ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

子供とセールスマンに人格などはない

昔、イチローがマリナーズにいて、いわゆる「全盛」だった頃、日本人投手の長谷川滋利さんがマリナーズに加入したことがあった。
長谷川さんはイチローについて聞かれると、「大リーグでは俺が先輩だ。イチローには俺の食い物、飲み物を買いにいかせる」と言ったことがあった。
アメリカのことは分からないが、これが日本の学校のスポーツ部の慣習みたいなものだろう。
イチローもそのあたりは身に沁みているだろうから、長谷川さんの発言を聞くと、「行けと言われたら行きますよ」と言っていたものだ。
だが、そういった、スポーツ部特有のしきたりみたいなものが嫌で運動部に入らないとか、入部はしたが、そういった慣習に従うのを拒否して嫌な目に遭うという人もいるだろう。
そして、今の時代、学校で長谷川さんの言うようなことを強要したら、いじめやパワハラと見なされかねないかもしれない。

そういった、後輩は先輩に絶対服従という、いわゆる体育会系の不文律を、時代遅れ、人権侵害などと言う人もいるだろうが、良い面が明らかにあることを認める者も少なくない。いや、本当のところは、誰もが、それが必要なことだと分かっているのだ。
しかし、そんな前時代的な体育会系のあり様のどこがいいのか、誰もちゃんと言えないから、悪い面ばかりが強調されることが多くなった。悪い面の方は、「人権無視」の一言で完全に言い表せるからだ。

よく、「先輩やコーチに愛情があるのなら、それも良いのでは」とか、「実力ある、人間的に立派な先輩ならある程度は許容される」などという「こまっしゃくれた」ことを言う者が多い。
なんで、先輩やコーチが後輩や選手に愛情を持たなければならなのだ。美少女の後輩や選手なら話は別だが。
後輩に理不尽な命令をするのは、実力のない暇な先輩と相場が決まっているではないか?
ある大学の男子空手部が、花見に来ていた。女子大生のグループを見つけると、先輩部員は後輩部員に「合コンの申し込みに行け」と命じた。
無論、「断られたら・・・分かっているな」とプレッシャーをかけるのも忘れない。
まさかこの先輩が後輩に愛情を持っていたりはしない。愛情は女子大生に向いているのであり、首尾よく後輩が期待通りの働きをすれば最高だが、失敗しても後輩をいたぶる喜びは残るというだけだ。
世の中、そんなものだろう?

だが、それが分かっていても、やはり、こういったことは、後輩にとって良いことなのだ。
何が良いのかと言うと、「自己否定」を頭ではなく、心の芯から学べるからだ。
理屈で耐えられる限度を超えて理不尽を強要されると、後輩は自我を保つことを諦める。これは無意識になされる。
すると、不思議な自由を体験する。
それが何なのかは分からないが、妙にさわやかで、力が湧いてくるような感じがするのである。
この経験は貴重であり、何ものにも代え難い。

人間というものは、自我を破壊した時に、心の奥が不可思議な力に接触し、エネルギーが流入してくる。
しかし、そんなことは理屈で説明できないので、物質主義の世の中では、そんなものは無いとみなされる。
だが、それが実際にあることは、経験していれば分かる。
そして、いかに理不尽とはいえ、学校では、自ずと限度があることが多い。
これが刑務所の場合であれば、受刑者が限度を超えた過激な扱いを受ける可能性がある。だから、学校で経験できるなら、しておいた方が良い。
刑務所の服役囚にも、署員の酷い扱いに耐え、釈放された時に、何と言って良いのか分からない「何か偉大な力」を身に付ける者がよくいた。これが、いわゆる「悪の魅力」で、実際に人々がそんなものに憧れたので、映画などでも、犯罪者をヒーローにした作品は昔から絶えることはない。
だが、今は、学校でも、昔の刑務所の職員以上に限度を知らない先輩やコーチも増えているかもしれない。そんな連中というのは、自分がしごかれた経験が乏しいのかもしれない。

