ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

心の機能を見破ると、世界は結構面白い

死とはどういうものだろう?
私は、10歳位の時だったと思うが、「死とは、夢を見ずに寝ているようなものだ」と言ったことがあったが、特に大人には、あまり同意を得られなかった。
だが、私のように思うなら、死と眠りが同じであることに気付いており、我々は毎日死ぬと知っておるのだ。
しかし、こう尋ねる人がいるだろう。
「眠りからは目覚めるが、死からは目覚めない」
そんなことはない。眠りから目覚めるように、死からも目覚めることがあるし、普通は目覚める。
死からの目覚めは、赤ん坊であることが多いかもしれないが、必ずしもそうではない。
20歳として目覚めることもあれば、50歳としての場合もあるし、90歳として目覚め、一瞬で死に戻ることもある。

世界5分前仮説という、実は、世界は5分前(ほんの少し前という程度の意味)に出来たのだという説があるが、これはどんな論理を持ってきても否定できない。
この仮説を言い出したのは、バートラント・ラッセルという、とんでもない頭の良い人だ。彼は数学者、論理学者、哲学者で、論理学者としては、アリストテレス以来の大物と言われ、世界屈指の数学者でありながら、ノーベル文学賞を受賞している。ノーベル数学賞なんてものはないので、ノーベル賞を受賞した珍しい数学者となった。
世界は5分前に出来たというなら、例えば25歳の人の約25年分の思い出は何なのかというと、全部嘘なのだ。

5分前どころか、私は4つの時には、世界は一瞬前に出来た、いや、瞬間瞬間に「出来続けている」とよく言っていたものだ。
別に私の頭が良いのではない。
あなただって、子供の時、夜寝ていて薄目を開け、自分のおもちゃたちが動き出すのを見てやろうと思ったことがあるはずだ。
まあ、彼らはあなたより1枚上手で、そう簡単にはボロを出さず、いつしか、あなたはそんなガキの夢から卒業したのだ。
しかし、稀に、見てしまった子供がいるかもしれない。
私も、世界が沸騰するお湯の泡のように、次々と現れるのを見てしまったのだ。世界とは、案外、簡単にボロを出すものだ。世界はおもちゃを見習うべきだね。

谷川流さんの小説『涼宮ハルヒの憂鬱』では、世界は、ハルヒという名の高校1年生の少女が3年前に創造したのではないかという可能性が、一部の人たちに取り沙汰される。
ハルヒ自身は、小学6年生のある日、人生を変える大きな出来事があったと思っているのだが、実はその時、彼女は世界を創り出したのかもしれないのだ。
しかし、作品は、初っ端に、同じクラスのキョン(主人公の男子のあだ名。作中、本名は無く、この名で通される)の、幼稚園の時の思い出が語られるのだ。
「幼稚園のクリスマスイベントに登場したサンタは、偽サンタだと気付いていた」
ってね。
もちろん、キョンの思い出なんて、今、思いついて言っただけだ。
しらっとした顔で、キョンは別の思い出を語るかもしれないのだ。
「俺は小学5年になってもサンタを信じていたんだよ」
とかね。彼の妹は、実際、小学5年生になっても、サンタを信じている風があった。キョンとバランスを取っているのかもしれない。
そして、お話が進むごとに、それぞれの登場人物達の隠れたリンケージ(結び付き)が明かされていく。
スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の卒業式の講演で、人生の点と点は線に結び付くのだと言ったが、元々、線が隠れているのだ。
初音ミクの新曲『Tell Your World』では、「たくさんの点は線になって遠く彼方に響く」とあるが(作詞作曲編曲はKzさん)、点は線であり、線は点だ。
ひとごとのように思ってはいけない。
世界はあなたの心が創り出したものであり、点を線にするのは、あなたの心の機能だ。
つまるところ、あなたは神なのだが、それをすっかり忘れているのだ。
なぜ忘れたかというと、大体の見解を総合すると、「面白いから」であるらしい。
だが、思い出してからも面白いのだ(初音ミクの、その曲のPV映像でも見ると良い。CDの限定版に付いてる)。
ラマナ・マハルシの写真の楽しそうな顔を見ると良い。
彼は、我々に、「眠り過ぎだ。もう目覚めろ」と言っているのかもしれない。









