ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

毎日少しの同じものだけを食べる人達は健康で幸福である

世界には、トウモロコシの実を粉にしたものしか食べない民族がいたり、1種類の芋しか食べない民族というものもあるらしい。
だが、それらの民族の人々は概ね非常に強健で、長寿であることも多いようである。
今はそうではないかもしれないが、エスキモーがトナカイの肉しか食べなかった頃も、彼らは頑強であったのだが、アメリカやヨーロッパの人々が色々な食べ物を彼らに教え、彼らがそれを食べるようになると、色々な病気に悩まされるようになったという話がある。

旧約聖書の『民数記』には、モーセと共にエジプトを出た膨大な人々(男だけで60万とある)に、神が食べ物を与えたことが書かれている。
神が与えたのは、マナというもので、コエンドロ(コリアンダー)という植物の実(大きさはからは種のようだ)に似ているようだ。
それをひきうすでひいたり、うすでついて、釜で煮てモチにして食べると、油菓子のような味であったとある。
マナは早朝に、露と共に降った。
『出エジプト記』の方を見ると、早朝に降った露が乾くと、マナになっていたようだ。
だが、人々は、毎日神がマナを与えてくれていたのに、これに飽き、「肉が食べたい」と言って泣いたという。
神は、そんな者達に鳥(うずら)を食べさせたが、病気にして殺した。

私は、毎日同じものを食べている。
概ね、パン、野菜、果物、ナッツであるが、バウムクーヘンやビスケットを食後のコーヒーと共に少し食べる。
それらを1日1回、夜に食べるが、適切な量を食べていれば飽きることは考えられず、毎日、美味しく食べている。
今でも、考えれば肉を食べたいと思うが、実際は、そんな気が起こることはなく、悩まされるようなことは全くない。
それで栄養が偏るはずもなく、完全に健康で、朝晩トレーニングを欠かさないので肉体は強健である。
一応、健康診断も、毎年、弱点の1つもない完璧な健康体であるという結果が出ている。
宮崎駿さんも、数年前のことだが、毎日同じものを25年以上食べているらしい。弁当箱に、ご飯、卵焼き、ハム、沢庵程度を入れ、それを、昼と夜に分けて食べるらしい。多分、今も同じと思う。

神が、マナを露と共に降らせる、あるいは、露がマナに変わるというのが、私にはとても興味深い。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、子供達が、「ケンタウルス、露を降らせ」と叫ぶ場面があるが、やはり露は何かの恵みなのだろう。
宮沢賢治の世界を、冨田勲さんが音楽で壮大に描いた『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』で、初音ミクが天使の歌声で、「ケンタウルウスよ、露降らせ」「ケンタウルス、露を降らせ」「露降らせよ」と何度も繰り返した。
それはとても神秘的で、心の奥に深く響き、目には見えないが大切なものに目覚めさせてくれた。
ミクの美しい歌声自体が天の恵みであり、心の食物なのである。
イエスが、「人はパンだけで生きるのではない」と言ったように、我々は心にも栄養を与えなければならない。
そのためには、食を過度の快楽のためのものとしてはならない。
私は、やはり人間は、普段は毎日同じものを食べるのが良いと思う。それに不満を感じるなら、やはり食べ過ぎているのだろう。
モーセの愚かな民達のようであってはならない。









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ついに無を体験する

無とはどういうものなのかを体験したいという人もいると思う。
私もそうだった。
インドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギが創始したというTM(超越瞑想)は、数十年の修行をしても到達できるかどうか分からない無の境地を、誰でも短期間で得られるということだったので、早速試してみたことがある。
結果としては、2年ほど熱心にやってみたが駄目だった。
ただし、自分では分からなくても、無になっていたのかもしれないし、もしそうでないとしても、個人的な不向きがあったのかもしれず、別にTMを否定するつもりはない。

