運と言うとき、その多くが、金運か女運(男運)と言うのではないかと思う。
あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。
ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。
はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。
明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。
さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。
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あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。
ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。
はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。
明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。
さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。
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