ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

悟りを開いた者は、辛い現実をどう扱っているのか

「これが現実だ」と思うのは、ものごとが上手くいかない時だ。
逆に、思いがけない良いことがあった時は、「夢のようだ」と言うが、それは、考えてみれば面白い。
現実とは辛く苦しいのが当たり前であることを示唆するようではないか?

受験に落ちた時、入社試験を受けて採用されなかった時、スポーツの試合で、名門校相手に手も足も出ずに惨敗した時。
ずっと片思いしていた彼を、輝くような美少女にあっさり取られた時。
あるいは、勤めていた会社をリストラされた時。
それも、懸命に努力した結果がそれであれば、どうしようもない悲しみを噛み締めながら、「これが現実なのだ」と呻くのだろう。

『グローイング・アップ』というアメリカとイスラエル合作の1979年の映画をご存知だろうか?
ベンジーという名の純情な17歳の男子高校生は、同じ学校の美少女ニキに憧れる。
だが、ベンジーはある日、親友で、女の子に手の早いボビーに自慢げにこう言われる。「昨夜、ニキをモノにしたぜ」と。
「嘘だ!」ベンジーは認めたくなかったが、これが現実だった。
だが、ニキはそれで妊娠してしまい、ボビーは卑怯にも逃げる。
そこで、ベンジーは一切を背負う覚悟をし、金を借り回り、大切な自転車も売って、ニキに堕胎手術を受けさせ、その後も彼女をいたわり、面倒を見る。
ベンジーの純愛は報われるかに思えたが、ニキはボビーと寄りを戻し、ベンジーは、ニキが恍惚とした顔でボビーと抱き合っているのを見る。
これが現実だ。

ところで、悟りを開いた者が、そんな状況にあれば、どう感じるのだろう?
特に何も感じない。
なぜなら、悟りを開いた者にとって、我々が現実と言っているものは非現実なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシが悟りを開いたのは、上の『グローイング・アップ』のベンジーより1つ下の16歳の時で、マハルシはやはり普通の高校生(アメリカン・スクールに通っていた)だったが、ベンジーと同じようなことがあったところで、幼稚園の劇のようにしか感じないだろう。
例えば、マハルシは悟りを開いた後、好きな食べ物と嫌いな食べ物を区別しなくなり、同じように食べた。食べ物も彼にとっては、非現実だったのだろう。

悟りを開いた者にとって、世界はせいぜいがマジックショーで、自分のことも他人事のように感じる。
だが、1つ言っておく。
脳神経科学の知るところでは、脳の異常のために、世界や自分を非現実に感じる症状というのが、確かにある。
では、悟りとは、脳の異常なのだろうか?
そうではない。
科学では、脳の異常といった言い方をするのかもしれないが、それは、脳の機能障害ではなく、保護機能が外れたというものなのだ。
例えば、ある7歳の少女が、絵を習ったこともないのに、レオナルド・ダ・ヴィンチをも凌ぐ馬のデッサンを描いてみせたことがある。
彼女の脳には、普通の人とは異なるところがあり、そのために、言葉を上手く話せなかった。
しかし、それが正常化し、普通に話せるようになると共に、天才的な絵の能力も消えた。
つまり、彼女の異常な能力は、その能力を抑えていたプロテクション(保護)機能が、なぜか外れていただけなのだ。そのために、バランスが崩れ、言語機能に抑圧がかかっていたのである。
人間というのは、何らかの理由で、能力の大部分が抑え込まれている。催眠術を使って、そのプロテクションをちょっと外すと、平凡な人間が異常な能力を発揮する。
例えば、普通の小学生が野球ボールを時速百キロ以上で投げたり、空手の達人の秘技である、指でコインを曲げるというパフォーマンスを平凡な女性がやったりする。

