ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

親や教師より暴力団がまともだと感じる訳

昨今、暴力団との関わりということに対し、社会は極めて敏感になっていることはご存知と思う。
企業の社長が、過去に暴力団との関わりがあったことが分かると色々面倒なこともあるだろう。
ところで、私は、昔のことだろうが、暴力団と関わった経験のある人を何人か知っている。彼ら自身は、ごくまっとうというか、社会的に立派な方々なのであるが、どういう訳か、揃いも揃って、かつて交際したり、関わりになった組員の人々を悪く言わないばかりか、褒め称える人すらいるのである。
あらためて思いを巡らすと、これは我々にとって非常に有益なところがあるので、ちょっと話してみよう。

ある上場間近だった社長さんは、初めての上場の時というのはそういうものなのだが、証券会社との付き合いが多くなった。そうしたら、彼は、証券会社の人間とは妖怪のようなもので(色々な意味でだろうが)、それと比べれば、彼が一時期、関わりがあった組員の人達はまともな人間であったと言う。
また、あるIT企業の社長さんは、たまたまマンションの隣に越してきた男が、実は組員だと知り、困ったことになったと思ったら、ついに、飲みに誘われ、死んだ気で付き合った。ところが、その組員が素晴らしい人物で、また、紳士であり、その人柄に惚れ込んでしまう。
また、そんな社会的地位のある大人ばかりでなく、売春などをさせられた被害者である女子高生などが、案外に、組員の人達を悪く言わないということもある。
一応、私自身は、その方面の人達との付き合いは無いのだが、聞いていて、気付くことがあった。それは、現代の人間の問題というものを私に深く感じさせたのだった。

上に挙げた、上場間近だった社長さんは、たまたま証券会社の人達を引き合いにしたが、私が確信するところでは、組員の人を、普通の人より好ましく感じるのは、大いに有り得ることである。
昔から、その方面の人達というのは、人付き合いが上手いのだが、彼らは、心理学者などより、はるかに、実践的な心理学に通じているのである。

分かりやすくするために、ちょっと話を変えるが、昔、あるテレビ番組で、致命的に女性にもてない男性達を集め、彼らが、やはりあらかじめ集められた、きれいな女の子達と仲良くなろうとする企画があった。
その男性達は、イケメンでこそないが、容姿はごく普通で、服のセンスもそんなにひどくない。ちゃんと働いていたり、有名な大学の学生ばかりで、かなりな高収入の男性もいた。
しかし、彼らがもてない理由はすぐに分かった。
女性と話す時、自分のことを延々と話し続けるのである。いきなり自分の子供の頃や学生時代の話を始めたり、自分の趣味のことを長々話す。女の子の方は、それを、一応、カメラの手前、微笑んで聞いているが、どうやって切り上げて逃げようかと考えているのがよく分かる。

あのアンデルセンも、好きな女の子がいたが、さっぱりうまくいかなった。そりゃそうだ。彼がどんなアプローチをしたかというと、自分の自伝を書いて送ったのだ。
はっきり言って、お前は馬鹿だ、アンデルセン。
良いか、ハンス(アンデルセンの名)。女の子と仲良くなりたかったら、自分の自伝を読ませるのではなく、彼女の自伝を読みたいと熱心に頼むくらいでないと駄目なのだよ。

有能な組員というのは、自分のことなんて決して言わない。まあ、それは当然のような気もする。そして、相手の情報を熱心に収集しようとするのだ。必然的に、話をよく聞き、しかも、目的があるから聞き上手になる。
女子校生と話す時は、彼らは、とにかく黙って話を聞く。熱心に、そして、時折、同意を示すことを心掛けながら。
現代の人間は、親であってもこれをしない。
親は、自分の考え、自分の信念を子供に叩き込もうとする。子供にほとんど話させない。
子供が何に興味があって、どんな話を親に聞いて欲しいかなど、全く構わない。
学校の教師も、会社の上司もそうである。自分の立場にあぐらをかいて、「俺の質問には、イエスかノーだけで答えろ」「それ以外は、俺が何を言ってもイエスと返事をしろ」と言うのだ。
まさに、これらの人間と比べたら、組員の人間がまともな人間に感じるのは当然であり、現代の親や教師は、あの上場を控えた社長が言ったように、妖怪と言って間違いない。