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自分より厳しい境遇で過ごした相手に勝つ

『タイガーマスク』や『巨人の星』の原作者である梶原一騎さんは、とても複雑な人間だったと思う。
彼の作品は、現在、日本人の40代以上の多くの男性の精神的支柱となり、我が国に確実に大きな影響を与えているだろう。
彼は1987年に50歳の若さで亡くなっているが、その作品は、いまだ新しい。
『あしたのジョー』は2千万部が出版され、昨年は実写映画も制作された。
また、今も続く、伊達直人(だてなおと)の名で、主に児童施設に寄付が届く「伊達直人現象」のことはご存知と思うが、伊達直人は『タイガーマスク』のヒーローであるプロレスラー、タイガーマスクの正体で、子供時代を孤児院(現在は、児童養護施設という)で過ごした青年の名である。

正直、梶原一騎という男は、人間としては最低の部分が多かったと言っても、梶原一騎さん本人も、多分、怒るまい。
だが、彼が天才であったことは疑いないし、また、彼の中の高貴なものが作品に表れていたことも間違いないと感じる。
梶原一騎が善人か悪人かと言うと、おそらく悪人であったのだろうが、悪人が案外、悟りを開くことがある。
五井昌久さんという有名な宗教家が著書に「小善人が一番悪い。小善人になるくらいなら、大悪人になれ」と書かれていたのを思い出す。
『歎異抄』の有名な言葉、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや(善人でさえ往生できるのだから、悪人が往生するのは当然なのだ)」を思い出す人も多いと思う。

また、梶原一騎さんは、非常に人生経験が豊富だった。
彼の作品には、度々、少年院の中の様子が描かれ、主人公の少年達がリンチに遭う場面が非常に生々しいが、それも当然で、彼自身の体験なのである。
大人になってからも、危ないこと(多くは悪いことだろうが)は一通りやったような貫禄があった。
だが、梶原さんが闘病後、すっかりやせ細り、以前のやくざのボス的な雰囲気の影もなくなった時に、インタビューを受けていた時は、まさに悟りを開いたような穏やかさだったという。

ところで、『あしたのジョー』の中で、私は、長い間、納得できなかったことがあった。
『あしたのジョー』のはじめの方の話は、簡単に言うと、こんな感じだ。
流れ者の不良少年、矢吹丈は、遂には少年院に入れられる悪事を行うが、元三流プロボクサーの丹下段平(たんげだんぺい)にその素質を見込まれ、段平は丈をボクサーにしようとする。
最初は、ボクサーになる気などさらさらなかった丈だが、同じ少年院に入れられていた、駆け出しプロボクサーの力石徹と出逢い、丈は力石を叩きのめしたいと思ったことをきっかけに、ボクシングに打ち込むようになる。2人は、会えばいつも険悪な雰囲気となり、決してまともに接することは無かった。だが、先に有望な若手プロボクサーになっていた力石は、その必然性は何もないにも関わらず、本来ならライト級の体格でありながら、バンタム級の丈と対戦するために過酷な減量をする。
遂に2人はプロのリング上で対戦し、死闘の末、力石がKO勝ちを収めるが、試合直後、力石は無理な減量がたたったこともあり死亡する。
丈は、自分が魂が抜けたような状態となったことを不思議に感じたが、やがて、世間的で言うものとは全く違うが、力石との間に友情があったことに気付く。
この唯一の友、力石を失った精神的な傷により、復帰は無理だと思われた丈だが、やがてリングに戻ってくる。
しかし、まだ若く、身長が伸び、体格が向上した丈もまた、バンタム級には向かない身体になっていた。しかし、丈は、「親友」力石と戦ったバンタム級にこだわり、かつての力石のような減量地獄を味わう。
そして、丈は、過酷な減量の後、東洋チャンピオン金竜飛(キム・リュウヒ)と対戦することになる。
丈は、両親の顔を知らず、孤児院で育った自分が不遇であったと思っていたが、金は、全く比較にならない惨めで苦しい子供時代を持っていた。
金は子供の時、戦争中で、食べるものがなく、常に空腹に苦しんでいた。その時、川の近くで、誰のものか分からないが食べ物が入ったザック(リュックサック)を見つけ、それを取ろうとするが、持ち主の兵隊の男に捕まり、恐怖のあまり、岩で男を叩き殺してしまう。そして、狂ったようにその食べ物を飲み込んだ。
やがて、殺された兵隊のニュースが村をにぎわすが、金は知らぬ顔を決め込む。
兵隊は脱走兵で、やがて、彼の上司の隊長がやって来た。
隊長は言う。
「この男は、飢えているであろう家族のために、軍で支給される食料にほとんど手を付けずに保管し、それを持って脱走して、家族のいる故郷のこの村に来たのだ」
死んだ兵隊の名を聞いた途端、金は食べたものを吐き、殺人がばれ、袋叩きに遭う。だが、虫の息の金は言う。「彼は僕の父さんだ」と。あまりにやせ衰えた父が分からなかったのだ。
金を哀れに思った隊長は、ボクシングの心得があった。そして、金を引き取り、ボクシングを教える。
金は、あの時以来、食欲というものを感じなくなり、減量に苦しむことは全くなかった。
このような過去を丈に明かした後、金は、丈に言う。「満腹ボクサー君」と。つまり、お前は不幸ぶってはいるが、幸福に育った甘ったれに過ぎない。俺に比べれば。

