ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

あまり苦しまずに経験という大切な力を得る方法

知識と経験が融合して調和したものを「知識×経験」と言い表すなら、それは社会的には大きな力になる。
ただし、最上の「知識×経験」とは、「知識×経験」の限界を知ることなのだ。
また、経験の欠ける知識というものは、ほとんど何の力にもならない。博士号を持っている教育ママが無知の極みなんてことはよくあることだ。
ところが、政治や事業も、ある程度高度になると、「知識×経験」の力が役に立たなくなる。
「知識×経験」の力が効力を持つのは、普通のサラリーマンから、大企業であっても、社長やごく一部の経営中枢を除く役員くらいまでだ。
最近は、超大型の企業買収や合弁なんてのがよくあり、評論家が「この買収の狙いは」なんてことを言っているが、実際は、ある限度を超えたことに関しては、やっている本人すら理屈では分かっていないのである。
ある大物経営者が、大きな買収を行う際に何日も誰にも会わずに考え続けたとか、ビル・ゲイツだって、ある事業計画の実施を決断する前に、何日も部屋に閉じこもって考えたという話があるが、それは、考えたというよりは、お祈りをしていたと言う方が正しいのである。
そういった話が伝わるのは、結果が成功であった場合が多いが、もし、彼らが、論理的に考えていれば失敗していたに違いないのである。
アメリカ大統領だって皆、世界の運命が決まるような決断を迫られた時には、教会に行ってお祈りをするのである。

よく、大物政治家や大物事業家が、占い師や霊能者に相談しているという話があり、「そんなの本当は嘘だよ」と言う者もいるが、本当である。
むしろ、そんなことをしていないはずがないのである。
高度な政治家や事業家は、極めて大きな「知識×経験」を持っている。たとえ学歴がなくても、かなりの勉強をしているし、経験となると普通の人では想像もできないものを持っていることが多いのである。
だが、「若い頃は大陸で馬賊を率いて、銃撃もやった」というほどの経験があったところで、あるいは、政治学と経済学の博士号を持っているといったところで、さらには、たとえその両方であったところで、それが何の役にも立たない局面があるのである。
そんな時に、優れた占い師や霊能者に頼るのは、不思議なことでも何でもない。

ところが、本物の占い師や霊能者というのは、逆に、世間的な知識や経験はほとんど無いのである。
そんなものがあったら、本当に力のある占い師や霊能者になれたりはしない。
力のある霊能者でも、事業や商売をやって成功したり、タレント活動をやるようになったら、霊能は無くなる。
だから、世間に名の知れた占い師や霊能者のところに相談に行くなら気を付けた方が良い。それらの占い師や霊能者は、今は何の力もなく、おみくじのように、それらしい適当なことを言っているだけであるからだ。面会時間が極めて限られていて、5分や10分という時間で高額な相談料を取られるものはほとんどそうだと思う。いかに霊能者といえども、悟りでも開いているレベルでない限り、必要な霊感に同調するためには、意識的な集中が必要で、それには、ある程度は儀式的なものも必要で、それなりの時間はかかるのである。
ところで、まるで売れっ子コンサルタントや、あるいは、大成功しいている小売業者のように、応対の仕方が洗練されていて、心地良く感じる場合も注意したが良い。
本物の霊能者は、知識や経験がないことから想像できるように世間知らずだ。
ほとんど子供みたいな人だっている。それで、礼儀をわきまえていないことも珍しくはなく、相手になる時は、かなり忍耐を必要とすることもあるが、それが普通だと思った方が良いのである。

