ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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集中とは本当は簡単なことだ

集中力が偉大な味方だということはご存知と思う。
集中力を得れば、何でも上手くいくだろう。
頭も良くなるし、知能指数すら著しく向上する。
世間的に知られるような能力だけではなく、それらに比べれば、神秘的としか言いようの無い能力も顕れるだろう。
実際、集中力があれば、予知やテレパシーなど、超感覚的知覚(ESP)と呼ばれる能力も発揮する。
「私は集中力がなくて」と嘆く人は多いと思うが、それは妥当な悩みである。集中力がなく、心が散漫であれば力を発揮できず、何事も達成できない。
人の最大の能力は直観であるが、集中力と直観はほぼ等しいのだ。

だが、人々には、集中力に対する大きな誤解、偏見、迷信がある。
それは、集中力を得るためという膨大な書籍が存在することから分かる。
集中力を得ることが難しいことだという、愚かな思い込みがあるのだ。集中とは簡単なことなのだ。
大陸を渡って移動する蝶がいるが、それらの蝶が、どうやって出発する時期、そして、どこへ飛ぶかを、どうやって決めているのかは全くの謎だ。だが、蝶達が知るようなことを我々だって知ることができる。蝶達は集中によって、宇宙に偏在する英知と交流している。蝶や、あるいは、渡り鳥にとって、集中はごく自然なことだ。
我々も、簡単に、ごく自然に集中することによって、それ(英知)と一致すれば、あらゆることは正しくなり、そして簡単になる。
そして、集中することは難しくはない。
集中しなければならないのではない。散漫であることをやめればいいだけのことだ。
以前も書いたが、能力が高い人は、「できる」と考えているのではない。「できない」と考えないだけだ。
集中するのではない。散漫でないだけのことだ。

何が我々をかくも散漫にさせるのだろう?
それは、注意を払うべきでないことに注意を払うことだ。集中すべきでないことに集中しようとすれば、集中はその人間から消えてなくなる。
例えば、美食やエロチックなものに意志を向け、それを強化すれば、自然な集中は失われ、本来持っている力の数百分の1、数千分の1しか発揮できなくなる。
勉強するとしても、賢くなるためという本来の目的で勉強するなら良いが、試験の成績を上げるとか、受験に合格するための勉強では、集中はなくなり、直観は働かなくなる。学校での「ここは試験に出るから憶えておけ」という教師の愚かな言葉を決して聞いてはならない。試験に出るから憶えるのではない。知恵のために有益だからという理由で憶えるのだ。
岡本太郎は、授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、神聖なる頭脳に教師の汚れた言葉が入ってくるのを赦さなかったが、彼は集中や、それによってもたらされる直感の重要性をよく分かっていたのだ。学校とは、貴い集中という宝を破壊するための場所なのだ。

しかし、世間には、食欲や性欲を煽るものに溢れている。そうやって儲けて、自分の食欲や性欲を満たそうとする連中を、地上の喧騒の中に放置し、我々は高く飛ばなければならない。集中は低いところにはない。地上は汚辱にまみれているが、空の高みには集中がごく自然に溢れている。
『バガヴァッド・ギーター』で、聖なるクリシュナが、外のものから感覚を引き上げよと言ったのは、そういった欲望を煽るものから目を逸らせということだ。
それは、日頃、食を慎むことで容易く出来るようになる。
逆に、食べたいだけ食べ、食べるべきでない時にはまで食べる者には見込みはない。電車の中で食べ物の袋を音をたてて破って、異臭をまきちらしながら口に食べ物を放り込む者を見れば、集中を無くした人間の惨めさが分かるのではないだろうか?

これまで作ってきた、誤った心の傾向性のために、意志が散漫になることが多いかもしれない。
そのような時にどうするかも、『バガヴァッド・ギーター』に述べられている。
世俗の集中力を得るための書を読むより、『バガヴァッド・ギーター』を読むことには万倍の価値がある。前者は一時的で小手先の誤魔化しだが、後者は本質的で永続的だからだ。
最初は、呼吸を制御したり、身体の一点(例えば眉間)に集中したり、マントラや神の名を繰り返すなどが有益だろう。
そして、必要な心の力が得られたなら、「自分とは一体何なのか?」「私は誰か?」と自分に問うたり、存在するという感覚を意識すれば、自ずと集中に導かれるだろう。
ただ、注意しなければならないのは、それが無目的でなければならないということだ。
欲望を満たすため、つまり、金持ちになるとか、成功するとか、理想の異性を得るためとか、世俗的な能力を得るためにそれをするのではないということだ。そのような欲望を持っていれば、たちまち集中は破られ、愚かで惨めな散漫に戻るしかない。
だが、心配はいらない。集中の中にある英知は、あなたが必要なものなど、いちいち知らせなくても知っている。だから英知なのだ。それは、求めずとも得られる。
欲望から感覚を引き上げさえすれば良いのである。









