ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

本当のスポーツ観戦の仕方

7月27日からのロンドンオリンピックや、8月29日からのロンドンパラリンピックを控え、選手達へのインタビューをテレビで見ることが多くなった。
金メダルが有望視される選手であれば「金メダルを目指します」といったことを確実に言うだろう。
また、よほど運が良ければ金メダルもありえない訳ではない選手なら、一応、「メダルを目指します」と言うが、ほぼお約束の質問、「どの色が欲しいですか?」と聞かれたら、「一番いい色が欲しいです」とか、「金以外はいりません」と答えるのもパターン通りだが、これはファンへのサービス精神というよりは、彼らの本音だろう。
そして、メダルは難しいが、やはり幸運のハプニングが起これば僅かな可能性があるのかなという選手達も、「メダルを目指します」と言う。

だが、どんな選手だって、自分の思うままに結果が出せる訳ではない。
結果は、選手や関係者、あるいは、ファンの想いとは全く関係なく起こるものだ。
初めての小説を読む時、結末をあらかじめ聞くか見るかでもしていない限り、ストーリーの最後はどうなるかは分からない。しかし、本の最後の方に書かれたフィナーレはもう決まっている。
それと同じだ。
ほとんどの人が、選手や関係者の努力で結果が変わると信じているが、人間が出来事をコントロールするこは決してできない。ものごとはただ起こるだけだ。
期待を裏切る結果となったとしても、それがあらかじめ決められた運命だったのであり、選手にも関係者にも、何の責任もない。
逆に、予想外の素晴らしい結果になったとしても、単に、それが運命であったというだけのことで、選手が賞賛される理由もない。
こう言うと、「選手の努力を褒め称えるべきだ」と言う者は多いかもしれないが、人は、自分の意志で勤勉になることも怠惰になることも出来ない。
常人に不可能な努力をすることも、それがその者の定められた運命だったのである。
いや、実際は、いかに小さな努力であろうが、それをする運命になければ出来ないのだ。

金メダルを取る運命にあれば、金メダルを取ることは避けられないし、その運命になければ、どれほどの努力をしようとも、金メダルを取ることは決して出来ない。
1984年のロサンゼツスオリンピック男子体操で、個人総合とつり輪で金メダルを取った具志堅幸司選手が、さかんに、「神様が(金メダルを)取らせてくれた」と言っていたが、彼は直観で分かったのだと思う。運命を書く者を神と言うなら、まさに、神が彼に金メダルを取るような運命を用意していたのである。
だが、神がなぜ、彼に金メダルを取る運命を与えたのかという意図は決して分からない。それを人間の浅はかな知恵で推測してはならない。
一方、日本中の期待を背負ってマラソンに出場した(と本人は思っていた)ある女子選手は予想外の惨敗となった時、「日本に帰れないと思った」と言っていた。しかし、そんな結果になるのが彼女の運命だったのであり、彼女に何の責任もないばかりか、その結果に対し、彼女は何の関係もないとすら言える。
全ての選手は、ただ、運命として決められた通りに競技し、決められた通りの結果を表現するだけの、神の操り人形である。
「負けたのは俺の責任だ」と言うなら、むしろ不遜である。神でない人間に、結果を左右する力など、あるわけがない。

だから、結果など気にせず、選手は、それが自分の意志であるかのように、ただ思い切り競技に挑めば良いのである。
自分がどう思おうと、結果は既に決まっているのだ。ならば、競技を楽しまずしてどうするのか?
神が決めた結果は、望むものとは違うかもしれない。しかし、その結果は決して変わらない。なら、試合を楽しむだけのことである。
ファンもまたそうである。
好きな選手の勝利、優勝を望むのは仕方がないことだ。しかし、いかに願おうが、祈ろうが、結果は既に決まっている。それは喜ばしいものかもしれないし、残念なものかもしれないが、結果は、選手が生まれる前から決まっていることで、それが変えられることは絶対にない。ならば、結果を願うのではなく、好きな選手の戦い振りを、良いところも、悪いところも、素直に見守ろうではないか?
そして、結果が良ければ、一瞬喜んで忘れれば良いし、同様に、期待通りの結果でなくても、一瞬は落胆するとしても、すぐに、「まあ、よくやったよ」で忘れれば良い。
それが、自然で晴れ晴れとした、真のスポーツ観戦の仕方、応援の仕方ではないだろうか?









