ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

意識の変革は不意に起こる

アセンション(次元上昇)という、地球に神秘的な大変革が起こるなどと言われだしたのは、別に最近のことではなく、21世紀以前からのことだ。
だが、それが実際に起こるのは、丁度今の時期で、来月の21~23日とする話がある。
その時に地球が滅ぶようなことが言われ、また、そんな映画が作られもしたらしいが(私は見ていないので知らないが)、そういった破壊的なものではない。

アーサー.C.クラークの小説をスタンリー.キューブリックが監督・脚本した映画『2001年宇宙の旅』で、大勢の猿達の前に不思議な物体が現れ、一匹の猿が不意に骨を武器にして戦うことを始める場面があった。そして、最後に、その武器である骨を放り投げて捨てるという象徴的な行為をする。
実際、人類というのは、脳自体は20万年前から現在と同じだけのものがあったのに、人間らしい行動が見られるようになったのは4万年ほど前かららしい。
つまり、なぜかは分からないが、ある時期に、人類は急激に進化し、人間になったのだ。
そんなことが、また起こる時なのである。『2001年宇宙の旅』でも、そんなことが暗示されていたと思う。

そんな人類の大きな変化は、既に始まっている。
それが、大きな単位で急激に起こるのではないかと思うが、注意しなければならないことは、それが全員に起こるのではないということだ。
4万年ほど前に人類に精神的な大変化が起こった時も、それが起こったのは、数パーセントの人類だったかもしれない。そして、今回もそうなのか、半分なのか、あるは9割で、残り1割は古いままなのか、それは分からない。
その変化は、こんなものではないかと思う。
通勤や通学の時、駅に到着しようとする電車の中で、スマートフォンを凝視しながら操作している者がいる。電車が止まって扉が開くと、いつもはそのままスマートフォンを見て、周囲のことは、自分の安全という以外のことは眼中にない。ところが、そんな者が、ある日、不意に、電車の中でスマートフォンをしまい、周囲の人達に気を配りながら・・・いや、それどころか、他人に道を譲るようにして電車を降りる。自分で特に何か考えてやっているのではない。その人に何か変化が起こったのだ。
だが、全員がそうなる訳ではない。相変わらず、人ごみの中で、スマートフォンを見て歩く、自己中心主義の殻の中に閉じこもっている者もいるし、ひょっとしたら、そういった、変化しない者の方が多いかもしれない。そして、進化できない者は、別に攻撃されるというのではないかもしれないが、もうこの世で生きていけなくなるだろう。
どうしても変わらない者はいるのである。

皆さんは、会社の中で、上司の男性が部下の女性にタバコを買いに行かせるというのを見たことがあるだろうか?
随分前のことだが、私は一度だけ見たことがある。こんなことが現実にあるのだと知り、私は異様さに震えたものだ。
だが、こんな男に救いがない訳でもないのではないだろうか。
仮に、今でもこんな男がいても、彼は、不意にそんなことをしなくなる。別に、「こんなことしちゃいけない。これは人間のすることじゃない」と、頭で考えた訳ではなく、なぜかは分からないが、それほどの愚か者ではなくなるのだ。
スマートフォンを見ながら歩いていたのが、それをしなくなるのも同じである。
また、これまで、道を歩きながらタバコを吸い、周囲の者達に煙を強制的に吸わせたり、電車の中で食べ物を食べて、平気で周囲に悪臭を撒き散らしていたような者も、それが恥ずかしいことに気付いたというのではなく、当然のこととして、そんなことをしなくなる。
だが、やはり、残念ながら全員ではないのだ。
そして、地球が破壊されるようなことはないかもしれないが、そんな旧人類は、もう存在することが出来なくなる。