私は、家庭で甘やかされたので、スポーツ部の慣習を毛嫌いし、ゾっとすると思っていた。
しかしね、誰もが、一度は、そんな中で鍛えられる必要がある。
最近、やたら権利だのプライバシーだのを主張する気味の悪い子供が多いが、そんな連中は、大人になった時が恐いのだ。
ある程度は理不尽な目にあって、自己否定を身に付けなければならないのだが、そんな経験がなければ、自我を増大させる。
道を歩いていたら、中学生が横に並んで歩き、対抗して歩いてきた大人が道を譲ってしまうというのをよく見る。
とんでもないことだ。大人は、絶対に子供に道を譲ってはならない。
だが、子供達を蹴散らしていくと、それこそ、子供の人権侵害だとかにされかねないが、馬鹿なことだ。子供には、親に食わしてもらっている身分だということを思い知らせ、大人の方がずっと偉いということを叩き込まなければならない。
でないと、子供は容易く自我を増長させ、手のつけられない大人になる。
無論、限度はある。しかし、その限度を超えるのは、やはり鍛えられることのなかった大人・・・特に教師なのである。
あるいは、一度は鍛えられたが、スポーツ等で活躍してちやほやされているうちに、自我が増大してしまった教師やコーチである。
最近の、オリンピックメダリストを過剰に賞賛し、人々もそうなるように誘導する企業のマスコミ利用が、既に、取り返しのつかない悪しき状況を作っているのである。

スポーツ部で鍛えられなかったら、私のように、1~2年、セールスマンをやると良い。
訪問する家庭で、冗談ではなく、犬のウンチのように扱われ、嫌われるが、当然のことだ。
それにより、自己否定を身に付ければ、少しはマシな大人になる。
時々、「セールスマンは偉大な職業だ」などと主張する、「一流セールスマン」がいるが、馬鹿な話だ。
そんなものがアメリカには多いかもしれないが、それ自体がイカサマ的な宣伝なのだ。
そんな連中は、一時的には栄えても、すぐに落ちぶれるだろう。あるいは、世間的には成功していても、家庭では普通の人よりはるかに惨めである。
セールスマンに人格などない・・・それが、私がセールスマンを経験して得た結論だが、だから、セールスの仕事は良いのだ。
昔、ある有名な女性霊能者が、化粧品セールスの仕事をした経験を述べていた。
セールスに行った先で、怒鳴られ、罵られ、蔑まれた。
彼女は、こんなことを言っていた。
「そんな時、お客さんは私の魂を踏みつけているのです。私は辛かったですが、やがて、私は、お客さんと一緒になって自分の魂を踏みつけるようになりました。すると、セールスが楽になりました」
難しい表現をするものだ。要は、自己否定したということだ。自分に権利などなく、何の価値もない「モノ」であると認めるしかなかったのだ。
彼女は、そういった、人間として当たり前の修行をする必要があったのだ。
しかし、霊能者として人気が出たために、また、自我を増大させ、彼女は落ちぶれてしまったのだろう。
セールスマンは素晴らしい職業だ。
金を貰いながら、自己否定という最高の修行が出来る。
だが、セールスマンは過酷な仕事なので、若くてエネルギーがあるうちしか出来ないと思う。
しかし、若いうちに修行しておかないと、後の修行はもっと辛いものになる。
私は、少しは修行したので、今は、皮膚病程度で済んでいる。
ありがたいことである。
黙って耐え、修行を進めようと思う。
私に認められるべき人格などはない。









