ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年04月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

西部劇に登場する真の男の姿に学ぶ

人生の知恵はどこから学ぶかというと、1番はやはり仕事であろう。
ただ、人気があって儲かるスポーツ選手やタレントの場合は、本人に余程の謙虚さと節制がないと、むしろ完全に目が眩み、普通の人よりはるかに馬鹿なものだ。実際、彼らの多くが、引退したり、落ち目になってしばらく経った後で、やっとそれに気付くのだ。
また、ニートなら、それは普通の人にはなかなかできないことなのだから、遊び呆けていないで、しっかりニートとして学ばないといけない。その心がけがあれば、一発逆転などわけもない。
私の場合、ニートの間に、人間には心があることを深く学べたと思う。また、毎日、行くところがあることの有り難さもだ。それだけで、世間ではそこそこうまくやれている。
植島啓司さん(宗教人類学者)のように、自分で命懸けでギャンブルをやる人というのは、そこから多くを学ぶのだと思うが、私はギャンブルは一切しない。

ところで、娯楽大活劇というものでしかないはずの西部劇映画には、鋭い学びを得られるものが多いのではないかと思う。
私の場合、最近では、『怒りの荒野』(1967)と『OK牧場の決斗』(1957)の2つが、特に素晴らしかったと感じている。
面白いことに、両方共、主役は2人と言って良い。彼らは、現代日本の作り物で偽者の「いい男」など話にならない本物のナイス・ガイである。
『怒りの荒野』は、イタリアの俳優ジュリアーノ・ジェンマとアメリカのリー・ヴァン・クリーフの競演だ。私は、ジェンマほど格好の良い二枚目男優は、後にも先にもいないと思っているが、クリーフの悪の魅力はそれを上回るほどに感じる。本当によい男は禿げたって全く構わないのだと分かる。
この『怒りの荒野』では、「ガンマン十戒」として有名な、ガンマンとして生き残るための十の教えが出てくる。「人に頼るな」「人を信じるな」から始まるが、私は、第6の「危険な時ほどよく狙え」を実際に、困難な状況でよく思い出し、何度も助けられた。これは、軽い言い方をするなら、「焦るな」「冷静さを失うな」ということになるのだろうが、この「危険な時ほどよく狙え」という言い方は、なんとも素晴らしい表現であると感動する。

