「これが現実だ」と思うのは、ものごとが上手くいかない時だ。
逆に、思いがけない良いことがあった時は、「夢のようだ」と言うが、それは、考えてみれば面白い。
現実とは辛く苦しいのが当たり前であることを示唆するようではないか?
受験に落ちた時、入社試験を受けて採用されなかった時、スポーツの試合で、名門校相手に手も足も出ずに惨敗した時。
ずっと片思いしていた彼を、輝くような美少女にあっさり取られた時。
あるいは、勤めていた会社をリストラされた時。
それも、懸命に努力した結果がそれであれば、どうしようもない悲しみを噛み締めながら、「これが現実なのだ」と呻くのだろう。
『グローイング・アップ』というアメリカとイスラエル合作の1979年の映画をご存知だろうか?
ベンジーという名の純情な17歳の男子高校生は、同じ学校の美少女ニキに憧れる。
だが、ベンジーはある日、親友で、女の子に手の早いボビーに自慢げにこう言われる。「昨夜、ニキをモノにしたぜ」と。
「嘘だ!」ベンジーは認めたくなかったが、これが現実だった。
だが、ニキはそれで妊娠してしまい、ボビーは卑怯にも逃げる。
そこで、ベンジーは一切を背負う覚悟をし、金を借り回り、大切な自転車も売って、ニキに堕胎手術を受けさせ、その後も彼女をいたわり、面倒を見る。
ベンジーの純愛は報われるかに思えたが、ニキはボビーと寄りを戻し、ベンジーは、ニキが恍惚とした顔でボビーと抱き合っているのを見る。
これが現実だ。
ところで、悟りを開いた者が、そんな状況にあれば、どう感じるのだろう?
特に何も感じない。
なぜなら、悟りを開いた者にとって、我々が現実と言っているものは非現実なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシが悟りを開いたのは、上の『グローイング・アップ』のベンジーより1つ下の16歳の時で、マハルシはやはり普通の高校生(アメリカン・スクールに通っていた)だったが、ベンジーと同じようなことがあったところで、幼稚園の劇のようにしか感じないだろう。
例えば、マハルシは悟りを開いた後、好きな食べ物と嫌いな食べ物を区別しなくなり、同じように食べた。食べ物も彼にとっては、非現実だったのだろう。
悟りを開いた者にとって、世界はせいぜいがマジックショーで、自分のことも他人事のように感じる。
だが、1つ言っておく。
脳神経科学の知るところでは、脳の異常のために、世界や自分を非現実に感じる症状というのが、確かにある。
では、悟りとは、脳の異常なのだろうか?
そうではない。
科学では、脳の異常といった言い方をするのかもしれないが、それは、脳の機能障害ではなく、保護機能が外れたというものなのだ。
例えば、ある7歳の少女が、絵を習ったこともないのに、レオナルド・ダ・ヴィンチをも凌ぐ馬のデッサンを描いてみせたことがある。
彼女の脳には、普通の人とは異なるところがあり、そのために、言葉を上手く話せなかった。
しかし、それが正常化し、普通に話せるようになると共に、天才的な絵の能力も消えた。
つまり、彼女の異常な能力は、その能力を抑えていたプロテクション(保護)機能が、なぜか外れていただけなのだ。そのために、バランスが崩れ、言語機能に抑圧がかかっていたのである。
人間というのは、何らかの理由で、能力の大部分が抑え込まれている。催眠術を使って、そのプロテクションをちょっと外すと、平凡な人間が異常な能力を発揮する。
例えば、普通の小学生が野球ボールを時速百キロ以上で投げたり、空手の達人の秘技である、指でコインを曲げるというパフォーマンスを平凡な女性がやったりする。
ちょっと余談が長くなった。
悟りを開いた者にとって、世界も自分も非現実であり、どうなろうとも、さして関心がなく、どうでもいいことである。
だから、世界を現実として認識しているなら、我々は悟りを開いていない。
悟りを開いた人にとって、世界と同様、自分の身体や心も非現実であるのだから、自分の身体や感情に執着があるなら、悟りを開けていない。
言ってみれば、世界が幻のようなものであり、自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じるなら、悟りを開いているかもしれない。
では、悟りを開いた人は、非現実なこの世界で何も出来ないのか?