ちょっと余談が長くなった。
悟りを開いた者にとって、世界も自分も非現実であり、どうなろうとも、さして関心がなく、どうでもいいことである。
だから、世界を現実として認識しているなら、我々は悟りを開いていない。
悟りを開いた人にとって、世界と同様、自分の身体や心も非現実であるのだから、自分の身体や感情に執着があるなら、悟りを開けていない。
言ってみれば、世界が幻のようなものであり、自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じるなら、悟りを開いているかもしれない。
では、悟りを開いた人は、非現実なこの世界で何も出来ないのか?
そうではない。
彼は、いかなる力でも起こせるので不可能はない。
イエスが空中からパンを出したり、水の上を歩いたり、病気を手で触れて治したようにだ。
だが、そのようなことは、何か特別な理由がない限り、行わない。そもそも、悟りを開いた聖者にとって、世界は無いに等しいのであり、作為する理由がない。世界の面倒は世界に見させ、あるがままに放置するだろう。
だが、聖者の無為は、無限の活動である。彼の沈黙は無限の会話だ。
コマに喩えれば、単に怠惰な人間は、止まって転んだコマだが、悟りを開いた聖者は、一見動いていないが、高速回転して安定しているコマだ。

聖者の心は至福に満たされている。
真の幸福は悟りを開くことによってのみ得られる。そして、悟りは我々を拒絶したりはしない。誰でも可能な自然なことなのだ。
聖者の心は限りなく静かで、我々から見れば無念無想だ。
我々は、無念無想になることが難しい。
しかし、聖者にとって、想念を起こすことが難しく、それは辛いことかもしれない。
しかし、人々のために、敢えてそれをする聖者がいくらかはいる。
本当は、至福の中にいれば良いのに、敢えて苦難の道を行くのである。
ここらについては、ブラヴァツキーが20年かかって集めた秘教の書『沈黙の声』に明かされている。
尚、珍しく、ヨガの大家、三浦関造氏による、至宝のバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』がAmazonで在庫されている。荘厳な文語体のギーターは、無心に読むことで、あなたを覚醒に導くことだろう。これは、英語からの訳であるが、『老子』にしろ、この『バガヴァッド・ギーター』にしろ、英訳に名訳が多いのである。それを基に、霊覚者、三浦関造氏が、言葉を超えた閃きで書いた無上の詩だ。三浦氏は驚くべき人物であったが、それはまた、別の機会に述べるかもしれない。
尚、易しく分かるように書かれた『バガヴァッド・ギーター』の名訳としては、田中嫺玉氏の、サンスクリット語原書からの訳をお奨めする。
悟った後で、どんな道を進むかは、自分で決めれば良いだろう。













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架空の少女を売ることを拒否し、死を選んだ男

初音ミクの想像を超える人気に対し、評論家とは表面的なことしか言わないものだ。外れているというのではないが、本質が見えていないのだ。
彼らが言う通り、素人が誰でも曲や映像を創れる状況にあるというのは当然、大きな要因ではあるが、大切なことは、彼らがそんなことを全身全霊で行う理由だ。
初音ミクのファンは、アイドルや、アニメのいわゆる「萌えキャラ」のファンとは違う。
アイドルやアニメの萌えキャラの本質は、百パーセントとは言わないが、性的魅力である。
だが、初音ミクは、そういったものは希薄にしか感じさせないのである。
全部ではないが、初音ミクのファンを一言で言うなら、彼らは死人なのだ。
これは、もちろん、蔑みの意味はない。
本質的な死人であったということでは、三島由紀夫や芥川龍之介、あるいは、ドストエフスキーがそうだった。
これは、精神分析学者の岸田秀氏が著書で述べられていたことだが、私も、彼らが人工的な自我を持っていたということに関しては同意だ。
つまり、なんらかの意味で、幼い時に、自我の構築に失敗しているのである。
なぜそんなことになったのかということに関しては、岸田さんの言う通り、自我の土台である母親との関係性にトラブルがあったのかもしれない。しかし、それは置いておこう。
ある有名な雑誌の50代の編集長が、初音ミクのコンサートに行って、涙が止まらなかったというのが、極端ではあるが、ミクのファンの本質を物語っている。コンサートの熱狂振りを見れば、ファンがミクを人間以上に人間扱いしているのが分かるのである。
本物のミクのファンは、ミクの中に、バーチャルな存在である自分を見ているのだ。