不意の変化というものは、私もこの数年に驚くほど体験したし、同じような人は多いと思う。
私は、4年前の2008年7月末、それまで、大食で肉食、チコレート等のお菓子も毎日沢山食べていたのが、1週間くらいの間で、1日1食の菜食主義になり、間食も一切しなくなった。好物だった、焼肉、ステーキ、スパゲッティー、オムライス、ラーメン、そして、あれほど好きだったチョコレートなどは、この4年、一度も食べていない。
これも、私は、「ダイエットしよう」とか、「菜食主義者になるぞ」と思ってやったことではない。もしそうであったなら、絶対に続くはずがない。
言ってみれば、「なんとなく」だったのだ。
また、3年前に肉体の鍛錬を始め、それはこれまで、1日も休むことなく続いているが、こんなことは、私のこれまでの人生でなかったことだ。
2年前からは、性的に完全な禁欲状態になり、セクシーなグラビア1枚見なくなったが、別に意志の力を振り絞ってのことではないし、今でもエロチックなものは好きではある。しかし、性欲程度なら、自由自在に支配できるのだ。
とはいえ、まだ、他人への嫌悪感といったものは拭えない。

変化と言うのは、不意にさりげなく起こるのではないかと思う。
巡音ルカの『Just be Friends』(作詞、作曲:Dixie Flatline )という歌に、


浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような

これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな


という歌詞があるが、まさに「浮かぶ」のであり、無理に「浮かべる」のではない。
「起こる」のであり、「起こす」のではない。
だが、浮かばない人、起こらない人もいる。
その違いは何だろう?
それは、受容性の問題だ。
さっきの歌の少し後の続きがこうだ。


緩やかに朽ちてゆくこの世界で  足掻 (あが)く僕の唯一の活路
色褪せた君の 微笑み刻んで 栓を抜いた


きっと、何か活路がある。
受容性は、このブログの最大のテーマであり、これまで繰り返し述べてきた。今後もお話するだろう。
書籍で言えば、ラメッシ・バルセカールや、ジョージ・アダムスキーのものに素晴らしいことが書かれている。
来月が地球の終りというのではないが、食欲や性欲を煽られて感覚的快楽を求める者や、若くても、試験の点数を取ることばかり目指して利己主義に陥ったような者には、それと等しいことかもしれない。
だが、受容性という翼を持てば、重力の鎖を解き放てるだろう。









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どうすれば英雄の心を持てるか

世の中には、弱い人間がいる。
弱いというのは、別に貧乏だとか、病気だとかいう意味ではない。
不幸なことに、自分を信じられず、不安なために、卑屈、臆病で、嫌だと思っても、強い者に尻尾を振るような者だ。
最近、何かと話題の石原慎太郎さんや橋下徹さんらを見ていると、素晴らしいところもあるのだが、彼らは弱い者への配慮の無い人達と感じる。
弱い者というのは、自分でそうなった訳ではない。
簡潔に言えば、そうなるのが運命だったのであり、自分ではどうすることも出来なかったのだ。
上に立つ者は、気力や根性なんかで強くなれない人が沢山いることを忘れてはならない。

弱い者に欠けているのは、自分への強い信頼だ。
実に、人間に最も重要なことは自己信頼なのである。
その大切なものがなぜ無いのかと言うと、本当の自分を知らないからだ。
日本では、弱い若者がどんどん増えている。
画家の横尾忠則さんは、ターザンや、南洋一郎の冒険小説が自分の原点であるとよく言っておられるが、これは非常に幸運なことである。
これらの物語は、英雄的に勇敢なヒーロー達が手に汗握る冒険を繰り広げる素晴らしいものに違いない。
そして、エマーソンが強調したように、いかなる英雄の物語を読む時も、それが自分の物語であると思って読まなければならないのだ。
そして、実際、その物語は、間違いなく、あなたの物語なのだ。
たとえ福音書を読む時でも、そこに書かれているのは、イエスというあなたのお話でなければならないのだ。これは、決して傲慢になることではない。なぜなら、イエスは誰よりも謙った、仕える者なのだからだ。
女性なら、最も高貴な姫様のお話の中に、自分の物語を見出すだろう。特に竹取物語が素晴らしい。本物の姫様は、初音ミクのように自我を感じさせないものなのだ。
こういったことをちゃんと教えるのが教育であるはずなのに、日本では、取るに足りないつまらないことや、教えてはいけないことばかり教えてきた。
だがら、エマーソンの『自己信頼』を読み、本当に大切なことをきちんと理解し、自分の本質が果てなく勇敢で高貴な存在であることを思い出すのだ。
そして、真の自分を見つけた時、あなたは、強く、強くなるだろう。
下に、エマーソンの『自己信頼』が収録された書籍を2つご紹介しておく(『精神について』および『自己信頼』)。