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心の傷から解放される話

宮本武蔵が、『五輪書』よりも後、ほぼ死の直前に書いたとされる『独行道』は、彼の信念を19ヶ条の言葉で表したものだ。その5番目が、かの有名な「我事において後悔せず」である。
だが、そう書いたことが、かえって、武蔵もひどい後悔をしたことがあるに違いないという証拠であると共に、後悔というものが、いかに人にとって悪いことであるかを、武蔵が強く実感したのだと分かるのである。

もし、後悔するということが無ければ、どれだけ気が楽で、晴れやかな心になれるであろう。
「あの時、あんなことをしなければ」
「あの時、違う方を選んでいれば」
「あの人と付き合っていなければ」
「この人と結婚していなければ」
これをさらに広げ、
「こんな家に生まれなければ」
「こんな親でなければ」
「こんな兄弟がいなければ」
など、自分の責任ではないことまで含め、過去を悔やむことは誰にでもあり、年を取るほど、その数は多くなるに違いない。
人間とは、後悔するために生きているようなものだ。
伊達政宗は、信長や秀吉より後に生まれたことを不運と思い、もう少し早く生まれていれば、自分が天下と取れたはずだと悔やんだと云われている。まあ、若い頃の話だろうがね。

さて、いろいろ書いたが、断言する。
あなたは、いかなることに対しても、後悔する必要は全くない。
上にも上げた中で、「こんな家に生まれなかったら」といった、自分でどうすることもできなかったことを悔やんでも仕方がないことは分かると思う。しかし、そんなことを悔やむ人は多いものだ。伊達政宗もそうであったかもしれない。
なぜ、そんなことで悔やむのかというと、
「その他のことは自分で選べるのに、一番肝心なところが、自分でどうすることも出来ず、しかも、不運なものだったから、今のひどい状況があるのだ」
という想いがあり、悔やんでも悔やみきれないからなのだろう。

それが分かれば、解決は早いのだ。
あなたには、とんでもない大誤解があるのだ。
あなたは、いかなることも、決して自分で選べなかったのだ。
生まれた家などという問題だけではない。喫茶店のメニューにあるコーヒーか紅茶かすら、本当は自分で選べないのだ。
この真理を知れば、あなたは決して後悔しなくなる。それは素晴らしいことだ。

人の一生の運命は、いかなる些細なことまで、生まれる前に完全に決められている。
ただ、現在までのところ、それを述べているのは、『聖書』『バガヴァッド・ギーター』『荘子』などの聖典や賢者の書であり、それらの聖典の体現者である聖者達だけだ。
しかし、科学においても、少なくとも、人に自由意志というものはなく、思考というものは、本人の意思とは何の関係もなく、ただ起こるだけで、自分で選択するということは実際は無いという有力な研究もある。
ここまでが現在の科学の限界かもしれない。
しかし、疑うことの全く出来ないほどの確信を伴った直観を得ることが出来るなら、運命が完全に決められたものであることを明確に知るだろう。
デカルトは、「単に真らしいことは全て虚偽とみなし、疑うことの出来ない完全に明白なもののみを真とする」という掟(格率)を定めた。その結果得られた最高の洞察が、「我思う、ゆえに我あり」だった。高度な神秘主義者には、「思うか思わないかに関わらず我は存在する」と言う者がいる。それらは、いずれも正しい。個人としての我は、思わない限り、存在を知ることができないのだ。しかし、これは別の日の話題としよう。
いずれにしろ、デカルトの態度は現在においても画期的だ。
そのように、我々も、疑いなく、明白に、運命とは完全に決まったものであることを悟ることができるだろう。
だが、それを、理屈で知ることはできない。
それもまた、知ることが出来る運命になければ、知ることはない。

話を進める。
あなたが過去に行ったどんな行為もあなたの意思で行ったことではない。
どんな行いであれ、あなたがそれをすることは、決して避けられなかったのだ。
そして、あなたに起こったどんな出来事も、あなたの運命であり、どうしても避けられなかったのである。
どんな不幸な出来事であっても、あなたが悪いのでは無いし、同時に、誰が、あるいは、何が悪いのでもない。それはただ、起こるべくして起こったのだ。