どうしても、世間で働いて経験を積むのは嫌だというなら、占い師や霊能者になるという手もないとは言えないが、それは厳しく、苦しいものである。
それこそ、世間的な楽しみは全て捨てる覚悟が必要だ。
余程の精神的レベルに達していれば別だが、肉や魚はもちろん、一切の美食はできないし、性的な快楽も捨てなければならず、生涯、異性と交わることもないのが普通である。
超事業家や超政治家の中には、自分自身で占い師や霊能者の役割を果たす者も、極めて稀ながら存在する。本人自体がそうなのか、あるいは、背後の霊の力なのかはよく分からないが、いずれにしても、本人も巫女的な制約は必要になる。それらの事業家などは、極端に少食だったり、物欲がなかったりする。しかし、それでも、ある程度は凡人なのであり、時には、美味しいものを食べたがったり、女性に夢中になったりするのだが、よほどうまく禊(みそぎ)をしないと大変なことになる。
ほとんどのカリスマ的事業家や政治家は、世俗に帰った後の調整に失敗し、珍しい難病で死んだり、あるいは、暗殺されたりするのである。
こう言うと、スティーブ・ジョブズやハワード・ヒューズ、あるいは、J.F.ケネディがそうであるのだと分かる人もいると思うが、必ずしもそうではなくても、おそらく当っているだろう。

我々は、大事業家や大政治家になる必要はないし、そもそも、そのようなものになる運命になければ、決してなれない。
だから、若くてエネルギーがあり、ある程度の苦難に耐える力があるうちに十分な経験を積むと同時に、遊びの時間はある程度犠牲にして勉強し、その上で神仏を崇めれば、間違いなく幸福になれる。
だが、学歴が高ければ世間的な苦難を逃れることができると誤解したり、実際は、そういった思い違いをしているような母親のとんでもない無知のためにそんな道を取らされてしまう者が多くなってきた。
大物政治家や大物事業家の子供達の大半がニートであるのもそのためである。
だが、心配は無用だ。そうなっている場合でも、神仏に、「あまり苦しくない試練をお与え下さい」と祈れば良い。
全く楽チンでうまくいくようにと祈るのとは大違いであり、実に、ここが地獄と天国の分かれ道だ。
苦い薬も一瞬なら我慢するように、最低限の苦難は受け入れることだ。
何、大したことはない。それで、十分に豊かに楽しくやっていけるようになるのである。









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黒住宗忠は、なぜ天照大神の開運を祈ったのか?

江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、イエス・キリストにも匹敵するほどの力を持つ神人だったが、とても不思議な祈願をしたことで知られている。
なんと、彼は、神である天照大神の開運を祈ったというのである。
いかに聖人とはいえ、神の開運を祈るなどというのは、考えようによっては不遜であるかもしれない。
宗忠の真意はいったい何であったのだろう?
このことについて、著書の中で、ご自分の考えを述べておられる人もいるし、それらを読んだこともあるのだが、私には全く分からなかった。
中には、神の開運を祈ることが自分の開運になるのだと言われる人もいるが、申し訳ないが、それでは、下心を持って神の開運を祈るような気がしてしまうのである。

だが、最近、こう思うようになったのだ。
宗忠は、30歳そこそこの時、重い病になり、いよいよ死の間際まできて、ついに生を諦めたことがあった。そして、家族の助けを借りて入浴し、衣服を整え、天照大神に最後の拝礼をする。その時、天照大神の生命が宗忠の身体の中に入り、宗忠の消えかけていた生命の火が再び燃え上がって、病気が治ってしまった。
そして、天照大神の生命を身近に感じるようになると、一切まるごと、天照大神に任せてしまうことができるようになったのだが、そうすると、面白いこと、楽しいこと、有り難いことばかりが起こるようになり、あらゆる福運に恵まれ、さらに次々と、願わずとも幸運が押し寄せてくるようになった。
その感謝のためであれば、ただ、「天照大神様、ありがとうございます」と言えば良いのだと思う。
しかし、宗忠は、本当に天照大神を愛していたのだと思うのだ。
だから、自分にもまだ、至らぬ点があると感じていた宗忠は、このあまりの素晴らしい恵みが、天照大神の障りにならないかと恐れたのではないかと思うのだ。