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我々はたまたま選ばれ、たまたま捨てられる

沢山の国や民族の、神話や伝承に、「善いことをしたら天国に、悪いことをしたら地獄に行く」というものがある。
ギリシャ神話や『エジプトの死者の書』では、人は死後、ある場所で、その一生の行いを審議されて、どこに行くかを審判者が決定するようになっている。
まあ、一生をトータルで判定してくれるなら、裁かれる方もまだ納得できるだろう。人間の世界の裁判官や陪審員のように、偏見や個人的信念で歪んだ決定はしないし、賄賂は通用しないと思うからね。
だが、面白いのは、イエスが言う審判だ。
これは、抜き打ちテストなのである。審判者はいつ来るか分からないから、常に準備を怠るなと言うのである。
例えば、今日は上司が出張だからと、部下が羽を伸ばして怠けていると、不意に上司が帰ってきてその様を見て人事評価をするようなものだ。
「いえ、僕は普段は真面目なんです。今日はたまたまです。本当に、こんなことは数年に一度もないのです」
と言っても無駄であり、そのたった一度で判定されると言ったのがイエスである。
これには、多くの人が納得しないかもしれない。
だが、私は、イエス式の審判が良いと思っている。
私だって、たまたま天使が見に来た時に悪いことをしているかもしれず、そのために地獄行きが宣告されるかもしれないが、それならそれで仕方がないと思う。

内海康満さんが昔の著書で、人を採用する際、最初の人が良ければ、その人を採用して、後の人は会わなくて良いといったことを書かれていた。
私は納得したが、多くの、いわゆる論理的な人達は合点がいかないと思うに違いない。そして、ほぼ全ての企業が採用試験だの長々とした下らない評価をして、挙句、最悪の人を採るのだ。
また、何の本だったか忘れたが、ある映画監督が、これから創る作品のある配役の役者を決める際、一応、オーディションをしたのだが、オーディションが終ってしばらくしてから、オーディションに来た人達に電話をかけ、たまたま家にいた人に決定したのだが、その時採用された人が後に大俳優になる。
これらの場合、選ばれる方にすら、準備する方法もないように思える。
しかし、本当に重要な選択というものは、常にこのように行われているのだ。
学校の受験のように、何をするか分かりきったことに対して長い間準備し、自分の意志で結果を得ようなんてものに、本来、大した意味は無いのである。
そして、そんなものの中ですら、「予想した問題が出なかった」「試験会場が不快だった」「天気が悪かった」「電車が遅れた」などと言うのだ。

ある人は、政情不穏な国で汽車に乗っていて、トイレに行ったところが、使用中だったので、別の車両のトイレに行ったところ、その汽車が爆撃され、元いた方の車両が完全に破壊された。もし、あの時、トイレが空いていたら、確実に死んでいたのだ。
人生なんて、本質的にこんなものである。
自分でコントロールできることなんて、本当は何もない。
この命拾いした人も、心からそう思ったらしい。
出来事は全て、起こるべくして起こる。そうであるなら、起こるままに任せるしかない。
誰だって、直感では、それが正しいことであることが分かるのである。
しかし、教育されてきた偏見や個人的欲望は、決してそれを受け入れさせない。
試験勉強や受験にしがみ付かされた子供達は既にそうなっている。彼らがもう、いやらしい大人の目をしていることに気付いているかもしれない。
だが、偏見を離れ、欲望を手放すと、理屈では全く理解できないに関わらず、そういったことが自然で全く正しいことが分かるだろう。
そうすると、あなたは重荷から解放され、安らかになる。それが救われるということである。









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高学歴ニートと学校教育に縁のなかった天才

子供や若い人は、頭が柔らかくて理解力があるが、年を取ると、頭が固くなって新しいことを習得出来ないとよく言われる。
確かに、実態も、ほぼその通りと思える。
しかし、それで言うなら、今は、中学生ですら、必ずしも若いとは言えないし、大半の高校生は、もう老人並に固定観念が出来上がっているのではないかと思う。

