ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2013年02月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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大人物は阿呆に見えるのかもしれない

人間は、どこまで大きなことを考えられるだろう?
「考えるくらいならいくらでも」と思っている人もいると思う。
しかし、仏典を読むと、その自信は木っ端微塵となる。
これは、浄土系仏教の『観無量寿経』、『無量寿経』、『阿弥陀経』でもそうだが、『法華経』は、もっと凄いかもしれない。
例えば、ある意味、あまり馬鹿馬鹿しいのではっきりは憶えていないが、だいたいこんな感じだ。
長い年月を表現する時、我々は地球や太陽や宇宙の年齢みたいなものを引き合いに出すかもしれない。
しかし、法華経ではこんなことを言う。
例えば、千日歩いて通過した町を、全部すりおろして墨にする。まあ、この時点でもはや、「付き合っちゃいられない」だろう。
だが、その墨を持って千日歩く度に、その墨で小さなマークを付ける・・・もう、頭はクラクラしている。
そして、そのマークの大きさはこんな感じだ。表面がなめらかに見える金だって、拡大すれば穴があると言う。まあ、そうかもしれない。そして、そのマークというのは、その穴の大きさなのだ。
その墨が全てなくなるだけの年月・・・というのだから、もう壮大だの大袈裟だのといった表現ではちっとも間に合わない。
大学受験で、受験生の珍解答に混乱した教授が窓から飛び降りかけたなんて話があったが、法華経を読むと、自分のスケールの小ささに恥ずかしくなることだろう。

アントニオ猪木さんとほぼ同じ年齢の元プロレスラーに、ドリー・ファンク・ジュニアという人がいた。
万能型の素晴らしい選手で、プロレスの世界では大変に若い26歳で世界最高峰のNWA世界ヘビー級王者になり、4年の間王座を守った。
彼はテキサスの出身だったが、ジャイアント馬場さんは、「広大なテキサスの大地で育つと、人間はこうもおうようになってしまうのかもしれない」と言っていたものだ。「おうよう(鷹揚)」とは、goo辞書によれば、「《鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように》小さなことにこだわらずゆったりとしているさま。おっとりとして上品なさま。」というものだ。
ドリーは、時間の観念はゼロで、物忘れの激しさも世界王者だった。トランクスを忘れてやって試合会場にやってくるのは当たり前で、その都度、他の選手のを借りる。集合時間に間に合ったためしはなく、いつも随分遅れて、しかし悪びれず、にこにこしながらやって来る。試合が終っても、いつまでも出てこない。着替えるのに、人の何十倍も時間がかかるのだ。
馬場さんは、「こいつは本当にアホなのか」と本気で思ったそうだ。
しかし、馬場さんは彼が大好きだった。全く憎めない男のようだ。
そして、誰もが彼が好きで、人望が厚く、ビジネスにおいても絶対的な信頼があり、馬場さんもドリーもビッグ・プロモーターだったが、アメリカとのビジネスの窓口に関しては、馬場さんは彼を完全に信頼してまかせっきりで、それで間違いがなかったようだ。ドリーが頼めば、本来ビジネスライクなアメリカの選手が、利害に関係なく、どこにでもすっ飛んで行くのだ。

ドリー・ファンク・ジュニアという人は、法華経のような人かもしれない。
法華経をこよなく愛した宮沢賢治は、案外にこんな人になりたかったのかもしれないなどと思う。
ドリーなら、雪にも夏の暑さにも負けない丈夫な身体を持っていて、決して怒らず、いつも静か・・・かどうかは分からないが、ニコニコ笑っているだろう。
みんなにデクノボー・・・と呼ばれたりはしないだろうが、馬場さんすら、「こいつ、本当に阿呆じゃないのか」と思ったのだ。まあ、馬場さんのボケ振りもなかなか有名だったらしいが・・・
我々も、『法華経』を読み、ドリーのようにおうようになって、楽しく人生を送ろうではないか?
『法華経』は難しい訳が多くて困るが、賢治が一度訪ね、また、賢治を世界的大詩人と絶賛する詩人の高村光太郎が序文を書いた、江南文三の『日本語の法華経』なら、阿呆でも読めると思う。私でも読めたのだ。
尚、下に、『雨ニモマケズ』も収録した『銀河鉄道の夜』をご紹介した。









