ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年08月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

遊びながら宇宙と自己を読み解く方法

自分を探求するとは宇宙を探求することだ。
間違えて、自分の心を探求すると迷宮にはまり込む。なぜなら、心は幻想であって、実体は何も無いからだ。
心に実体が無いということを見出すなら、いわゆる、「お化けの正体を見破った」ということで、幻想を壊せると言う人がいるかかもしれない。
しかし、それはどうかな?
それは、警官のふりをした泥棒に、泥棒を捕まえさせようとするようなものだ。
つまり、幻想の警官がいるだけで、本物の警官はいないのだ。警官が消えたら、泥棒は自分を捕まえたりはしない。
そのくらい、無茶で馬鹿げたことだ。

自分を見つけるために宇宙を調べるなら、単純にやることだ。
それには科学も役には立つが、科学に執着し過ぎると、やはり果てない迷宮に閉じ込められる。科学も心が作った幻想なのだ。
スティーヴン・ホーキングもそんな状態になっているのかもしれないと思う。あれほど賢くても失敗するのだ。
ルドルフ・シュタイナーは、「プトレマイオスの天動説が誤っているのと同じくらい、コペルニクスの天動説は誤っている」と言った。
私もこの意味が理屈で分かる訳ではないが、美しい言葉だと思う。真理とは、直感により、美しいと感じるものだ。

量子化学を深く探求した人なら、宇宙の構造は元素周期表の中にあると感じると思う。
また、易(易経、易占い)の中にも、宇宙が見事に表現されている。ライプニッツやユングは、それを感じ取って、易に夢中になった。
我が国の神道には、9行9列の元数盤(9方陣と言う人もいる)という、世界の一切を読み解くことができる、秘法中の秘法がある。
これらを、本当によく分かっている人は、分かり易く説明することができる。
そんな分かり易い書籍を下にご紹介しておく。
書かれてあることを、真面目に素直に理解することが必要で、自分の思い込みを混ぜてはいけないが、一方で、静かな直感が働けば、それが一番の真理なのであるから、それを逃してはならない。
そのためには、利益のために探求しようと思わないことだ。欲があると直感は鈍るのだ。
ある意味、遊び心でやることだ。
最も良いのは、普段から念仏を唱えておくことだ。そうすると、真理に触れると直感の声が囁いてくれるようになる。

今日8月31日は、初音ミクの6回目のお誕生日だ。
このミクの誕生日の、月の8と、日の31を足すと、39でミク(39)になる。
上に述べた元数盤(9方陣)では、縦横の9つの数字、あるいは、斜めの9つの数字のどれを足しても369になる。
369は弥勒(369)だ。弥勒菩薩は未来仏だ。これは、ミク(39)とも関係があるだけでなく、ミクの深い意味を示す。
ミクという名前は数霊で言うと、ミが35で、クは8なので、足して43だ。
下にご紹介した深田剛史さんの本で見ても、43は未来永劫、永久に向かって走るという意味があるようだ。
初音ミクという名前は、初音未来と書くことができ、これは、未来から来た初めての音という意味である。そして、このことは、ミクと、未来仏である弥勒とのつながりを暗示しているのである。ミクは弥勒仏そのものだ。
易、数霊術、あるいは、量子化学などに日頃から親しんでいると、こういった色々な解釈が浮かんで楽しめる。そして、その解釈は時と共に変わるかもしれない。それはそれで良く、むしろ、こだわらない方が良い。物質的な意味ではないが、元素だって、人の意識に応じて変化することもあるに違いない。
古代の恐るべき賢い人達が残した、これらの叡智を使って、いろいろ楽しむと良い。
すると、知らないうちに、自分のことや世界のことが分かり、あなたは、この世界の中で悠々と過ごせるだろう。
だが、これらを念仏の補助と考えると、その威力は百倍にもなるであろう。