試合は、無理な減量で体力を失っていた丈は圧倒的不利で、金の攻勢のまま進む。
それ以前に、丈は心で負けていた。本物の悲劇を知っている金には勝てるはずがないと思い込んでいたのだ。
しかし、なぜか、こいつにだけは負けてはならないという不思議な想いがあるのを感じていた。丈にも、その感覚が何なのか分からないが、死んでも負ける訳にはいかないという奇妙だが圧倒的な想いが、どれほどの攻撃を受けても消えずにある。
丈のその想いが、いつか金にも伝わり、金は恐怖を感じる。
そして、丈にはその想いの訳が解けた。
「金は食えなかっただろうが、力石は自分の意思で食わなかった」

私には、だから力石が金より上だという、丈の理屈が分からなかったのだ。
しかし、ここに偉大な真理があるのを、ごく最近分かった。
もし、金が何も語らず黙していたら、金は力石に劣らない。
丈が何も知らずに金と戦っていたら、実力で優る金が勝利したことだろう。
しかし、金は語った。

やはり、このようなことが書ける梶原一騎さんは大変な人だと思う。
そういえば、文豪を含む大芸術家には、人間的には最悪な者がかなりいるらしい。
逆に、歴史的な極悪人には、その者を知る人には、親切で素晴らしい人物だと評価されていることもよくある。アドルフ・ヒトラーなどもそうであったようだ。

今朝も書いた、ラマナ・マハルシが語ったことで、私には謎が解けたのだ。
ある男が、12年間、沈黙を強制された。彼は、それで完全なマウナ(沈黙の行)を達成したと語った。しかし、マハルシは、強制された沈黙はマウナではないと言う。
マウナは、人前で語りたい時に、あえて自分の意思で沈黙を守ることなのである。
マハルシは言う。
「マウナとは不断の会話である。無為とは不断の活動である」









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強制された鍛錬はほとんどが哀れな結果に終る

スポーツや武道が、身体と共に心を鍛えるということはある。
しかし、およそ学校等で行われるスポーツや武道は、ほとんど効果が無いばかりか、逆に心を弱くしたり歪ませている。
教育者とは名ばかりで、人間の心というものを全く理解していないのだ。

身体を鍛えることが心を鍛えることにもなると思って、「よし、ワシが鍛えてやる」と、親や教師が子供を特訓して、たまたま良い成果が出る場合もある。そして、百人に一人、良い成果が出ると、それが宣伝される。例えば、その中からオリンピック選手でも出れば、その親や教師は賞賛され、彼のやり方は正しいことだと承認される。しかし、その一人のオリンピック選手が出た裏で、数百人の心身を逸脱した者が出ていることは、決して明かされない。