『OK牧場の決斗』は、実話を元に制作され、やはり、二枚目俳優のバート・ランカスターと、こちらも二枚目とも言えるが、ややニヒル(暗い影がある様)で硬派な大俳優カーク・ダグラスの共演だ。ランカスター演じる名保安官ワイアット・アープと、ダグラス演じる元歯科医だが身を持ち崩した賭博師でかつ早撃ちガンマンのドク(ドクター)・ホリデイ(ジョン・ホリデイ)の奇妙な男の友情も良いものだった。尚、ダグラスは96歳の今も現役俳優で健康であるらしい。
『OK牧場の決斗』は、学びの宝庫だ。
この映画のスタージェス監督は、映画の出来が不満で続編の『墓石と決闘』(出演俳優は変わっている)を創ったといった話があるが、私は、勝手なことを言うと、それは違うと思う。両方の映画を見て感じたのは、スタージェスはものごとの異なる面の中での男の友情を描きたかったのではなかったのかと思う。『OK牧場の決斗』では、アープ兄弟とドク・ホリデイがクラントン一家との決闘で勝利してハッピーエンドで終った感があるが、『墓石と決闘』では、アープやホリデイが、クラントン一家殺害の罪で裁判にかけられるところから始まる。すでに立派な法治国家であったアメリカでは、どんな理由があろうと、決闘なんてものが認められるはずがないのである。『墓石と決闘』では、こういった現実面が前面に出てくる。
先にも述べた通り、『OK牧場の決斗』は、学ぶ処は多いが、いくつか取り上げる。
ホリデイはプロの賭博師で、街から街に渡り歩く際も、(実際はそうはいかないかもしれないが)荷物は、今着ている洒落た服と、内ポケットに入れたカードだけだ。
ホリデイが初めてアープに、賭けに乗ることを誘いかけた時、当然、お堅い保安官のアープは断る。ホリデイは「俺に投資しろ」と言ったのだが、これほどの悪名高い賭博師がそう言うからには、危険な賭けに乗れという意味しかない。アープでなくても、応じる方がおかしい。
しかし、アープは、ホリデイの自信満々な態度に魅かれたのではないかと思う。アープは、自分で、「馬鹿もいろいろやったが、これほどのはなかった」と言いながら、なぜかホリデイの申し出に乗ってしまう。これには、ホリデイも少々面喰った感もあった。そこには、男の友情も始まっていたのだろう。
アープはホリデイに「なぜ負けないと言えるのだ?」と問うと、ホリデイは「負けるはずがない」と言う。
その理由が良いのだ。
それを、2種類の字幕で見たが、「負けるのは命が惜しいやつだ」と「勝つことに目の色を変えるやつが負けるのだ」だった。
これほど人生の真理を表す言葉もないだろう。
ホリデイは、「俺は失うものは何もないし、命も惜しくない。だから負けないのだ」と言う。私は、これぞ男だと感激してしまった。
男に限らないかもしれないが、捨て身の人間ほど恐いものはない。
無論、いかに捨て身でも、実力がなければさほどのことはない。
「窮鼠(きゅうそ。追い詰められたねずみ)猫を噛(か)む」と言っても、勝つか負けるかというと、鼠はやはり負けるのだ。
だが、ホリデイは、1人でいる時も、いつもカードを手にして真剣に動かして腕を磨いていたのだ。自分の努力で、鼠でなくなることが必要だ。
我々も、こうでないといけない。
誰かが、インドの聖者ラマナ・マハルシに、「私は、時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、マハルシが「いつもがよい」と答えたのが印象的だ。
「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎が、「念仏を唱えるなら、生活しながら念仏するようでは駄目だ。念仏しながら生活しなければならない。生活しながら静坐するようではいけない。静坐しながら生活しなさい」と述べたのも、それに通ずるように感じる。
この心がけを持つ限り、私は一生豊かで、傷付くこともない。あなたもそうあるように。

尚、『OK牧場の決斗』と同じ、ワイアット・アープとドク・ホリデイの物語を映画にしたものは、1946年のジョン・フォード監督の屈指の名作(『駅馬車』と並ぶほどと言われる)の『荒野の決闘』(My Darling Clementine)がある。
実は私は、10年近く前、あるプロのイラストレーターのサイトで、そのイラストレーターがこの映画を大絶賛するのを見て、この映画のDVDを購入していたが、なんと、いまだ見ていない。
ただ、ディスクから発する最高の波動は感じていたので、10年近くも、いつも身近に置いていた。この映画が『OK牧場の決闘』だということも、直感だけで分かっていた。それは普通の人から見れば超感覚的知覚、いわゆる、超能力かもしれない。見るべき時期まで必然的に見なかったのだろう。いよいよ、今日見るつもりである。









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仙人になるとはどういうことか?

強い意思で食の慎みを守る人の中には、本気で仙人になろうと思っている人もいるかもしれない。
それは悪いことではないし、不可能なこととも思わないが、勘違いしてはならないこともある。
それは、個人的な欲望のために仙人になることはできないということだ。
何のために仙人になりたいのかという目的が大切であるが、不安のない平和な日々を過ごしたいというならまだ良いのだが、仙術により、人々を支配したり、美味しいものをたらふく食べたいと思っているなら、お門違いもいいところである。
また、仙人がよく美少女と交わるような風説もあるが、迷惑な話をするものだと思う。
仙人は、それぞれの特質に応じて、特定の花とか木の実といったものを食べるだけだし、世俗に関わるのを避けるものである。
仙人になるには、心がいつも徹底して静かでいられるようでなければならない。
そのためには、食欲や性欲を完全に支配できなければならないし、そのような欲望を持ちながら、常に静めているのである。でなければ、たちまち、仙人の力を失う。
つまり、世間的な快楽と無縁のまま、少なくとも百年、場合によっては、数百年、あるいは、それ以上過ごすのである。凡人の心を持っていたら、退屈と苦痛で発狂するだろう。