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スマートフォンという名称はもう不自然だ

私は7インチのタブレットPCを持っているが、何ヶ月も電源を入れていない。
7インチのタブレットPCは、いかに小さく軽くなったところで、持ち運ぶには大き過ぎて重過ぎるのである。
しかし、5インチスマートフォンとフィーチャーフォン(従来型携帯電話)なら、2つでも何の問題もなく持ち歩ける。それどころか、私は、加えて、スマートフォンとほぼ同サイズの充電器も一緒に持ち歩いているのである。実際は、その充電器を使うことは全くないのであるが、持っていても不都合ないので、そのまま持ち歩いているのである。

7インチのタブレットPCはハンドバッグ(セカンドバッグ)に入らないし、スーツやジャケットの内ポケットに入れると、いくら何でも違和感がある。
カバンに入れても重い(私は腕力のある身体の大きな男性である)。
カバンから出すのも、大きいので億劫であると感じる。
また、7インチの画面は一目で視認するには大き過ぎ、しかも、強い人工光を発しているのだから、長時間見ると、やはり目が疲れる。
だが、5インチスマートフォンは、軽さ、画面の大きさ、画面の画素密度、操作性など、とてもバランスが取れているので、心身の負担が少ない。
ところで、スマートフォン(賢い電話)という名前がついていても、私はこれを電話機として使うことはない。そもそも、通話機能を設置していないのだ。
私は、SIMカードの入っていない、いわゆる白ロムの新品のスマートフォンを買い、NTTコミュニケーションズの通信用SIMカードを入れてインターネット接続できるようにしているのである。
月額980円でインターネットが使い放題である。高速なLTE通信に対応しているが、現在のところはまだ3G通信に切り替わることも多い。しかし、ほとんどの場合、3Gでも十分である。そもそも、3Gしか使えない最新の人気スマートフォンもあるほどである。
1日の通信量が30MBを超えれば、その日(午前0時まで)は200Kbpsの通信速度に制限されるが、私の場合は1日30MBを超えることは全くない。大きなファイルの通信を行う時は家のWiFiを使う。そして、実は200Kbpsというのは十分な通信速度なのである。

ところで、私は、そのNTTコミュニケーションズのSIMカードは、1ヶ月ほど前に買った「d LTE980」という名称のものを使っているが、早くもバージョンアップし、「OCNモバイルONE」というものに変わった。これまで通りの使い方も当然できるが、月額1480円で1日60MBまで、LTEや3Gで通信できるプランを選べるようになったのだ。私のように、「d LTE980」を使っている場合も、そのままで、この新しいサービスに変更できる。わずか月500円の追加で、これまでの倍の60MBまで高速通信ができるのは非常に有り難いし安心だ。しかし、今のところ、私は30MBも全く使い切らないので、まだ1日30MBのプランで、月980円のままだ。

私は、通話はフィーチャーフォンを使うが、これは、電話としてはスマートフォンよりはるかに使いやすい上、月額基本料は1000円ほどで、無料通話分も使い切らないから、月額基本料以外かかっていない。
スマートフォンは上記のSIMカードの使用料金の月額980円だけなので、フィーチャーフォンとスマートフォンを合わせても2000円ほどしかかからない。私がこれまで、スマートフォンに全く見向きもしなかったのは、費用が高過ぎるのと、バッテリーがすぐに切れるからだ。
しかし、私のような使い方だと、普段はスマートフォンを機内モードにして通信を切っているし、無駄な通信はしないので、1日経っても、50%程度の充電率を残すことが多い。その上、持っていることも忘れている充電器すら持っているのであるから、バッテリーの問題は皆無である。
私はスマートフォンで動画をよく見る。それは通信を必要としない、スマートフォン内に記憶させたMP4などの動画だ。それでも、バッテリーは十分であるのだ。やはり、最も電源を消費するのは通信であると思う。
私は、音楽はウォークマンS(初音ミクモデルだ)で聴く。つまり、フィーチャーフォン、スマートフォン、充電器、ウォークマンを持っているのだが、かさばらないし、重くもない。小さく分散されていれば、持ち運びがし易いのである。総重量も7インチタブレットPCより軽いだろう。
しかも、音楽を聴いたり、通話をしながらスマートフォンを使えるのである。これはとても便利なことがある。実際、私は、冨田勲さんのシンセサイザー音楽を聴きながら、スマートフォンで電子書籍を読むことが多いのだ。電子書籍については以下に述べる。

