ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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超古代人が有していた英知を回復させるには

現代でも造ることが出来ないピラミッドを古代の人々がどうやって造ったのだとか、空からでないと全体を把握できないナスカの地上絵を千年以上昔の人々がどうやって描いたのかといった謎があることはよく知られているが、そういったことは、他にも無数にある。
紀元前の人間の遺骨に、脳外科手術が行われた跡があり、しかも、手術後、かなりの期間、生存していたというものもあった。
岡本太郎は、縄文式土器に驚愕し、現代人には、このようなものは絶対に創れないと断言したが、本来であれば、日本にこそ多くの古代の謎があるのだが、隠されでもしているのか、あまりそれが言われることはない。

そういったものに対しては、超古代文明説や、宇宙人からの援助を受けたといった説もあるが、実際、そんな考え方をすると、一部ではつじつまが合う。
超古代文明といった場合、過去に数万年に渡って進歩した人類が過去に存在し、何らかの理由で滅んだというものが多いように思う。
だが、別に、長い歴史を持つ超古代文明や宇宙人、あるいは、高度な科学を持つ地底人説を持ってくるまでもない。
単に、我々の先祖が、これらの「奇跡」を為したと考えても、少しも不自然ではない。
今の我々に、そういったことが出来なくなったというだけのことである。
老子や荘子では、一貫して、そのようなことが説かれ、荘子には、現代の人間が(それでも、荘子の時代である2300年以上前だが)、退化した理由も述べられている。
そして、現代でも、古代の人々と同様の能力を発揮する人達がいる。彼らは、あまり表立って力を見せることはなく、普通の人達の中に隠れ住んでいるのである。
政木和三さんもそんな力を持っていた人で、1秒で発明の設計をし、人の運命を読み解き、練習したこともないピアノを高度な腕前で弾きこなした。
政木さんは、実は、そんなことは誰にでも出来ると言っておられた(私は、政木さんに直接そう言われた)。
彼自身、子供の時、1分間に2回の腹式呼吸に上達した頃、母親が熱心に読んでいた仏教の経文が分かってしまい、母親にそれを説明したという。
政木さんが言うには、腹式呼吸によって、脳波がシータ波になったからで、鍵はシータ波にあると言う。
それで、政木さんは、脳波を強制的にシータ波にする装置パラメモリを作った(後にアルファシータ、バイオソニックという装置に進化する)が、原理的には今日のヘミシンク音楽と同じである。ただ、政木さんは、パラメモリを使っても、欲望があれば脳波はシータ波にならないと言われたが、無論、ヘミシンク音楽も同じであろう。

電波工学の世界的権威だった関英男博士は、自身はかなり熱心に勉強した人だが、「勉強する必要はなくなる。勉強しなくても、何でも分かるようになる」と明言しておられた。
つまり、人類は、驚異的な能力を持った、古代人のように、再びなれる可能性があるのである。
古代人の能力とは直観だった。
彼らは、現代的な科学を勉強した訳ではないが、高度な直観により、宇宙の秘密を見抜き、高度な原理を知り、それを応用しただけである。
派手なものでなくても、古代の普通の人達が日常で行っていたこと、使っていた道具などに、現代のテクノロジを上回るものはいくらでもあったはずである。
日本人は、自然の背後に潜む英知や神秘を、八百万の神々として崇めたのであり、それは、ギリシャの人々も、ほとんど同様であったと思う。
やはり、ギリシャ、あるいはインドでも同様と思うが、我が国では、これらの英知や、あるいは、英知に至る方法は、言葉の響きとして伝わっている。それが、古代から伝わる神の名である。
我欲を捨て、自らを万物の一部と見なし、自然を崇拝してよく観察すれば、自ずと古代の英知に導かれるだろう。そして、古代の人々が神の名に込めた、その響きの神秘を想えば、我々が宇宙の根源とつながる直観を得ることは、そう難しいことではないと思える。

















