ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2012年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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タートル・マインド

格闘技で「亀になる」と言ったら、首を縮め、腕を堅く閉じてガードを固めることのようだ。
ところで、インドの至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』にも、神クリシュナが、アルジュナ王子に、「亀のようになれ」と教えるところがある。
それは、手足を感覚に喩え、それを自分の中に引き込み、外に出すなということだ。
人が感覚を内側に向けてしまうと、そこは無敵の要塞である。

巷に、「引き寄せの法則」というものがあって、自分の欲しいものを、自分の方に引き寄せて得ることができる方法があるという。
しかし、これらを見ていると、引き寄せと正反対のことをしている。
感覚をみだりに外側の対象に向けてさ迷い、心休まる時がない。そんなことで、満足な結果になるはずがない。
外に求めなくても、内側に全てあるのである。内側にある魔術師が、外のものを創っているのだ。神秘家でなくても、芸術家でも科学者でも、本当に真面目で洞察力のある者なら、必ずそう認めるだろう。コリン・ウィルソンの著作には、そういった考察をした研究者の興味深い事例がある。

では、どうすれば、感覚、あるいは、その元である心を、自己の内に引き込み、外にさ迷い出させないことができるのだろう?
それには、「私は誰か?」以外の想いを起こさないようにすることだ。そのためには、何か想いが浮かんだ時、「この想いは誰に浮かんだのか?」と問い、それが、「私に」であると了解すれば、即座に、「私は誰か?」と問うことを勤勉に続ければ、あなたは心を自己の内に留める術を見つける。
そうなれば、あなたを狙って銃を撃っても弾は外れるし、目の前で撃ったなら、銃はなぜか不発となるだろう。









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『エメラルド・タブレット』と響きあう至高の詩

私は別にキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないが、至高の詩は、古代イスラエルの王ダビデが書いた、旧約聖書の詩篇の中の19篇であると思う。
ダビデが書いたとは言ったが、これは人間に書けるものではないので、ダビデの心が静寂にあった時に、神(一応こう呼ぶが)がダビデに教えたものだと思う。
尚、ダビデは、賢王ソロモンの父である。イエスもまた、ダビデの子と呼ばれることがある(イエスはダビデの子孫)。
ダビデ王は、旧約聖書の『サムエル記』、『列王記』に登場する。
詩篇19篇は、美しいだけではなく、霊感と力に満ちた詩で、何千回も読んで暗記する価値があると思う。
意味を言葉で解説すれば、ちょっとおかしくなりかねない。言葉を超えたものだからだ。
もし、深く意味を知りたいと思えば、『エメラルド・タブレット』を読むことをお薦めする。
もちろん、『エメラルド・タブレット』と旧約聖書に直接の関係は無いのだが、詩篇19篇を読むと、『エメラルド・タブレット』が流れ込んで来るのを感じるのである。
詩篇19篇の全文は以下の通り。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。
日は花婿がその祝のへやから出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
主を恐れる道は清らかで、
とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
これらを守れば、大いなる報いがある。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。
どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、
故意の罪を犯させず、
これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、
大いなるとがを免れることができるでしょう。
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。

下記に、『エメラルド・タブレット』と共に、天才画家・イラストレーターであるギュスターヴ・ドレが、驚くべき精緻でなおかつ荘厳な銅版画の挿絵を描いた旧約聖書の抄本と、里中真知子さんが描く、『サムエル記』、『列王記』を含む漫画の旧約聖書をご紹介しておく。









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かたつむりが這うように文語の本を読む

ラマナ・マハルシは、常に「私は誰か?」と問えと言っていたし、イエスも、「自分は一体何なのか?」と納得がいくまで自分に問えと言った。
それで、私はある期間、ずっと、本当に1日中、「私は誰か?」と問い続けた。
別に、神秘体験は起きなかったが、ある理由から、問う必要がなくなった。どんな理由かというと、先入観を与えるといけないので言わないが、よければやってみて欲しい。

それからは、私は、文語で書かれた聖典を、かたつむりが這うような速さで読むと、文字の間に潜む霊が語りかけてくることが分かるような気がするようになった。
読めない文字があっても、意味が分からなくても差し支えない。じっと見ていれば、分かってくるのである。ただし、頭ではなく、直観によってだ。
そして、『エメラルド・タブレット』や『バガヴァッド・ギーター』の恐るべき深遠さに圧倒されるのである。
旧約聖書をちょっと眺めても、意味が分かるような気がした。
元々、誰でも分かるのだが、自分が既に分かっていることが分かったといった感じなのだ。