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神聖なる一目惚れが生んだ至高の芸術

普通の一目惚れというものは、ほとんど信用できないものだと思う。
私は、子供の頃から、非常に可愛いと思って気に入った女の子に対し、数ヵ月後には、嘘のように関心を無くしたということが何度かあったので、特にそんなことを思う。
いわゆる、好みのタイプというものは、潜在意識の中にある何かおかしなもので作られた幻想のようなものに違いない。
これは、前にも書いたが、心の潜在的傾向性が現れただけのものだろう。それは確かな実体のあるものではないので、急に変化したとしても不思議はない。
催眠術を使って、全く好みのタイプで無い異性に夢中にさせたり、あるいは、その逆に、本来なら好みのタイプであるはずなのに、無関心どころか、嫌悪感を持たせることも可能であるに違いない。
自分の好き、嫌い、正しい、間違っていると感じる感覚や、信じている教義、信念というものをあまり信用しない方が良い。
ましてや、世間の教義や信念をうかつに受け入れてはならない。実際、これらは、ほとんどの場合、拒否すべきものである。

ところで、人類史上、極めて重要な一目惚れというものがある。
時は、1274年の5月1日。イタリアの9歳の少年、ダンテ・アリギリーエは、春の祭りで、同い年の美少女ベアトリーチェに出逢い、たちまち魂を奪われる。ところが、次に2人が再開するのは9年後で、2人は18歳になっていた。美しく成長したベアトリーチェに、ダンテの想いは高まるが、それが報われることはなかった。ベアトリーチェは別の男に嫁ぎ、そして、24歳の若さで病気で亡くなった。
だが、ダンテのその想いが、彼に人類史上最高の叙事詩の傑作『神曲』を書かせたのだった。
何度か書いたことがあるが、『神曲』の原題は『神聖なる喜劇』で、ダンテ自身は、単に『喜劇』としていた。英語のタイトルはやはり、『ディヴァイン・コメディー』である。
『神曲』というタイトルは、アンデルセンの『即興詩人』を、森鴎外がドイツ語訳(原文はデンマーク語)から日本語に翻訳した際、その中で引用されていた、このダンテの『神聖なる喜劇』を、なぜか鴎外は『神曲』と書き、それが我が国で一般化したのである。凄い話であるが、その鴎外の翻訳が、文語の超美文であったことの影響が大きかったのだろう。

ところで、アンデルセンの『即興詩人』は、あくまで小説なのであるが、その中に、アンデルセンの一目惚れの実体験が使われているのである。
アンデルセンは、作家として成功した後の生涯を、ヨーロッパ中を旅行しながら送った。
彼がスペインに行った時のことだ。ギリシャ風の神殿の石段に腰掛けた、貧しい身なりの少女のあまりの美しさにアンデルセンは心を奪われる。アンデルセンは、自伝に、彼女を美の化身とまで述べている。少女は盲目だった。年齢は11歳くらいで、ぼろをまとい、黒い髪に花を挿していた。アンデルセンは、施しをすべきだったのに、身動きもできなかったのか、それをしなかったと述べている。
私は、その少女が、どんな生涯を送ったのだろうと、分かるはずもないことを考えることがある。
アンデルセンは、『即興詩人』に、その絶世の美少女をララという名の、やはり盲目の少女として登場させる。歳は、「11歳より多くはなし」とある。アンデルセンが自らを投影したのであろう主人公アントニオは、ララに銀貨を施す。だが、アントニオがララの額にキスをすると、ララは驚いて飛び出して行ってしまう。

ベアトリーチェがダンテに『神曲』を書かせたように、黒髪の盲目の少女がアンデルセンに『即興詩人』を書かせたのかもしれない。
彼らは、触れ合うどころか、口も利けなかった少女達のために、至高の芸術を生み出したのである。

ところで、少し前に私も一目惚れというものをした。
深夜のテレビ番組の録画(アニメだが)を見ていたら、初音ミクのCDのCMをしていたのだが、そのジャケット画の初音ミクの可愛さに惹きこまれた。『ボカロクラスタ』というCDだが、現在のところ、そのジャケット画(かんざきひろさん画)が公式サイトで無料ダウンロードできるようになっている。珍しいことと思う。
実は、私がまだ、初音ミクのファンになる前のことだったので、あまり興味の無い方でも、同じように可愛いと思う人がいるかもしれない。