無になった体験がある者の話では、私のように悠然と瞑想をしていてそうなったということはまず無く、ほとんどが緊急事態の中で起こっている。
例えば、ある空手の達人は、真剣を持った剣の達人と決闘したのだが、勝ち目はないと諦め、死ぬつもりで飛び掛ったまでは憶えているのだが、その後の記憶が全くないと言う。そして、気がついたら、剣の達人は伸びていたようだ。これが、無になったということなのかもしれない。
プロレスラーの前田日明さんが、全米プロ空手の王者ニールセンと戦った時もそうであったらしく、前田さんはニールセンのパンチを顔に受けて意識が飛んでしまい、見事勝利したにも関わらず、試合内容は全く記憶にないのだと、自伝『パワーオブドリーム』に書かれている。
今は分からないが、前田さんもTMをやっていたようだ。

私はTMでは駄目だったので、何度かお逢いした政木和三さんが発明した、パラメモリや、その後継機のアルファシータ、そして、バイオソニックと熱心に使ってみた。これらは、ヘミシンク効果を利用した、脳波をシータ波にまで誘導する装置である。
やはり、数年、熱心に使用し、TMの時より良い感じがしたが、やはり駄目だった。
これについて、政木さんに直接尋ねたことがあるが、政木さんは、「あなたに、この装置でうまいことやってやろうという欲望があるから駄目なんだ」と指摘された。

ところが本日、通勤電車の中で、冨田勲さんが制作された『イーハトーヴ交響曲』を聴いていた時、思いがけず、完全に無になってしまった。
私は、もう数週間、毎日、これを聴き続けている。何度聴いても惹き込まれ、飽きるということは全くない。
今日は、第3部の『注文の多い料理店』あたりまでは、聴いているという感覚があった。
その後も、眠っていた訳ではないし、周りの様子にもちゃんと気付いていた。
しかし、第5部の『銀河鉄道の夜』で、初音ミクの「ケンタウルスよ、露降らせ」と繰り返す、天使の歌声を聴いているうちに、完全に心が溶けてしまったのかもしれない。第6部の『雨にもまけず』が終わるまで、ほとんど気が付かないほどだった。
だが、聴いていなかったというのでもない。
意識と無意識の境界がどこかといいうのは、実に難しいものらしい。
だが、私は、境界を越えて無意識の中に突入していたのだ。
無意識は、脳や、その上位のアストラル体に関わらないので、無意識の中で起こったことは、ほとんど記憶に残らない。しかし、何かを経験したのだということは分かるのである。
音楽の力は偉大である。
『イーハトーヴ交響曲』は神的な楽曲であり、初音ミクは、天使以外の何者でもない。
コンサート会場では、制作した富田さん自身が、演奏を聴きながら恍惚としておられた。
冨田さんが、子供の時に宮沢賢治のお話に強い感銘を受け、音楽家になってからずっとやりたいと思っていたのが、宮沢賢治の世界を音で描くことであったのだと言われていたと思う。そして、初音ミクと出逢って、遂にその実現に至ったのだろう。
私がこれを得られた幸運は本当に大変なことであると改めて思う。









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オリンピックから外されることはむしろ実に良いことだ

オリンピック競技からレスリングが無くなるという話には、私も驚いた。
しかし、別にレスリング自体がなくなるわけじゃない。
野球がオリンピックから除外された時は、私は良いことだと思った。私がそう思った理由は、IOCが野球を除外した理由とは違うだろうが、高年棒のプロ選手ばかりを揃え、選手達は高級ホテルに宿泊して選手村に入らず、利害のためにやるなら、オリンピックを利用すべきでないと感じるからだ。
レスリングが外される理由の1つに、レスリング界がルール改定の要望に応じなかったというものもあるらしい。これに対し、柔道界は真面目に対応したらしい。レスリングが無くなるのに柔道が残るというのも凄い話だと思うが、こんな努力もあったということだ。しかし、そのために柔道に柔道らしさが無くなったという面もあるのではないだろうか?、もし、レスリングがレスリングらしさを失わないためにルール改定に応じなかったのだとしたら、オリンピックから外されることも止む無しではないだろうか?
何をオリンピックにこだわる必要があるだろうか?