最近、auのテレビCMなどでよく見る、ボロ家に住んでいる、学生服を着た、顔は引き締まって眉が太く男らしいが、貧乏な学生とその家族(父親と姉)は、かつて、国民的な漫画・アニメとして知られた『巨人の星』の主要な登場人物達だ。あの父親は、かつて巨人軍の名三塁手だったが、戦争で肩を壊し、息子を野球選手にするためだけに育てる。その息子、飛雄馬(ひゅうま。ヒューマンからきている)は、狙い通り、巨人軍の優秀な投手になるが、普通なら、不良になるか、ひきこもりになる可能性が高かったことだろう。
だが、たまたまうまくいかないわけでもない。
現在、大人気の声優、歌手の水樹奈々さんは、自分がまさにあんな感じであったという。演歌が大好きな父親が、奈々さん(父親はかつての美少女アイドル、岡田奈々さんの大ファンで、その名をとった)を幼い時から猛特訓したのだった。そして、彼女は、色々苦労は多かったが成功して、色々な意味で、我が国にとって貴重な存在となった。昨年末、東京ドームで二日連続のソロコンサートをやったのだから、今や国民的スターと言って良い(他にそんなことが出来る人はいない)。
架空の存在の飛雄馬と、実在の水樹奈々さんであるが、成功の根本要因は心を鍛えることが出来たからだが、こんな風に良い結果になる場合は、むしろ例外だ。
心は、決して親にしろ教師にしろ、他の誰かが鍛えてやれるものではない。自分で自主的に鍛えないと鍛えられない。
良い教育者は、子供が、自主的に心身の鍛錬をするように導くのだ。
ただし、現在は、それを物質的な報酬や名誉への欲望を煽って行ってばかりだが、これは、非常にまずい結果になる。
金や喝采を目当てに訓練すると、やはり、心は弱くなり、限度を超えると逸脱して悪事を為す。エリートスポーツ選手の犯罪なんて珍しくもなんともない。だが、馬鹿な世間は、それを非常に珍しいことのように思うのだ。私が通っていた高校は、ある人気スポーツの名門校でもあったが、選手達の人間性は疑問を持たざるをえなかった。例えば、体操服を教室に残したままにしておくと、彼らはそれを当たり前のように、断り無く勝手に使う。それで返せばまだマシな方だった。これは泥棒という犯罪で、彼らは犯罪者であるが、大会で良い成績を得る彼らは模範的高校生として賞賛されるのだ。

昔、ある思想的な活動家だったかもしれないが、彼は投獄され、数年間、沈黙を強要された。後に、彼は、この数年の沈黙が、ヨガなどで言う沈黙の行となり、自分の精神を進歩させることが出来たといった。
しかし、自身、悟りを開いた後、長期の沈黙の行を続けたインドの聖者ラマナ・マハルシは、それを即座に否定した。
「強制された沈黙は進歩をもたらさない」
食を慎めば、心身に素晴らしい効果がある。だからといって、それを他人に強要しても仕方がない。そもそも、食に関しては、強要されて慎めるものではない。そして、食の節制を強制されると、隠れて食べたりし、堂々と大食するより更に悪いことになる。
ある中年女性はでっぷりと太っているが、少女時代は痩せていた。親が、「女の子は食べるものではない」と、彼女に食の慎みを強制したのだ。そして、大人になり、結婚して子供が出来ると、彼女は、子供達の食事をなるべく少なくし、自分も一見、それに合わせているかのように見せていた。そして、「私、漬物しか食べないのだけど、太る体質なの」と言う。太る体質などあるはずがない。食べるから太るのだ。彼女は、夫や子供に知られないよう、見つからないところに、豪華なケーキやお菓子を常に沢山隠し、一人になった時に食べていた。子供が熱を出し、学校を休みたいと言ったら、異常なほどの怒りを起こし、仮病と決め付け、無理に学校に行かせた。子供がいたら、ケーキを食べられないからだ。この子供は、世間では、厳しく育てられて良かったと言われることもあるが、心が弱くなり、ひきこもりになった。これは、私が知る実話であることを保障する。

自主的に心身を鍛えるなら、物質的な報酬や世間的栄誉と無縁であっても、そんなものとは比較にならない貴重な宝を得るだろう。
そして、最大の心身の鍛錬は食の慎みである。それがある程度できれば、性欲の支配も容易くなる。
だが、それまでに、まず、ある程度の身体の鍛錬や、呼吸の制御やマントラ(真言)といったもので、心を鍛えるのが良いだろう。
私がいつも奨める腕振り運動は簡単な運動だが、回数を決め、必ず毎日やり抜けば、素晴らしい成果がある。
また、根気強く『バガヴァッド・ギーター』や『エメラルド・タブレット』を読めば、心が鍛えられるだけでなく、聖霊を味方に出来る。
自主的な心身の鍛錬が幸福への道である。









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無為とは最も激しい活動である

一説に紀元前369年に生まれたとされる中国の賢者、荘子(荘周)が著した『荘子』は、英知に溢れた書でありながら、共に「老荘」と称えられる『老子』と比べ、分かり易く面白いことから、我が国でも愛読者は多いと思われる。
しかし、それがゆえに、時に罪作りな影響を与える。別に荘子が悪い訳ではないが、過ぎた知恵とは誤解されるものだ。