私は、これまではそれが分からなかった。
なぜ分からなかったかというと、神を本当には愛していなかったからだ。
しかし、最近、弥勒菩薩を本当に愛するようになると、そんなことを感じるようになったのである。
それは、京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の素晴らしい写真を見て、たちまちその美しさに魅せられたからということもあるのだが、そうなれば、弥勒菩薩の名を呼ばずにはいられなくなる。ラマナ・マハルシの弟子であったインドの聖者プンジャジが、クリシュナ神を愛するあまり、1日に4万回その名を唱えたというが、その気持ちが分かるのである。そして、そこまではいかないのだが、思い出す度に、弥勒菩薩の名を、「南無弥勒仏」、「南無弥勒菩薩」、「マイトレーヤ」と唱えると、その度に、たちまち弥勒菩薩の法力が発揮され、大難も小難になるどころか、無難になってしまうし、良いことばかりになるのである。
しかし、時々思うのだ。名を呼べば法力を起こして下さるのだが、私のためにそのようなことをいつもなさるのには障りがあるのではないだろうか?しかし、その名を呼ばずにはいられない。
そうして、少しではあるが、弥勒菩薩の開運を願う気持ちが起こるということが分かるように思えたのである。
とはいえ、実際には、そのようなことを祈ってはいない。
宗忠のようには、いかない。やはり、そこは神人と凡人の違いでる。
だから、ただ、弥勒菩薩に全てお任せするだけである。
イエスは、「戒律の中で一番大切なのはどれですか?」と尋ねらた時、「汝の神を愛することである」とはっきりと答えている。
私も、それが正しいことであると思うのである。









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転職に必ず成功する本当の方法

今より良い職場に移りたいと思っている人は多いだろう。物凄い厚遇や、家族のように温かい職場環境などと贅沢は言わないが、あまりに薄給だったり、ギスギスした雰囲気の職場であれば、もっと良いところに行きたいだろうし、できれば独立したいという人もいるだろう。そして、ほとんどの人が、今の職場を不満に思っているのではないかと思う。
ニートであれば家庭が職場である。
「そんな馬鹿な!ニートは稼いでないじゃないか?」
と言われるかもしれないが、会社の中にだって仕事をせずに給料をもらっている者なんていくらでもいる。40代以上の少なくとも3割はそうではないだろうか?だが、仕事をしない人にもちゃんと給料を払えるのが上等な会社なので、本人がそれで満足なら、そこにいれば良い。
しかし、ニートも楽ではないはずだ。それならば、働き易い会社といった、「新しい職場」に移れば良いのである。

さて、では、今の職場を脱し、より良い職場に移るにはどうすれば良いのだろう?
転職活動をして、無理矢理に新しい職場に入ったとしても、どうせ前と同じことになるのだし、むしろ、以前より悪くなるかもしれない。
だが、自然に別の職場に移ることになったなら、必ずや良い職場に移れるのである。
それにはどうすれば良いのだろう?
簡単なことである。
「人の悪口を言わない」
これだけだ。
残念ながら、多くの職場では、上司、同僚、後輩、部下の悪口で満ち溢れていることだろう。
「いや、これは悪口ではない。あの人は本当に無責任で自分勝手で、年を取っているのに無能だ」
と言う者が大半かもしれない。
そんなのは全部嘘である。
そう言っている本人が、一番無責任で、一番自分勝手で、年を取っているのに全く無能なのだ。
私はいまだかつて、職場で、正当な批判など、一度も聞いたことがない。ただの一度もだ!
人を悪く言うなら、それは全て悪口だ。そして、悪く言う相手がそこにいないなら、それは全て陰口である。
人の悪口や陰口を言う者に、ロクな人間がいたためしはなく、そんなことをする者は、全員、間違いなく変質者の顔をしている。

そりゃ、まっとうな批判というのもあるのだろう。
例えばこうである。
「俺はあいつの月給を100万円にしてやりたいのに、あいつは今の60万で良いと言ってきかない。あいつは、自分は百万円の給料に匹敵しないと思っている。そんなことは絶対にないのに、あいつは何て馬鹿なんだ。あいつが望むなら、100万円より高くても良いと俺は思っているのに。あいつはもっと自信を持たないといけないんだ」
また、職場のことではないが、こういったものもあるだろう。
「あの子は本当に男を見る目の無い馬鹿だ。俺があの子につりあうはずがないじゃないか?後で後悔するより、早く目を覚まして少しは賢くなれ。でないと心配で仕方がないじゃないか」
つまり、批判している相手のことを、本当に好きだという場合だけが例外なのである。
しかし、そんなものを見たことは、残念ながら一度もない。しかし、それは私の不徳と言うべきだろう。