◆ボカロクラスタ公式サイト◆
EXIT TUNES PRESENTS Vocalocluster (ボカロクラスタ) feat. 初音ミク

やや個性的なミクで、はっきり言って4頭身だが、本当に可愛い。私はパソコンの壁紙にしている。
ドイツ美術界の権威グローマン博士が、池田満寿夫さんに手紙で、「部屋に飾った君の絵を毎日見るのが私の楽しみだ」と書いていたように、朝、パソコンを起動して、この壁紙を見るのが私の楽しみである。
ミクのスカートが短過ぎないところも良い。
巡音ルカも、普通は、衣装の腰のスリットから脚が大きく露出しているが、この絵では、下に装着させた着衣によって、ほとんど脚の肌が露出していないのが良い。
私がそうであるが、ダンテの場合も、アンデルセンの場合も、彼らが愛した少女達に対し、性的な関心といったものは全くなかったと断言できる。

ところで、さっき述べたグローマン博士の言葉は、人間関係にとって良いものだ。
かつて、大リーグで活躍した投手、長谷川滋利さんは、元々は先発ピッチャーだったが、監督は中継ぎ投手にすることを決める。投手にとって、中継ぎは先発よりランクが落ち、先発から中継ぎに変わることを「中継降格」と言うほどだ。
監督は長谷川にこう言ったようだ。
「俺は毎日、お前のピッチングが見たい」
なんとも心憎い。長谷川が腐らずに、その後、大活躍し、後にクローザーに「昇格」し、オールスターゲームにまで出場できたのは、監督の、この心遣いある言葉の影響もあったのではないかと思う。
ただし、口先だけで言っても駄目である。
グローマン博士は、本当に池田満寿夫を高く評価していたし、長谷川の監督もそうだったはずである。









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クーエの自己暗示法が効かない理由

心と身体が全く同じものだと本当に分かれば、その人は大きく飛躍するし、人生の展望も開ける。
フランスにエミール・クーエ(1857-1926)という、自己暗示療法で知られる心理学者がいた。
彼の自己暗示法は現在でもよく知られているが、方法は実に簡単だ。
単に、「毎日、あらゆる面で、私はますます良くなっていく」と自分に言うだけである。
だが、これをやってみても、さしたる効果を感じられず、すぐにやめた人が多いと思う。
しかし、クーエは暗示療法しかしないのに(彼は医者ではない)、癌、心臓病はじめ、あらゆる病気を治し、曲がった骨すら真っ直ぐにしてしまった。それも、ほとんどの場合、その場でごく簡単にだ。ある患者は、自分で歩くこともできずに、クーエの治療所に担ぎ込まれたのに、10分後には走り回っていた。

キリスト並の奇跡を平然と起こすクーエと、同じことをやっても、さっぱり効果の出ない我々でどんな違いがあるのだろう。
私は、クーエや、彼の若い弟子でも、言葉を知らない赤ん坊を暗示療法で治してしまうということを知り、少し分かったように思った。
そして、哲学者で神学者でもある霊能力者のマード・マクドナルド・ベインが、クーエのことを述べているのを見て、またヒントを得た。ベインは、クーエは見えざる霊の助けを借りて治療を行ったと言う。ベイン自身が恐るべきヒーラー(霊的治療者)なので、当然よく分かるのだろう。
霊の助けで治療するとは、どういう意味であろうか?
ベインの説明を見て、1年くらい経って、ようやく私にも理解が訪れた。

身体と心はぴったり重なっているゆえに、同じものと考えて差し支えない。
よって、心を治せば身体も治る。
食べ物が身体を養うように、心を養うのであり、清らかな食物を適切な量食べれば、身体はどんどん良くなる。
身体の姿勢が悪ければ心も歪んでいる。
身体に何らかの疾患があれば、心に疾患があるのである。

「心身医学の父」と呼ばれるゲオルク・グロデックや、NLP(神経言語プログラミング)の開発者であるリチャード・バンドラーは、あらゆる病気は、たとえ器質性のものであろうと、全て心因性であると断言していた。
全くその通りで、心を治せば身体が治り、身体を治せば心も治る。
なら、クーエの自己暗示を使っても、肉や甘いものを大量に食べたり、姿勢が悪くて身体をぞんざいに扱っていては、効果がない訳ではないが、ひどく時間がかかるだろう。
また、現在は、世間には性的欲望を煽るものが溢れているが、いつも性欲を起こしていれば、心は汚れる一方で、それでは効果は望めない。