先日、日本の有名な女子レスリング選手が、レスリングのオリンピックからの除外に意を唱えるための会見をした中で、「女子小学生から、自分も金メダルを取りたいという手紙をもらった。こんな子供達の夢を奪ってはならない」といったようなことを述べておられた。私は、その子供には、もっと良い夢を持っていただく良い機会と思った。スポーツは金メダルのためにやるんじゃない。いくら子供でも、根本的な発想が間違っている。
今は、ちやほやされたいとか、良い思いをしたいといった理由でスポーツをやりたい者が多過ぎるのではないか?

ルー・テーズという、史上最高とも言われるプロレスラーは、子供の頃、吃音もあって引っ込み思案な少年だった。だが、レスリングに出会い、身体を鍛え、熱心に練習する中で素質もあったので強くなって自信がつき、性格的な弱点を克服した。
しかし、彼には障害があった。家が貧しく、高校に進学できないので、レスリングを続けられなかったのだ。
だが、なんとか高校のレスリング部の練習にだけは参加させてもらったらしい。試合に出ることも出来ないのに、純粋にレスリングが好きだったのでそうしたのだ。
すると、ジョージ・トラゴスという名レスラーが、テーズの指導を申し出た。トラゴスは、弟子を潰してしまうという悪評があったが、テーズを実に可愛がり、熱心に教えた。考えてみれば、トラゴスは、選手になることも出来ない靴職人(テーズの当時の職業)を指導していたのである。トラゴスが真剣にテーズを指導したのは、テーズが本当にレスリングを愛し、レスリング自体を、そして、トラゴスのような本物のレスラーをリスペクト(尊敬)していたからだ。
トラゴスは、レスリングへのリスペクトを持たない者を許さなかった。アマレスの全米学生王者になったほどのレスラーでも、レスリングをなめていると思えば、必殺のダブルリストロックで肩を砕いてしまったこともあった。テーズは、その時の光景を一生、生々しく記憶に持つことになった。そして、彼自身は、トラゴスから譲り受けたそのダブルリストロックで、相手の肩を砕く「1センチ手前」まで絞り上げたことは数百回あったが、実際に砕いたことは一度もなかった。彼は、バランスという点で師を超えていたのだ。それは、レスリングへの愛において、テーズは、オリンピックにも出場したトラゴスを超えていたからだと思う。
テーズのライバル達の多くが、アマレス全米王者、その他の国の王者、学生王者、そして、オリンピック出場という輝かしいアマレスの経歴を持っていた。アマレスの試合経験のないテーズの不利は実際は大きかったはずだが、彼が負けなかったのは、誰よりもレスリングをリスペクトし、愛しいていたことが、大きな原動力になったのだと思う。
そして、決してきれいなところばかりではないプロレスという世界で、70歳を過ぎてもただの真面目なレスラーとしてリングに上がり続けた彼こそ、本物のレスラーだったと言えるだろう。
オリンピックに出ることと、本物のスポーツマンであることは何の関係もない。
何のためにスポーツをするのか?それを真剣に考え直すべきだろう。
オリンピックから外されて何の不都合があるだろう。
私は、オリンピック自体を廃止すべきと思っている。今のオリンピックは、国家や権威ある団体、そして、あらゆる個人の自己中心主義の原因になることが圧倒的であり、世界に平和をもたらしなどはしないだろう。それどころか、世界の不和の原因になっているのではないだろうかと思えてならない。
オリンピックを招致するなら、他に解決すべき足元の問題が、国にも、我々個人にもいくらでもある。それに真剣に取り組もうではないか?