エドガー・ケイシーがそうであったし、彼の思想の影響もあるのかもしれないが、丹波哲郎さんや斎藤一人さんなどは、自分に起こる悪い出来事は、過去世で、自分が誰か、あるいは、何かに対してした、悪い行いの結果であると言う。
だが、そうではない。
出来事が起こる理由など、我々には決して理解できないのだ。
確かに、ケイシーのように考えることで、どこか納得できるところがあるし、また、未来において酷い目に遭いたくなければ、善いことをしようという動機になるので、悪い教えではないのかもしれない。
過去の賢者の中にも、一般の人の理解力に合わせ、そういった教え方をした人もいたと思う。
だが、真実はそうではないのだ。
そして、そのような因果律を信じている者が、悪いことをしないようにしようと思ったところで、悪いことをすることがその者の運命であれば、それをすることは避けられないのだ。そして、そんな場合は、その者は、悪いことをして後悔するだろう。それは、とても都合の悪いことなのだ。

運命が全て決められており、その者は、自分の意思など何の関係もなく、考え、行動するとなると、行為者など、どこにもいないということが分かる。
人間は、ただ決められたシナリオ通りに演じる役者だ。
あるいは、何者かによってプログラムされたロボットであり、我々は、ただ、そのプログラムに従って動くだけだ。
そして、ロボットが、プログラムしたものの意図を知ることなどは決してない。
それでは、個々のロボットは不満なので、「過去世で悪いことをしたから、今、酷い目にあっているのだ」と言われると、そのロボットは納得するのである。

唯一の行為者は、人間というロボットのプログラムをした存在だ。
我々の思考や行動が、こうあるようにプログラムした存在のことは、神と呼ぶしかないだろう。
ならば、全ての行為は神の行為である。
だから、自分が過去にした行為でどんなに後悔しているとしても、それは自分の行為では決してない。それは神の行為だ。ならば、なぜ我々が後悔しなければならないのだろう?
神がなぜそんな行為をさせたのかは分からない。しかし、それが神の行為であるということだけは確かだ。ならば、それを悔やむ必要など、どこにもないではないか?
そして、あなたが誰かの行為により損害を蒙ったとしても、それもまた、神の行為なのだ。その相手もまた、ただプログラムされた通りに、あなたに悪いことをしたのである。そうはいっても、別にあなたが前世で悪いことをしたからそうなったというのではない。なぜなら、過去世などというものは無いからだ。
そして、あなたが、どれほど賞賛されるべき、英雄的な行為をしたとしても、それは神の行為である。あなたが自慢することでも、誇りに思うようなことでもない。

我々の思考もまた、プログラムされた通りに起こるのだ。
しかし、人間は、空想だけは出来るのである。
プログラムされた思考は瞬間的だ。
しかし、空想は時間の中で行われる。正しくは、空想が時間を作り出す。空想をしなければ、時間は消える。
そして、空想をやめれば、言い換えれば、頭の中のおしゃべりをやめれば、我々は、自分がロボットであり、仕組まれた通りに考え、動いているということが分かってくる。
そうすれば、ただ、自分の思考や行為を眺めるだけになる。
これは、世界が幻想であるということが分かるということだ。時間や空間も幻想であることが分かる。
だが、自分が思考する者であり、行為者であると思うなら、この世は現実であり、時間と空間の中で、良いこともあれば悪いこともあるが、それはあなたにとって、確固たる現実である。そして、あなたは、必ず後悔するような行為をする。間違いなく、全ての人間は、そんな行為をするようプログラムされているからだ。
ミスター・スポックの口癖でもあった、古代ローマの格言“Errare humanum est”の通り、「誤るのが人間である」。

武蔵は、きっと悟っていなかった。
悟っていれば、後悔のしようがないからだ。
凡人には、空想をやめること、つまり、頭の中のおしゃべりをやめることは難しい。
しかし、聖者にとっては、空想することはとても難しいのだ。

斎藤一人さんが、講演でこんなことを言ったと思う。
ある女性が、まだ子供の時、大人の男に性的ないたずらをされて、心に傷を負った。
だが、この女性は、過去世で、自分が男性だった時に自分自身がそんなことをしたので、その被害者の苦しみを身をもって体験したのだ。そして、その程度のことで赦してもらえるのだから、有り難く思わないといけないと、斎藤さんは言う。