私は昔、『荘子』を読み始めた時、内なる声が、これをよく理解すれば仙人にだってなれると囁くのを聞いたものである。
荘子の教えは、インドのラマナ・マハルシの教えと、究極においては全く同じである。
マハルシが仙人のような力を見せたことはほとんどないが、全くないわけでもない。遠隔への瞬間移動を行ったとしか思えないことが、弟子のプンジャジの伝記に記されているが、プンジャジが解脱した聖者になったきっかけを作ったのは、マハルシの神秘な力だった。

荘子より古い時代の老子の書とされる『老子』は、国家の高位の文筆家であった老子が書いたもので、内容は濃いがさすがに難解である。
もっとも、直感のある者が読めば、簡単に分かってしまう。
その老子も、明らかに仙人だった。
老子について、『列仙伝』には、老子は、精力を蓄えるが、これを消耗しないことに優れていたとある。
これこそ、仙人に大切なことであるが、このことを誤解する者が多い。
精力を蓄えるとは、決して、今日の世間で言うように、栄養のある食べ物を沢山食べることではない。全ての仙人達は、上で述べたように、決まったものを少し食べるだけであり、その点は、老子も同じであったに違いない。
むしろ、大食、美食すれば、身体の負担が増して精力は無くなるが、それよりも、回りに無限にある宇宙エネルギーを取り込めなくなるだろう。
また、気功家を名乗る者には、この宇宙エネルギー(気)を取り入れる方法だの、ひどい場合には、他人から奪う等といった愚かなことを書いている者もいるが、無限にどこにでもあるこのエネルギーを奪う必要などない。ただ、入ってくるのを邪魔しなければ良い。それには、世間的な固定観念を持たないことが最も重要であるが、それが最も難しいことでもある。
そして、老子が精力を消耗しないようにしていたというところが極めて重要だ。
これは、決して、働かないとか、行動しないとかいう意味ではない。
もとより、仙人は、性エネルギーを全く、あるいは、ほとんど浪費しないが、それだけではない。
現代人が、精力を枯渇させている原因は悪感情により起こすストレスである。
つまり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、憎んだりしたり、また、不安を感じることで精力を失ってしまうことはお分かりと思う。
心の小さい人間は、取り越し苦労や後悔ばかりで、少しも心が休まらず、これがエネルギーを漏れ続けさせてしまうのである。
その原因になっているものは、傲慢な自我である。
自我を消してしまう必要はないのだが、イエスのごとく、「汝敗れたり。我が後方に退けサタン」と自我に対して命じ、従わせなければならないのである。
イエスもまた、一種の仙人、あるいは、導師のようなものだと言う者もいるが、そうかもしれない。
仙人は、一見、何もしていないように見える場合もあるが、実は世界のために働いている。
「何もしないことで、最も偉大なことを為している」と言うしかないかもしれない。
これを、荘子では、無為の為と言っていたのである。
仙人に対する固定観念を持たないなら、人間の究極の目標は、そのような存在に至ることであるとも言える。
決して、個人的な欲望のために仙人になるのではない。
それが分かっていれば、仙人になろうとするのは高貴な目標であり、そうであれば、仙人や導師、あるいは、天使や宇宙人の方で手を貸してくれるかもしれない。
食の慎みを説いた江戸時代の高名な観相家の水野南北は、文字も読めない者であったが、教えは仙人に学んだことを少し明かしている。彼には、神秘な存在の関心を引くに相応しいものがあったのである。