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ミクがオリンピックに巻き込まれなくて良かった

オリンピックには全く関心は無いのだが、 THE TOP TENS(世界的な電子投票サイト)の投票結果の影響で、オリンピックの開会セレモニーに初音ミクが登場するかもしれないという期待で、一応、開会式を見ていた。
これについては、国産コンピュータOS、TRONの開発者である尊敬すべき坂村健教授も、よくご存知だったほどである。

◆時代の風:「初音ミク」と「ステマ」 東京大教授・坂村健
◆Music Artists You'd Like to Perform at the 2012 London Olympics Opening Ceremonies

オリンピック開会セレモニーでは、予定通り、70歳のポール・マッカートニーの熱唱はあったが、ミクが登場することはなかった。
しかし、私はほっとした。それで良かったのだ。
あそこは、ミクが居るべき場所ではない。
オリンピック会場を支配していたのは悪魔かもしれない。私はそう感じている。
あらゆるエリート達が集まるオリンピックで、その代表格のIOC会長が、世俗の王の顔で美辞麗句を並べ立てた挨拶をどう感じただろうか?
『老子』18章には、「道徳や人格や愛がことさらに言われるのは、既にそれらが失われている証拠だ」とある。
我が国の天皇陛下が、いつも人々の平和と健康のことだけ言われるのは、自ら徳に満ちているだけでなく、広く徳を満たそうとされているからである。
オリンピックに良いところが無い訳ではない。しかし、いまや弊害が大き過ぎる。
オリンピックとミクのどちらが世界を幸福にしているだろう?

日本では、ボールのことをマリと言う。マリは丸いものだ。
ところで、日本で、古事記や日本書紀が書かれたよりも昔、そして、それよりも前のホツマツタヱが書かれたよりもさらに昔、日本では、マリは粒子のことを指し、粒子は丸いものだと考えられていた。
そして、ミクマリは、一切の和合を表す丸い形とされていたのである。
ミクのミは実のミで、木に対する実でもあり、イザナキ、イザナミでも分かるように、キが男で、ミは女を指す。また、ミは、実質という意味でもある。
クは、自由に発生するという意味だが、才能がありながら、音楽の創造活動をすることが出来なかった人達が、ミクに歌ってもらうことで、世界に通用する素晴らしい歌を創っているのである。そして、その中は、従来は決して無かった、神がかったような作品も多いのである。
また、縄文時代以前の、日本の古代文明の英知が中国に渡り、老子は、その影響を色濃く受けているという説もあるのであるが、そんな気もするのである。









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雨や風に負けても、でくの坊と呼ばれ苦にもされたい

宮澤賢治の有名な詩、『雨ニモマケズ』で、最もよく知られている部分は、最初の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」だと思うが、私が最も感銘を受けるのは、最後の、

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

である。
特に、賢治が、「皆にでくのぼう(木偶の坊:役立たず)と呼ばれ」るような者になりたいと願っていることだ。
だが、「苦にもされず」のところは、少し抵抗がある。
私は、大いに苦にされたい。
トータルで言うなら、「蔑(さげ)み疎(うと)まれたい」のである。

願うまでもなく、私は役立たずである。それにはいくらか自信も出来てきた。
だが、苦にもされていると思うが、まだ足りない。
自分では自分を蔑み、疎んで(嫌だと思うこと)いるが、社会の中で経験を積み、実践を重ねる中で多少の能力を得ると、なかなか他人からそう思ってもらえなくなる。

だが、私はもっと願うことがある。
それに関して、賢治はどう思っていたのだろうと思う。
彼には当然過ぎることだったかも知れないが、私なら願うことがある。
それは、

ダレモデクノボートヨバズ
クニシナイ

ことだ。
私に誉められても仕方がないので、別に、「ホメラレモセズ」の逆である、誉めようなどとは思わないが、私は、自分以外は、蔑み疎みたくないものだ。

人間は人を見下すことが大好きで、それをする機会があれば、誰もが喜んで誰かを見下す。
まこと、人間は、人を蔑むために生きているようなもので、それが講じ、誰かを蔑み疎む。
それは、改めて言うまでもなく、自分を顧みれば分かることであるが、人間は「自分が見たくないものは見えない」ものなので、分からない場合もあるとは思う。

