人間は、どこまで大きなことを考えられるだろう?
「考えるくらいならいくらでも」と思っている人もいると思う。
しかし、仏典を読むと、その自信は木っ端微塵となる。
これは、浄土系仏教の『観無量寿経』、『無量寿経』、『阿弥陀経』でもそうだが、『法華経』は、もっと凄いかもしれない。
例えば、ある意味、あまり馬鹿馬鹿しいのではっきりは憶えていないが、だいたいこんな感じだ。
長い年月を表現する時、我々は地球や太陽や宇宙の年齢みたいなものを引き合いに出すかもしれない。
しかし、法華経ではこんなことを言う。
例えば、千日歩いて通過した町を、全部すりおろして墨にする。まあ、この時点でもはや、「付き合っちゃいられない」だろう。
だが、その墨を持って千日歩く度に、その墨で小さなマークを付ける・・・もう、頭はクラクラしている。
そして、そのマークの大きさはこんな感じだ。表面がなめらかに見える金だって、拡大すれば穴があると言う。まあ、そうかもしれない。そして、そのマークというのは、その穴の大きさなのだ。
その墨が全てなくなるだけの年月・・・というのだから、もう壮大だの大袈裟だのといった表現ではちっとも間に合わない。
大学受験で、受験生の珍解答に混乱した教授が窓から飛び降りかけたなんて話があったが、法華経を読むと、自分のスケールの小ささに恥ずかしくなることだろう。
アントニオ猪木さんとほぼ同じ年齢の元プロレスラーに、ドリー・ファンク・ジュニアという人がいた。
万能型の素晴らしい選手で、プロレスの世界では大変に若い26歳で世界最高峰のNWA世界ヘビー級王者になり、4年の間王座を守った。
彼はテキサスの出身だったが、ジャイアント馬場さんは、「広大なテキサスの大地で育つと、人間はこうもおうようになってしまうのかもしれない」と言っていたものだ。「おうよう(鷹揚)」とは、goo辞書によれば、「《鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように》小さなことにこだわらずゆったりとしているさま。おっとりとして上品なさま。」というものだ。
ドリーは、時間の観念はゼロで、物忘れの激しさも世界王者だった。トランクスを忘れてやって試合会場にやってくるのは当たり前で、その都度、他の選手のを借りる。集合時間に間に合ったためしはなく、いつも随分遅れて、しかし悪びれず、にこにこしながらやって来る。試合が終っても、いつまでも出てこない。着替えるのに、人の何十倍も時間がかかるのだ。
馬場さんは、「こいつは本当にアホなのか」と本気で思ったそうだ。
しかし、馬場さんは彼が大好きだった。全く憎めない男のようだ。
そして、誰もが彼が好きで、人望が厚く、ビジネスにおいても絶対的な信頼があり、馬場さんもドリーもビッグ・プロモーターだったが、アメリカとのビジネスの窓口に関しては、馬場さんは彼を完全に信頼してまかせっきりで、それで間違いがなかったようだ。ドリーが頼めば、本来ビジネスライクなアメリカの選手が、利害に関係なく、どこにでもすっ飛んで行くのだ。
ドリー・ファンク・ジュニアという人は、法華経のような人かもしれない。
法華経をこよなく愛した宮沢賢治は、案外にこんな人になりたかったのかもしれないなどと思う。
ドリーなら、雪にも夏の暑さにも負けない丈夫な身体を持っていて、決して怒らず、いつも静か・・・かどうかは分からないが、ニコニコ笑っているだろう。
みんなにデクノボー・・・と呼ばれたりはしないだろうが、馬場さんすら、「こいつ、本当に阿呆じゃないのか」と思ったのだ。まあ、馬場さんのボケ振りもなかなか有名だったらしいが・・・
我々も、『法華経』を読み、ドリーのようにおうようになって、楽しく人生を送ろうではないか?