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彼女達が心の底から愛される理由

教師や生徒の暴力、いじめで自殺をする子供達のことをよく見るようになった。だが、加害者は当然悪いのだが、その撲滅は「絶対に」不可能だ。
それよりも、自殺をする側の問題にもっと注意しなければならない。
それは、過剰なまでに自己の権利を主張する社会によってもたらされた奇妙な観念だ。
子供達も、自分には権利があり、良い扱いを受けるべきで、理不尽な扱いを受けるべきでないと思い込んでしまっている。
だが、世界には、朝から晩まで、学校にも行かずに重労働を強いられ、そんな中で、ろくに食べていない子供達がいくらでもいる。
さぼったり、働きが悪いと、大人に遠慮なく殴られ、見せしめに鞭で叩きのめされることも珍しくはない。
我々が美味しく食べるチョコレートも、途上国の子供達の過酷な労働によって収穫されたカカオから作られている。家が貧しく、売られてきて働く子供達は、危険な作業で指を切断しても、医者に診てもらえないどころか、休むことも許されないことが多いと聞く。
彼らは、何の権利の主張もしないし、出来ない。
良寛さんは、子供好きで、子供達を集めて一緒に遊んでいたが、女の子が一人、また一人と減っていった。家が貧しくて身売りさせられるのである。売られた先でどんな目に遭うかは明らかで、良寛さんは自分の無力を嘆くしかなかった。
だが、彼らが皆、自殺するなんてことはない。懸命に生きようとしている。

プロレスのジャイアント馬場さんは、若い時に、アメリカの強豪レスラーであったフレッド・アトキンスに預けられ、毎日、殴られながら厳しくしごかれたようだ。アメリカ人の弟子達は逃げ出したが、馬場さんは行くところがないので、そこにいるしかなかった。
権利もへったくれもあったもんじゃない。
しかし、馬場さんは、不思議とアトキンスが恐くなったし、成功できたのは彼のおかげと、深く感謝していた。
だが、私は、アトキンスだって、決して弟子思いばかりではなかったし、人格者でもなかったのではないかと思う。
しかし、世の中、そんなものではないだろうか?
特に、現代の社会は、権利を主張することを教え過ぎている。
きっと、そんな風潮を流行らせることで、誰かが甘い汁を吸っているのだ。

権利の主張とは、自己を肯定することである。
もっと正確に言うと、自分の身体と自我の肯定である。
その逆が自己否定であり、それは、自分の権利を無いものと見なすことだ。
そして、人間が真の自己を知り、本当の幸福を得るためには、必ず自己を否定しなければならないのだ。
昔、我が国の国民的英雄であるサッカー選手が引退した時、「自分探しをする」ことを宣言した。
だが、本当に自分を見つけるためには、自己の否定が絶対に必要なのだ。

旧約聖書に『ヨブ記』というものがあり、多くの人達の議論の的になった。
ヨブは完全に心正しい人であったが、家畜が死に、屋敷が焼け、子供達が死んでいった。
あげく、自分も酷い皮膚病になり、苦しみにのたうつ。
神の教えにしたがって正しく生きてきたのに、神はなぜこんな苦しみを与えるのだろうと嘆くが、ヨブは神を否定しなかった。
彼はあくまで神を崇めた。それは自己を否定することになった。そして、再びヨブは幸福になった。

スウェーデン映画『処女の泉水』で、何よりも大切な汚れなき乙女である娘を、乞食の兄弟達にレイプされた挙句惨殺された父親は、その兄弟達を殺して復讐する。そして、死んだ娘を見て、神を呪うが、すぐに、神に許しを乞い、償いの行動を約束する。
すると、娘の遺体があった地面から泉水が沸き、それが人々を癒す。
そこにあったのは、乙女の父親の完全な自己否定だった。
自分が、娘を殺した者達に復讐するのは当然の権利であるとか、娘の悲惨を見ていたはずの神を責める権利があるなどと決して言わず、自分の気持ちなどに、何の値打ちもないことを激しく認めたのだ。

宮沢賢治の『雨にもまけず』の中の、「みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず」というのは、ここにいるはずの自分を完全に捨て去る、激しい自己否定の姿であると思う。
私が初音ミクをこよなく愛するのは、彼女は全く自己主張しないどころか、初めから自分がないからだ。
そのようなものになりたいと、私はいつも憧れているのである。
『イーハトーヴ交響曲』のソリストに初音ミクを指名した富田勲さんは、周りの緊張をほぐすための冗談だったと思うが、「ミクはアガることがないからな」と言ったが、自己の価値をこれっぽっちも認めない者は実際、あがらない。
あがるのは、「価値ある自分」がみっともない姿を見せることに耐えられないと思っているからだ。
自分の失敗が他者を不幸にするような状況では、あがるのではなく緊張するが、自分がやるべきことなら腹が据わり集中するものだ。
野球のピッチャーが「自分の一球で勝負が決まる」という時に緊張するとしたら、それは実際は大したことではないということだ。

