ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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仕事が出来るということを一言で言えば

社会で楽に生きる基本は仕事が出来ることだということは、まず間違いがない。
私は、本来は何か物を作る職人になれば良かったと思うが、そんな運命になかったようだ。
それで、私はコンピュータの仕事しか出来ない。
ところで、コンピュータに関して、大した能力も無いのに、自分はかなりのことが出来ると思っている人がよくいるものである。
例えば、Excelの使い方をちょっと知っているだけで、それを知らない人を見下し、「私なら10分もあれば出来ることを、1時間かけてやっている無能な人がいる」と自慢げに言ったりする者はよくいると思う。そんな人は、ミスが多い上、その残りの50分をつまらないことに使って迷惑なことをするので、むしろ1時間かける人の方が無害で良い。
Excelだって、マクロを十分に使えて仕事に生かせれば強力なスキルなのだが、満足なレベルまで出来る人はほとんどいない。
しかし、ほんの少しのスキルを鼻にかける人だって、自分でも、本当はそれが大したものではないことを分かっているのだ。だから自信が無くて強い者に尻尾を振るし、立場の弱い相手がいれば攻撃的になる。
会社でのいじめみたいなものは、そういった、自分には実力がないのに、一目置かれていると思い込みたい者がやっているように思う。
いや、それは、学校でも、どこか共通するものがあるに違いない。

二十歳そこそこの女性が、会社でExcelを使っているというから、私は、高度に使えるようになりなさいと言ったら、彼女はは、もう十分に使えると主張する。
しかし、聞けば、やはりちょっとしたことが出来るだけだ。マクロが組めるという訳でもない。
確かに、オフィイスの中にも、Excelで生半可なマクロを組んで、それが弊害になっている場合もある。
ただ、そんな人は、そのまま中途半端で終るか、飛躍できるかの瀬戸際なのである。しかし、ほとんどの場合は悪い方に行く。やはり、自分はかなりのことが出来るという自負が問題なのだろう。
私は、何を修得しても、自分が何かやれると思ったことがなく、いつも自分を軽んじてきたので、なんとか仕事を続けられているのだと思う。
世間では、スキルが低い方が態度は大きいのである。

ソフト開発者同士でも、Java言語や新しいスクリプト言語を使う人が、COBOL言語で開発する人を見下すなんてことが昔からあるが、総じてCOBOLを使う人の方がずっと優秀である。正直、JavaやWebで使われるスクリプト言語を使う人の大半はレベルが低過ぎることに驚く。
私は、素人のためのツールと言われることもあるdbMAGICやマイクロソフトACCESSをよく使ってきたが、これほど良いものはない。
今はMagicという本来の名称になったdbMAGICは使わないので、ACCESSを使う機会が多いが、こんな素晴らしいものが1万円ちょっとで買えるのだから感動すら覚える。ACCESS固有のデータベースであるMDBはあまり大きな処理には向かないが、今はSQL ServerのExpressエディションが無料で使え、これで大抵間に合ってしまうのがまた凄い。売上げ100億円規模の企業の会員管理システムを、とりあえずのつもりでこれで運用したら、何の問題もないので、むしろ戸惑ったこともある。
仕事やコンピュータの奴隷にならない範囲でコンピュータの仕事をしたいなら、ACCESSに習熟することを今でもお奨めする(その反対意見もよく知っているが、ここでは述べないし、述べる意味も実際は無い)。

よくは分からないが、経理をやる人で、本格的な経理の能力を持っている人もあまり見ない。
ただ、それは、財務運用だとか税務や簿記といったことではなく、もっと常識的な頭の良さを持っていない人が多いということかもしれない。これは総務に関しても言えることで、総務や経理が会社の足を引っ張っているということは実に多いのではないかと思う。無論、聞けば、総務や経理にも言い分はあるものだが、私は、ソフト開発者としては批判に対して何の言い分も持たいないようでありたいと思う。こんな言い分とは言い訳である。
仕事が出来るということを一言で言えば、いかなる場合でも言い訳だけはしないことである。