私はこれまで、紙の本至上主義であったが、紙の本が不要というのではないが、認識を変えざるを得なくなった。
これまで、毎朝、今日はどの本を持っていくか悩むこともよくあった。
しかし、電子書籍なら、スマートフォンの中に何百冊でも楽々入れておける。
そして、実際にそうなると、1日の中で、3~5冊くらいは並行して読むようになった。
また、通販がいかに便利でも、注文から到着までいくらか時間がかかるし、配達の際に家に誰かいないといけない。しかし、電子書籍はすぐに入手でき、在庫切れもなく、特にAmazonでは、価格が紙の本に比べかなり安価な場合が多い。宮沢賢治の80の作品が収録されたものを100円で買った。青空文庫からの流用のものなら、無料の名作が数多くある。

私のスマートフォンは、画面サイズが5インチで、解像度はフルHDと呼ばれる1920×1080ピクセルだが、HD(1280×720程度以上)の解像度でも、ほとんどの場合違いはない。
そして、このくらい画素密度が高いと目もあまり疲れない。また、画面が大き過ぎないので、あまり視点移動をする必要がないのも目が疲れない理由と思う。

ところで、現在の紙の本は、文字が小さ過ぎるものが多い。
ある程度の年齢になると小さな文字が見難いものらしいが、そうでなくても、今の日本人は近くのものを凝視し過ぎるので異常なほど近視の者が多い。
また、全体としては尊敬すべきある理学博士が、さかんに、速く読むことを薦めていたのであるが、確かに速く読めば総合的な理解が高まるが、それはあくまで、総合的理解のために作られたものを読む場合である。速く読めば、理解は浅くなり、また、必ず誤読するのだ。1つの言葉を読み間違うと、全く違う意味に理解してしまったり、正反対の意味に誤解することも、予想されるよりはるかに多いのである。
私は、スマートフォンで、文字を大きくしてじっくり読んでみたら、それでも、誤読がよくあることに気付いた。ただ、この場合は気付くことが多かったが、小さな文字を速く読んでいた時は、それに気付かず、さぞ、間違った、そして、馬鹿な理解をしてしまったことが物凄く多かったはずなのだ。
いつの時代も速読というものは一部で人気があるが、今より馬鹿になるのが嫌なら、そんなせかせかした読み方などやめることだ。

考えてみれば、今、スマートフォンと呼んでいるものは、その名前が不自然であると思う。
特に私の場合は、これで通話することが全くないので、フォウン(電話)でも何でもない。
そして、私のような使い方が、ほとんどの意味で合理的で、おそらくは、賢明であるのだと自信を持って言える。
キーボードの無いスマートフォンは、入力機能が低いので、決して万能ではない。この程度の入力機能で十分と思うなら、単に文章を作成することを極めて低いレベルでしかしていないというだけのことだ。
だから、スマートフォンは、ダイナブックと言う事はできないが、ユビキタスデバイスであるとは言えるだろう。だから、スマートフォンではなく、スマートデバイス、スマートターミナルユニットと言うべきであると思う。
私が今、登場を期待しているスマートフォンはNexus5だ。望むスペックは、5.2インチのフルHDの画面とLTE対応だ。その他は、希望以上のものになるだろう。当然、Nexus4と同じく、SIMフリーとなるはずだ。
だが、実際はNexus4でも十分であると思う。
ソニーやサムスン電子、あるいは、他の国内メーカーも、SIMフリーのものをもっと公然と売ってくれれば良いのであるが、それはいろいろ難しいと思う。
尚、前も書いたが、私と同じ富士通 X F-02Eを買う場合は、USBケーブルやACアダプターが入っていないと思うので注意して欲しい。充電器を買えば、両方付いていることが多いので、1つ買っておくことをお奨めする。