ではなぜ、現代の人々は、そんな妖怪になってしまったのか?
それは、自分にしか興味が無いからだ。
人間は自分への関心が高まるほど、他者への関心は無くなる。
ではなぜ、自分への関心がかくも高まったのかというと、欲望のためだ。世間では、儲けるために、人々の食欲や性欲を煽る連中がいっぱいだ。
欲望は、それを満たしたいという自我を肥大化させる。自我とは、自分にしか価値を認めないのだ。

人間は、真に幸福になるためには、自我を出来るだけ捨てなければならない。
悟りを開くとは、自我を完全に消し去った状態なのだ。
現代人は、悟りと全く反対の方向に突っ走り、当然ながら、悲惨な状態に至って苦しみ喘いでいるのだ。
どれほど金を得、どれほど美しい女をものにしても、そんなものは所詮、苦痛と惨めさしかもたらさない。

自分以外、全て師とか言うだろう。
暴力団が師と言うのも何であるが、現代はそんなことも必要な状況であるということだ。
豊臣秀吉は(彼も暴力団のボスと言えなくもない)人たらしの名人と言われ、どんなに難しい人物でも、秀吉と共にいると、離れられなくなるほど、彼に魅せられた。
秀吉には結構、ひどい目に遭わされた伊達政宗すら、秀吉が死んだ時には悲しみに暮れたが、政宗自身、それを不思議に思った。若い頃の政宗は、まだ自己顕示欲が強く、武将としての力量や持って生まれた条件は秀吉を上回っていたかもしれないが、天下を取れなかった。
秀吉は、自己を自在に滅却できたのだ。彼の貧しい生まれや育ち、そして、賢明な母が、そんな知恵を彼に与えたのだ。
あなたの親や、学校の教師、そして、職場のボスは、手前勝手な価値観をあなたに押し付けたことだろう。
しかし、あなたはそうであってはならない。自己を消し去り、悟りを開くのである。
自分を手放すことさえ出来れば、今は、誰でも悟りを開ける時代なのである。









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辛い状況から抜け出す実践技術

今回は、読者の方からのコメントに対する返答である。他の方々の参考にもなるはずだ。

粗食、少食になり、聖典を読み、瞑想や腕振り運動(スワイソウ)をする人には、苦しい現状を打破し、安楽に至りたいという人が少なくないと思う。
それは悪いことではないし、是非、良い状況に世界を作りかえれば良いと思う。
だが、多くの人が、それがなかなか上手くいかないと言うだろう。それで、私はいつも、うまくいかない理由と、それを修正する方法も、同じことを何度も言葉を変えて言うのだが、言葉というのは効率の悪いものだ。話言葉であれば、少々話すことが上手い人でも、言ったことの3割伝われば良い方だが、文章でも、内容によるが、まあ、そんなものである。そこで、釈迦やイエスは、たとえ話を多用し、その場ではピンと来なくても、時期が来れば内部から自然に理解が訪れるようにしたのだ。