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宮沢賢治の座右の書

座右の書なんてものがある人は、さほど多くはないだろう。
また、それがいかに偉大な人物の座右の書であったとしても、他人の座右の書が自分に相応しいとは限らない。
中山正和さんの本で見たが、我が国屈指の数学者であった岡潔さんは、道元の『正法眼蔵』を、意味はさっぱり分からないのに座右の書としていたらしい。ところが20年ほど経ったある日、岡さんに不意に天啓が訪れ、一瞬で『正法眼蔵』の全てが理解できたという。
そして、中山さんも岡さんに倣って『正法眼蔵』を座右の書としていたところ、やはり、20年くらいで同じようなことがあったようだ。

ところで、宮沢賢治の座右の書というのが面白い。
それは、片山正夫という物理化学者の書いた『化学本論』である。
これは物理化学の教科書らしい。正確に物理化学とは何かと言ったら私も知らないが、物理学のような化学といった感じではないかと思う。
賢治がこんな本を愛読していたとは私も知らなかったが、私もバーローの『物理化学』を時々めくっている。
物理と化学は、共に物質とエネルギーを扱うが、物理の方が基礎的なものを扱う。化学は、やや応用になると思う。
化学では、気体の体積は圧力に反比例し、温度(絶対温度)に比例することを扱う。その原理として、一応は、分子の数や分子運動で説明するが、分子や原子、あるいは、素粒子を扱うのは物理である。
化学は事実を示すが、物理は人間の作った理屈であり、幻想のようなものだ。言い換えれば、物理学者の共有する幻想が物理学だ。
化学では、現象の本質的真理に関しては、神に任せているようなところがあるかもしれない。
物理学・・・ことに理論物理学は、神に挑戦し、挙句、ホーキングのように、神はいないと言う。
物理化学は、神の世界にほんの少し足を突っ込むが、慎み深さは忘れていない。あくまで化学なのだと思う。
まあ、いろんな見方があるとは思うが、私はこう思う。
化学は面白い。
賢治が化学好きだったのは、何か分かるような気がするのである。
私もそうであるのだが、あまり分からなくても、化学の本を読むのは良いことと思う。
ただし、いかにも簡略にまとめたような、いわゆる「すぐ分かる」とか「早分かり」なんて本は駄目で、あくまで丁寧にしっかりと説明したものでなくてはならない。
そして、ほんの少しでも分かってくると、真理を見通す感覚が得られるように思う。









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『エヴァンゲリオン』も『ロリータ』も本当は喜劇だ

『新世紀エヴァンゲリオン』という、20年近くも人気が衰えないアニメがあるが、監督の庵野秀明(あんのひであき)さんに、「あれってコメディー(喜劇)だろ?」って聞いたら、「分かるか?」と言ってもらえそうな気がする。
純情な少年が、自分を捨てた父親に10年振りかで呼ばれて会いに行ったら、巨大ロボットに乗って怪物と戦えと言われる。
「そんなアホな」と思っても、どこか変なところもあるが本当はまともな人だと思ったミサトさんまで、恐い顔で「乗りなさい」と言う。
当然、少年は拒否したが、自分の代わりに乗せられようとする瀕死の美少女に同情し、「乗ります!」と言ってしまう。彼女は無愛想に睨んでいたのに・・・
ある時、少年は、その美少女を救出し、生きているのを確認して泣いてしまう。美少女が、
「こんな時、どんな顔すればいいのか分からないの」
と言うと、少年は「笑えばいいと思うよ」と言い、少女は初めて微笑む。
従来の日本作品なら、ここで少年は「僕は君のことが・・・」と真顔で言い始めるか、「助けてやったんだから」と湧き起こる邪まな思いと戦うかだが、それではドロドロしてしまう。
それでは、あまりに現実的な人間だ。そして、あの非現実の中でそれをやると、とんだ馬鹿な作品になってしまう。つまり、従来の作品はほとんど、ただのお馬鹿な作品ばかりなのだ。
ドイツの番組プロデューサー(女性)が、「この作品の少年の成長が素晴らしい」と絶賛していたが、「ありゃ、冗談ですぜ、オバさん」と思ってしまう。
このプロデューサーが特に誉めたのは、最終回で少年(シンジ)が、
「僕は自分が嫌いだ。でも、好きになれるかもしれない。僕はここに居ていいのかもしれない・・・僕はここに居ていいんだ!」
と言い、登場人物総出で、「おめでとう!」という場面だろうか?
あれを冗談と思わないなら、自分を疑うべきだろう。
まともな人間は自分が嫌いだし、人間に居場所なんてないものだ。