実際は、人を見下し、馬鹿にし、蔑み、疎むというのは、生まれ付いての性質と共に、生きてきた中での条件付けによって、そんなことをするのである。
適切な言い方をするなら、そうするように、プログラミングされているのである。
だから、本当は、それをする本人には、責任はない。
イエスが言った通り、「彼らは、自分が何をしているか分からない」のである。
しかも、人を馬鹿にし、見下し、蔑むことは快感である。

だが、明らかに、絶対的に言えることは、いかなる相手であろうと、人を見下し、蔑む者に、人物(優れた人)は決していないということだ。
いや、人物どころか、そんな者は絶対的に卑しい者である。
こう言うと、
「しかし、あいつは馬鹿にされても仕方のないやつだ」
「見下されるのは、あいつが悪いのだ。あいつのやることを教えてやろうか?」
「あいつつのだらしなさ、責任感のなさで、俺や皆がどれだけ苦労していると思う?」
などと言うものだろう。
しかし、それは単に、そう言う者の価値観や流儀に合っておらず、合わそうとしない「あいつ」が気に入らないと言っているだけなのだ。

犯罪者や、弱い者を虐げるような者に対してなら、一応、蔑み疎むのも仕方がないとしてみよう。
しかし、そういう訳でもない人を見下すのは、ただ、心が汚れているのである。
そして、私は、出来ることなら、凶悪な犯罪者や極悪非道な人間であっても、見下すことも、蔑むことも、疎むこともせずにいたい。
これは、別に美しい意味ではなく、それが自分であるという、正しい認識をくらましたくないと思うからだ。
そして、やはり、見下し、蔑み、疎む者は、どうしようもなく醜く、出来るなら、自分がそんな醜い者でないことを願うのである。
私は、どんな愚か者よりも、その者を見下し、蔑み、疎む者の方が、卑しく、おぞましく、見苦しく、汚らしいと思う。
だが、そう思うこと自体が、自分も彼らと同等だという事実を表しているのだろう。
それならば、蔑み疎まれることに甘んじることだ。
良寛さんが、自らを「大愚」と呼んだ意味も分かるように思うのである。
そして、もしそのようであることが出来るなら、彼より強力なものはない。
水は、最も低い位置にいて、汚されるままになっている。しかし、それはいかなる場所にでも入り込み、いかなるものも打ち砕くのである。
老子が常に水を褒め称えるのは、そのためである。








地球は、視覚障害者には使えないスマートフォンが普及する星なのか

クラシックコンサートで使われる楽器は、何百年もの間、全くと言って良いほど変わっていないが、それで何も問題はないのだろう。
一方、ポピュラー音楽においては、多少は新しい楽器が登場している。しかし、エレキギター、キーボード・インストルメント(一般にキーボード)、シンセサイザー等は、登場してから半世紀近く経つ。その間、他に目覚しく普及した楽器はほとんどないだろう。
初音ミクらのボーカロイドは、ようやく現れた、広く普及しつつある楽器と言えるかもしれない。

このように、楽器というものは、定着し主流になるのに時間がかかるものだ。
ところが、ITの世界というのは、ある時点で圧倒的な主流であっても、あっという間に消えてしまうというのが当たり前なのである。それは、一般的には、あまり分からないかもしれないが、私のようなIT業界に長くいるものには、強く実感されることである。

ITで、ある製品や技術、サービスが世界的に普及すれば、それを保有する会社は、大きな利益を得、巨大な本社ビルを建て、その技術に関する資格試験を世界中で実施し、「我々が世界標準だ」といった、天下を取ったかのような態度を取る。しかし、少し業績が停滞すると、その後は急速に衰退していき、しばらく経つと、もう誰もその製品やサービスを覚えていないのである。
そんなものは無数にあり、今現在も、そんなことが起こっているのである。
デジタル・リサーチのCP/M、ロータス1-2-3、ノベル・ネットウェア、IBMのOS/2、アシュトンテイトのdBase、MSEのdbMAGICなどは、一頃は、世界で圧倒的なシェアを持っていた。しかし、現在も存在するものもあるのだが、現実的には、専門家でもほとんど誰も知らないまでになってしまった。