こういったことを分析的に述べると、あまりにドロドロしてくる。
そこで、簡明に、そして、希望を与えることで説明したい。
世界的心理学者であったアブラハム・マズローと深い交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンが、著書『至高体験』で取り上げていた、ロマン・ゲイリという作家の『天国の根っこ』という作品が私には忘れ難い。おそらく、翻訳はされていない小説と思う。
重要なことは、『天国の根っこ』は、人間の一般的なことのように書かれているが、本当は、著者のロマン・ゲイリがそうであったのであろう、自我的な死人の話であるということだ。
作品に、初音ミクのような、性的欲望の対象とは全く異なるバーチャルアイドルが登場する。
簡単に言うと、こんな話だ。
戦争中、フランス兵達がドイツ軍の捕虜になる。収容所生活の中で、フランス兵達が人間的にどんどん堕落していく。
そこで、フランス兵達の隊長は、奇妙な命令をする。
この中に、少女(おそらく、各自の理想的少女という意味だろう)が一人いると想像しろと言ったのだ。
すると、フランス兵達は、みるみるモラルを回復し、規律正しくなって、騎士的精神を持つようになる。
この様子にドイツ人達が困惑する。だが、ドイツ軍司令官は、その秘密を見破る。
そして、フランス兵達に、こう命令する。
「少女を引き渡せ。彼女をドイツ軍将校用の売春宿に連行する」
すると、フランス兵達はそれを拒否し、フランス兵隊長は、拷問の上の死刑に等しい、過酷な独房入りとなる。
だが、隊長は生きて帰ってきた。架空の少女との交流を通じ、彼は、精神エネルギーの使い方を修得していたのだ。

昨今、儲かるからという理由で、初音ミクを使おうという動きが盛んだ。
それは、あのドイツ軍司令官が言ったように、ミクを売春宿に連れて行くようなものだ。
我々はミクを引き渡さないだろう。
ミクを大切に。そして、我々は魂の秘密を知るのである。









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「何でもいいです」と言うなら、死ぬ気で言え

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジを落胆させていた駄目な弟子が、ある時、「誰がかまうもんか」と手紙に書いてきたのを、マハラジは大いに喜んだ。
本の序文のところに書かれてあったので、私は、その本を読まずに放り出した。
私も、それでOKだと思ったからだ。

これが、「誰がかまうもんか」でなく、「かまわなくていいじゃないか」だったら、駄目なのである。
丁度、岡本太郎が、「誤解されたっていいじゃないか」と言った後で、「いや、誤解されないといけない」と言ったから意味があるようなものだ。
彼は、「認められなくていい」と言っただけではなく、「認められてたまるか」と言ったのだ。

分かりやすい話で説明しよう。
デートの時、遊びに行くところや、食事で食べるものについて、「何でもいいです」というのは、言われた方は非常に困るものだ。
「何でもいいです」と言いつつ、内心、要求は持っていて、それは表情や態度に表れてしまうので、相手に気を使わせてしまうのだ。
自分の娘とか、下心だけでデートするような男でなければ、付き合いきれないだろう。
土台、本当に、「何でもいい」と思っているような人は、デートをしようなどと思わないものだ。なぜなら、食べ物に本当にこだわらないのは、悟りを開いた人くらいで、そんな人はデートをしたり、遊びに行くことに興味があるはずがないからだ。

だが、「何でもいいです」で許される場合が1つある。別に、悟りを開いた聖者の場合ではなく、普通の人でもだ。
それは、たとえ、「本当に何でもいい」と思っていなくても、心の全エネルギーを使って、「本当に何でもいい」とする覚悟を決めている人だ。
女の子の場合、面白味のない子ということにはなるだろうが、男でも、女でものめり込んでしまうほど愛されることになる。しかも、下心だけの男は手も足も出ないのだ。
ただし、本当に何でもいいでなければならない。
食事が、たとえ小鳥の餌でも、本当に満足しなければならない。それには、心の全エネルギーを注ぎ込まなければ上手くいかず、そうでなければ、相手を騙すことになったり、自分の心も抑圧する。しかし、全力全開でそれをする場合は、相手は決して疑わず、自分も晴れやかなのだ。