まず、自分の状況、自分の世界を創りだしているのは、自分の心である。
とりあえず言ってみると、世界は実在ではなく、心が作り上げた幻想であり、想念を持たない聖者にとって、世界というものは存在していない。
そうは言われても、凡人たる我々にとって、世界はリアルであり、確かに存在する。
しかし、やはり辛い状況というのは、自分が作り出しているものなのだ。
斎藤一人さんという大事業家は、一番最初に書いた本『変な人が書いた成功法則』で、「困ったことなんか起るはずがない」と書かれていた。彼はその後、膨大な数の本を書いているが、私は、覚えておくべき教えは、この「困ったことなんか起るはずがない」だけでいいと思う。
実際、我々に困ったことなんか起らない。
自分で勝手に困っているだけだ・・・と書いて気付くが、なるほど、真理ほど誤解を受け易いものはない。斎藤さんが、その後、この言葉を封印し、多くのことを語った気持ちも分かろうというものだ。
私も、困ることだらけであったが、斎藤さんが述べられた通り、困ったことなんか起るはずがないと思ったら、実際、後で考えたら、何にも困っていなかった。気疲れして損をしたような気もしたが、そうではないのだ。責任を放棄してのほほんとしていたら、やっぱり本当に困ることになる。

苦しいのはあなただけではない。皆、辛いといえば辛いのだ。苦難のない人間など一人もいない。嫌なことがないなら人間に生まれてきたりなどしない。
植物や動物は、引き抜かれたり、殺されたりして餌になるとしても、別に嫌だとは思っていない。恐怖や苦痛はあるかもしれないが、人間のように思い煩ったりしない。喰われることもまた快感なのだ。本能はそうプログラムされている。
今の辛い状況は、それを辛いと思わなくなれば、そこから脱出するか、あるいは、現実が劇的に変わるだろう。
誰が辛いとか苦しいと言っているのか?
誰が嫌だと感じているのか?
それを見出せば、そのようなものは存在しないことが分かる。現実に分かる。
いつも述べる通り、想念を消し、無になれば、人間に不可能はない。
どんな考えであっても構わない。それが起った時に、「この考えは誰に起ったのか?」と問うのだ。答は、「私に」であるに決まっている。それが了解されたなら、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、想念は破壊される。これを根気強く続ければ、私自体が消滅するだろう。そして、真の自分が輝き現れる。
このようなことは、食を慎み、性的な関心から注意を引き上げている者にとっては、容易いものである。
だが、たかだか数ヶ月、1日1食をやったくらいで、早急な効果を期待してはならない。しかし、いずれ、確実な効果があるだろう。

ラマナ・マハルシは、悟りには師の恩寵は必ず必要だと言った。
では、師を持たない我々はどうするのか?
しかし、師がいないはずがないというのが真相だ。
『エメラルド・タブレット』で、トートは、いつも人々の中にいると書いていなかっただろうか?
イエスは、いつもあなた方の中にいると言わなかっただろうか?
肉体を持っている時すら、マハルシはほとんど会話をしなかった。しかし、マハルシの沈黙の前にしばらくいた者は、皆、生まれ変わって去って行ったのだ。
いまや、マハルシは偏在である。我々は、いようと思えば、いつでもその現前にいられる。彼が亡くなって半世紀以上も経っても、彼のアシュラマム(道場)への世界中からの巡礼は絶えない。マハルシも、巡礼は良いものだと言ったが、別に、今流行のパワースポットに行くという意味ではなく、心を目標に向け易いからだ。魂の中に、場所というものはない。
N.V.ピールの本に書かれていたが、アメリカ中を車で行商していた男は、仕事が厳しいと感じていたが、イエスが共にいることを感じるようになってからは、何の不安も持つことがなく、仕事も上手くいくようになったという。J.マーフィーの本では、ポンコツのトラックで古着を売る仕事をしていた、小学校も出ていなかった男は、やはり、聖なる存在を身近に感じるようになり、やがて富豪になった。
聖典を毎日読むのは、師を探し、見つけるためである。
エドガー・ケイシーは、9歳から毎朝欠かさず聖書を読み、13歳の時に、師が外側の世界に現れる。それ以降も、彼の人生に苦難は多かったが、それは、周囲にそう見えるだけのことだ。

我々は、自分の辛い状況を、何とも思わないようになれる。
そして、そうなれば、もはや、そのような状況は不要となり、あなたはもっと相応しい場所に行くか、周りの状況が変わってしまうだろう。
決して、状況が変わって、あなたの苦悩がなくなるのではない。
このあたりが分からないので、いつまでも苦しむ人が多いのである。