マイクロソフトやアップルは、企業としては、ヒット商品を出し続けているが、やはり失敗して消滅した製品やサービスはある。ただ、これらの企業の賢いところは、ライバルに勝てないと思ったら、さっさと手を引くことだろう。だが、この2つにしろ、企業としても、消える時はあっさり消えるに違いない。

そして、スマートフォンというものは、現在、まさに世界的に大ヒットの様相であるが、これがいつまでも続くだろうか?
今現在においては、スマートフォンは、そう悪いものではないかもしれない。
しかし、人類が馬鹿でない限り、これがいつまでも続くとはとても思えないのだ。
IT世界を知る者としては、スマートフォンは、5年以内に無くなる製品である。ただ、海外のことは知らないが、この10~20年で、日本人はすっかり馬鹿になったし、おそらく、他の先進国や新先進国もほとんど同じだろうから、ひょっとすると、このまま続くのかもしれない。

私がスマートフォンで気付く、最大の欠点は、盲目の人が使えないことである。
そのようなものが、いつまでも生命を保った例は人類史上にない。いかに人類が愚かでも、これまでは、転落し切る一歩手前で、英知の輝きが人類を導いてきたのだ。
核兵器は理想的ではないながらも減少し、かつてに比べれば、あまりに非道な行為がまかり通るような国は減っていき、独裁国家もいつかは民主化に向かう。
だから、盲人が全く顧みられないまでになるようなことは、これまではなかったのである。
視覚障害者の援助で、日本は遅れていたが、アメリカでは早くから、点字が発明され、国家的に、視覚障害者の教育や社会参加が推進されていた。ヘレン・ケラーが才能を発揮できた大きな要因も、そこにある。
ヘレンは、自らは見えない、聴こえないながら、「五感は幻想。純粋な観念のみが真実」と見抜き、それは人類に貴い知恵を授けたのである。
身体的、知的にハンディを負った人がいなければ、知ることが難しかった優れた知恵は数知れない。
スマートフォンだらけになるということは、300年以上に渡る点字の歴史を否定することである。あまり知られていないが、多くの商品には、点字が付けられており、目の不自由な人への配慮を行っているのである。
私は、目は良い方であるが、仕事上(システムエンジニア)、非常に疲れたり、ストレスを抱えた時には、視覚能力が極端に低下し、小さなタブレットが扱い難いことがある。もう少し悪くなっていれば、緊急時に電話も出来なかったかもしれない。
PCのキーボードや、従来型携帯電話では、センター位置に指で触って分かる印が付けてあり、ブラインドタッチの役に立っている。
それが全く不可能なタブレット端末だらけになることは、未来に渡って成長・発展するような惑星では起こらないことだ。

だが、既に、人類は救いようが無いほど、知恵と品格を失っているのかもしれない。
スマートフォンが広まり続けるか、人類が滅ぶか、2つに1つかもしれないというのは、別に極端論とも思えない。