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この世は本当に罪深い者ばかり

もし、あなたが肉食が好きな大食であるなら、できれば、菜食中心の少食になればと思う。その方が、明らかに悪い宿業を作らず、運命は良くなるだろう。
だが、それができないなら、できないままで良いから、できるだけ多く念仏を唱えることだ。そうすれば、肉食、大食の影響はなくなるだろう。
もし、あなたが大酒飲みだったり、女遊びが盛んであるなら、できればやめた方が良い。それらは罪を作り、悪い報いを受けるからだ。しかし、それができないなら、そのままでいいから念仏を唱えることだ。そうすれば、心配はいらないだろう。
もし、あなたがいい年になっても働かずにいるとしても、父親や兄に面倒を見てもらっているなら、まあ、良いだろう。たとえ歳はいくつになっても、父親や兄は、そんな時には面倒を見るものだし、子供や弟、妹が社会に適合できないなら、その責任が自分に全く無いとはいえない。私は妻子は無いが、従妹、従弟、甥っ子、姪っ子が働かないなら、私が面倒を見ようと思う。
だが、いつまでもそれではいけないし、まして、母親や、弟や姉、妹の世話になっているなら、できれば働くべきだ。
しかし、どうしても働くことができないなら、それでも良いから、罪悪感が消えるまで念仏を唱えることだ。念仏に優る善行はないのだから、赦されるだろう。
もし、身体を売って生活をするようなことをしていたり、あるいは、そうやって得た金で贅沢をしたり物欲を満たしているなら、それは非常に罪深いことであるので、やめるべきである。しかし、もし、やめることができないとしても、念仏さえ唱えれば問題はないのだ。阿弥陀如来は、そのような罪深い者を憐れみ、救ってやろうとして、無限の力を持つ仏になったのであるからだ。

私も長くニートをしていて、病気持ちの父親に心配と苦労をかけていたが、ある時、ジョセフ・マーフィーの本に出会った。
その本には、目には見ないが、あらゆるところに宇宙の活力とでも言うべきものが満ちていて、それに頼りさえすれば、全てうまくいくだから、何も心配する必要はなく、むしろ、心配してはならないということが、著者のマーフィーはキリスト教の牧師なので、キリスト教らしく書かれていた。この、宇宙に偏在する活力は、まさに、阿弥陀如来の御力である。それが存在していないところは、宇宙広しといえども決してない。それは、手足よりも近くにあり、我々は、ただ、それにしっかりと頼れば良いのである。
しかし、キリスト教にしろ、ヒンズー教にしろ、道教にしろ、それに頼る方法がはっきりしないのだ。しかし、阿弥陀如来は、明確に、「我が名を呼べば助ける」と言ったのであり、それは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるという、実に簡単なことなのである。
私はその方法を知らなかったので少し苦労はしたが、なりゆきで就いた厳しい仕事にも耐え、また、転職は何度もしたが、失業することは全く無く、やがて、いつも楽で良い思いばかりするようになった。
だが、念仏を唱えれば良い仕事に就けるとか、職を失わずに済むというのではない。そういったことも含めて全て、阿弥陀如来に任せるのだ。
そうすれば、決して悪いようにはならないだろう。
なぜそうなるかは、いくらかは理屈でも説明できるかもしれないが、誰でも、やりさえすれな、経験と直感により、それを確認でき、確信を持てるだろうと思う。









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偉くなっても自伝など決して書こうと思うな

聞いた話によると、有名な童話作家のアンデルセンは、若い時に、好きな女性に想いを伝えようとして、自伝を書いて送ったという。
1000パーセント失敗するやり方だ。憐れなほど馬鹿な、若き日のアンデルセンであった。
うまく口説きたいなら、全く逆のことをしなければならない。
まあ、女性に自伝を書かせるのも大変だから、彼女の話を「黙って」聴いてあげることだ。
ついでに言っておくと、自伝を書きたがるような女性を好きになるのは、おかしな人か聖人かのどちらかだろうが、聖人は滅多にいないので、それはきっと危ない人である。例えば、女子校生を売り飛ばそうという意図で彼女達と親しくなるために、そんな手を使うヤクザもよくいたものである。
よくいるような気もするが、主に若い男性が特定の女性を好ましく思った理由が、「自分の話を楽しそうに聞いてくれる」と言うなら、自分達が恋人同士だと思っているのは男性の方だけではないかと思う。
早い話が、誰も、他人のことなどに興味はないのだ。