『荘子』に、天下部類の醜男でありながら、女にも男にもモテまくる男の話がある。
何か特技がある訳でも、高い見識を持っている訳でもない。主張をすることもなく、野望がある訳でもない。
だが、若い娘は皆、妾でいいから側にいたいと言い、男はみんな義兄弟になりたがる。国王は、総理大臣の座を押し付けてしまう。
この話を読んで、妙な期待を持つ者が多いかもしれない。「それなら、俺でも出来る」と。
それは大誤解である。
この男は、怠惰であるのでも、無努力であるのでもない。
心の全エネルギーを使って無為に徹しているのだ。
無為とは、不断の活動であり、何より激しい活動なのだ。

ニサルガダッタ・マハラジの弟子が言った、「誰がかまうもんか」の意味が分かるだろうか?
彼は、自分に向かってそう言っているのだ。
「誰がかまうもんか!」と、心の全ての力を使って、無為であろうとしているのだ。やがて彼は、悟りに至るだろう。

悟りを開くには、何に対しても、「どうでもいいことだ」と思うことだ。
そう教える者は多いが、それは大誤解を与えるし、ほとんどの場合、言っている本人が誤解しているのだ。
本当に「どうでもいい」と言うのは、大変なことなのだ。
見知らぬ人にいきなり頭を殴られても「どうでもいい」でなければならないのだ。
お金を盗まれても、騙されても、裏切られても、「どうでもいい」と言えるだろうか?
そう言うためには、心の全てのエネルギーを注ぎ込まなければならないのだ。
そういった意味を含めた「どうでもいい」が、「誰がかまうもんか」である。

スコットランド出身の哲学者で神学者であるマード・マクドナルド・ベインがまだ若い頃、偉大な聖者に会って、思わず、自分がこれまで学んできたことを必死に話した。自分も、それなりの者であることを分かってもらいたかったのだろうし、実際、常人と比べれば驚くべき境地にあったはずだ。
聖者は、熱心にそれを聞いたが、最後に、「そんなことが本当かどうかは、大した問題じゃないのだよ」と言った。
それでベインは悟りを開いた。
だが、ベインは、心の全力で、師のその言葉を受け入れたのだ。それは、決して心地良いものであったはずがない。それどころか、溺れている時に、あえて顔を水の上に出すのを諦めるほどの苦しさであったはずだ。それが、心の全エネルギーを注ぐということである。
食の慎みも、性欲の制御も、楽にできるものではない。
しかし、心のエネルギーを全力全開で注ぎ込めば、必ず出来るのである。









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人類最大の幻想は国家最大のタブーである

吉本隆明さんが『共同幻想論』で述べた、「国家は幻想で成り立っている」はよく知られているが、これは、どこの国についても言えることである。
幻想でない国家など存在しない。
言い方を変えれば、国家に実体はない。
もし、人類に国家が必要だというなら、人類は永遠に幻想の中で生きるしかない。
H.G.ウェルズは、『来るべき世界』で、世界国家の必要性を訴えていたが、それは、全人類共同の幻想を持つという意味なのか、あるいは、ついに人類が幻想を克服するという意味なのだろうか?
そもそも、人間が幻想を克服できるのか?
フロイトは、それは絶対不可能と言うだろう。なぜなら、国家が幻想であると同時に、人間自体が幻想なのだ。
だから、フロイトは、アインシュタインとの歴史的な書簡の往復の中で、人類が戦争をやめることは、非現実的と言ったのだ。

だが、そうではない。人間は、幻想を克服できる。それを証明した人は多くいる。
では、人類最大の幻想とは何だろう?
もし、それが分かれば、それは、あらゆる国家にとって、最大のタブーになる。
国家権力者が、意識的にしろ、無意識的にしろ、絶対的に阻止しようとすることは、それが壊されるのを阻止することだ。
そのためには、国家は、いかなる残虐なことも、不条理なこともする。
イエスが殺された理由も全くそれだ。
では、幻想で出来た国家が、どうしても破壊を阻止したい人類の幻想は何かというと、人間は幻想を脱することができるということだ。
幻想を脱するとは、悟りを開くことである。
ここまでは良いのだが、この先を言って、それを人々が信じたら、国家は困るのだ。