だが、そうではないのだ。
少女が望まない性的行為をされたことは、ただ起こったことである。
過去世などというものは無い。
彼女がそのような目に遭ったのは、それが神の決めたシナリオだからであり、彼女の運命だったのだ。それは、決して避けられないことだった。なぜ神がそのような運命を作ったのかについては、決して知ることが出来ないということだけが、我々に分かる唯一のことだ。
そして、彼女を傷つけた男もまた、神の定めた通りに動いたのである。それは神の行為だ。
こう言えば、「そんな言い訳が通用するなら、皆が好き勝手するようになって、大変なことになるではないか?」と言う人が多いだろう。
だが、人は自分の思うままに善いことも悪いことも出来ないのである。
それは、『歎異抄』の中で、親鸞聖人が、彼の弟子である著者(唯円)にも教えていたことだ。
だが、どうしても納得できない者には、親鸞はこう言ったと云われる。
「薬があったとして毒を好むことはない」
しかし、実際は、薬があろうがなかろうが、自由に毒を好むことも嫌うことも出来ないというのが真実である。
私は、高校生の時、マリオ・プーヅォの小説『ゴッドファーザー』を読んだのだが、その中で、11歳の美少女が性的陵辱を受ける場面があり、それがあまりに悲惨なので、ほとんど精神異常をきたしたことがある。しかし、それはあくまで架空の話であるのだが、仮に現実にそんなことがあったとしても、それも運命である。それが分かった時に、ようやく解放されたのだ。
『荘子』を読んで、真理に目覚めた良寛さんもそんなことがあったのだ。昨日まで一緒に遊んでいた少女が、今日は売られていなくなったということがよくあったのだった。
だが、良寛さんは、この世の全ては必然で、人の意志など何の関係もなく、定められたことが起こるのだと悟ったのに違いない。
あなたも、真理を知れば、得たいの知れない何かから解放されることだろう。









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想像と空想は全く別のものだ

想像と空想は全く違う。
その違いは大変なものであるのに、これらを混同している人が多いのは驚くべきことだ。
空想家(無想家)に想像力など全く無い。
空想家は、自己中心的な欲望の想いに耽り、現実でもわがままで、多くの場合、食べたいだけ食べてぶくぶく太っていて、逃避癖があるのに、短気で執念深い。
なるほど、想像と空想の精神活動に、似たところが無い訳でもない。
では、両者の違いを明確に述べよう。
空想は自分の頭で考えている。しかし、想像とは浮かんでくるものだ。
空想は時間がかかるが、想像は一瞬だ。
空想というのは、自分がヒーローやヒロインになり、人々に崇められ、良い思いをするという欲望が土台にある。空想の世界の中では、自分は白雪姫のように世界で一番美しく、ヘラクレスのように無敵で、無償かつ最大の愛と崇敬を捧げる仲間がいる。
しかし、想像においては、そのようなものは全く存在しない。

空想は思いのままに起こすことが出来るが、それは何の役にも立たないばかりか、神聖なる意識との間に堅い殻を作り上げる。
想像は、流れ星のように、いつやってくるかは分からない。だが、それは荘厳で、心の穢れを祓う。なぜなら、それは神聖な意識からやってくるものだからだ。

想像が、いつ、心の扉を叩くのかは全く分からない。それは、起こそうとして起こるものではない。神の意志によらずして決して起こらない。
だが、それは、実に、空想をやめた時に起こりやすいのだ。
空想とは欲望である。欲望が無い人間に、想像がある。
優れたメルヘン作家に空想家は決していない。彼の描くストーリーは、頭で考えたものではない。心に勝手に浮かんだものだ。
アンデルセンに空想癖はなかった。彼は子供の頃から神話好きではあったが、彼の心の中の女神達が、彼に自発的に語りかけたのだ。彼に欲望がないがゆえにだ。
アインシュタインは、光と一緒に飛んだらどうなるのだろうかとは思ったが、そんな想像が不意に浮かんだのであり、空想したのではない。

エマーソンは、ギリシャ神話は想像ではあるが、空想ではないと言った。
まさにその通りだ。
あの壮大な話が、誰かが考えて作ったものであるはずがない。
羊飼いを生業としていた詩人のヘシオドスに、詩の女神ムーサが、彼に物語を授けた。
ムーサは、彼の心に飛び込んできた神聖な意識の火花である。それを、とりもなおさず女神の言葉と言うのだ。