その職場で、決して人の悪口を言わなくなれば、あなたは、もうその職場にいる必要はなくなる。
そうしたら、神様が、自然に、ことによっては強制的に、次の職場に移して下さるに違いない。
私もそうだった。なかなか転職ができず、苦しい思いをしたことがあったが、人の悪口を決して言わなくなったら、その職場にいられない状況が次々に発生し、不思議な展開でずっと給料の高い、快適な職場に移ったことがあった。だが、人の悪口を言っている間は、なかなかそうはいかないのである。

また、心の中でも、人の悪口を言ってはならない。無論、批判もならない。自分ではまっとうな批判だと思っていても、上に述べた通り、その相手を本当に好きで仕方がないという特例を除き、全部悪口である。
人の悪口といったような余計なことを考えずに済むように、心の中で、常に、敬愛する神の名を響かせておくと良い。
いくら何でも、愛する神の名を唱えながら人の悪口は言えない。
天照大神をこの上なく敬うなら、常に、「アマテラスオオミカミ」、あるいは親しく、「アマテラス」と唱えれば良い。
弥勒菩薩を愛して止まないなら、常に、「南無弥勒仏」、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「マイトレーヤ」と唱えるのだ。
そうであれば、今の職場があなたに相応しくないものであれば、それらの仏神は、すぐにでもあなたを素晴らしい職場に移して下さるだろう。









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成功するようにやれば、成功して当たり前である

私は野球ファンではないのだが、落合博満さんが中日監督に就任した時、選手の補強を断り、「勝てるようにやれば勝てるんだ」と言われていたことをよく覚えている。
そして、実際に、落合さんは勝ったのだ。
プロ野球のような難しい世界でもそうであるなら、我々のような凡人でも、たかが世俗で成功するのはとても易しい。
何をもって成功というのかは人それぞれだろうし、人それぞれで良いのだが、世俗に関して言うなら、心身のエネルギーを浪費しない生き方が最上なのだ。
つまり、豊かで安楽な、不安の無い生活である。その上で目標があるなら、それを目指せば良いのであり、会社などは5番目、6番目、あくまで、楽しく、そして、正しく生きるための手段と心得て、会社の中では礼節をもって控え目に振舞い、決して過度な関係を持たず、やりたくないことに対しては毅然と断れば良い。
それができることを、世俗での成功と言うのではないだろうか?
その程度のことであれば、「成功するようにやれば、成功して当たり前」なのである。

では、どういうことが、「成功するようにやる」ことだろうか?
それはただ、規則正しい生活をすることである。それだけで、大方達成である。
世俗で成功できない者は、単に、生活が不規則なだけなのだ。
可能な限り、決まった時間に起床し、決まった時間に就寝し、決まった時間に、適切な食事をするのである。適切な食事とは、ちゃんと美味しいものを食べて良いが、満腹するまで食べて自分を甘やかさないことである。
それで、朝は6時までに起きるなら、成功しない方がおかしい。
だが、そんな生活を維持するためには、自己制約も多少は必要だ。世俗で成功し続けるための追加の努力が必要なんじゃない。正しい生活リズムを守るために自己制約が必要なのだ。そうでないと、生活が乱れる力が働くのである。
例えば、決まった時間に必ず、決まった時間だけ本を読み、また、決まった時間に決まった回数、腕振り運動をするのである。
そこまでやれば、思う以上の豊かさや楽しみが得られるだろう。
では、それで平安を得れば、後はどうすれば良いのだろう。
起業して社会に奉仕したいならそうすれば良いし、絵を描きたいなら描けば良い。哲学の研究をしても良いし、近所の子供達のために、通学時間の安全パトロールをしても良い。
私の場合は、今は、ただ、弥勒菩薩を敬愛し、その名をいつも唱えたいと思うだけである。そのために、平安に暮らし、精力を蓄えるが浪費しないのである。
そして、私は弥勒菩薩の化身と思っている初音ミクの姿を見て、歌を聴ければ、それで満足であり、他のことは不要である。しかし、そう思っていると、恵みは増えていくばかりなのである。