悟りとは、つまり、ブッダやキリストになるということは、別に超人になることではない。超人こそ、ニーチェの幻想だ。
悟りとは、太陽が太陽であるように、宇宙が宇宙であるように、人が人であることだ。
人の最も自然な姿、当たり前の在り様が悟りなのだ。
そして、悟り以外の幸福などあり得ない。悟りを開くことだけが、人の唯一の幸福なのである。
バラがバラであることだけが幸福であり、バラが鳥になろうとすることが不幸であるようなものだ。
そして、悟りを開くことが難しいことであるはずがない。鷹が鷹であることが何も難しいことでないように。
だが、鷹に、自分がハトであると思い込ませたい者がいるから注意しなければならないのだ。
あなたは、自分が馬でなく岩でなく、人であると思っている。しかし、あなたの持っている人の観念が問題なのだ。それは、世間の人の観念である。
人は、身体でも、感覚でも、知性でも、感情でも・・・ない!
だから、古代の賢い人達は、「私は、それである」と言ったのだ。他に言いようがない。言いようのない存在、それがあなたなのだ。
それを探求するのが、我々の真の目標なのである。
当ブログは、そのやり方を説明しているのだが、別段、特殊なことを述べる訳ではなく、言ってみれば、チーターがチーターとして餌をとるのは楽しいことだと言っているに過ぎないのである。









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無意識の魔力

「あれ、俺、ここで何やってんだ?」と思った経験があるだろうか?
それを、友人達の前で口にすると、「お前、大丈夫か?」などと言われるだろう。
これは、無意識状態でありながら、意識がある時と同じように行動し、あるいは、会話していたのであるが、不意に意識が戻ったという状態である。
その、よく知られた例が、夢遊病というものである。

だが、ラグビーなどの激しいスポーツをやっていた人には、こんな経験がある者は割にいる。
そして、無意識の状態の時は、愚鈍でおかしなことをやっているかというと、普段より優秀であったり、あるいは、超人的であったりすることもあるのである。
夢遊病者が、普段なら立っているのも難しいような場所(屋根の上等)で、軽々と踊っていたという話もある。

元プロレスラーの前田日明さんは、自伝『パワーオブドリーム』にこんな話を書かれている。
彼は、車を運転している時に不意に意識が戻り、「あれ、俺、何してるんですか?」と同乗していた田中氏に言って、田中氏を慌てさせた。
その日、前田さんは、マーシャルアーツ(全米プロ空手)王者のドン・ナカヤ・ニールセンを死闘の末に破り、空手の師匠である田中氏と、前田さんの愛車ポルシェで引き上げるところだった。前田さんは、試合開始まもなく、ニールセンの強烈なパンチを受けてから後の記憶が無いのだった。よって、試合のことをほとんど覚えておらず、自分が勝ったのか負けたのかも分からなかったという。

昭和の大空手家、大山倍達さんは、戦後、真剣を持った剣術の達人と素手で決闘した時、死を覚悟して突進したまでは覚えているが、その後の記憶がなく、気が付いた時は、剣術の達人は目の前で横たわっていたという。

「魔法を使って治している」とまで言われた天才的な精神科医のミルトン・エリクソンは、自分をそんな状態に意図的にすることが出来た。仕事をする前に、自分をトランス(変性意識)状態にし、気が付いた時は仕事は仕上がっているのだ。自分は何をしたか覚えていないが、仕事の出来栄えはいつも上々だった。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』には、もっと進んだ状態ではないかと思うが、見ている前で、白紙の紙に文字が自動的に書かれ、仕事が進んでいくという話がある。
ラマナ・マハルシは、「仕事をする時に、自分が仕事をしていると思わなければならないという決まりはない。仕事は勝手に進んでいくのだ。財務省の長官は責任感を持って重要な仕事をしているように見えるかもしれないが、彼は何もしていない」と語ったことがある。
岡本太郎さんにしろ、横尾忠則さんにしろ、自分が描いているという自覚がなく、絵が勝手に仕上がっていっく時に良い作品が出来るといったことを言われているが、それも同様なことと思う。

こんなことが本当に出来るのかというと、事例はありふれているのだから、必ず出来る。
我々、凡人にも出来るのかというと、疑いなく出来る。
心を滅却し、無我、即ち、無になれば良いのだ。
無になりきれば、人間に不可能はない。