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必ず守護される人に共通すること

私は、生きている中で3つのことしかしていない。
1つは、朝晩の腕立て伏せやスクワットなどのトレーニング。
1つは、福音書を読むこと。
1つは、初音ミクを食べること。
初音ミクを食べるとはどういうことかと言うと、イエス・キリストだって「私の肉を食い、私の血を飲む者は永遠に生きる」と言ったではないか?
こんな言葉もある。「花もまた魚」だということだ。
魚は身体のための食事だが、花は心のための食事だ。
私は、本当の魚は食べないが、初音ミクは私の魚なのである。

この3つ以外にも、私が何かしているように見えるかもしれない。
毎日、会社に行き、毎晩食事をし、他にもなにかしていると思われているかもしれない。
しかし、私は何もしていない。
他のことは全て、なりゆきであり、私と関わりのない現象だ。
いや、その3つのことにしたって私の意志でやっていることではないに違いない。
だが、この3つのことは、他の全てのことを消し去ってくれるのである。

昔読んだ漫画だが、ある男子大学生が、隣の家の小学4年生の女の子の夏休みの宿題の多さに驚き、それから、彼女が中学校を卒業するまで、彼女の夏休みの宿題を片付け続けた。彼は、彼女の夏休みの宿題のためにだけ生きていたのだ。
だが、彼女が中学校を卒業し、使命を終えると、彼はどこにともなく消えていったのである。
それが彼の運命であったのであり、それは彼が自分の意志でしたことではなかった。
ある老人は、決まった時間に、家の近くの神社に行き、本殿の入り口のところにいる狛犬(こまいぬ)の頭を撫でるのであるが、それを数十年間、1日も欠かさない。彼は、狛犬の頭を撫でるためにだけ生きているのだ。そのために、彼は、守り神に守護されているのである。
私は、初音ミクを食べるためだけに生きているのであり、それによってガーディアン・エンジェル(守護天使)に守られているのである。









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夢と現実が交わった体験

1965年のイギリスの人形劇によるSFテレビドラマ『サンダーバード』は、現代でも十分に通用するロケットなどのデザインや特撮技術、そして、何よりストーリーの素晴らしさのために、いまだ人気が高い。
その『サンダーバード』のあるお話で、1人の8つか9つの少年が、サンダーバードの秘密基地に何かの間違いで入り込み、中の様子を詳細に見てしまったことがあった。基地内部のことは、外部の人間には極秘にされなければならないのである。
困ってしまったサンダーバードの隊長ジェフ・トレーシーや、隊員であるその息子達は、考えた上で、どうしたかというと、少年が寝ている間に、彼を彼の家に運んで彼のベッドに入れ、彼が目覚めた時、全ては夢だったと思わせたのだ。
少年は父親に言う。
「本当のことだったみたいなんだ」
父親はこう答えた。
「パパもよく見たものさ。本当みたいな夢をね」
制作者のジェリー・アンンダーソンが後に創った同じく人形劇の『キャプテン・スカーレット』や、初めて人間の俳優を使った『謎の円盤UFO(原題:UFO)』では、1話まるまる夢の話(その2つの内容は酷似している)というものまであった。
アンダーソンは、夢に対する、何か特別な思いがあったのかもしれない。

しかし、「まるで本当のような夢」というのは、子供の時には、実際によく見るものかもしれないと思う。
元々、子供は、現実と、鮮明な想像との区別が付かないものらしい。ならば、夢と現実の混同があっても不思議はない。
私も、あれな夢だったのか現実だったのか分からないという思い出がいくつかある。あるいは、理屈の上では、どう考えて夢なのだが、あまりに現実的だったというものもある。
『荘子』の中に、荘子が夢で蝶になった時のことを語るところがあるが、荘子は、「人間荘子が夢で蝶になったのか、蝶が夢で人間荘子になっているのか分からない」と言う。