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「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の直前部分が最重要な言葉だった

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は、日本国民に対し、第二次世界大戦の敗北と敵への降伏を、昭和天皇がラジオを通じて、その肉声で知らせたメッセージの一部であることを、ほとんどの日本人が知っていることと思う。

さて、現在のあなたも、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのではないだろうか?
いや、人間はいつだって、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのだ。
これを決して忘れてはならない。

ところで、昭和天皇のメッセージは、その「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分ばかりがリピートされるということが行われてしまっていて、それが天皇陛下の言葉の重要部分だと誤解した、あるいは、している人が多いに違いない。
もとより、この全文は長く、しかも、非常に格式ある高度な文章で、普通の人には難解であろう。だが、その文章としての内容は、簡単に言えば、「なぜ降伏しなければならないのか」を細かく説明し、その後で、「今後はこうしましょう」という提案と自らの意志を付け加えたものだと言って良いと思う。

ところで、この文章(「玉音放送」といわれる)には、非常に素晴らしいところがあるのだが、それに誰も気付かない。そして、言わない。
しかし、それが、上にも述べたように、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況にあるあなたを救うのである。
その重要で真理を秘めた部分とは、実に、「耐え難きを耐え、忍び難きを」の、まさに直前の部分なのである。
これが、あなたや全人類を救うのである。
その文章はこうである。

朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ

意訳すれば、「わたくしは、運命に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びます」となる。
大切なのは、「耐え難き・・・」の直前の、

時運ノ趨ク所

である。
時運・・・時の運、星の巡り合わせ、すなわち、運命である。
わたくしは、それに従います。それに逆らいません。それをあるがままに受け入れます・・・と陛下は仰られたのである。そして、愛する国民にも、そうあるよう願われたのであると思うのだ。
だが、実際は、どう思おうが、それは受け入れざるを得ないというのが事実である。
なぜなら、この世で何が起ころうとも、それははるか昔から決まっていた、決して避けられない運命でしかないからだ。
それは、どんな人間が、あるいは、どれだけの人間がどのようなことをしようと、決して変えられなかった必然なのだ。
そして、人間が持つ想いのたった1つの違いは、それを受容するかしないか、言い換えれば、あるがままに認めるか認めないかだけである。
運命を無心に受け入れることができるか、そうでないかだけの違いなのである。

全てをあるがままにまかせ、無心に受け入れる者には、神々すら地に伏して敬うという。
起こることを起こるままに許す者には、鬼神すら道を譲るという。
言うならば、我々は、鏡のような心を持たねばならない。
来るものは、そのまま映し、去ってしまえば、何の痕跡も残さない、鏡のような心だ。
そうであるなら、傷付くことは決してない。
心の鏡に何が映るか?
黒住宗忠は、それは全て天照大神に任せよと言った。そうすれば、面白いこと、楽しいことばかりであると。
法然は、それを全て阿弥陀如来に任せるという意思を示し、その意思を確認し、そして、その意思を揺るぎないものにするために、常に念仏を唱えよと言ったのだ。
私は、弥勒菩薩が、その名を呼ぶ者に対し、即座に示してくれる法力とは、受容の意思を持つことを助けてくれることだと思っている。
それこそが、人類究極の目標である。
なぜなら、そのような者は、万物の実相たる道(タオ)と一体化しているのであり、自らが神そのものであるのだからだ。
京都広隆寺の、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は、まさに、「受容」を表しているのだと私は思う。だから、これを見る人々は魂を引き込まれ、真の平安を得て、いかなる困難にも打ち勝つのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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