本当は喜劇なのに、世間の幻想に囚われた者達が、大真面目に扱ってしまうという滑稽さをさらす「名作」がいくつかある。
1つは、泣く子も黙る大傑作の、ダンテの『神曲』だ。
いや、『神曲』なんていかめしくも重厚なタイトルをつけたのは森鴎外という偉いおじさんだ。
彼は、そんな作品だと勘違いしたのだ。
この作品の本当のタイトルは『神聖なる喜劇』という、いかにも人を食ったもので、しかも、ダンテ自身がつけたタイトルは単に『喜劇』だったのだ。
「20世紀最大の詩人」イェイツは、ダンテを「ルネッサンス最大の想像力の持ち主」だと言ったが、単に、「最高の喜劇じゃないか」程度の意味ではないかと思う。
それとも、森鴎外も、この大喜劇に加担したのだろうか?
もしそうなら、彼は日本史上、屈指のユーモアの持ち主だ。
『神曲』は、ダンテが、9歳の時に一目惚れした美少女ベアトリーチェを生涯想い続けた馬鹿を自嘲した喜劇であろうと思う。

ナボコフの『ロリータ』もそうだ。
あれを大真面目に発禁処分にしたり、心理学用語(ロリータコンプレックス)まで造った人を見たら、ナボコフも「ありゃ、喜劇なんですが」と言い難かったのだろうか?
大衆とは馬鹿なものだよ、ナボコフ君と言ってやりたいものである。
昆虫学者ナボコフが、滑稽な虫に擬して描いた少女趣味の中年男ハンバートのお馬鹿な物語を見て、幕が上がった後で、ハンバート役の男に、「やあ、ご苦労さん!愉快だったよ」と言ってやったら、ハンバート役の役者は、「もう結構だよ」と言うだろう。実は、最初にハンバート役を打診されたケーリー・グラントは、最初から「結構だよ」と言って、役を断ったのだ。喜劇役者は大変なのである。

我が国の素晴らしい喜劇に、宮沢賢治の『注文の多い料理店』がある。
あれすら喜劇だと思わない人がいるのは困ったものである。
あの喜劇性を、交響曲と歌で見事に描いてくれたのが冨田勲さんで、これが彼の新作交響曲『イーハトーヴ交響曲』の第3幕『注文の多い料理店』だ。
全く最高の出来だったと思う。創る方は大変だったろうが・・・
初音ミクが登場し、
「あたしは初音ミク、かりそめのボディ、妖しく見えるのはかりそめのボディ」
と歌う。これだけで喜劇性全開である。
宮沢賢治の原作で、こんな可愛い女の子は登場しないはずだが、ミクをよく見ると、ネコの耳を付けている。
ああそうか・・・ミクは素人狩人達を食べる猫の妖怪役だと思う。なんとも可愛い「妖怪ちゃん」だ。
「あたしのおうちは、ミクロより小さく、ミクロミクロミクミクのミクのおうち」
「嗚呼!可愛い」と思いながら、これで冗談と気付かないなら重症と思うが、同時に、
「あなたもこれ以上の喜劇をやってるのよ」
と言っているのかもしれない。

ベートーヴェンは臨終の時、
「喜劇は終った。諸君、拍手を!」
と言った(らしい)。
上に挙げた作品を、世間的な読み方(見方)ではなく、まともに読んで(見て)、自分の滑稽さに気付くことだ。









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物質世界を超えるための肉体鍛錬

私は、どれほど体調が悪くても、自分に課した毎日の身体の鍛錬を休むことはない。
2年ほど前なら、ノロウイルスに感染したような症状だった時には休んでしまったが、それ以降はそんなことはない。
まして、年末年始に5日の断食をした程度では、休むなんてことは全く考えもしなかった。
半年ほど前だったと思うが、自分でも知らなかったが、私はシシトウアレルギーであるらしく、近所の農家の人にもらったシシトウを夕食に食べ、翌日はずっと腹痛と嘔吐感に苦しめられ、帰りの電車の中では気が遠くなり、大袈裟かもしれないが、本当に死ぬのかと思った。しかし、帰ってから、いつも通りトレーニングをした。
まあ、確かに、多少、体調が悪くても出来る範囲の鍛錬だ。