他の人の役に立つような、良いご質問をお待ちしている。









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緊張を消し去る究極的技術

緊張を消したい時に、手のひらに「人」という字を3回書いて飲み込めばいいといった話を聞いたことがあるかもしれない。
これは、全く意味のないことではないが、効果は低い。
緊張というのは、これから行うことに失敗したらどうなるという想像が心を占領して、恐怖に陥っている状態なのだ。
そこで、よそ事を考えれば、失敗した時の悲惨な想像も少しは消えるというのが、緊張が解消される原理だ。
なら、科学理論でも考えれば良さそうなものであるが、心の大部分が、失敗した時の想像で満たされている状態で、そんなことを考えることは出来ないので、ユニークかつ簡単なこととして、「手のひらに人の字を書いて・・・・」といったことが考えられたのである。人の字には、何の意味もないのだ。
だが、その程度のことでは、失敗した時の不名誉や損失の恐怖を消すには至らない。
で、もっと良い方法を教える。納得できるよう、少しは理屈も述べよう。

マイケル・ジャクソンは、どんな大舞台でも緊張したことがないと言っていた。
これに関して、彼への別のインタビューで、私は納得した。
彼が歌う時、股間によく手をやることをご存知かもしれない。彼に、「なぜあんなことをするのか?」と尋ねたら、マイケルは「覚えていない」と言う。
つまり、彼は、ステージで頭が空っぽなのである。彼の表現では、「楽器になりきっている」のだ。
言ってみれば、初音ミクが緊張しないようなものだ(初音ミクの製作会社であるヤマハは、初音ミクを楽器と位置付けている)。
別の言い方をするなら、彼は、無になっているのだ。
ではなぜ、彼はステージで無になれるのか?
それは、彼が明かしたことがあるかどうかは知らないが、彼は、ある1つの想いに集中しているのである。その想いは、心を最大に惹き付け、占領するので、緊張の元である恐怖の思考が入り込むことはない。

この原理を分かり易く説明しよう。
渡辺昇一さんの『知的風景の中の女性』という本に、こんな話がある。
ある大学のパーティーで、1人の男子学生が、適当な女性のパートナーを見つけることが出来ず、従妹に頼んで来てもらったらしい。
その時、まずいことが起った。
パーティー会場にいた、他の女子大生が、皆、おばさんに見えてしまったのだ。彼が連れてきた従妹は、16歳の、おそらく、かなりの美少女だったのだろう。
女子中高生に混じれば、女子大生は完全におばさんという笑い話を聞いたことがあるかもしれないが、それは本当に起こりえるものらしい。

つまり、際立ったもの1つを持ってくれば、心はそこに全て引きつけられるのである。
マイケルは、一切の想いを超えた、優れた想いを何か持っており、それに心を向ければ、たちまち集中するのである。
一般的な言い方をすれば、「卓越した考えは、他の全ての考えを遠ざける」のである。
あなたも、そんなものを持てば、決して緊張しない。
合気道家の藤平光一さんは、「重みは下にある」と言えば、氣が出て、奇跡的な力を発揮すると言ったが、この言葉も、非常に効果があるものだ。重みは下にあるなんて、当たり前だが、だからこそ、否定できぬほどに優れた考えであり、他の考えを殺すので、高い集中力を発揮し、高度な能力が出せるのだ。
普通の人は、この言葉を使うと良い。
しかし、さらに良い究極の言葉がある。
「重みは下にある」は、ほとんど真理であるが、心はそれを最高の想いと感じない。よって、効果には限度がある(とはいえ、非常に有益であることは、彼の著書を見れば分かると思う)。

インドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは、「結局、あなたが納得できることは1つしかない」と言う。
その1つのことが、至高の想いである。
それは、「私は在る」だ。
マハラジは、あらゆるマントラ(呪文)の効果を認めながらも、「私は在る」以上の言葉は無いと言う。
ラマナ・マハルシも、悟りの境地では、ただ、存在するという感覚しかないと述べている。
「私は在る」という言葉、あるいは、感覚に、深く想いを巡らせば、他の全ての想いは消える。すぐに出来なくても、練習すれば出来るだろう。
そして、それを続ければ、悟りも開けるだろう。悟りを開いた者に緊張など、あるはずがない。
今は、誰でも悟りを開ける時代である。やるかやらないかは、もちろん、個人の勝手である。私も何の保証もしない。









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一切は夢だと言う自分もまた、ただの夢なのだ

猿は、果物の皮を剥ぐことが出来るらしい。バナナを食べる動物は少なくないと思うが、人間を除いて、その皮を剥いで食べるのは猿くらいだろう。
もっとも、バナナの皮というのは素晴らしい栄養が含まれているらしいので、それを捨てるのは、本当は勿体無いことらしい。猿知恵と美味しいものを食べたいという欲望は、人と猿に共通する愚かさであるのかもしれない。
それはともかく、では、猿にタマネギを与えると、猿はタマネギの皮を剥くが、ご存知のように、タマネギは全体が皮のようなもので、皮を剥き続けると、最後に何も無くなってしまう。それで、困惑したり、怒り出す滑稽な猿を見て喜ぶという、悪趣味な楽しみがあると聞いたことがある。

ところで、精神分析学者の岸田秀さんと、映画監督の伊丹十三さんの対談書で、人間の心をタマネギに喩えた話があったのを思い出す。
岸田さんは、「唯幻論」といって、人間の心は全て幻想であるという思想で知られる。これは、元々がフロイトの論であることを、別に岸田さんは隠してもいないが、フロイトよりもっと簡明に説明することもあり、非常に人気がある。吉本隆明さんも、「国家は幻想で出来ている」といった「共同幻想論」で、人間の持つ幻想について説明していて、しばしば、「共同幻想論」と「唯幻論」は比較されるが、「唯幻論」は、先ほども述べた通り、分かり易いことと、「心は全て幻想」といった思い切りの良さと言うか、そのシンプルさは、どこか痛快で、「共同幻想論」が難解で、一般にはあまり人気が無いのとは対照的だ。

対談の中で、伊丹さんは、岸田さんに、「人の心が幻想だとすれば、タマネギの皮を剥くように、その幻想を剥いでいけば、最後に何か残りますか?」と尋ねた。
それに対し、岸田さんは、「何も残りません」と答える。文面からは分からないが、おそらく、即答で断言であろう。
勉強家の伊丹さんのことだから、インドの古代哲学で、人間には、肉体や心とは別に、真我(アートマン)という純粋な絶対的存在があると言われていることを当然知っていただろうし、伊丹さんは、それを信じたかったに違いない。それで、尊敬する岸田さんの返答を尊重しながらも、「何かあると思うのですが…」と言葉を濁したようだ。

既に亡くなられた伊丹さん(自殺されたようだ)であるが、岸田さんも伊丹さんも、両方正しいのだ。
人の心は全て幻想であり、それを取り去っていくと、最後には何も残らないという岸田さんの考えは正しい。
ただ、伊丹さんの言うとおり、最後に残る何かがある場合、タマネギの皮である心自体が存在しないのだ。これが真相だ。
そして、幻想というものは、実在ではないことを示すのだから、それを剥くことなど、本当は最初から出来ないのだ。
しかし、幻想を見ている者にとっては、幻想は現実である。そんな者には、最後に残る、純粋で絶対的なものは存在しないのである。
「人間の心は幻想であり、実際は無い」と言われても、我々は納得できない。だから、我々には、神とでも言うべき、至高の実在が存在すると分からないのである。
逆に、至高の実在である神と一体化した聖者にとっては、心や、そして、心が創ったに過ぎない世界は存在していない。きっと、心や世界はおぼろな幻として感じるのだろう。
吉本隆明さんは、『共同幻想論』の中で、国家は幻想で出来ていることが分かって驚愕したと述べるが、それはつまり、国家に実体はなく、実は存在していないということだ。