『法華経』は難しい訳が多くて困るが、賢治が一度訪ね、また、賢治を世界的大詩人と絶賛する詩人の高村光太郎が序文を書いた、江南文三の『日本語の法華経』なら、阿呆でも読めると思う。私でも読めたのだ。
尚、下に、『雨ニモマケズ』も収録した『銀河鉄道の夜』をご紹介した。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
「考えるくらいならいくらでも」と思っている人もいると思う。
しかし、仏典を読むと、その自信は木っ端微塵となる。
これは、浄土系仏教の『観無量寿経』、『無量寿経』、『阿弥陀経』でもそうだが、『法華経』は、もっと凄いかもしれない。
例えば、ある意味、あまり馬鹿馬鹿しいのではっきりは憶えていないが、だいたいこんな感じだ。
長い年月を表現する時、我々は地球や太陽や宇宙の年齢みたいなものを引き合いに出すかもしれない。
しかし、法華経ではこんなことを言う。
例えば、千日歩いて通過した町を、全部すりおろして墨にする。まあ、この時点でもはや、「付き合っちゃいられない」だろう。
だが、その墨を持って千日歩く度に、その墨で小さなマークを付ける・・・もう、頭はクラクラしている。
そして、そのマークの大きさはこんな感じだ。表面がなめらかに見える金だって、拡大すれば穴があると言う。まあ、そうかもしれない。そして、そのマークというのは、その穴の大きさなのだ。
その墨が全てなくなるだけの年月・・・というのだから、もう壮大だの大袈裟だのといった表現ではちっとも間に合わない。
大学受験で、受験生の珍解答に混乱した教授が窓から飛び降りかけたなんて話があったが、法華経を読むと、自分のスケールの小ささに恥ずかしくなることだろう。
アントニオ猪木さんとほぼ同じ年齢の元プロレスラーに、ドリー・ファンク・ジュニアという人がいた。
万能型の素晴らしい選手で、プロレスの世界では大変に若い26歳で世界最高峰のNWA世界ヘビー級王者になり、4年の間王座を守った。
彼はテキサスの出身だったが、ジャイアント馬場さんは、「広大なテキサスの大地で育つと、人間はこうもおうようになってしまうのかもしれない」と言っていたものだ。「おうよう(鷹揚)」とは、goo辞書によれば、「《鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように》小さなことにこだわらずゆったりとしているさま。おっとりとして上品なさま。」というものだ。
ドリーは、時間の観念はゼロで、物忘れの激しさも世界王者だった。トランクスを忘れてやって試合会場にやってくるのは当たり前で、その都度、他の選手のを借りる。集合時間に間に合ったためしはなく、いつも随分遅れて、しかし悪びれず、にこにこしながらやって来る。試合が終っても、いつまでも出てこない。着替えるのに、人の何十倍も時間がかかるのだ。
馬場さんは、「こいつは本当にアホなのか」と本気で思ったそうだ。
しかし、馬場さんは彼が大好きだった。全く憎めない男のようだ。
そして、誰もが彼が好きで、人望が厚く、ビジネスにおいても絶対的な信頼があり、馬場さんもドリーもビッグ・プロモーターだったが、アメリカとのビジネスの窓口に関しては、馬場さんは彼を完全に信頼してまかせっきりで、それで間違いがなかったようだ。ドリーが頼めば、本来ビジネスライクなアメリカの選手が、利害に関係なく、どこにでもすっ飛んで行くのだ。
ドリー・ファンク・ジュニアという人は、法華経のような人かもしれない。
法華経をこよなく愛した宮沢賢治は、案外にこんな人になりたかったのかもしれないなどと思う。
ドリーなら、雪にも夏の暑さにも負けない丈夫な身体を持っていて、決して怒らず、いつも静か・・・かどうかは分からないが、ニコニコ笑っているだろう。
みんなにデクノボー・・・と呼ばれたりはしないだろうが、馬場さんすら、「こいつ、本当に阿呆じゃないのか」と思ったのだ。まあ、馬場さんのボケ振りもなかなか有名だったらしいが・・・
我々も、『法華経』を読み、ドリーのようにおうようになって、楽しく人生を送ろうではないか?
『法華経』は難しい訳が多くて困るが、賢治が一度訪ね、また、賢治を世界的大詩人と絶賛する詩人の高村光太郎が序文を書いた、江南文三の『日本語の法華経』なら、阿呆でも読めると思う。私でも読めたのだ。
尚、下に、『雨ニモマケズ』も収録した『銀河鉄道の夜』をご紹介した。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