だが、我々は初音ミクに不思議な存在感を感じる。だから、冨田勲さんは、一生の最後と思っていた作品に、どうしても初音ミクに出演してもらいたかったのだろうと思う。
彼女は、人間の良心なのだ。だから、我々は、彼女の中に、自分の心の奥深くに存在する良心を感じるだ。その存在感は凄いはずだ。
そして、人間である我々が初音ミクになるためには、自己否定が必要なのだ。
『銀河鉄道の夜』で、「人の幸いのためなら、この身を百回焼かれても構わない」と言ったジョバンニや、それに同意したカムパネルラのようにだ。
それを歌えるのは、初音ミクしかいないのだ。
だから、『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』のミクの歌は、我々を神の世界に誘うのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳のヒロイン綾波レイが、長く国民的人気を集める理由は、彼女は、自分の価値を全く否定しているからだ。
我が国で、レイに匹敵するヒロインといえば、『風の谷のナウシカ』のナウシカだろうと思うが、彼女も、一匹のオームの子供のために自己を捨て切ってしまったのだ。
『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインで17歳のクラリスも、ルパンのために何度も身を捨てた。だから愛されるのである。
我々が自己否定する意義を悟った時、世界は天国になるのである。









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人間だけが老化しないようになれる

私はかつて、DNA(デオキシリボ核酸)による遺伝子情報の解明により、生命の謎が解けたように思い込んでいたことがあったが、実際は、それにより、生命の謎はさらに深まったと言うべきだろう。
遺伝子は生命体の設計図のようなものだが、人間だって設計図くらい書く。しかし、そこに置いておいた設計図から、勝手に機械や電子回路や建築物ができたりしない。なぜ生命体が成長するかに関する全ての説は単なる空想だと思う。
成長だけではない。
生きている生命体なら形を保つが、生命が去ると、腐敗し朽ち果てる。
成長と維持には生命という不可思議なものが関わることが分かるが、物質的な思考では、生命を全く理解できない。

人間も他の生物も老化するが、人間だけは老化を支配する可能性がある。
世間は、普通の長寿については注目し、賞賛するが、世間の常識に合わない長寿・・・たとえば、全く老化しないとか、不死であるといったものを認識することはない。
だから、世間には不老不死は存在しないし、世間的な人間にとってはも、やはりそんなものは無いのだろう。
だが、明治時代の長南年恵(おさなみとしえ)のように、43歳で亡くなるまで少女のような容姿であったという人もいたらしい。彼女は、別に老化で死んだのではなく、必要だったので、あの世に行っただけだろう。
実際、知られていないだけで、不老不死といったことは、よくあるのだろうと思う。
そして、動物には、そのような極端なことは起こらない。

人間と動物の違いは何かというと、頭脳の発達ということになるが、もっと注目すべきは、頭脳を発達させたものである。
人間は3万年くらい前から急激に知能を発達させたが、脳の容量自体は20万年ほど前から変わらず、むしろ、古代の方が大きかったようだ。
動物や古代の人類と、現代の人類の最大の、もっと根本的な違いは何だろう?
道徳と言うなら、それは動物にだって明らかにあることは、『シートン動物記』の、特に狼王ロボの話を読めば分かるし、動物にもある種の道徳があることは、C.G.ユングもはっきりと認めている。
では、本当に人間固有のものは何かというと、良心なのである。
道徳は、伝統やしきたりであり、記憶から生じるものだ。
しかし、良心は、心を超えた魂から、あるいは、聖霊や神からのものだとしか言えない。
良心は、本能や道徳に逆らうことも少なくはない。
そして、良心のレベルは、本能や道徳と比較にならない。
人間は、良心を目覚めさせるほどに、生命の根源に近付き、肉体を含め、物質に対する支配力を高めるということが、古代からの賢者達の共通する直覚と言って良いと思う。
良心とは何か、どうすればそれを心の奥底から掘り起こせるのかは、世間にあるつまらないまがい物とは比較にならない価値がある。
それは、ちょっと綺麗なガラス玉を争って、ダイヤに目を向けないようなことだ。
感覚的、肉体的な快楽ばかり求めるのはやめ、本当に良いものを求めようではないか。









