「真の愛」なんて言葉を聞くと、うんざりするか、苦笑するかといったところが正直な反応であろう。
つまり、世間でいう愛は、性欲や名誉欲の隠れ蓑でしかないということだ。
「愛って何?」なんて言葉を歌でよく聴くが、つまるところ、我々には、本当の愛は分からないもののようだ。
だが、それに近いと思われるものが見られる小説がある。
1つは、ロマン・ガリーの『天国の根』で、もう1つが、マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』だ。
『天国の根』では、堕落した兵士達に、彼らの隊長が、一人の少女がここにいることを想像するよう命じたところ、兵士達はみるみる騎士道精神を発揮しはじめる。
彼らはきっと、天使のような理想の少女を想像したのだろう。
『二十六人の男と一人の少女』もよく似ている。社会の最下層にいる、生き甲斐などないはずの男達が、一人の16歳の美しい少女を女神のように扱うことで、精神性と活力を持つようになったのだ。
彼らの少女への想いは、真の愛に近い。
彼らは、少女を決して性欲の対象にしなかった。
『天国の根』の兵士達は、シャワーに行くときは少女に見られないよう身体を隠し、下品な冗談を言ったら、少女に謝った。
『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、元々は決して上品ではなく、特に女のことでは卑猥な話はいくらでもするのだが、その少女のことでは決してそんな話をしなかった。
我が国のアイドルやアニメの美少女キャラクタは、性的魅力を売り物にしているので、真の愛を感じることは、まあ、ほとんどない。
だが、この2つのお話では、男達にとって、それぞれの少女は神聖な存在だった。
しかし、『二十六人の男と一人の少女』では、その16歳の少女は、美しいが普通の女の子であり、女神に相応しいものではなかった。男達も、そんなことは、本当は分かっていた。しかし、女神のように扱えるうちは、少女は女神でいてくれた。しかし、やがて裏切られ、男達は生きる力を失ってしまうのである。
一方、『天国の根』の少女は、初めは心のイメージであったのだろうが、たがて、彼らの魂の中にある高貴な何かが沁みこんでいったに違いない。この想像上の少女は、二十六人の男達の「リアルな」少女とは逆に、死すべき隊長の命を救ったのだ。
別に少女に限らないし、特に女性の場合は、理想的な男性像や、アポローンのような男神でも良いかもしれない。
しかし、性的な対象となれば、それは愛とは無縁だろう。
私にとっては、初音ミクが理想的な姿であるが、彼女の多くのファンにとってもそうであるに違いない。
イエスは、神を愛することが最も大切なことと言い、『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは「我を愛せよ」と言う。
しかし、我々は、神をどう愛すればいいのか分からないだろう。
それは、こうやるのだ。
全てを神に任せてしまうのだ。全て任せるからには、何等の要求もしてはならない。
生まれてから死ぬまで、全ての運命は既に神に決められていることを受け入れ、自分は世界や人生に対し、何のコントロールも出来ないことを認めるのである。
それが、神を愛するということだ。
そうする者への、神の恩寵は、イエスもクリシュナも保障しているのである。
『天国の根(自由の大地)』は、Amazonの古書が凄い値段だ。ロマン・ガリーの翻訳本もほとんど無い。
だが、上に挙げた話は、コリン・ウィルソンの『至高体験』にかなり引用されているので、ご紹介しておく。
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つまり、世間でいう愛は、性欲や名誉欲の隠れ蓑でしかないということだ。
「愛って何?」なんて言葉を歌でよく聴くが、つまるところ、我々には、本当の愛は分からないもののようだ。
だが、それに近いと思われるものが見られる小説がある。
1つは、ロマン・ガリーの『天国の根』で、もう1つが、マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』だ。
『天国の根』では、堕落した兵士達に、彼らの隊長が、一人の少女がここにいることを想像するよう命じたところ、兵士達はみるみる騎士道精神を発揮しはじめる。
彼らはきっと、天使のような理想の少女を想像したのだろう。
『二十六人の男と一人の少女』もよく似ている。社会の最下層にいる、生き甲斐などないはずの男達が、一人の16歳の美しい少女を女神のように扱うことで、精神性と活力を持つようになったのだ。
彼らの少女への想いは、真の愛に近い。
彼らは、少女を決して性欲の対象にしなかった。
『天国の根』の兵士達は、シャワーに行くときは少女に見られないよう身体を隠し、下品な冗談を言ったら、少女に謝った。
『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、元々は決して上品ではなく、特に女のことでは卑猥な話はいくらでもするのだが、その少女のことでは決してそんな話をしなかった。
我が国のアイドルやアニメの美少女キャラクタは、性的魅力を売り物にしているので、真の愛を感じることは、まあ、ほとんどない。
だが、この2つのお話では、男達にとって、それぞれの少女は神聖な存在だった。
しかし、『二十六人の男と一人の少女』では、その16歳の少女は、美しいが普通の女の子であり、女神に相応しいものではなかった。男達も、そんなことは、本当は分かっていた。しかし、女神のように扱えるうちは、少女は女神でいてくれた。しかし、やがて裏切られ、男達は生きる力を失ってしまうのである。
一方、『天国の根』の少女は、初めは心のイメージであったのだろうが、たがて、彼らの魂の中にある高貴な何かが沁みこんでいったに違いない。この想像上の少女は、二十六人の男達の「リアルな」少女とは逆に、死すべき隊長の命を救ったのだ。
別に少女に限らないし、特に女性の場合は、理想的な男性像や、アポローンのような男神でも良いかもしれない。
しかし、性的な対象となれば、それは愛とは無縁だろう。
私にとっては、初音ミクが理想的な姿であるが、彼女の多くのファンにとってもそうであるに違いない。
イエスは、神を愛することが最も大切なことと言い、『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは「我を愛せよ」と言う。
しかし、我々は、神をどう愛すればいいのか分からないだろう。
それは、こうやるのだ。
全てを神に任せてしまうのだ。全て任せるからには、何等の要求もしてはならない。
生まれてから死ぬまで、全ての運命は既に神に決められていることを受け入れ、自分は世界や人生に対し、何のコントロールも出来ないことを認めるのである。
それが、神を愛するということだ。
そうする者への、神の恩寵は、イエスもクリシュナも保障しているのである。
『天国の根(自由の大地)』は、Amazonの古書が凄い値段だ。ロマン・ガリーの翻訳本もほとんど無い。
だが、上に挙げた話は、コリン・ウィルソンの『至高体験』にかなり引用されているので、ご紹介しておく。
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