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他人の不幸を喜ぶのは、胃が心臓の不幸を喜ぶようなもの

「他人の不幸は蜜の味」などという言葉がある。
私は、自分でそのようなことを言うことはないが、話をするために、こうやってそう書くのさえ憂鬱で、悲しく惨めな気分になる。
その蜜の味は、満腹している時の粗悪な化学合成品の蜜のように気持ちが悪いものであるはずだ。
そんなものが、心身の健康や美しさに悪い影響を与えないはずがないように、こんな下劣な言葉は、うっかりでも言ったり、思ったりすれば、身体の健康をそこなったり、病気の原因になり、心は歪んで汚れ、大切なエネルギーを失い、外見すら確実に醜くなる。嘘ではない。
他人の不幸は自分の不幸である。
言ってみれば、心臓に障害があれば胃も不幸であるようなものだ。
だが、確かに、世間の人々は、目が食べ物を見つけ、脚でそれに近付き、手がそれを取り、歯が噛み砕いても、結局、胃腸がそれを得るのだからと言って妬み、胃腸に障害があると「ざまあみろ」と思い、「他人の不幸は蜜の味」とか言うのだ。この言葉は、それほど愚かなことなのだ。

かつて、ある豊かな町に浮浪者がやって来た。浮浪者はひどく飢えていたが、誰も食べ物をやらなかったので餓死してしまった。そこが豊かな町であったことが浮浪者の不幸だった。貧しい町であれば、人々は彼を助けたことだろう。しかし、豊かな人々は、心は痛んだが、一度関わると、ずっと付きまとわれることを恐れたのだ。
物資的に豊かになると、人間はさらに豊かさを求め、それは、自分と他人の区別をより大きく感じるようになり、立場の弱い者を差別し、虐げるようになる。なぜなら、豊かになるほど、物質には限りがあると思うようになり、他人の分を差し置いても自分が得ようとする意識が強くなるからだ。
本来、自分と他人は、胃と心臓のように一体であるようなものなのに、心臓が、自分のところに血液を来させるためなら、胃に何も入ってこなくて良いといった馬鹿なことを本当に考えるのが世間の人間だ。そんな人間が、「他人の不幸は蜜の味」と言うのだ。

物質的に豊かでなくても、精神的にそれほど貧しくない町では、飢えた者がいれば、皆で助けるのである。
イエスが、「貧しい者は幸い」と言ったのは、物質的に貧しいことであることは分かると思う。
だが、他人の不幸をことさらに気に病み、不必要なまでに憐れむのも良くない。
心臓に障害があっても、胃には何もできない。
そんな時、胃は、ただ自分の仕事をしっかりやることだ。
そして、自分には分からなくても、身体を支配する何者かは必ずいる。それは、頭脳や心では決してないが、確実にいる。でなければ、心が構いもしない時でさえ、生きている限り、身体が統一されて維持されるはずがない。
同じように、他人の不幸についても、慈悲を施したければそうするのが良いが、そんな気が起こらなくても仕方がない。
人間は、自分の思うように、他人に優しくしすることも、虐げることもできない。
マザー・テレサのような人は、誰であろうと、苦しんでいる人を見捨てなかったが、彼女は、神によって特別にそういう風に創られていたのだ。
だが、他人への慈愛を行動にできないよう、凡庸で愚かに創られた我々は、自分もまた、慈愛を受けることが少なく、惨めな人生が義務付けられているのである。それが運命というものだ。
映画などでよく、「お前も運を試せ」とか言うだろう。
それは、あなたも、他人に対して慈愛を施すことができるよう変化する運命を持っているかもしれないという意味だ。
そうなれば、あなたも世界からの慈愛を、与えた分の千倍は受け、幸せになるだろう。
そして、「運を試せ」と言われ、「運を試そう」と思った者には、必ずそんな運命が用意されている。
それに、想いを乗せるかどうかはあなた次第である。
インドの偉大な聖者ラマナ・マハルシは、「他人に与えることは自分に与えることである」と言った。
そして、どんな他人も同じであり、それは全て自分であり、全てが神でないはずがない。
イギリスの偉大な科学技術者で神秘家であったL.H.ロースンは、「神の他に何もない。ただ神だけがある」という信念で、第一次世界大戦では数百人の部下を何年も率いて戦いながら、1人も失わずに連れ帰った。この言葉を使えるようになれば、あなたにも不可能はなくなるだろう。
尚、ロースンに関しては、下にご紹介した『人生は思うように変えられる(原題:The Amazing Laws of Cosmic Mind Power)』と、『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻という全く別の世界的な著書に紹介されている。