ストレッチの後、まずは、両手を広めに開いた腕立て伏せをする。
20回だけだが、最大振幅で身体を真っ直ぐにして、一定のリズムで、ダイナミックな美しい動きを心がけてやる。
おそらく、腕立て伏せなら百回出来るという者も、このやり方では10回も出来ないことが多いと思う。
私も、1年半ほど前までは250回連続でやっていたし、それはそれで意味はあったが、姿勢が悪いと身体を痛めることがあると思う。
次に、スクワットを200回。これも、美しい姿勢と動きで行う。
その後は、腹筋運動だが、胴体と膝を直角に、そして、膝と脛を直角に曲げ(脛と床が平行になる)、両手を頭の後ろに組み、ゆっくり身体を起こし、肘と膝が付く手前まで曲げ、ゆっくり元に戻す。
これも20回。
以前は私も、腹筋運動を数百から千回以上やっていた。しかし、ある時、ヨーロッパで活躍するサッカー選手がテレビのバラエティ番組に出演しているのを見たのだが、彼が、腹筋運動が好きで毎日やっていると言う。
司会者が、「何回やるのですか?」と尋ねたが、皆、1000回とか2000回、あるいは、それ以上の答を期待している雰囲気だったと思う。
ところが、その選手はあっさりと「20回」と答えた。彼は、周りの期待はずれでがっかりした空気を読み、「いえ、僕は毎日やるのがいいんです」と言い添えたが、この「毎日やる」というのが何より大切であると思った。そして、やはり、回数ではなく、1回1回の質が重要なのだろう。

さて、腹筋運動が終ると、次は、両手の間隔(両方の、手の平の中心間の距離)を25cmくらいにして、また最高の質の腕立て伏せを20回行う。
私は、腕立て伏せをする時は、手の平をなるべく近づけ、脇を閉じてやるようにしている。
どんなスポーツや武道でも、脇を締めるのが秘訣であり、脇を開いてやるものはやらない方が良いくらいに思っている。
ただし、少しは脇を開いてやる時に使われる筋肉も鍛えなければならないので、上に述べた通り、脇を開いたやり方でも、1日に20回だけはやることにしている。
朝は、脇を閉じて行う腕立て伏せを20回と腹筋運動を20回をそれぞれ行う。

決まった運動はこれだけで、後は、通勤で駅まで2kmを1日2回歩く際、特に意識はしないが、どれほど必死で速足で歩いている人も、普通に歩いて軽く追い抜いてしまう。
これは、肉体レベルの力ではなく、アストラル体の力ではないかと思う。
20メートルほど前を、ホームに入りつつある電車に乗ろうと、全力で走っている大学生らしい男子(細身で走るのも速かった)が財布を落としていった時、財布を拾っておいかけたが、簡単に追いついて返した。
事故などで、大勢の人が電車の乗り換えのために急いで走っているような時は、その人達が止まっているようにしか見えないので、その間を簡単に追い越していくのが、ちょっと面白い。ただ、身体が接触しないようにだけは気を付けている。
走るのは好きではないが、走ると空を飛んでいるようなのだ。

運動というのは、その運動そのものを愛し、それ以外は一切無目的で、1年365日、1日も欠かさずにやることで肉体を超えて、アストラル体に効果を及ぼすような気がする。
少し時間があれば、目を閉じ、美しいアストラル世界で自由自在な動きをすることを想像すると、その世界での動きの速さ、力強さ、しなやかさ等が日毎に向上していくが、それが肉体にも確実に影響を与える。
これは、スポーツのイメージトレーニングとは全く異なる。一切の目的、欲望、期待のない、純粋な精神の働きなのである。
言ってみれば、初音ミクになったような気分である。
『イーハトーヴ交響曲』で、ミクは、「パソコンの中から出られないミク。出られない、出られない」と歌ったが、彼女は、「アブラカタブラ」という呪文を繰り返し、最後に、何が起こったのか、「ひゃあっ!」と可愛い悲鳴を上げる。
ミクはきっと、我々の状況を示し、警告を与えたのだ。
そして、私は、物質世界から出たのである。