そうではない。
彼は、いかなる力でも起こせるので不可能はない。
イエスが空中からパンを出したり、水の上を歩いたり、病気を手で触れて治したようにだ。
だが、そのようなことは、何か特別な理由がない限り、行わない。そもそも、悟りを開いた聖者にとって、世界は無いに等しいのであり、作為する理由がない。世界の面倒は世界に見させ、あるがままに放置するだろう。
だが、聖者の無為は、無限の活動である。彼の沈黙は無限の会話だ。
コマに喩えれば、単に怠惰な人間は、止まって転んだコマだが、悟りを開いた聖者は、一見動いていないが、高速回転して安定しているコマだ。
聖者の心は至福に満たされている。
真の幸福は悟りを開くことによってのみ得られる。そして、悟りは我々を拒絶したりはしない。誰でも可能な自然なことなのだ。
聖者の心は限りなく静かで、我々から見れば無念無想だ。
我々は、無念無想になることが難しい。
しかし、聖者にとって、想念を起こすことが難しく、それは辛いことかもしれない。
しかし、人々のために、敢えてそれをする聖者がいくらかはいる。
本当は、至福の中にいれば良いのに、敢えて苦難の道を行くのである。
ここらについては、ブラヴァツキーが20年かかって集めた秘教の書『沈黙の声』に明かされている。
尚、珍しく、ヨガの大家、三浦関造氏による、至宝のバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』がAmazonで在庫されている。荘厳な文語体のギーターは、無心に読むことで、あなたを覚醒に導くことだろう。これは、英語からの訳であるが、『老子』にしろ、この『バガヴァッド・ギーター』にしろ、英訳に名訳が多いのである。それを基に、霊覚者、三浦関造氏が、言葉を超えた閃きで書いた無上の詩だ。三浦氏は驚くべき人物であったが、それはまた、別の機会に述べるかもしれない。
尚、易しく分かるように書かれた『バガヴァッド・ギーター』の名訳としては、田中嫺玉氏の、サンスクリット語原書からの訳をお奨めする。
悟った後で、どんな道を進むかは、自分で決めれば良いだろう。
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逆に、思いがけない良いことがあった時は、「夢のようだ」と言うが、それは、考えてみれば面白い。
現実とは辛く苦しいのが当たり前であることを示唆するようではないか?
受験に落ちた時、入社試験を受けて採用されなかった時、スポーツの試合で、名門校相手に手も足も出ずに惨敗した時。
ずっと片思いしていた彼を、輝くような美少女にあっさり取られた時。
あるいは、勤めていた会社をリストラされた時。
それも、懸命に努力した結果がそれであれば、どうしようもない悲しみを噛み締めながら、「これが現実なのだ」と呻くのだろう。
『グローイング・アップ』というアメリカとイスラエル合作の1979年の映画をご存知だろうか?
ベンジーという名の純情な17歳の男子高校生は、同じ学校の美少女ニキに憧れる。
だが、ベンジーはある日、親友で、女の子に手の早いボビーに自慢げにこう言われる。「昨夜、ニキをモノにしたぜ」と。
「嘘だ!」ベンジーは認めたくなかったが、これが現実だった。
だが、ニキはそれで妊娠してしまい、ボビーは卑怯にも逃げる。
そこで、ベンジーは一切を背負う覚悟をし、金を借り回り、大切な自転車も売って、ニキに堕胎手術を受けさせ、その後も彼女をいたわり、面倒を見る。
ベンジーの純愛は報われるかに思えたが、ニキはボビーと寄りを戻し、ベンジーは、ニキが恍惚とした顔でボビーと抱き合っているのを見る。
これが現実だ。
ところで、悟りを開いた者が、そんな状況にあれば、どう感じるのだろう?
特に何も感じない。
なぜなら、悟りを開いた者にとって、我々が現実と言っているものは非現実なのだ。
インドの聖者ラマナ・マハルシが悟りを開いたのは、上の『グローイング・アップ』のベンジーより1つ下の16歳の時で、マハルシはやはり普通の高校生(アメリカン・スクールに通っていた)だったが、ベンジーと同じようなことがあったところで、幼稚園の劇のようにしか感じないだろう。
例えば、マハルシは悟りを開いた後、好きな食べ物と嫌いな食べ物を区別しなくなり、同じように食べた。食べ物も彼にとっては、非現実だったのだろう。
悟りを開いた者にとって、世界はせいぜいがマジックショーで、自分のことも他人事のように感じる。
だが、1つ言っておく。
脳神経科学の知るところでは、脳の異常のために、世界や自分を非現実に感じる症状というのが、確かにある。
では、悟りとは、脳の異常なのだろうか?