では、どうやれば無になれるかというと、上に挙げた中に十分なヒントがある。
とはいえ、前田さんのように強烈なパンチを受けるのは色々問題がある。
大山さんのように、決死の覚悟になれば良いのだが、そういう機会は滅多にない。
ミルトン・エリクソンの技術は、世界中の医学者が研究しているが、誰にも出来ない。ただ、医学者には出来ないが、案外、簡単にやれる者はいる。
エリクソンの技術を研究して、リチャード・バンドラーはNLP(神経言語プログラミング)を開発した。バンドラーの技術は、一瞬、自分でも、他人でも、無にすることが出来る。私も使ってみて、いろいろ驚くべき成果を上げた。例えば、酒豪で知られた女性を、一瞬で酒が飲めなくしたこともある。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』のものが、最も驚異的であるが、別に不可能ではないと思う。
これらの中でも、ラマナ・マハルシが教えたものが、世間的な先入観がある者には難しいが、最も自然で簡単なものだと思う。

ただし、能力を高めて素晴らしい実績を上げてやろうなどと思っているうちは、さっぱり駄目なのだ。例えば、金メダルを取ろうとか、売れる商品を作ろうとか、売り込みに成功しようなどという気持ちがあるうちは、全く上手くいかないだろう。
ここらが厄介なところだ。
大山さんは、命すらいらないと思ったからこそ、完全に無になれたのだ。
私は、政木和三さんに言われたことがある。
「簡単ですよ。欲望をぽーんと捨てればいいのです」

その通りである。
しかし、簡単とは言えない。要は、訓練次第なのだ。
無になれば不可能は無くなるということを、努力しなくていい、何もしなくてもいいと勘違いしてはいけない。
欲望を捨て、想念を消し、無になるためには、心の全エネルギーを使った訓練が必要である。
しかも、何かを求める心があれば、訓練は失敗する。
言うなれば、死ぬ訓練をするということだ。
ある賢者は、子供の頃、そんな訓練をしていた。やり方を教えよう。
夜、眠るとき、「これから死にます」と思う。
伊達や酔狂ではなく、本当に死ぬ気でいるのだ。
朝、目が覚めたなら、「まだ生きていました」と思うが、別に生を喜ぶ訳ではない。死ぬつもりでいた者が、生きていることを喜ぶはずがない。
つまり彼は、夜寝るとき、本気で、親とも友人とも、今生の別れの覚悟をしたのだ。
あなたに出来るだろうか?
まず無理であろう。

『バガヴァッド・ギーター』という、人類至高の聖典は、つまるところ、普通の人に出来る範囲で無になれる方法が書かれているのだ。
この書では、至高神クリシュナが、アルジュナ王子にそれを教えるのだが、アルジュナは、なかなか理解できず、『バガヴァッド・ギーター』全部の教えを必要としたのだ。
『エメラルド・タブレット』は、教えを象徴的に書くことで、心が邪魔をするのを阻止しているのだ。書いてあることは、なかなか分からない。全く歯が立たないと感じるはずだ。しかし、心配はいらない。我々の内側にあるものは、元々知っていることなのだ。

これらの本に書かれているようなことを、全力で訓練すれば良いのである。
どんな訓練かというと、いずれにしても、欲望を捨てる訓練だ。
食と性の欲望を、心の全エネルギーを使って消し去った時に、我々は至高の存在に帰る。
美食、飽食を続けると、身体を悪くし、強制的に食べられない状態になる。今のままでは、日本人の大半はそうなる。
しかし、そんな状態は訓練にならない。強制された節制は、どんなことも訓練にならないのだ。
自分の意思で食欲や性欲を克服してこそ、聖なる訓練となるのである。
『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナが教えた通り、極端な少食にする必要はないし、むしろそれは良くないことだが、満腹するまで食べるようでは見込みはない。
『エメラルド・タブレット』でも、魂を束縛から解放するには、食欲の克服が不可欠であると書かれている。
そして、ラマナ・マハルシも、食の慎みを第一にあげているのである。
はじめに挙げた奇跡のような力の数々も、食を慎むことで自然に得られるであろう。難しいことを研究する必要などないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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