昔、ネット上で付き合いのあった、ある物書きの男性は、自分のHPに、自分のプロフィールをこまごまと、そして、長々と書いていたが、やはり、性格も破綻し、やがて、病気で死んでしまった。
『我が闘争』というタイトルで知られる自分の話を延々と書いて出版したアドルフ・ヒトラーは、弱くて心の病んだ人間であった。
強い人、高い境地にある人は自伝なんか決して書かない。岡田虎二郎は死ぬ前に、書いたものを全部燃やしてしまったという。それを惜しむ人は多いが、本当に優れた人とはそんなものだ。
だが、素晴らしい自伝というのも確かにある。
それは、自伝というより、愚かな自分の姿を晒すことで、誰かの役に立つことを意図したり、自分に起こったことを通して神を賛美したくて書いたものなのだ。
史上最高のプロレスラー、ルー・テーズも80歳になって自伝を書いている。だが、彼の意図は、まず、懺悔ということもあったかもしれないと感じるのだ。彼は、自分が高校を卒業していることになっていることについて、本当は、高校に入学もしていないことを告白して詫びている。高校に入学しなかったのは、家が貧しくて、中学卒業と同時に家業の靴屋の見習いになったからだった。つまり、入学しなかったのではなく、できなかったのだ。しかし、彼はレスリングを愛していたので、高校のレスリング部の練習にだけは参加させてもらっていたらしい。また、二十歳くらいの時、試合で膝の半月板を割ってしまい、長い間休養を余儀なくされた際は、自分に教養がないことを自覚していた彼は、図書館に通って読書に励んだことを明かしている。この話には、自慢のようなものは全くなく、むしろ、彼の引け目や、本当は高校くらいは行きたかったという彼の気持ちを感じるのである。そして、彼は、自分の多少の名声により、誤解されることが多かった、自分の尊敬する師達の名誉を高めたかったという意図も感じるのである。

昔、アインシュタインの『自伝ノート』という本を読んだことがあるが、いわゆる自伝であることを期待して本を開いた私は面喰った。彼も、これは自伝というより、「自伝のようなもの」という書き方をしていたと思うが、実際は学習ノートとか研究雑記のようなものだったと思う。多少、学校教育などについて、自分の思うところを述べていたように思うが、自分のことについて書いているのは、その程度だったように思う。

アンデルセンも、後に自伝『私の物語』を書いているが、これは素晴らしい書だ。苦難続きの人生であったが、彼は、自分は幸運で幸福であったと述べている。彼は、アンデルセンという人物を通して、運命の不思議を語り、親切で愛するべき人達のことを人々に知らしめ、そして、神を賛美したのである。
ルドルフ・シュタイナーは、良い教師は空気のようなものだと言ったが、一般にも優れた人物のことを尊敬を込めて「先生」というように、良い教師は高い精神性を持った人間のことで、そんな者は空気のように存在を感じさせないが、同時に、空気のようにとても重要なのである。そして、空気が自伝を書いたりはしない。書くべきものが何もないのだ。
これと正反対の人間は、例えば、自分が好きな野球チームを子供に応援させて喜ぶ父親だ。時々テレビで見ることもあるが、小さな自分の子供に、好きな野球チームのユニフォームを着せ、応援グッズを持たせて、野球場やテレビの前で応援させ、酒を飲みながら悦に入っている。そんな子供の大半は心が歪み、自分や他人を傷付けるような人間になることがよくある。小さな自分の子供が、自分の好きな野球チームを応援するのを、満足そうに見る父親を知っていたが、その子供は自殺した。父親思いの素直な良い子だった。

自分の過去や自分の一切を忘れてしまうのだ。捨ててしまうのだ。自分の心も壁のシミか何かだと思えば良い。
実際、自分というものは、過去の様々な因縁が現れただけのものだ。それに執着して掴んでしまうと、さらに醜い業を作るだけだ。
念仏を唱え、全ての業を・・・それはつまり、現実や自分の心として現れているものだが、それらを全て、阿弥陀如来に委ねて消してもらうことである。
そして、空気のように透明になっていくことで自由になれるのである。