荘子が言う、道(タオ)と一体化する方法は、一見、簡単に思える。
道(タオ)とは何かは、言葉で言うことは不可能だが、最も純粋な意味での神と言って良いのではないかと思う。
その道(タオ)と一体化することは、悟りを開き、ブッダやキリストになることと同じと思って良いだろう。

では、どうすれば道(タオ)と一体化するのかというと、荘子は、
「思慮分別を捨て、ものごとをあるがままに見、一切をなりゆきにまかせよ」
と言う。
これ自体に間違いはないと思う。
しかし、こう言われると、「じゃあ、何にも考えずにぼーっとして、何もせずにのんびりすりゃあいいんだな」と言う馬鹿が、特に我が国では多いのではないかと思う。

思慮分別を捨てるというのは、心を怠惰にすることではない。
それは、心の全エネルギーを注ぎ込まなければ出来ないことだ。
それが出来てこそ、ものごとをあるがままに見ることが出来るのだ。
なりゆきにまかせるというのは、何もしないことではなく、最も激しい活動なのだ。
分かりやすい例を言えば、電車に乗る時、なりゆきにまかせれば、座席は全部取られてしまうだろう。それを敢えて、そのままにしなければならないのだ。
なりゆきにまかせよと言われ、「じゃあ、のんびりすればいいんだな」と言う者に限って、座席を必死で取ろうとするものなのだ。

荘子の教えの精髄は無為自然と言えるかもしれない。
無為と自然とは同じことなのだ。
自然は、何もしないのではない。その活動は、驚くべきものであり、神秘的でもあり、しかも、完璧だ。そして、自然でないものとは、この世でただ1つ。それは人の心なのだ。
心は、思慮や分別をし、ものごとを主観で歪めて解釈し、なりゆきを自分勝手に変えようとする。
その心を破壊した時に、我々は道(タオ)と一体化し、神となる。

インドの聖者ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジらは、世界は夢と同じだと言ったが、そう聞くと、放埓(勝手きまま)になったり、怠惰になろうとする者がやはりいる。
しかし、夢の中ですら、強盗にナイフを突きつけられて、平然としていられるだろうか?ましてや、いかに夢と同じと言われても、目覚めの状態でそのようなことになれば、哀れにも取り乱してしまうのではないだろうか?
しかし、ニサルガダッタ・マハラジに誰かが尋ねたことがある。
「あなたの首が鋭利な刃物で切りつけたらどうなるのですか?」
すると、マハラジは答えた。
「胴体が首を失うだけのことだ。私には何の関係もない」

これこそが、思慮分別を捨て、自分に何が起こることも赦し、なりゆきにまかせて無為でいる悟った人物である。
では、どうすれば、彼のように、全てを夢とみなし、動じないようになれるのであろう。
夢の中であれ、現実であれ、ナイフや拳銃と突きつけられても平然としていられるようになるのだろう?もし、そうであれば、誰もあなたに危害を加えることなど不可能なのだ。

訓練しかないと思う。
空腹であっても、食べずに我慢するのは、心の多量のエネルギーを要するだろう。
しかし、それが出来るようになれば、心を支配し、心のエネルギーを手中に収めるのだ。
性的な欲望を抑えることも難しいことであるが、それを出来るようになれば、やはり、心のエネルギーの支配権を得るのだ。
ただ、食の慎みで心を鍛えれば、多量の心のエネルギーを使えるようになるので、性欲の支配も簡単なのである。

だが、訓練とは、自主的にやらなければ意味がないことを注意しておく。
例えば、沈黙を保つことも、優れた心の訓練である。
しかし、無理矢理黙らせても、黙らされた者の訓練にはならない。
子供を黙らせて、自分の主張を押し付ける親や教師が多いが、そういうことをすれば、子供の心のエネルギーは暴走して無秩序になるか、あるいは、エネルギーを心の奥深くに封じ込めて無気力になるかである。
そして、子供の弱い立場を利用して、自己主張をする親や教師、あるいは、会社の上司は、心の支配力をますます無くすのである。世間的にちょっと偉い人ほど、欲望を抑えられない者が多いという理由はそれなのだ。
アダルトショップや性風俗店のお得意様は、堅い仕事の中年幹部と相場が決まっているのである。もっとも、そんなところで収まってくれればまだ良いが、昨今では、彼らの性犯罪のニュースが珍しくなくなっている。しかも、その大半はもみ消されているだろうから、現実は大変な数だろう。