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自分の心を支配し、自在に信念を持つ秘訣

私は、高校1年生の時に、こんなことを考えたことをはっきりと憶えている。
それは、大悪人が善き人になるには、どのくらいの時間がかかるかというと、それは間違いなく一瞬であるということだ。
別に何か根拠があるわけではなかったが、そうとしか思えなかったのは、それが自分にはできるという、確信めいた感覚があったからだ。
そして、最近、その感覚が蘇ってきたように思う。
それがどんな感覚であるとか、どうやってその感覚を起こすのかというと、少し難しいのであるが、こんな話が参考にならないだろうか?
私は、小学生の時から、専門の選手ではなかったのだが、走り高跳びが得意で、誰かに負けたということがなかった。
ところが、おかしなことに、自分がどんな飛び方をしていたのか、さっぱり分からないのだ。
普通の人なら、バーの斜めから走ってきて、はさみ飛びで飛ぶのだろうが、私は、必ず正面から走ってきて飛んでいた。
ところが、ある日、一瞬で飛び方が分からなくなったのだ。
中学1年生の時であったが、やはり真正面から走ってきて、なぜか飛ぶのをやめた。その瞬間に忘れたのだ。以降、正面から走ってきて飛ぶということは、もうやれなくなった。
だが、それまでは、確かに、特別な飛び方をしていたのだ。
一瞬で心を変える技術というものも、ほとんどの人には全くやり方が分からないのであるが、できる者には簡単にできるのである。
そして、それはある時期までは誰にでもできるのだが、私の走り高跳びの飛び方のように、一瞬でやり方が分からなくなるのだ。
それだけではない。
私は、小学4年生で天体望遠鏡を手に入れた時、何の天文の知識も資料もなく、土星をいとも容易く見つけることができた。
また、図書館がどれほど広くて、どの場所がどんな本のコーナーかということを誰にも聞かなくても、読みたい本のところに真直ぐに進むことができた。
こう言うと、不思議な子供のようだが、そのようなことはできるのが当たり前で自然なことなのだ。それをできない者の方が、問題なのである。

そして、私は、今日、心を一瞬で変えてしまう感覚に、再び目覚めていることに気が付いたのだ。
もし、多くのお金をすぐに得られるという心の態度にすれば、お金は必ず得られるだろう。
ジョセフ・マーフィーの成功法則が目指すものは、そのような心の態度を持つことなのだろうと思う。
それは、世間の人にはとても難しいことなのだろうが、マーフィーは、そのやり方を懇切丁寧に易しく教えたので、潜在意識を活用する技術を教える教師として世界的に名高くなり、そして愛されたのだろう。

1つコツを教えるなら、心臓の下、胃の上あたりを、いつも楽にすることだ。
このことを、明治、大正の偉人で、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、「鳩尾を落として座れ」と言ったのだと最近気付いた。
「鳩尾を落とす」とは、また難しいことだが、それは、このように、心臓の真下が清々しく、何もないかのように感じることなのだ。
岡田虎二郎の静坐も学び、世界的著書『肚(HARA)』を書いたドイツ人心理学者カールフリート・デュルクハイムは、本来の日本人の姿勢は、肚(腹)と胸が近くにあり、非常に精神に良い影響を与えていたのに、ある時期から、西洋的に、胸を張るようになり、胸と腹が離れてから、西洋人のように、高慢な自我が自己主張をするようになり、日本人の慎み深い素晴らしい感覚を失ったのだという。
それは、胸にある自我が、肚にある神を敬うことを忘れ、ないがしろにするようになってしまったということだ。
心臓の真下、胃の上、膵臓、鳩尾・・・そこが潜在意識の座である。
そこをきれいにすれば、心は支配できる。
そうなれば、どんなことでも、できると思いたいならそう思えるし、それであれば、何でも本当にできてしまう。
つまり、信じることができるようになる。それが信念を持つということである。
鳩尾を、楽できれいな状態にするには、粗食をし、決して満腹するまで食べて自分を甘やかしてはならず、できる限り食を慎むことである。
現在の日本人は、ふんぞり返って座り、ますます、胸と腹が遠くなった上、美食、飽食で、大切な鳩尾が穢れきっている。
まずは食を慎み、慎みのある美しい姿勢でいるよう意識すれば、心を制御できる力を取り戻し、不可能はなくなるのである。