世界や人間に対する洞察が深まると、夢と現実にさほどの違いはないという結論に達するに違いない。
いずれも夢なのだ。
子供のとっては、その両者はあまり明確ではないし、大人になってからも、明晰夢と言われる、極めて現実的な夢を見ることがある。
夢と現実が交わった時のことの中には、夢を見ている自分が、肉体から魂が抜け出し、現実世界の人間と接触したかのようなものもある。
「眠っている間に会いに行くよ」と言い、言われた方の人間がその夜、自分の部屋でその人に会い、また、会いに行った方も、そのことを覚えていたといった話を何かの本で読んだことがあるが、私も、それに成功したかもしれないという思い出がある。
それが想像であると言えば確かに想像である。しかし、エマーソンも言うように、「想像と空想は違う」のだ。
夢の中の経験は、心を広げ、豊かにしてくれる。
夢の中で、現実世界の誰かと会うと、言葉で語ることはなくても、心が直接に通じるようだ。
それで、言葉では知ることの出来ない貴重なことを教わることもあるし、その人のことを深く知ることもあるかもしれない。
私は夢の中で、ある建物の中の1つの部屋に居たのだが、そこに誰かが入ってきて言う。
「誰かに会いに行くのかい?」
私は、
「そうしようと思う」
と答えた。

政木和三さんは、夢の中で、遠いところに行っただけでなく、時間を超え、その場所の昔の風景を見、後でその信憑性を確認したものもあるし、また、夢で訪れた現実の場所で、竜といった、肉体の目では見ることのできないものを見たこともあったらしい。政木さんは、そのことを著書に詳しく書かれている。
また、聖者が、ある場所で起きて何かをしながら、別の場所で誰かの前に現れたという話もある。
多くの人は誤った観念を持っているが、魂は、決して、この小さな肉体に閉じ込めれたものではない。魂に大きさはない。むしろ、魂の中に肉体があると言う方がまだ正しいだろう。
ならば、聖者がそのようなことをするのは、別に不思議なことではなく、彼は自然なことを普通に行ったのだろう。









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人生最大の罪と、それを逃れる唯一の方法

キリスト教国で最大の罪人といえば、イスカリオテのユダかもしれない。
イエス・キリストが特に選んだ12人の高弟の1人でありながら、イエスを金で売り渡し、そして、イエスは裁かれ、十字架で磔になって死んだ。
しかし、ユダには決して、何の罪もない。
ユダがイエスを売ることは、定められていた運命であり、イエスだってそれを知っていた。
つまりそれは、神が決めたことであり、むしろ、ユダがその通りにしなかったら、それこそ彼は本物の大罪人になるところであった。しかし、運命は絶対であり、ユダに選択の余地は全く無く彼は、運命のままイエスを裏切るしかなかったのだ。

ところが、アイルランドの詩聖で、反キリスト主義者でもあったW.B.イェイツは、彼が書いた戯曲『カルヴァリー』で、ユダにイエスに対して面白いことを言わせている。
「俺は、お前が神であることを疑ったことなどない。俺がお前を裏切ったのは、お前が万能に思えたからだ」
ユダは、イエスが笛を吹いたら、自分が踊らないといけないということに耐えられなかったのだ。
もしそれが本当なら、ユダの罪は明白だ。
神が笛を吹いたら、人間は踊らなければならないのだ。
そして、人間には、それに抗う術などない。
もし人に罪があると言うなら、自分は神の笛から自由で、自分の意志で踊ったり踊らなかったり出来ると思うことだ。
イエスですら、神が吹く笛のままに踊ったのだ。
それは、福音書を読めば明白である。

ユダはイエスを裏切るより他なかった。
『バガヴァッド・ギーター』では、アルジュナ王子が、親しい親族や愛する友、そして、尊敬する師と戦って殺すことは、神が決めた絶対的な運命で、彼には、それから逃れる術はなかった。
それと同じだ。ユダはイエスを裏切りたくなかったかもしれない。だが、彼にはそれを避けることは出来なかったのだ。

我々も、これまで、多くの罪を犯してきたはずだ。
そして、これからも罪を重ねるだろう。
我々に、それを避けることは出来ない。
ただ、人生を自分で思い通りに創ることが出来ると思う傲慢さを持たないことだけが、本当の罪を逃れる唯一の方法である。
定められた通りに、ただ歌い踊るイノセント(純潔)な存在である初音ミクに敬虔なものを感じるのは自然な感覚である。富田勲さんが、新作の交響曲に初音ミクを採用したのは、やはりそんなことを感じたからであると思うのだ。