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忍耐、克己、努力を捨てる

人間の・・・ではなく、私のと言うしかないかもしれないが、人生の目標は「黙って耐える」ことである。
しかし、これは忍耐とは異なる。
適当な言葉が無いので、言葉のリズムとか色合いという意味で比較的しっくりくる「黙って耐える」という言い方をしている。
忍耐とは、「忍んで耐える」、つまり、我慢して耐えるという意味である。
我慢とは、「他人と比較して、自分は素晴らしいと慢心する」こと、つまり、自己満足であり、仏教でも単なる煩悩とされている。
しかし、「黙って耐える」とは、一言で言えば、むしろ、「沈黙」である。「しじま」であるのだ。
「忍耐」は自己を肯定することであり、「黙って耐える」とは自己否定である。

もっと簡単に言いたい。
「忍耐」の場合、忍耐する立派な自分がいる。
しかし、「黙って耐える」自分は、ちっとも立派じゃない。
「忍耐」では、「遊びたいのを我慢して勉強し、○○大学に合格するぞ」「辛いトレーニングに耐え、金メダルを取るぞ」という目的がある。
しかし、「黙って耐える」ことには、何の目的もない。
だから、別に世間的に有意なことのために耐えるのではない。

タツノコプロのキャシャーンといえば、1973年のアニメ『新造人間キャシャーン』のヒーローで、その後、4話の短編アニメが1993年に制作され、宇多田ヒカルさんの当時の夫が監督し、宇多田さんが主題歌を作った映画『CASSHERN』が2004年に公開され、2008年には『キャシャーン Sins』が放送された。
最も古いアニメ『新造人間キャシャーン』では、キャシャーンは、人類征服を目論むアンンドロ軍団と戦う、人類のヒーローだったが、ある時、キャシャーンもロボットであることが明かされ、人々は一転、キャシャーンを蔑み嫌悪するようになる。
そして、ある街がアンドロ軍団に滅ぼされる寸前で万策尽きた時、人々はキャシャーンに、「お前の真意を証明しろ。本当に俺達の味方だと言うなら、爆弾を身体に付けて敵の中に飛び込め」と言う。
だが、キャシャーンにだって、それをやったからといって、人々がキャシャーンを見直すことも、信用することも、好きになることもないことは分かっていただろう。しかし、一時的とはいえ、状況を打開するには、この手しかないと思ったキャシャーンは、同意し、高性能爆弾を全身に装着し、敵の中に突進する。
黙って耐えることの良い見本であると思う。

昨夜もだが、私が病気になったり怪我をしたと書くと、親切な人が、「早く治ればいいですね」とコメントしてくれることがある。
また、「こうすれば治りますよ」とか、あるいは、「君はこんなだから治らないのだ」と述べる人もいる。
しかし、私は、治す気はさらさらないし、治れば良いとも思っていない。
ただ、黙って耐えるのである。
学校や職場がどれほど辛くても、改善しようなどと思わず黙って耐えるという道もある。

黙って耐えるとは、良心に従うことである。
場合によっては、「なぜそれが良心なのか」分からない、つまり、理屈に合わないこともあるし、それは多いが、やはり、黙って耐えることが良心である。