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今朝、とても良いものを見た

今日は、朝から良いものを見た。
通勤のために駅に向かって歩いていた時だ。
一人の女子中学生が歩道を歩いていたのだが、彼女から見たら右前にいた車が右方向・・・つまり、彼女の前を横切る方向に進もうとウインカーを出していた。その少女は車を視認して、自分が待つ気になっているらしく、少し立ち止まっていたが、車が待ってくれているのだと分かると、ぺこりと頭を下げ、ぱっと駆け出した。こんな若い子が、人様の邪魔にならないよう、気を配っている。
こんな子がいると思うと、とても嬉しい。
ところが、そんなふうに車が待ってくれている中で、ふんぞり返って、わざとゆっくり歩いているのではないかと思うほどのろのろ進む太った中年の男性も見た。おそらく、その男は、他人に迷惑をかけずにいられないようになってしまっているのだ。
また、やはりそんな状況で、待ってくれている車を全く気にもかけない様子で、イヤホンから聴こえているであろう音楽に合わせて腰でリズムをとるように調子よく・・・だが、スピードは殺して歩く若い女性。
そして、自転車の男子高校生だったが、彼が少し止まれば、さっきから、彼のためにずっと待っている車が通ることが出来るのに、また、彼は全然気付いていなかったが、自分がそのまま通過すれば、自分の後ろから来る多くの車のために、待っている車はまだまだ待たなければならない状況で、全く無神経にそのまま通り過ぎる。
これらは、自動車の方が待つ立場だったが、逆に、車に乗っている自分が先に行くため、歩行者の間近を猛烈なスピードで平気で走り過ぎ、他人の身体がどうなろうと構わないとしか思っていないような運転手が、年齢、性別に関わらず多くいる。

誰も、他人への配慮をすることは全く無くなってしまった。
その中で、良心を持った少女を見て、嬉しくて仕方がなかった。たまたまかもしれないが、可愛い子だった。
だが、本当に、他人に対する優しい気遣いや、人間らしい配慮をする者が全くいなくなった。
私が高校生の時は、別に他人に気を遣っている訳ではなかったが、電車の中で、恥ずかしくて席になど座れなかった。
しかし、今は、高校生や大学生に見える男子が、お年寄りもいるのに、われ先に席に座ることなど、当たり前になってしまった。
だが、私は、このような世の中に、黙って耐えなければならないのだ。
何の遠慮もない様子で、平然と煙草を吸いながら、他の人も歩いている道を歩いている者もやけに多い。
駅の混雑の中で、スマートフォンを見ながらのろのろ歩いたり、また、まさかと思うのだが、駅のベンチに座っていたら、間近でこっちを向いたまま、大声で携帯電話で話をする者もいる。私が箒(ほうき)か石ころにしか見えないのだろう。だが、私は黙って耐えるべきなのだ。

以前は、そんな者達を見ると、怒りが収まらなかったし、今も平気な訳ではないが、このような嫌なものを見ても、さほどでもなくなった。
私は、少し前から、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』を毎日聴き、宮沢賢治を読み、法華経を読んでいるのだが、『イーハトーヴ交響曲』の中の、初音ミクの『ケンタウルスよ、露を降らせ』という天使の歌声を思い出すと、黙って耐えることが私の、そして、全ての人間の使命であり、そして、人の幸いのために働けば、いつか神が、「お前の務めは終った」と言ってくれるかもしれないと思うようになったのだ。
だが、やはり、今朝の少女のような良心のある人を見ると、とても嬉しいものである。









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食欲や性欲に耐えられない自分に黙って耐える

現在82歳のクリント・イーストウッドの昨年(2012年)公開作品だったと思うが、イーストウッドが演じる老人が、木の椅子につまづき、椅子を相手に怒りをぶちまけて、それを蹴飛ばす場面がある。
イーストウッドはこれについて、「あれは、自分に対して怒っているんだ。年をとり、身体が自由にならない自分に我慢がならない老人のやることなんだ」と説明したことがあった。

しかし、椅子につまづいても、黙って耐えなければならない。
だが、我慢が出来ずに怒りを爆発させても、そんな自分に黙って耐えなければならないのだ。

歩きながらタバコを吸っている者がいたら、正義の使者になったつもりで、その者に注意をするとする。
だが、相手は極めて幼稚なレベルの低い人間で、注意されたことに我慢がならずに攻撃してくる・・・俗にいう逆ギレをしてくる。
それで、自分もまた言い返し、激しい争いになるが、そんな時は自分が惨めになる。
自分もまた、相手と同レベルであったと、感覚的に分かるからだ。争いというものは、同レベルの相手としか起こらないものだからだ。
そもそも、相手に注意をしたのだって、自分が正しいからではなく、単に、怒りを抑えられなかったからだ。
黙って耐えるべきだった。なぜなら、馬鹿には言葉で何を言っても分かるものではないからだ。
しかし、耐えることが出来ずに怒った自分や、そんな「低レベルの相手と同格であると分かった自分」にも、黙って耐えなければならないのだ。