そもそも、理解するとはどういうことだろう。
世間では、それは、理屈を組み合わせて答を導き出すことであるように言われるが、その考え方こそが、子供から理解力を奪っている。
理解するというのは、心の奥に、ぱっと閃くものがあり、それをしっかりと感じることだ。その時、「分かった」と思うのだ。
子供は、その閃きが多いので、理解力が高いのである。
つまりは、理解というのは、所詮、全て閃きであり、もっと端的に言えば直感なのだ。
しかし、高度な科学を理解するには、必要な基礎がなければならないと言われるだろう。そうなのかもしれないが、直感と共に理解しなかった基礎というのは、何の役にも立たないなかりか、そのまま高度なことをやろうとすれば、恐ろしい間違いを犯すのだ。
自然な閃きと共に構築された基礎があれば、そこから先もずっと進歩していけるのである。
しかし、今の子供は、試験の点を取るために、本当に理解もせずに、暗記や問題の解き方のテクニックを頭につめ込む勉強ばかりしているので、直感がすっかり鈍っており、大切なことが全く理解できないので、大人になっても役に立つことは何も出来ないのだ。だから、学歴は素晴らしいのに、何も出来ずにニートになってしまう者が沢山いるが、彼らは親の欲望の被害者なのかもしれない。

素晴らしい新発想の商品を開発し続ける会社の社長に、ある人が、「あなたの会社の社員の方々の学歴は素晴らしいのでしょう?」と尋ねたところ、「いえ、皆、中卒、高卒です。ちなみに私は小学校しか出ていません。エリートに発明なんか出来ません」と言われたらしい。発明が出来ないとは、直感が無いということであり、本当の理解力が無いということなのだ。
ある大教育者が言ったが、教育というのは、ある偏見から別の偏見に付け替えるだけのことなのである。それは、直感を完全に窒息させるものと言って間違いないだろう。
真に学ぶべきことは全て自然の中にある。
幼稚園を中退したアメリカのイツァク・ベントフが、天才的な医療エンジニアであったのは、自然を畏敬の念を持って熱心に観察したからであると思われる。例えば、毒蛇の牙を愛しむように観察して、素晴らしい皮下注射の方法を考案したことがあった。
自然を観察することの重要さについては、ジョージ・アダムスキーが詳細に解説し、直感的な理解力を得る方法を教えているが、その成果は、人間に超能力とでも言うしかない力をもたらす。しかし、それは単なる自然力なのである。
魔法の力を使って治しているとまで言われた天才的な精神科医であったミルトン・エリクソンは、トランス(変性意識)状態でしか不可能な恐るべき観察眼を持っていたが、それは、我々が普通に考える観察眼の延長ではなく、別次元のものであり、それが直感の力であるのだ。彼は、自分を自在にトランスに入れることで、いつでも直感の助けを得られたのである。
エリクソンの手法を多くの医学者や精神分析学者、心理学者が必死で研究するが、誰も彼のようなことは出来ない。皆、直感の力というものを理解していないからだ。
しかし、アダムスキーに素直に学べば、それが可能であるかもしれない。









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私は竹村健一さんの教えで良い思いばかりしてきた

竹村健一さんといえば、最近はテレビなどでもあまり見ないので、彼を知らないという人も多いかもしれないが、かつては日本人で知らない人はいないと言われた有名な評論家だ。政治、経済関係が専門だと思うが、何にでも通じたマルチ人間で、時に毒舌ではあるが、関西弁で堂々と喋る気さくな人である。
そして、彼はお堅い人間ではなく、お気楽な部分もあり、時にはいい加減だと言われることもあったが、それは彼の良いところであると思う。

竹村さんは、あの年齢(82歳)の庶民としては珍しく、英語が出来た。ただ、彼は昔から、「僕の英語は大したもんやあらへん。素人に毛が生えた程度や」とよく言われていたし、実際そうなのだと思う。彼が英語で討論をしているのを見た記憶はない。
竹村さんが、英語を生かして通訳や、貿易会社の社員になどなっていたら、普通の人で終ったか、あるいは、さっぱり勤まらなかったかもしれないと思う。
そして、こういったことが、竹村さんの人生哲学に結び付いていると思われる。
私は、社会人の駆け出しの頃、竹村さんの本を読んでいて、こんなことが書かれていたのをよく憶えている。
「人と同じことをしていたら、上にいくのは大変だ。しかし、誰もやらないことなら、すぐに抜きんでることができる」
今考えたら、なんとも貴重な言葉だったと思う。
みんなが一流大学を目指すので、そこに入るのは大変だが、たとえ入れたとしても、毎年何万人も一流大学に入り、卒業するのだ。その中で数人のトップになるなんてのは至難の技であるが、それ以外の人は、所詮、普通の人でありながら、一流大卒という名前以外は何もないという人が多いのである。