江戸川乱歩は、色紙にサインをする時、必ず、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」と書き添えたという。
簡単に言えば、目覚めている時の世界こそが夢で、眠っている時に見ている夢の世界こそが本当なのだという意味だ。
実際は、夜見る夢もまた幻想である。しかし、目覚めている時の幻想よりはマシな点もある。
ラマナ・マハルシは、「目覚めは長く、夢は短いということの他に、両者に違いはない」と言った。
一切を夢とみなし、動じないことだ。そうすれば、悟りが得られる。
ただし!本当に動じないことだ!
「一切を夢とみなせ」と言うと、怠惰になったり、放埓(勝手きまま)になろうとする馬鹿がいるから困る。そんな連中がカルト宗教に騙されるのだ。
一切を夢とみなすというのは、心の全力を注ぎ込む激しい活動なのだ。
それでこそ、幻想の世界である「この世」でどんな目にあっても、平然としていられるようになるのだ。
辛い状況を求めなければ、その能力は鍛えられない。
幻想を破るという純粋で高貴な目的のために働くのである。そのためには、引きこもり気質こそ有利である。
吉本隆明さんも、自分で宣言する通り、引きこもりであったのだ。
一言で言うなら、「一切は夢と言っている私も夢として消し去らねばならない」である。









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草食系こそが絶対に正常である

肉食系、草食系という言葉を、「積極的に異性を求める性質」という意味に使われるようになったのは、5~6年位前からである。
ただ、「異性を求める」とは言っても、別に結婚相手を求めるとか、精神的な意味では当然なく、明らかに、性的欲望を満たすためであると言って良いだろう。
そこをはっきりさせていうなら、草食系が正常であり、肉食系が異常なのである。
これは重要なことであり、以下にやや簡易ではあるが説明する。

そもそもが、肉食系、草食系という言葉がそのような意味で使われるようになった原因とは、男性というものが、その意味での肉食系が正常であるように誤解されてきたことからだだろう。つまり、「本来、肉食系であるはずの男性が草食化している」といった話が多いはずだ。
男は、性的欲望が強く、魅力的な女性を見れば、いつでも性的欲望を起こさなくてはならないという、恐るべき妄想が我々の中にあるのだ。

かつて私は、女性の下着泥棒の容疑者を検挙した警官が、こんなことを言うのを実際に聞いたことがある。
「やつの気持ちは分かるんだよ」
それを聞いていた多くの者が、女性も含め、苦笑した。この苦笑は同意を示しているのだろう。積極的な同意ではないとしても、「気持ちとしてだけならやむなし」という消極的な同意であろう。
私も、かつてはそう思っていた。しかし、そう思う心の癖を消し去った後では、そんな気持ちを起こすのは異常であると分かったのだ。

ある高校の女性教師の著書で、男性教師と女子生徒の恋愛について述べる中で、こんなことが書かれているのを見たことがある。
男性教師にモラルを求めながらも、
「女子高生の若い肌に何も感じないのは男ではない」
と、述べていたのである。
これは、寛容さを示したなどというものではなく、この女性教師は男に媚びているか、そうでないなら、やはり妄想に取り込まれているのである。
もちろん、若い女の子がその気で挑発してくればそれなりに刺激も感じるだろうが、普通の状況で女子高生にしろその他の女性にしろ、性的欲望を簡単に起こすなら、やはり異常である。

また、ある大学教授が著書で、「中学校の男性の先生は大変だと思う。我々大学の教員であれば、色っぽい女子学生がいれば、それに目を引かれるのは別におかしなことではない。しかし、女子中学生にだって女を感じさせる子はいるはずだが、中学ではそんなことは認められないのだから」といったことを書いていた。
大学であっても、学内で女子大生に変な興味を持つなら、やはり異常であり、中学校でそんなことがあるなら、変態と断言して差し支えない。