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きっかけは他愛ないことの方がうまくいく

特技を持っている人が、その特技を得たきっかけというのは、何と言うべきか・・・他愛ないというか、奇妙というか、とにかく、あまり「まとも」じゃない。
ビル・ゲイツは、ハーバード大に入った時は数学者になろうと思っていたらしい。しかし、数学家の学生を見ると、「絶対にこんなやつに敵うはずがない」というような天才ばかりに思え、それで数学者は諦めたらしい。
それで、ゲイツは、プログラマになり、コンピュータソフトの事業家になり、現在は、慈善事業とエネルギー事業をやっている。
しかし、考えてみると、それらは全て、彼の意思というよりは、むしろ、「なりゆき」に近いように感じる。
野球の王貞治さんが野球選手になったのは、草野球で右打ちをしていたが、たまたま通りかかった野球の選手かコーチに「左で打ってみなさい」と言われたことがきっかけだったという。
彼らのような超一流に関しては、時々、彼らがその道に入ったきっかけを知ることがあるが、まあ、ほとんどが「なりゆき」だ。
そして、それは、無名の者であろうと、誰も同じなのだ。
私がコンピュータのソフト開発をやっているのも、社会人になって2年ほど営業の仕事をして、それが向いてなかったのでやめ、やや疲れてしまって、無気力に事務の仕事をしていた時、たまたま前の席にいた技術課長に、コンピュータプログラミングの勉強でもしたらどうかと言われたことがきっかけだった。
ある教育関係の大事業家は、大学生の時、ボランティアで子供達を教えていて、報酬は無かったが、子供の親からお菓子などを貰うと、それが嬉しかったのが、教育の仕事に入ったきっかけだったという。なんとも他愛ないものである。

ここで、少し見えてきたことは、いくらかでも上手くやっている人が、それを始めたきっかけは、「他愛ない」とか「なりゆき」であると共に、無欲、あるいは、それほど欲がなかったということだ。
「俺はこれで金持ちになってやるぞ」と思って始めたことで成功した者は、おそらくほとんどいないと思う。
また、切羽詰った状況で、好きでなかったがやむなく始めたとか、無理矢理やらされたという場合は、成功しても、やがて不幸になる可能性がある。それは、彼ら次第だが、かなり難しい生き方であると思うので、ここでは置いておく。
以前、テレビで、ネット株取り引きで成功し、凄い収入(月に数十億円もザラ)を得ている若者を見たが、彼も、始めたきっかけはちょっとした偶然で、大儲けした今も、全然欲がなく、楽しみは昼に500円くらいの蕎麦を食べることらしい。
彼のようになろうとしてネット株やFXを始めて良い思いをした者はあまりいないと思うし、それどころか、酷い目に遭っていることが多いのだ。直感的に言うが、それは当たり前のことと思う。

あなたも、本来は、たまたまやることになったことを、気楽に、そして、本性のままにやっていれば、大成功か小成功かは分からないが、とにかく自然にうまくいったはずなのだ。
それを、親の方針だの、世間的な評判だのといったつまらないことを考えて駄目になってしまった場合が多いに違いない。
子供が何かをやりたいと言った時、親が、「いまどきそんな仕事、ちっとも儲からないよ」とか、「偉い人になれないわよ」反対したりする。
だが、それをやっていれば、子供は幸せになれたのだ。別に、儲かったはずというのではない。だが、なんとか食べていく位はできたはずだし、ことによれば、金持ちにだってなったかもしれない。しかし、最初から金を目当てにやって何事もうまくはいかないし、うまくいったように見えても、それは、ほんの一時的なものだ。金など問題ではなく、自然ななりゆきで取り組むことになったことをやれば、傍目にはどう見えても、充実し、穏やかに生きられたのだ。

思慮分別を離れ、なりゆきに任せることを何度も教えた『荘子』を読めば、何かを感じるかもしれない。
だが、現代においては、なりゆきに任せる・・・別の言い方では、神に任せるということであるが、それは難しいものになっている。だから、幸福な人は極めて少ないのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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