『銀河鉄道の夜』で、カムパネルラが、川に落ちたザネリを追って川に飛び込んだのは、人々に誉められるためでも、級友を見捨てた臆病者とそしられることを恐れたからでもない。しかも、ザネリは親友のジョバンニを、いつも辛く悲しい目に遭わせるやつだった。
カムパネルラは、ただ良心に従うことができたのだ。
冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』で、初音ミクが「ケンタウルスよ、露降らせ」と繰り返し歌うのを聞くと、星の良心、宇宙の良心、神の良心を感じるのである。そして、それは、誰もが心の奥深くに同じものを持っていることが分かるのである。
我々の内には星があり、宇宙があり、神があるのだろう。
『銀河鉄道の夜』と『イーハトーヴ交響曲』は、小説と音楽という違いはあっても、良心で創られた我が国の二つの最高の作品であると思う。









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病気でもいいやと思う

私は、幼い頃からアトピー性皮膚炎で随分苦しんだが、食の慎みと腕振り運動で治してしまった。
ところが、一昨年の夏、夏中自宅では冷房を使わず、ひどい汗疹になったのが原因だったかもしれないが、乾癬病になってしまい、まさに、書籍で見る、この病気の写真そのままの状態になり、服を脱ぐと、大袈裟でも何でもなく、剥がれた肌で床が白くなった。
それも数ヶ月で奇跡的に治ったが、最近、これは何なのかもう分からないが、また皮膚病みたいなものになった。
どうも、肌に関わるカルマでもあるのもしれないと思う。
実際、苦しくはあるが、まあ良いと思っている。
最近、常に言っている、黙って耐える良い機会と訓練になるからだ。
形は違うが、『銀河鉄道の夜』のジョバンニの辛い気持ちが分かるような気がして少し楽しいし、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』の初音ミクの天使の歌声が、いっそう心に響くようにもなったのである。
それに、実際のところ、皮膚病以外においては、完全に健康で強健なのである。

本山博さんという、科学者で宗教家のとても偉い人が、戦時中だった若い頃、重病にかかり、ろくに麻酔も無い中で、耳の周りの骨をノミのようなもので叩いて削るという手術を何度も繰り返し、あまりの苦しさに死にたくなったという。
さらに、手術直後、頭を包帯で巻いて、まだ血も膿も出て酷い臭いもしている中で過酷な訓練をやらされたという。
本山さんは、これを、根性を付ける良い訓練と思ったというが、この経験は、本山さんの偉大な人間性を造る大きな要因になったことは間違いないと思う。
即ち、それは、完全な自己否定であったと思うのだ。
現代は、権利の主張の時代である。個人の利益を守り、さらに、大きな得を限りなく追求する権利が認められるべきだと誰もが思っている。
しかし、ジョバンニには、そんなものはどこにも全くなかった。
ジョバンニの年は明かされていなかったが、多分、小学5年生くらいだろうか?
母親は病気で、父親は行方不明。働き尽くめで、学校でも元気が出ず、タチの悪いクラスメイトにずっと嫌な目に遭わされ、親友のカムパネルラとも仲良くできない。
ジョバンニは不平は言わないが、食事はトマトでちょっと作った程度のものだった。それを作ってくれた姉も、働いているのだろう。
ジョバンニは、黙って耐えていた。

そして、黙って耐えることが、心の奥深くにある良心に目覚める方法なのだと分かるのだ。
14歳の時に聖母マリアに逢ったフランスのベルナデッタ・スビルーは、念願の修道女になったが、病に冒され、立てないこともよくあった。しかし、そんな中でも、彼女は懸命に務めを果たそうとした。ところが、先輩の修道女の中には、ベルナデッタを嫌い、いじめる者もあったようだ。
神はベルナデッタに、「この世で幸せにしてあげることはできないが、あの世で幸せにしてあげます」と言ったという。
ベルナデッタは黙って耐え、ますます、良心を掘り起こしていったのだと思う。
ジョバンニは、人の幸いのためなら、あのサソリのように(ある寓話のお話)、この身を百回焼いても構わないと言い、カムパネルラもそれに同意した。
イエスは、苦しむ者は幸い、貧しい者は幸い、病める者は幸いと言ったが、本当にそうだ。
そして、ジョバンニがそうであったように、私も爽やかな気持ちなのである。
私は、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という歌声(『イーハトーヴ交響曲』第5幕『銀河鉄道の夜』)を想うだけで、どんなことも黙って耐えていけると思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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