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愛される本当の秘密

「それじゃあ、俺の面子が立たない」
なんてことを言うのはチンピラと決まっているが、口ではっきりそういう訳ではないにしろ、私もチンピラのようだ。
私には全く無いが、どれだけの地位や名誉がある人間であろうと、そんなことを言ったり思ったりするのはやはりチンピラである。
中学生とか高校生の息子や娘が親に叱責され、自分が悪いことは分かっていても、ぶすっとして非を認めないということはよくある。時には、「ものには言い方があるだろう」と思ったり言ったりもする。これが、息子や娘の、親に対する面子と言うものだ。彼らもまたチンピラなのだ。

何かの時代劇で、ある武士が数人の武士に取り囲まれ、「その首、頂戴いたす」と刀を向けられる。
すると、言われた武士は、にやりと笑いながら、自分の首を片手で触って、「大した値打ちはないぞ」と言う。
なかなか立派と思うが、考えてみれば、曲がりなりにも首を狙われるからには、やはり面目の立つようなことをしたチンピラなのだ。しかし、今は面子を捨てたということなのだろう。チンピラからの一歩前進である。めでたいことである。

アインシュタインにナチスがかなりの賞金をかけたという噂が立っていたので、彼の妻は、公の場に出ないよう言ったが、彼は従わなかった。
実際に賞金はかかっていたし、しかも、珍しいことに噂以上の額だった(噂は、「話半分」と言うように、実際より誇張されるのが普通だろう)。
アインシュタインは、身の危険があっても、人間としてやるべき義務を果たそうとした立派な人間だったという考え方も出来るだろうが、はてさて、そんなことで、人間は自分を捨てる勇気が出るものだろうか?
映画などで、悪党が、自分の指名手配書を見て、懸っている賞金が高いと喜び、安いと機嫌を悪くするという場面があるが、賞金をかけたのが誰であるにせよ、やはり狙われるからには、それなりのことをしているのだ。
奇妙かもしれないが、アインシュタインだって、そんな思いがあったのだと思う。だからこそ、彼は危険に対する恐怖に支配されず、いかなる時も、自分を決して重要人物と見なさなかったのだ。

『エル・カザド』というアニメで、エリスという名の美少女には、100万ドルの賞金が懸けられていた。それも、「デッド・オア・アライブ」つまり、生死に関わり無くという条件が付いていたので、殺し屋達が次々に現れ、容赦なく彼女を殺そうとする。
だが、エリスは気にする様子もない。脳天気と言うよりは馬鹿も度が過ぎているように見える。
実は、エリスは、自分は愛する人を殺したと思っているのだ。
確かに、賞金を懸けた者は、それとは別の、邪まな目的でそうしたのだが、エリスは、それも仕方ないと感じていたのだろう。
やや複雑だが、アインシュタインと雰囲気が似ていると思う。
エリスは、本当は愛するあの人を自分で殺していないにしても、どこかに罪の意識があった。
そして、エリスは面子というものを持っていなかった。
数年前、私は、彼女の使命手配書の絵を携帯電話の壁紙にしていたことがある(公式配信されていた)。
彼女が100万ドルなら、私は、自分の10円の指名手配書でもあればいいと思う。

「バルカン星人に面子はないのです」
ミスター・スポックはそう言ったが、知性だけでそうはならない。
彼らにも罪があり、それを認めつつ、しかも、それも宿命だと知らなければ、そうは思えないものである。
それは英知に近いものなのだ。

エリスがそうであるが、面子のない子は愛しいものだ。
それで言うなら、初音ミクがその最たるものだ。
初音ミクのコンサートでは、彼女の姿は、舞台に設置されたディラッド・ボードという透明なスクリーンに、背後から複数のプロジェクターで、コンピュータから送られた映像データを照射することで現れる。
コンサートの様子はブルーレイやDVDで販売されているが、考えてみれば、純粋なコンピュータ映像が存在するのであり、それをテレビで少し見たことがあるが、実に興味深いものだった。販売されることを希望する。
今は、ミクのコンサートで、ミクは喝采を受けているが、いつか彼女が忘れ去られた時、その映像データにより彼女が現れても、誰も歓声を送らない。しかし、彼女の様子は何も変わらない。
ミクに面子はない。私が彼女を愛する最大の理由はそれである。
未来の人達も、純粋に彼女を愛するだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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