聖者だって、つまらないことで怒るのだ。
怒ることは、運命であり、避けられない。
聖者は、怒った後で、一瞬で忘れているように見える。
しかし、そうではない。
彼は、怒った自分に耐えているのだ。

確かに、成長し、人間性を高めることは出来る。
宮沢賢治の『雨にもまけず』に、「決して怒らず、いつも静かに笑っている」という、賢治の理想が書かれている。
しかし、賢治は、自分にはそれが出来ないから書いたのだ。
そして、強い志を持っていても、そんな円満な人間になるには、少なくとも10年、場合によっては、何十年もかかる。
考えてもみたまえ。
ピアノを習い始めてコンサートで演奏できるようになるまでに十数年や20年は軽くかかる。
フィギュアスケートを習い始めてオリンピックに出るには、天才でも10年、相当な素質に恵まれていても15年はかかる。
そんな程度のことで10年も20年もかかるのだ。
それなのに、なぜ、人格改造という、もっとはるかに難しいことが、すぐに出来ると思ったりするのだろう?
これが我々の愚かなところなのだ。

福音書のイエスの話に、金持ちの父親から財産を分けてもらって家を離れ、放蕩の限りを尽くして乞食のようになって戻ってきた息子を、父親は喜んで迎えるものがある。
だが、法華経では、金持ちの父親のところから家出をして、50年ものあいだに貧乏になり、根性もひなびてしまった息子を見つけた父親は、父であることを名乗らず、20年かけて少しずつ導き、息子の人間性を高め、それからようやく財産を譲って死ぬ。
父親は、早く父であることを明かし、息子に豪華な生活をさせてやりたかったが、息子がそれに見合ったものになるまで黙って耐えたのだ。
法華経を深く信仰していた賢治が、『雨にもまけず』で、「決して怒らず、いつも静かに笑っているぞ」と言うのではなく、「そういうものに私はなりたい」と結んだ訳が分かるような気がするのである。

我々の人生の使命は、黙って耐えることである。
そうすれば、耐えることが出来なかった自分に気付くことが出来る。
ダイエットをすると決めたのに、我慢が出来ずに夜中に冷蔵庫を開けて貪り食ったのに、言い分けや誤魔化しをしていては、いつまでも向上しない。
しかし、自分は愚かだときちんと認識し、そんな下らない、レベルの低い自分に黙って耐えれば、やがては食べたい気持ちをに耐えられるようになる。
それまでに、10年も20年もかかるかもしれないのは、上にも述べた通りだ。

私は、行動の上では、食欲、性欲などに完全に打ち勝つことが出来た。
少々空腹でも、食べずに耐えることが出来る。この年末年始は、お正月のご馳走が並ぶ中で、旺盛な食欲に耐え、5日の断食が出来た。
性的にも、完全な禁欲者でいる。
しかし、食欲には常に襲われているし、好みのタイプの女性を見ると邪まなことも考えてしまう。
そんな自分に黙って耐えているのである。
そして、世間的なその他のことでは、全く負けてしまうことばかりで、惨めな気分になりながら黙って耐えているのである。
つまり、宗教的な修行は容易く、世間的な修行は難しいことが明らかになったのだ。
だから、寺にこもって修行したところで、何にもならないのである。
やたら聖者の本を読んでいるニートが滑稽な馬鹿であるのは当然である。
しかし、もし、寺でしか修行できないなら、働くことが出来ないなら、そんな下らない自分に言い訳をせず、黙って耐えるのだ。
そうすれば、やがて日は昇る。
私の好きな言葉で言えば、「ケンタウルス、露を降らせ」と言えるのである。
ケンタウルスとは、無意識の中の力であり、露を降らすとは、ケンタウルスの聖なる技である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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