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真の好奇心とは

世間では、好奇心というものについて、まるで、牛や馬のように無知な子供が知識を求めることだと言うのである。
それで、我々もまた、知識を、単に面白いものや、利益をもたらす軽い「モノ」としてのみ捉え、挙句、より刺激的で面白いことや、儲かるような世間知にばかり関心を向けているうちに、実に、牛や馬よりも愚かになるのである。動物は、言葉としての知識は持たないが、本能においては立派に生きているのであるが、人間は、余計な知識のせいで本能を暴走させていることがよくある。それならば、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)がそうであったように、無知だが純粋な人間の方が、世俗的な知識で穢れた者よりはるかに高貴で偉大なのである。
好奇心とは、自分の内にある神性を思い出し、魂の故郷に帰ろうとする衝動、内なる神の誘いである。
世俗的には何の役にも立たない、あるいは、むしろ、世間的な利益や欲望に反するような知識や道理であっても、それに強く惹かれる時に、それを感じるはずである。
しかし、世間では、そんな貴いものをものを求めるべき子供に、くだらないガラクタを押し付け、自分が神性の存在であることを忘れさせ、犬や猫に劣るものであると思わせてしまうのである。そして、食欲と性欲(とそれらをもたらす金と名誉)を過大に重視する卑しい物質主義者になってしまうのである。
無論、世間的で物質的な知識も、ある程度は必要であるが、そこにすら、その裏に隠された神性な輝きを感じなければ、その知識は空虚で危ういものとなる。つまり、よく言われるように、火は、正しく使えば温かさや美味しい料理のために役立つが、誤って使えば、災禍をもたらすものにもなるのである。

我々の内には、元々、全てを知る何かがある。それは言葉で表現のしようのないものであり、老子は、それは本当は、名付ければ「それ」でなくなってしまうが、一応は「妙」とか「玄」とか言うのだと述べた。ある者は、神秘と言い、また、「それ」という言い方で示す者もいる。発明家で賢者であった中山正和さんは、「いのち」とか「宇宙生命」と言ったが、ある時期から、「X」と呼んでいたと思うが、この言い方に倣う者もよくいたと思う。
それを神と言っても差し支えないし、神の英知と言ってもよいだろう。
とにかく、それは誰の内にもあり、我々はそれを大切にし、愛し、掘り起こさねばならない。
イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と言ったのは、これのことであり、それは聖霊であると言ってよいだろう。

それは英知なのであるから、実際は物質的なことについても知らないことはない。
だから、私などは、コンピューターシステムの開発で、頭では分からなくて行き詰っている時に、ふとそれがアイディアを与えてくれて問題が解決することはよくあると思う。
それどころか、偉大な科学の原理は、全てそれがもたらしたのだ。それを別の人間が悪用したこともあるのだけれど、その偉大な知識自体は、例外なく内なる英知がもたらしたものだ。
ソクラテスは、内なる英知がもたらす閃きをダイモニア(ダイモーン)と言い、科学者、芸術家、医者、技術者など、いかなる職業であろうが、彼らの偉大な仕事が、それによらないものはないと言った。まさにその通りで、彼の助言があればこそ、我々は楽に正しい道を進めるのだ。
アメリカの科学技術者、探検家、講演家で、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、4歳の時に大学の準備校に連れていかた。そこで、教師に示されたものを「分からない」と言うと、教師は、「そんな態度は捨てなさい。君はちゃんと分かっているのだ」と教えた(第5巻に記載。この5巻は単独で読んでも良い)。それで、スポールディングは14歳で名門大学を卒業し、真知と冒険の生涯の準備をすることが出来たのだ。
我々も、本日ただいまより、世間の迷妄に満ちた普通の人の態度を捨て、内に英知を秘めた存在のごとく振舞わねばならない。態度は状況より重要であり、真実を言えば、態度が現実である。このことをゆめゆめ忘れてはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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