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才能なんか埋もれさせておけ

高い仕事の能力を持った人に、「どうすれば、あなたのように仕事ができるようになれるのか?」と聞いても、まともな答が得られることは、ほとんどない。
なぜなら、その本当の答は、世間ではタブーだからだ。
だが、ある程度の年齢になれば、世間に対して慎重な配慮をしながら、こう言うかもしれない。

「こういう言い方をしてはいけないのだけれど、結局は生まれつきです」
「生まれ持っての能力です。でも、それを言っては終わりですから(ここだけの話ですよ)」
「こう言ってはまずいけど、結局は最初から持っている才能です」

しかし、そう言っても少しもまずくないし、いけないことなどないのだ。
なぜって、その答は全く正しいし、他に答は無いからだ。
そして、「そう言ったら終わり」であることも確かだ。つまり、他に何も言うことはないからだ。
ビル・ゲイツは、プログラマーの能力について、「知能指数のようなもの」と言ったことがあるように思うが、これも、つまるところ、生まれつきということだろう。
才能の無い者を訓練しても、ほとんど効果はない。
先日も書いたが、『トヨタの片付け』というベストセラー書があり、確かに素晴らしいことが書いてあるが、「この本のようにやれ」と言っても、できない者は決してできないのだ。

ただ、私は、世の中には、アインシュタイン以上の天才なんて、実は、ザラにいるのではないかと思っている。
浅田真央やイチローのような、スポーツの素質のある者も、本当は沢山いるかもしれないし、多分、いると思う。
ジョージ・フォアマンという、「怪物」と言われた、元プロボクシング世界ヘビー級王者は、現役のチャンピオンだった時にこう言ったそうだ。
「私より強い若者なんて、世の中にいくらでもいる」

すると、
「そんな才能を埋もれさせてはならない」
「才能を見つけてあげよう」
なんてことを言う者がいるのだ。
しかし、埋もれさせたっていいのだ。
見つけてあげられるに越したことはないかもしれないが、本当は、見つける方法なんて誰にも分からないのだ。
「こうやれば見つかる」と言っても、それはきっと、馬鹿げた方法だ。
才能を発揮できるかどうかは運命の問題だ。
イエスが、「神の意思でなくては何も起こらない」と言った通りである。

そして、本当のことを言うと、たとえ、スポーツや芸術や科学の才能を埋もれさせ、一生発揮できずに終るとしても、それは不幸でも何でもない。
ニュートンは、「私の才能は、神から預かっただけ」と言った。
そして、ニュートンは、自分は浜辺で遊ぶ子供で、時々、きれいな貝殻を拾い上げたに過ぎず、真理の大海は目の前に横たわったまま、全く手をつけることができなかったと言っている。
神は時々、特定の人間に、何かの才能を与え、その力を発揮するようにさせることがある。
すると、才能を与えられた人間は、それは自分の力であり、自分が素晴らしいことをしていると思い込むことが多い。
しかし、そうやって、自我を持ったまま発揮する能力は些細なつまらないものだ。ニュートンが言ったように、ちょっと綺麗な貝殻を拾い上げる程度のことに過ぎない。
しかし、自力をつまらないものだと見限って捨て、神の力を頼れば、真理の大海に飛び込み、それと一体化することができるだろう。
荘子も言ったのだ。無能に徹し、作為を捨てろと。そうすれば、永遠の道(タオ)と1つになれるのだと。
だが、作為を捨てることのできる人間は極めて少なく、道と一体化できる者はほとんどいない。
しかし、法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えればそれができるという、具体的な易しい方法を教えたので、素直にそれに従った多くの人達が悟りを開いた。その多くは学問の無い人達で、文字の読めない人もいた。彼らは妙好人と呼ばれ、かなり多くが知られている。
むしろ才能のある者、才能を伸ばした者は、世間という牢獄から抜け出すことができず、苦しく惨めなまま生涯を終える可能性が高い。しかし、念仏を唱える者は、地上の喧騒を尻目に、高く飛ぶのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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