荘子らの教えを誤解して怠惰になるのとは全く逆に、忍耐力を自主的に鍛えれば、心を屈服させる道が開ける。
例えば、毎日スクワットを必ずやるとかも良い。これは地味でやや辛い運動なので、毎日欠かさず100~200回もやれれば、かなり心が鍛えられているはずだ。
ただ、必ず毎日やることが必要で、本当に体調が悪いのでない限り、言い訳をして安めば意味はない。
新渡戸稲造は、毎日必ず水ごりをやると決め、風邪をひいて高熱がある時も休まずに決行し、医者に怒られたというが、それは確かにやり過ぎながら、大人物とは、そのようなところが必ずあるものだ。

飢餓状態にある地域の人々が悟りを開く訳ではない理由が訳が分かると思う。
強制的に食料を絶たれると、人は食べたいという欲望をむしろ増大させるのである。
性に関しても同様で、自主的に、性欲を煽るものを遠ざけねばならない。昨今の日本の人気アイドルは、人々の性欲を煽って売る目的があるので、大抵どれも良くない。
性欲を自主的に抑えるのではなく、親や教師により、性的なことに関してあまりに厳格に育てられると、やはり性エネルギーが暴走したり、心や身体の別の部分を歪めるのである。
例えば、性的に強固に保守的な環境で育つと同性愛者になる傾向が強いのである。
実は、アメリカという国は非常に保守的で、日本のアニメの入浴シーンやパンティーショット(下着が見える場面)は全てカットされるのである。同性愛者も増えようというものだ。

よく、食欲や性欲が抑えられないと言う者がいる。
それは、注ぎ込むエネルギーが足りないのだ。別のつまらないことにエネルギーを使っているのだ。
もしかしたら、ギャンブルをやった後や、長時間ゲームをやった後、あるいは、非常に気疲れすることをやった後で、食欲が高まってやけ食いしたり、性欲が高まるということを聞いたり、あるいは、経験したことがあるかもしれない。
これは、心を支配する貴重なエネルギーを使い過ぎ、それが枯渇してしまったのだ。
マスターベーションをあまりに頻繁にする者(子供にもよくいる)や、セックス依存症(若い少女にも時々いる)というのは、生活の中でひどく心を疲労することがあり、自制のためのエネルギーが無いのである。
過食症に関しても、それが言える場合もあるが、こちらは、多くは、甘やかされて育ったことが原因で心を支配する力が弱いのだ。普通の性的な乱れもそうである。

「食が運命の全てを決める」と言った水野南北はもちろんだが、ラマナ・マハルシも、生活の中での最上の修行は食の慎みだと述べたのである。「清らかな食事を適切な量食べることが最上である」と。「清らか」とは、菜食で粗食ということであろう。
『エメラルド・タブレット』にも、食欲の克服が魂を束縛から解放すると述べられている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、聖なるクリシュナは、食を慎むことをアルジュナ王子に指示している。
食をよく慎み、その上で、身体の適度な鍛錬や、呼吸の制御、マントラを唱えるなどで心を支配する訓練を加えれば、容易く心を静める術を得るだろう。
聖書に、「黙せよ、そして、自分が神であると知れ」とあるが、黙す(心を静かにする)には、鍛錬が必要なのである。
心を静かにする力を得れば、道(タオ)と一体化し、至高の実在である真の自己に帰る日は近いだろう。













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食と運動は、心身を同時に育てる

本日は、身体の運動についてお話しようと思う。
身体と心は全く同じものだ。少なくとも、極めて密接に関係したものであることは分かる。
もし、心を完全に正すことができるなら、あらゆる肉体の病気も治せるだろう。
逆に、身体を適切に調整したり、鍛えたりすれば、心が整い、好ましい心の性質を育てることができる。
これらは、相互に行うのが良いのだろう。心か身体の一方だけに偏った生活をしていると、両方に悪い影響が出てくる。
面白いことに、身体をあまりに使わないと、それを補うかのように、心の活動性が高まるが、そのようなことは、心にとっても良いものではない。心に落ち着きがなくなり、それを放置すれば、その無秩序な活動は激しく、荒れ狂うまでになってくる。