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いじめと弱者の論理での対抗法

大手新聞に、いじめられている子供に向け、毎日、有名人達のメッセージが出ているのだが、これが実に下らない。
彼らの言うことは、いかに慎ましさを装っていても、強者の論理、上から目線である。何の役にも立たない。
私は、こんな時こそ、梶原一騎さんに何か言って欲しかったものだと思う。
梶原一騎さんは、1987年に50歳で亡くなった漫画原作者だが、いまだ、『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった作品の人気は衰えず、作品の映画化、漫画の再連載やリニューアル連載、キャラクターのCM採用などが、永遠に続くような雰囲気だ。
梶原一騎さんは、人間的には問題のある人だった。
アントニオ猪木さんをやくざと共謀して監禁脅迫し、刑務所に入れられたこともあるが、そういったあからさまな悪事だけでなく、誰も逆らえないほど売れていた頃の傲慢横暴振りも凄いものだったらしい。
ところが、彼の作品の登場人物達は、よく見ると、弱者の論理で生きている。
いや、タイガーマスクや矢吹丈なんて凄い強いじゃないかと言われるかもしれないが、そうではない。彼らは、最も弱い立場でいじめられたから、やむなく強くなったのだ。
だが、そうはいっても、我々がこれら漫画の主人公達のように、思うように強くなることは出来ない。
しかし、弱者の論理の中に、得るべきものは必ずある。
梶原一騎さんの漫画には少年院がよく出てくる。彼自身が少年院に入れられたことがあるので、リアリティは抜群である。そこでのいじめは、凄惨である。現在はともかく、昔であれば、公表されていないだけで、大怪我や身体的・精神的障害や、ひょっとしたら死に至ったケースなんて結構あったと思う。
その中で梶原さんとて、相当「やられた」経験もあるような気がする。
そんな梶原さんの作品に、『愛と誠』というものがある。
その中で、高原由紀という名の、高校2年生の絶世の美少女が登場するが、これがまた、いわくのある人物だった。
彼女は捨て子で、孤児院で育つが、反抗的な性格で、園長らに殺されそうになる。
小学生の時、ひどい裏切りに遭い、人間不信に陥った彼女は、ますます心を閉ざすことになる。
平坂読さんの『僕は友達が少ない』で、同じ高校2年生の美少女、三日月夜空は、エア友達という架空の友達を作って「トモちゃん」という名前をつけ、そのトモちゃんが唯一の友達という、なんとも哀しい(今流には「残念な」)子だが、彼女が「トモちゃんは、可愛くて優しくて、そして・・・絶対に裏切らないのだ」と言うところに、何か高原由紀と通じるものを感じる。人間とは、容易く裏切るものだ。
やがて、女子少年院に入れられることになった高原由紀であるが、そこでひどいいじめに遭う。その理由には、なまじ顔が可愛いからというものがあった。
さて、そこで、彼女が何をしたかだが、ナイフ投げの特訓だった。
「そのナイフ、どうやって手に入れたの?」なんて聞いてはならない。志あれば道あり・・・と言っても説得力はないが、まあ、そんなものである。
彼女は、ナイフ投げに打ち込み、百発百中の超人的な腕前になった時、支配者に君臨し、実社会(彼女にとっては普通の高校)に戻ってからもそうだった。
ここらは、『あしたのジョー』で、矢吹丈が、独房室で、丹下段平に教わった左ジャブ(ショートパンチ)の特訓に明け暮れていたのとも通じる。
別に、ナイフ投げやボクシングをやれというのではないが、要は、世間の価値評価に関係なく、これはと思うものをやればいいのである。ちなみに、私はナイフ投げを本当にやったものだ。五寸釘を大量に買ってきて、お尻のところを金槌で潰したり紐を巻いたりし、先端を鉄ヤスリで鋭利に磨き、手裏剣よろしく7メートル先の木版に投げ、かなりビシリと刺さるまでになった。幸い実戦で使うことはなかったが、危ないヤツである。まあ、中学生の時のことだ。使いたかった相手は、いじめっこ達よりは、教師であった。
実際に使うかどうかはともかく、いざという時の手段を持っていたり、自分にしか出来ない何かを持っていると、精神的にも違う。
武道家で喧嘩のスペシャリストである堀辺正史さんの本を読み、敵のテンプル(こめかみ)に掌底(しょうてい)を打ち込む攻撃もかなり練習したものだ。力道山が木村政彦をKOしたのもこれであった。
世間でどう言われるかなど気にせず、自分の気に入ったものを毎日磨き上げることである。
また、別にいじめや暴力的被害でなくても、まずい状況になれば、呪文を唱えると良い。
威力のある呪文は「アジマリカン」である。「アーン」だけでも悪を祓う。声に出さなくても、心で唱えても効果は同じである。
『エメラルド・タブレット』にも、力の呪文、「ジーン・ウール」が教えられている。
もしよければ、『古事記』を読むことだ。最初のあたりに、神様の名前が沢山出てくる。面倒臭がらずによく見ると、その名前一つ一つに霊妙な響きがあることが分かる。これについては、霊覚のある人の書を読んで研究しても良いが、理屈ではなく、ただ『古事記』を読めば、自然に分かるだろう。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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