想像力を得るためには、空想を捨てなければならない。
この逆のことを教えられた人が多いと思うが、その間違いがはっきりしたと思う。
空想は欲望であり、妄想だ。
ヒーローやヒロインと自己同一化して偽りの快感をもたらすようなゲームをしないことだ。これは速やかにあなたの想像力を破壊する。
映画やアニメ、小説、漫画はどうであろうか?
素直に、ただ見るだけなら害はなく、著者の想像と同調する場合もある。これらは、まさに、見るもの次第だ。
自分が面白いと思ったからといって、闇雲に人に奨めたりするようなら、既に空想(妄想)している。
そして、想像的な二次創作は良いのだが、空想的な二次創作は非常に悪い。この違いはもう分かるのではないかと思う。

再度、重要なことを言うと、空想を止めた時に想像が起きる条件が整う。
ただし、想像はいつやってくるかは決して分からない。想像は、全てのことと同じく、神の意志によってのみ起こる。
人に出来ることは空想だけだ。だから、それをやめて、神の恩寵である想像を待つことが出来るのである。









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死んだ人はどこにいくのか?

人は、死んだらどうなるのだろう?
あの世(霊界)はあるのだろうか?
転生はあるのだろうか?

今でもファンの多い、1970年代の萩尾望都さんの人気漫画『ポーの一族』の中に、ある印象的な場面がある。
大富豪の子息で14歳のアランが、同い年の少年エドガーに、
「メリーベルはどこ?」
と問う。
メリーベルはエドガーの妹で13歳の美少女。アランはメリーベルを愛していた。それは、エドガーも同じだ。
エドガーは、静かに、アランの質問に、質問で答える。
「知ってる?きみは人が生まれるまえにどこからくるか」
アランが戸惑って、
「知らない・・・」
と答えると、エドガーは言う。
「ぼくも知らない。だからメリーベルがどこへいったかわからない」

エドガーの・・・というより萩尾さんの洞察なのだろうが、人は死んだら、生まれる前に戻る。
それは、メルヘン(おとぎ話。ドイツ語)ではなく、本当のことだ。
人は死んだら、2の無い1なるものに溶け込む。
2の無い1なるもの。それは宇宙全体に偏在する意識だ。それを神と言っても良い。
そこに溶け込むことで、個人としては消滅する。
1なる意識(神)は、人間を1人造ると、自らの一部に、その人間と一体であるという催眠術をかけるのだ。
そして、人間と一体化した意識は、自分は人間であると思い込む。そんな人間同士が関わり、世界という劇が進む。
劇のシナリオは、あらかじめ全て決められている。
役を終えた人間は死と共に催眠術を解かれ、1なる意識の中に溶ける(やや手間取る場合もあるが)。

喩えを使って説明しよう。
催眠術を使って、人に、自分が別の人間であると思い込ませることが出来る。
例えば、催眠術の被験者を、ある歌手だと思い込ませ、その歌手になったつもりで歌わせることができる(下手な場合が多いだろうが)。
同じように、あなたに催眠術をかけ、ミスターXという人物だと思い込ませたとする。
すると、ミスターXはここに存在することとなる。しかし、催眠術を解けば、ミスターXは消える。
消えたミスターXはどこに行ったのだろうか?
もちろん、ミスターXは最初からいなかった。
1なる意識の催眠術によって生まれた人間も、これと全く同じだ。
メリーベルもまた、最初から存在しなかったというのが真実だ。

人が死を恐れるのは、催眠術で現れたミスターXが、自分の消滅を恐れているようなものだ。
ミスターXに、
「私が催眠術を解いたら、お前は消える」
と言ったら、ミスターXは、そんなことは信じないし、もし、信じるなら恐れ、あなたに催眠術を解かないように懇願するだろう。
それは滑稽であるが、それが人間の姿なのだ。

稀に、生きている人間でありながら、1なる意識がかけた催眠術が解けた人がいる。解脱した(悟りを開いた)聖者だ。
そんな1人であった、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「私は世間的には死んでいる」と言ったのだった。
聖者は、個人の人間という意識を持っておらず、だから、自分のものという独占欲もない。
肉体の死など、恐れるはずがない。