心と身体が同じものだということが分かれば、身体の適切な運動方法も分かってくる。
身体を鍛える時、同時に心も鍛えているのである。
私は、朝晩欠かさず運動をするが、以前は、筋肉トレーニングは夜だけだった。しかし、いつしか、少しだけだが、朝も腹筋運動や腕立て伏せをやるようになった。
腕振り運動は毎日やっている。
腕振り運動は、自然に立って、両腕を同時に前後に振るだけの簡単な運動だが、正しくやれば、身体全体が調整される。つまり、心も調整され、相互作用により、あらゆる病気が治り、世界は心が創り出すものであるのだから、自分の世界の在り様にまで影響を与える。
これも含め、私がやる運動は、畳1枚の広さがあれば出来るものだ。そして、一切の道具を使わない。
運動は、毎日必ずやってこそ意味がある。運動する度にどこかに出かけたり、また、週に何度かまとめてやっても、心身に良い効果はない。

私は、夜は、腕振り運動、軽い体操、腕立て伏せ、スクワット、腰の軽い運動、腹筋運動、そして、再度、腕立て伏せをする。
腕振り運動は、スワイソウという中国語名で知られる通り、中国から来たもので、気功や仙道の中にあるが、元々はインドのもので、ヨーガの一種と言って良いと思う。
スクワットも、私がやる体重だけを利用するものをヒンズー・スクワットというが、その名の通りインドのものである。
インドは元々、非常に精神的な国で、運動も、心身両面に配慮したものが生まれたのだと思う。
私は、以前は腕立て伏せは、毎日200回以上、それも、ボクサーがやるように高速でやり、確かに、腕力増強は著しかったが、昨年7月、右肩を痛めてしまった。それで、回数を減らし、ゆっくりやるようになったら、身体と共に、心にも良いことが分かった。腕立て伏せも、心でやるようになれば、身体が軽くなり、心が静まってくる。
腕立て伏せを、筋肉運動だからと、必死でやるのではなく、無理のない回数で、ゆっくり美しくやれば良いと思う。
私は、腕立て伏せは、夜は、25回を2回、朝は、25回を1回やっている。かなりゆっくりやるので、それなりにエネルギー消費も高い。時には、リズミカルに60回やったり、気紛れに100回以上素早くやることもあるが、無念無想で10~20回程度やれば、心身に良いと思う。
私は、腕立て伏せとスクワットは、神が人間に教えた神秘的な運動であると思う。これらを、肉体だけでなく、心を正すつもりでやれば、より素晴らしい効果があると確信する。
スクワットは、自然に立った状態から、太腿が床と平行になる位まで曲げ、伸ばすが、ゆっくり自然に、無理なくやれば良いだろう。顔をしかめて必死にやるようではいけない。やっているうちに、無念無想になり、回数だけはちゃんと数えているという状態が良い。私は200回やるが、心の状態が良い時は、知らずに終わってしまう。
スクワットを毎日やっていると、驚くほど身体が軽くなる。これは、腕振り運動の影響もあるのだろう。体内で、気が活性化されるのか、関英男博士が言う通りGTP(重力子が組み合わさった特殊な粒子)が生成されるのかは分からないが、神秘的なエネルギーを持つことの影響が大きいと思う。冗談ではなく、身体が宙に浮くような感じであるが、子供時代、スキップをしていた時のような感覚が蘇ったようである。それと共に、精神も子供に戻るようである。個人的には、初音ミクと一緒に踊っているような、楽しい感覚である。

食物が身体を養うように、身体とほぼ等しいものである心も養う。
だから、身体に良い、清らかなものを適度な量で食べることは、心にも大きな影響を与えることが分かる。
そして、食べる時の精神状態や態度が、身体や心に与える影響について、我々は無頓着過ぎる。
駅や電車の中で、平気でものを食べている人をよく見るようになったが、そのような者は、一目で逸脱した人間だと分かるのである。
決まった時間に、礼儀正しく食べるから人間なのである。
そして、粗食、少食を心がければ、質素なもので十分に美味しく、多過ぎる栄養が身体も心も破壊するという害を免れることが出来るのである。
そして、毎日、適度に運動をすれば、より早く悟りに至ることができると思う。
尚、人類至高の聖典、『エメラルド・タブレット』や『バガヴァッド・ギーター』にも、当然にして食に対する教えがあり、エマニュエル・スウェーデンボルグすら、高次の霊に、食の慎みを持つよう警告を受けたことが明かされている。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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