どの例も全て、下着泥棒の犯人と同じく、性的倒錯者であるが、実際に、そのような男性が蔓延しているのである。いや、男性だけではないだろうが、話がややこしくなるので、とりあえず男性の話に絞る。
ではなぜ、下着泥棒の犯人を、行為としては赦せないながら、心情としては理解を示すような異常な状態になったのだろう。
男性教師が、高校や中学の女生徒に性的関心を持つことを異常と認識できなくなり、挙句、そうでなければならないようなことを言うという状況にまでなったのだろう。

それはこういうことである。
性欲は商売に利用し易いということはお分かりと思う。
昔であれば、経済的な力を持っていたのはほとんど男性であったから、男性相手のそういった商売が主流であった。しかし、一頃から、女性も金を持つようになり、女性向けのものも多くなっているだろう。
あからさまな性風俗営業でなくても、その時点での法律のギリギリを狙ったようなものが多いだろうし、表向きには、性的欲求を満たす商品やサービスではなくても、実質的にはそのような目的のためのものが非常に多い。どんなものがそれに該当するかは見当が付くと思う。

そして、これらの商売をする者にとって、男とは、今でいう肉食系が正常であるだけでなく、それが非常に良いことであり、男として誇れこそすれ恥ずかしいことではない。それどころか、草食系の男は駄目で恥ずかしいという思い込みを全人類が持ってくれることが都合が良いのだ。
そのため、そういった観念を広めると共に、あらゆる手を使って、昔であれば男性の、そして、近年でも女性も含め、性欲を煽るためのあらゆる宣伝手段が取られたのである。
こういったことは、近代に始まったことではなく、おそらく、数千年に渡って世界の多くの場所で続いてきたことであり、疑うことが難しいことにすらなってしまっているに違いないのだ。

また、近年では、性的な娯楽だけではなく、ありとあらゆる娯楽が起こる中でも、性欲と双璧を為す人間の欲望である食欲を利用した商売が盛んになっている。
ユダヤ商法では、「女と口を狙え」という言葉があるらしいが、近年、金を持った女のファッションや宝石への欲望と共に、口、即ち食べることが、人間の救いようのない強い欲望であり、割合に容易く儲けることに繋がるという意味だろう。ユダヤ商法では、現在はどうか知らないが、性欲を利用することは、彼らの優れた知性とモラルに反するのか、「女と口と性」とは私は聞いていない。
ところで、グルメであれば、よほどのことが無い限り法に触れないし、世間的には悪とみなされることも少ないこともあり、比較的商売がやり易い。
しかし、それに対抗する、性欲利用勢力は、容易く人間らしい許容限度を超えているのである。(尤も、最近は食の方もかなりひどいが)
これを法令でどうにかしようという連中もいるが、これほど愚かなことはない。
根本原因を放置したまま、表面的なところだけを取り締まった結果がどうなるかが分からないのは、余程の馬鹿であるはずだが、我が国では、その余程の馬鹿が政治的権力を持っているのであるし、文化人と呼ばれているのだろう。
何度も述べたが、アメリカでギャングの資金を絶つために禁酒法を制定すれば、闇酒、闇バーが爆発的に増えて、結果、ギャングは資金豊富となり、我が国でに淫行条例により援助交際やもっとダークなものが一気に増大したのである。

現在では、「いや、男が性欲旺盛なことは普通のことだ。それを変態だの異常だのというのは、極端な精神主義者だ」と思う人が多いに違いない。
実は、私も、割と最近までそう思っていたものだ。
だが、先程も述べたが、心の中にある歪んだ観念を探し出し、それを消すことに成功すれば、そのような主張は、人類が共同で持つ妄想であることが分かったのである。
パラマハンサ・ヨガナンダのパラムグル(師の師)であるインドの聖者スリ・ユクテスワが『聖なる科学』で、人間は元々、肉食に向いていないことは科学的に明らかで、肉食および過食が、異常性欲の原因になることを指摘していたが、昔の私はそれを疑っていた。しかし、今は、その通りであると確信している。