では、霊界や転生はどうなのだろう?
霊界のことを人々に知らせ、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーらに崇敬された、人類史上においても稀有な天才エマニュエル・スウェーデンボルグや、転生の真実を説き、多くの人々を信奉させるエドガー・ケイシーの伝えたことは嘘だったのか?
おかしなことに、スウェーデンボルグは転生を否定しているのだ。
実は、霊界も転生も幻想だ。
ただし、神(1なる意識)が創った、聖なる幻想なのだ。
世界そのものが、神がシナリオを書き演出する、神聖なる幻想という劇なのだ。
それは、ダンテも、シェイクスピアも、イェイツも気付いていた。
その中に、霊界や転生という幻想は不可欠で重要だったのだ。真実は、そういうことである。
あくまで、死んだ人間の心を構成していたエネルギーが、新しく生まれる人間に作用することはある(あくまで、簡単に表現しただけで、言葉通りに受け取られても困るが)。
だから、見かけ上、1人の人間が2人の人間に転生したり、逆に、2人の死んだ人間のどちらの転生とも思われるような人がいたりする。
しかし、実際は、転生は無いのだ。

我々は、死を恐れる愚かなミスターXであってはならない。
また、美しいメリーベルを失って嘆くこともない。
このことを悟らなければならない。









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忘れられない思い出の原理

谷川流さんの小説『涼宮ハルヒの憂鬱』の一番最初のところで、主人公キョン(高校1年生男子)の、幼稚園の時の思い出が語られる。ただし、素晴らしい思い出ではなく、「幼稚園のクリスマス・イベントに現れたサンタクロースが偽者だと気付いていた」といったもので、それとの因果関係は不明だが、「俺は最初からサンタクロースを信じていなかった」と、この主人公は語るのだ。

つまらないことを思い出すなと言いたいところだ。
ところで、素晴らしい思い出と、つまらない思い出の違いは何だろう?
オーソン・ウェルズが24歳の時に監督・脚本・制作・主演をした傑作映画『市民ケーン』で、主人公の大富豪ケーンが「バラのつぼみ」という言葉を残して死ぬが、誰にもその意味が分からず、それを探るプロジェクトが開始される。
しかし、ある老人が、「大した意味はないかもしれんよ」と言う。彼は、少年の時に見た、白いパラソルを持った少女の思い出を話す。一瞬見ただけで、相手が自分を見た訳でもないのに、なぜか、何十年経っても忘れることができない。理屈の上では、何の価値もないことが人間には重要なことがあるのだ。

私にも、小学生の時の永遠の思い出がある。
学校帰り、雨が振る中、草が好き放題に伸びた空き地を見たことだ。初夏の頃で、周囲には誰も居ず、静かだった。
それだけであるが、いつ思い出しても陶酔する。どんな名作映画や、どんな大きな出来事を思い出しても、これの千分の一の価値もない。
幸いにして、そのような思い出は1つではない。
無限である。そして、誰もがそうであり、今はそうでなくても、そんな思い出を見つけることができる。

では、かけがえのない思い出の原理は何であろう。
それは、その時、「時間が消えていた」ということだ。
最近、時々書くが、人間の想いには2種類ある。
「瞬間的な想い」と「時間がかかる想い」だ。
ラメッシ・バルセカールが「機能する心」「考える心」または「垂直思考」「水平思考」と呼び、お釈迦様が「第一の矢」「第二の矢」と呼んだものだ。
物を落とした時に拾おうとしたり、信号が青になったから渡ろうと思うのは、瞬間的な想いだ。
一方、あいつにどうやって仕返ししてやろうとか、明日はどの服を着ていこうとか、レストランでメニューを見て、どの料理にしようかと迷うのが、時間のかかる想いだ。
時間というものは幻想であって存在せず、時間のかかる想い(迷う想い)をすることで作り出すのだ。
時間のかかることを考えていない時、人から時間は消えている。
そんな時、人の意識は神に通じている。神の世界に時間は無いからだ。
そんな時に見るのは、実は神なのだ。なぜなら、全ては神であり、神以外に何もないからだ。
あの老人の見た白いパラソルの少女は神だし、私が見た空き地も神なのだ。

なんでもない 小石でさえ
不思議だよね 宝石に変わる
一緒にね 見てるだけで
~『扉をあけて』より 作詞:きくこ 作曲:広瀬香美~

上の歌も、本当に好きな人と一緒にいれば、時間が止まるからである。詩を書いた人の直接的体験であろう。
普段から、時間のかかる思考をやめることを心がければ、やがて、時間は消え去り、世界は神そのものになるだろう。
私がいつも述べるのは、時間のかかる思考を消す方法である。
その最も重要なものが、「私は誰か?」「自分とは何か?」と問うことである。当ブログ内の、次の記事を参考にしていただければと思う。
考えたら負けだ
料理の注文が遅い者は幸福になれない









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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