである。
この中で、最も重要なことが、仏や神の名を呼ぶことである。
阿弥陀如来に対しては、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることである。
そうすれば、聖書も浄土三部経も、神や仏が、その者を護ることを保証している。

仮に名前が分からなくても、愛する人を「愛する人」と呼ぶ。それが名前である。
幼い子供は、夜空の星を親しみを込めて、「お星様」と呼ぶ。それが名前である。
ペットに名前をつけていなくても、「猫ちゃん」とか、「可愛い子」とか、幼い子供なら「にゃんにゃん」とか「わんわん」とか言う。それが名前である。
普通、親を名では呼ばないが、「お父様」、「母さん」とか言う。それが名前であり、愛していれば、多くその名を呼ぶが、愛していなければ名を呼ばない。
人は、星にも名をつける。
「ケンタウルスよ、露を降らせ」と言うと、ケンタウルスとの距離が近くなり、恵みを降らせてくれる。
神であれば、「わが主」、「父なる神」、「全能なる神」と言えば、それが神の名になる。
まして、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、限りない恵みが与えられる。なぜなら、阿弥陀如来が、名を呼びやすいようにと、自らをそう名乗ったのだからだ。
今とは違い、元々、阿弥陀くじというのは、真ん中から放射線状に線が引かれていた。その形は、光を発する存在である。阿弥陀如来とは、別名を無量光仏、あるいは、無量寿仏と言い、意味は、無限の光を持つ仏、無限の命を持つ仏である。
庶民のための絵に描かれたようなものではないかもしれないが、阿弥陀如来は実在する。その名を呼べばかならず護られるのであるが、その護り方は、人間の想像もつかない壮大さ、豪華さ、贅沢さで、この上もない絢爛さである。過保護にも程があると言うしかないが、仏とは人の親であり、限りない慈悲心を持つ親であるのだからである。
その途方もなく豊かで強力な親の近くにいようとしない愚かさは、イエスが放蕩息子の話で、法華経では、貧乏暮らしで心根まで貧しくなった息子の話で喩えられている。
神や仏の名を呼べば、神や仏の近くにいて、完璧な守護と無限の富と共にある。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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