ところで、ベインが言った通り、クーエは実は霊的治療を行っていた。
ただし、そのことを、あまり神秘的に考える必要はない。
身体とほぼ一致する心を矯正すれば身体は治る。しかし、クーエは、それよりも深い部分である霊を治療したので、それが心を矯正し、結果、身体が一瞬で治るのである。
それを、クーエは霊の力で行った。
しかし、我々のように、霊能力がない場合はどうするのか?
訳はない。心を無にすれば、誰だって霊の身体である霊体に通じるのだ。
現在のNLPのことは分からないが、バンドラーは結果としてそれをやったのだ。彼のNLPは、一瞬、心を無にすることで、霊との扉を開くのである。最も、それゆえに、彼の治療効果は、あまり長期間続かないのではないかと思う。患者が、普段の心的状態に戻ると、やはり病気は再発するに違いない。だが、心を純粋に保つようにすれば、効果は永遠になる。

再度言うが、食物が身体を養うように心を養うのである。
よって、正しいものを正しい量食べれば、心も向上し、純粋になることで、霊との扉も開く。ところで、世間で言う霊障とは、実際は心のレベルのものである。心に欲望がなく純粋であれば、何も恐れることはない。
水野南北が、「食が全ての運命を決める」と言った意味が、これでよく分かったように思う。
ラマナ・マハルシは、良い食べ物として、「パン、フルーツ、野菜、ミルク」を挙げた。ただし、ミルクは、飼いならされた牛は、必要以上に乳を出すので、絞ってやらないと可哀想だからという理由もあった。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場するヒマラヤの大師(悟りを開いた聖者)は、パン、野菜、フルーツ、ナッツを食べていたという。
無論、日本人の場合は米、あるいは、麦も良いだろう。ただ、水野南北は米はいっさい食べず、麦飯を食べていたそうである。

霊のことを話せば長くなるので、今回は省略するが、まずは心である。それに、心が純粋になれば、自ずと霊の力の恩恵も得るだろう。
食を慎み、適度に身体を鍛えれば、心も純粋で逞しくなり、それに応じて良い成果を見るのは間違いがない。









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一番大切なものを一言で言うと

サン・テグジュペリの『星の王子様』の中で、よく知られている言葉に「本当に大切なものは目に見えない」というものがある。
本当に大切なものとは何だろう?
例えば、愛とか、英知とか、神といったものだろうか?

見えないが大切なものについで、ほんの少し述べてみよう。
20世紀初頭のイギリス人で、ダイアン・フォーチュンという名の女性がいた。作家で教育者でもあったが、魔法使いとして知られている。彼女の著書『神秘のカバラー』は我が国でも翻訳書がロングセラーを続けている。
私は、これを読んでいて、恐ろしく感じたことがある。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツが、『まだらの鳥』という小説で、絶世の美少女マーガレットに対し、「過ぎた美しさは、かえって哀れさを感じさせる」と述べていたが、その感覚が分かるように思えた。
あまりに凄い書は、恐ろしく感じるのである。

どう恐ろしかったのか、簡単に述べる。
この本の中で、フォーチュンは、誰かが「神とは何か」について語った言葉にひどく感銘を受けたことを述べていた。それは、「神とは、一言で言えば圧力なのだ」である。
私もまた、衝撃を感じたが、意味は分からなかった。
フォーチュンも、いちいち説明しなかった。
だが、確かに、説明無用かもしれない。
そして、この本は、そうは書かれていなかったが、それが基本方針となっていると感じた。それが、この本が他書と圧倒的に異なるものにしている。

これが、星の王子様が言った、「本当に大切なものは目に見えない」と重なるように思う。
圧力は、目には見えないが、存在しているのである。
モーゼに対し、神は「我は、在りて在るものである」と述べたが、神は、目には見えなくても、確実に存在している。

だが、これはまだ、呆然とした想いであった。
しかし、ラマナ・マハルシが言った、次の一言が決定打になった。
「悟りを表現することはできないが、悟りが存在することを指摘することはできる」
実際、この言葉を聞いた者は、身動き出来なくなって、その場にしばらくうずくまり、完全に別人となって去って行ったのだ。

フォーチュンの『神秘のカバラー』は、魔法という、言葉で説明するには絶望的に難しいことを詳細に述べているのであるが、言葉で表現出来ない部分は、その手がかりを読者に与えているのである。マハルシの言う通り、表現できなければ指摘するのである。
その手がかりがまさに素晴らしいのである。
容易い本とは言わないが、インドのヨーガも研究したイギリスの著名な魔法使いウィリアム・アーネスト・バトラーは、「魔法を志す者なら、必ず入手すべき本」と言ったものである。