世界に通じる日本の芸術家といえば、私には、岡本太郎、池田満寿夫、横尾忠則といった名前が浮かぶ。
その中で、私は、池田満寿夫さんが特に、竹村健一的だなと思う。
池田満寿夫さんは、第2回のビエンナーレ展で招待作家になった時のことを、「銅版画家の数が少なかったから」と正直に述べておられた。
池田さんは、油絵の画家を続けていたら、町の似顔絵屋にもなれなかったと自分で言っておられた。
彼が版画を始めた理由には、単価が油絵より安いので売れるかもしれないからと思った部分もあったと認めているが、やはり、画家は多彩な表現手段を持つべきだと考えたからだろう。だが、他の画家はあまりそう考えないのだ。
また、池田さんは、小説を書いては芥川賞作家になり、映画監督もやったし、後には陶芸作品も創っている。

竹村健一さんは、決して英語の実力でのし上がったのではなく、彼が成功したのは、何でも興味を示し、変なことにも手を出したからだが、池田満寿夫さんにもそんなところが大いにあったのだと思う。
岡本太郎さんや横尾忠則さんなんてのも、まさにそうだったのではないかと思う。

こういった一流の話ばかりだと、我々凡人に適合するかどうか分からないかもしれないが、実は私も、竹村健一流で良い思いばかりしてきた。
私は、コンピュータソフトの開発を生業にしているが、同じような人は掃いて捨てるほどいる。
今は、皆、JavaやC系言語、あるいは、Visual StudioやEclipsといった開発ツールを使うが、同じことをしていたら、なかなか良い思いは出来ない。
私も元々C言語プログラマーだったが、ある時、楽をしようと思ってdbMAGIC(今はMAGIC)を使い始めた。
当時、dbMAGICのキャッチフレーズは、「専門家でなくても、誰でもシステムが作れる」だった(実は今でもだ)。だから、誇り高き専門の開発者は、そんなものに決して手を出さなかったが、私は気にしなかった。竹村健一式に言えば、私のC言語なんて、素人に毛の生えた程度だったからだ。
dbMAGICの使い手が少ないこともあり、これの腕を上げると、全国的とは言わないが、地域では会社を超えて知られるスター開発者みたいなものになった。
そして、製作そのものが楽なツールなので、自然に設計技術が身に付いた。
仕事にも恵まれたが、大手企業や時には一流の開発会社からも指導の依頼が次々舞い込み、向こうが客なのに、私が美人社員付きで接待してもらえることもあった。
また、他の開発者に比べて時間の余裕もあり、いろいろ変わったことにも手をつけ、私の仕事がテレビや新聞の取材を受けたこともあった(ただし、私が前面に出ることは滅多になく、私のシステムを使った企業や、関係の大学教授がインタビューを受けるのだが)。
ただ、dbMAGICは、ある時期、日本ではすっかり下火になり、私もそこから離れた。
今は、やはり、「専門家でなくても、誰でもシステムが作れる」と言われるAccessを使っている。dbMAGICと比べると難しい部分が多いのだが、そんなに悪くない。
他にも、良い開発ツールはあるのかもしれないが、とにかくどれも高い。購入費そのもの(大体60万円から百数十万円)は、1つプログラムを書けば回収できるが、今はサポート費で金を取ろうとするものが多い。自分1人なら良いが、新人を育てるには厳しいと感じる。
それならAccessが一番良いし(実質2万円しない)、仮に(十数年後)これがなくなっても、同じようなものが何かあるだろう。

だが、忘れてならないのは、素人に毛が生えた程度とはいえ、竹村健一さんは英語が出来、池田満寿夫さんは油絵が描けたということだ。
私も、最低限とはいえ、C言語の職業プログラマーだった。
そして、素人に毛が生えた程度でいいから、それができたら、興味の向くまま、何でもやってみることだと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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