そうではない。
科学では、脳の異常といった言い方をするのかもしれないが、それは、脳の機能障害ではなく、保護機能が外れたというものなのだ。
例えば、ある7歳の少女が、絵を習ったこともないのに、レオナルド・ダ・ヴィンチをも凌ぐ馬のデッサンを描いてみせたことがある。
彼女の脳には、普通の人とは異なるところがあり、そのために、言葉を上手く話せなかった。
しかし、それが正常化し、普通に話せるようになると共に、天才的な絵の能力も消えた。
つまり、彼女の異常な能力は、その能力を抑えていたプロテクション(保護)機能が、なぜか外れていただけなのだ。そのために、バランスが崩れ、言語機能に抑圧がかかっていたのである。
人間というのは、何らかの理由で、能力の大部分が抑え込まれている。催眠術を使って、そのプロテクションをちょっと外すと、平凡な人間が異常な能力を発揮する。
例えば、普通の小学生が野球ボールを時速百キロ以上で投げたり、空手の達人の秘技である、指でコインを曲げるというパフォーマンスを平凡な女性がやったりする。
ちょっと余談が長くなった。
悟りを開いた者にとって、世界も自分も非現実であり、どうなろうとも、さして関心がなく、どうでもいいことである。
だから、世界を現実として認識しているなら、我々は悟りを開いていない。
悟りを開いた人にとって、世界と同様、自分の身体や心も非現実であるのだから、自分の身体や感情に執着があるなら、悟りを開けていない。
言ってみれば、世界が幻のようなものであり、自分を地平線の彼方にいる誰かのように感じるなら、悟りを開いているかもしれない。
では、悟りを開いた人は、非現実なこの世界で何も出来ないのか?
そうではない。
彼は、いかなる力でも起こせるので不可能はない。
イエスが空中からパンを出したり、水の上を歩いたり、病気を手で触れて治したようにだ。
だが、そのようなことは、何か特別な理由がない限り、行わない。そもそも、悟りを開いた聖者にとって、世界は無いに等しいのであり、作為する理由がない。世界の面倒は世界に見させ、あるがままに放置するだろう。
だが、聖者の無為は、無限の活動である。彼の沈黙は無限の会話だ。
コマに喩えれば、単に怠惰な人間は、止まって転んだコマだが、悟りを開いた聖者は、一見動いていないが、高速回転して安定しているコマだ。
聖者の心は至福に満たされている。
真の幸福は悟りを開くことによってのみ得られる。そして、悟りは我々を拒絶したりはしない。誰でも可能な自然なことなのだ。
聖者の心は限りなく静かで、我々から見れば無念無想だ。
我々は、無念無想になることが難しい。
しかし、聖者にとって、想念を起こすことが難しく、それは辛いことかもしれない。
しかし、人々のために、敢えてそれをする聖者がいくらかはいる。
本当は、至福の中にいれば良いのに、敢えて苦難の道を行くのである。
ここらについては、ブラヴァツキーが20年かかって集めた秘教の書『沈黙の声』に明かされている。
尚、珍しく、ヨガの大家、三浦関造氏による、至宝のバガヴァッド・ギーターである『至高者の歌』がAmazonで在庫されている。荘厳な文語体のギーターは、無心に読むことで、あなたを覚醒に導くことだろう。これは、英語からの訳であるが、『老子』にしろ、この『バガヴァッド・ギーター』にしろ、英訳に名訳が多いのである。それを基に、霊覚者、三浦関造氏が、言葉を超えた閃きで書いた無上の詩だ。三浦氏は驚くべき人物であったが、それはまた、別の機会に述べるかもしれない。
尚、易しく分かるように書かれた『バガヴァッド・ギーター』の名訳としては、田中嫺玉氏の、サンスクリット語原書からの訳をお奨めする。
悟った後で、どんな道を進むかは、自分で決めれば良いだろう。
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