「本当に大切なものは目に見えない」
「一言で言えば、神は圧力なのだ」
「悟りを表現することはできないが、悟りが存在することを指摘することはできる」
どの言葉も忘れがたいものであるが、この3つを知ることが出来る者は多くないに違いない。









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授業時間と教師の給料を半分にすれば日本の教育は良くなる

かなり多くの大学生が、基礎的な算数を理解していないとか、大人になっても基本的な日本語が使えないという深刻な事態であるらしい。
しかし、もっと深刻なことは、これを解消するために、授業時間を増やして学力向上を計るという、漫才のネタにするにも馬鹿過ぎることを本当にやる、国の教育屋の愚かさだ。
「二兎追う者は一兎も得ず」という言葉があるが、今の学校は「百兎追う者は一兎も得ず」の状態だということは言うまでも無い。
教師の雇用を守るために、狂気とも言える膨大なカリキュラムを子供に課し、生徒は何も身に付かないというのが真の問題だということは、当たり前過ぎて、いちいち言うほどのことでもない。
日本人の学力を向上させたければ、まず、授業時間は半分、教師の給料も半分にすることだ。これは冗談でも何でもない。単に自然的、合理的なことだ。
また、教師に免許などいらない。やりたい者にやらせればいい。勉強そのものは、上級生が下級生に教えればいい。それで、双方が本当の勉強が出来るだろう。

私は、上に述べたことを、出来る範囲でだが自分で実際にやった。
中学2年生で授業に参加することをやめた。聞いてもさっぱり分からないし、心の奥深くの感覚として、聞くべきでないと感じたのだ。
岡本太郎は、授業中、耳を堅く両手で塞ぎ、神聖な頭脳に教師の汚れた声が入ってくることを赦さなかったというが、気持ちが分かるのである。
とはいえ、勉強が不要とは思っていなかったので、学校のカリキュラムを一応は利用したが、勉強する科目は自分で選んだ。選択したのは、数学、理科、英語だった。全て、参考書で独学した。試験で点数を取ることは問題ではなく、基礎を本当に理解することを目指した。
勉強することにした科目は、そこそこの成績だったが、その他の科目は教科書も一切開かず、ノートの提出も、夏休みの宿題も一切やらなかった。すると、学校からの陰湿な嫌がらせから始まり、果ては、中学生の身には耐え難い恐ろしい目に遭わされたが耐えた。ただ、精神に破綻をきたす可能性があるので(私も実際は破綻したのだろう)、他の方にはお薦めしない。学校と言うのは、子供の心や頭脳を破壊することなど、何とも思っていない。
アインシュタインは、暗記科目が苦手だったので大学の入試に失敗したように言われるが、それは違う。彼の記憶力は悪くない。ただ、彼は、頭に詰め込むべきでないことを無理に憶えることを拒否しただけだ。彼もまた、学校には相当嫌な目に遭わされたらしく、自伝ノートに、学校は子供の知的好奇心を窒息させようとしていると書いている。

しかし、甲斐あって、私は、基礎的な学力は十分に得たと思う。
大した勉強はしなかったが、本当の基礎をマスターしたこと、そして、独学の習慣を得たことは最大の成果だった。
例えば、数学の能力が必要になれば、数学者の遠山啓さんが翻訳執筆した『科学を志す人のための基礎数学 』で少し勉強すれば、すぐに必要を満たせた。

現在は大女優になったジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。物語は、リンという少女の14歳に誕生日から始まる。私の誕生日と同じ、10月の31日だった。彼女は、学校に通ってなかった。自分の意志で学校を拒否したのだ。そのことで、大人達は彼女を責めたり不快な思いをさせるが、彼女には戦う覚悟があった。
その彼女に、マリオという16歳のボーイフレンドができる。マリオは、自分の母親とは比較にならないくらい料理が上手なリンに驚くが、リンは笑って言う。「私、文字が読めるのよ」。
リンには素晴らしい知性と教養があった。学ぶべきことは自分で選んで決め、熱心に勉強していた。著名な詩人であった父親は彼女にかつて言った。「大人は個性的なお前を認めないだろう。だが、言いなりになってはならない。戦うのだ」と。
私は、この『白い家の少女』の原作小説も読んだ。高校生の時だった。ところが、割と最近気付いたのだが、翻訳者は英文学者で詩人、そして、画家でもある加島祥造さんだ。そして、加島祥造さんはタオイスト(老荘思想家)で、老子や荘子の本も沢山書いている。私は、それが加島祥造さんだとは知らず、彼が書いた『白い家の少女』のあとがきが素晴らしかったことを覚えている。世間の教義や信念に屈せず、純粋な自己の内面を尊重する精神を持ったイギリスの15歳の普通の少女の詩を紹介していたように思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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