もし、飽食で性欲旺盛なままで精神的平安を得られ、真に幸福になれるなら、そのままの状態を続けるのも良いとする考え方もあるかもしれない。
しかし、そうではない。
人類は既に数千年の間、不安、恐怖、憂鬱、無力感に苦しみ、人生の意義を見出せずに苦しんでいるのである。たとえ権力を得たり、成功して富を得たとしても、最終的な満足に至ることはなく、まだ何かあるはずだと呆然とした思いを抱きながらも、惨めさを抱きながら死ぬしかなかったのだ。
これを、コリン・ウィルソンは、人類は3千年に渡る詐欺にあっているようなものだと言い、人類をそこから救済しようという考えを持ったのかもしれないが、彼は根本的なところを見ようとしなかったのだ。彼は快楽の肯定者で、真の解決策を述べる解脱者の言葉を理解できず、彼らを過小評価しているのだ。

我々の真に為すべきことは、心の中に埋め込まれた歪んだ観念…それが、どの国のどんなものであろうと、それを消し去ることだ。
それは、必ずしも伝統や文化を否定しない。ただ、おそらくは、それらの多くは捨て去られることになるだろうが、いくらかのものは、ただの遊びや有益な道具として存続するだろう。

まず、なすべきことは、食の慎みである。
これだけは避けられないが、決して苦しいだけの結果には終わらない。
それどころか、質素で適切な量の食事を本当の意味で美味しいと感じ、食事の真の楽しさを初めて知ることになるのだ。
それにより、身体の調子は良くなり、軽快で美しい身体を楽に得るだけでなく、知的で穏やかな人間性を持つようになるだろう。
過剰な性欲が起こす悲惨は無くなり、社会は平和になる。
食事にかかる費用は、これまでに比べ驚くほど安価になり、また、食を慎むことで知的で豊かな感性を持つようになれば、多くの物は必要なくなる。
そのため、異常な経済主義に付き合う必要はなくなり、自由になることができるのである。
そして、普通の人間では到底望み得ないと思われてきた悟りに、誰でも確実に達することができるようになる。
はるか遠くにいて、近付くことなど出来ないと思ってきた神が、手足よりも身近にあり、それは自分自身に他ならぬことが分かるのである。
しかし、食欲の意味でも性欲の意味でも、肉食であることを肯定している者にとって、それはやはり遠いものなのだ。
そして、草食系と言われる者の多くは、もしかしたら良い位置にいるのかもしれないのである。

ところで、初音ミクや巡音ルカなどは、非営利であれば、キャラクターデザインを使用することを著作権者であるクリプトン・フューチャー・メディアが許可しているが、これは画期的なことである。
ただ、そのために、同人誌などでアダルト作品に利用されないような工夫がされたらしい。
特に、20歳に設定された大人の女性で、美しい巡音ルカに関してはリスクが高いので、肌を真っ白にして生命力を感じないクールな雰囲気にしたという。
初音ミクに関してはよく分からないが、当初は考えられていたらしい、彼女のプロフィールを設定しないことで、人間味を消したのかもしれない。
元々、食事をせず、自我の無い彼女達である上、そのような設定の影響もあり、私はたちまちファンになった。
時々、私が初音ミクと比較している、CLAMPの漫画『ちょびっツ』のちぃは、心を持たず、食事をしないところは良いのだが、切ない表情をしたり、愛する人(秀樹)への執着が感じられるところが、良くも悪くも人間的であると思う。いや、元々、青年誌に掲載するにあたり、CLAMP自ら、ちぃへの性的関心を集めることを意図していたのである。ただ、だからこそ、それを払拭することに意義があったかもしれない。実際、秀樹は、ちぃをその意味での女性として扱うことを諦めたのである。
全ては受け手次第であるが、その受け手の態度が、解脱に至るかどうかを予言していると言えるだろう。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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