そういえば、竜王文庫の『エメラルド・タブレット』がまた、Amazonで多数在庫されている。
翻訳した田中恵美子さんは、神秘書の素晴らしい翻訳者であると思う。竜王文庫では、ヨーガの大家、三浦関造さんの翻訳書が多くあるが、なにぶん古い翻訳で、三浦さんは昭和35年に亡くなられているので、校正ミスの訂正も難しいのであるが、田中さんは、三浦さんが朱入れして校正した書籍を見つけて訂正したりといったこともされているようだ。素晴らしい献身であると思う。
『エメラルド・タブレット』を、賢くなるために読めと、著者のドリール博士は言ったが、それが力を得ることなのだろう。
強くなるために読んでいただきたいと思う。









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十字架は人の身体の形

人が両腕を真横に広げた姿は十字架になる。
そして、縦と横が交差する部分が、人間では胸になる。
人が、自分の心の在り処を示す時、手で胸を押さえるが、それは、感情が高ぶった時に、痛みや高揚感を感じる胸のあたりに心が在ると感じられるからだろう。
そして、感情の強さと共に鼓動が強くなる心臓に、中国では、心の臓器を指す心臓と名付け、我が国もそれに倣っている。英語では、心も心臓もハートと言う。

我々の肉体は十字架なのだ。
そして、中央部分に心の座がある。
これは、十字架に磔にされたイエスと同じで、イエスは、自我を表す。
イエスが十字架上で死んだように、我々も、目には見えないが、肉体に磔になっている自我を殺さなければならない。
それは、当然苦痛である。
イエスが、「主よ、なぜ我を見捨てた」と叫んだように、我々の心(=自我)も叫ぶのである。
しかし、見捨てなければならない。
主は、我々の意識だ。意識は、自我が苦しむのを、ただ見ているだけでなくてはならない。

どんな立場の人間であれ、生きている限り、辛いことが必ずある。
辛い状況、出来事は、犠牲を求める高次の心が起こしたものだ。
その時、我々は、自我を守らずに、犠牲に差し出し、見捨てて殺さなくてはならない。

アメリカの思想家ヴァーノン・ハワードは、このことについて、こんな書き方をしている。
心がぐらつくとき、ぐらつくままにさせなさい。それを、科学者のように冷静に見つめなさい。
すると、やがて、心は抜け落ちる。その時、何が起るかを見ていなさい。

イエスは、磔で死んだ後、3日で肉体を造り直した。
だが、それは、以前と同じ身体ではない。弟子達ですら、復活したイエスを見て、それが誰か分からなかったと、福音書に記されている。
我々もまた、自我を滅ぼした後、新しい純粋な心を造るが、それは、黄金色に輝くものだ。古来、このことを錬金術(アルケミー)と呼んできた。

王様だろうが、大富豪の子供であろうが、犠牲を差し出すチャンスはいくらでもある。この世はつらいものだ。
ある王様が、「私の人生を台無しにしていた泥棒を見つけた。即刻死刑だ」と言ったという伝説があるらしいが、それも、このことを表している。

普通の人は、自我に加勢して、自我を救おうとするので、キリストになれない。
しかし、自我に、「なぜ見捨てた」と言わせれば、我々の勝利である。
幸いなことに、辛く苦しい人生では、キリストになるチャンスに満ち溢れている。
これまでは、極端に悲惨な状況にあった者が、一瞬間、キリストの姿を垣間見せることはあったが、それは、自我を救いようがないからだ。
しかし、我々は、それほどの不幸を待つことはない。
見捨てることさえ出来れば、小さな苦しみで良いのである。
その訓練は、食の慎みだ。
あまり極端にやっては、かえって自我は強まるが、食べたいという自我を見捨て、食を厳しく慎めば、自我を見捨てる訓練になるのである。
これに慣れれば、あらゆる状況で、苦しむ自我を見捨てることが出来るようになる。
自我と一体になって、メランコリー(憂鬱)に浸っているようでは、キリストになれない。









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弱者が強者に登りつめた時

弱くて、辛く苦しかった者が、強くなって、自分を虐げてきた者達に復讐を果たす物語は沢山ある。
今、引きこもったりして、辛い毎日を送っている者は、そのような姿に憧れるかもしれないし、また、そうあるべきと考える者もいるのではないかと思う。

手塚治虫さんの『バンパイヤ』という作品では、中学生の時、皆にいじめられていた間久部緑郎(まくべろくろう)という男が、強力無比な巨大犯罪者、通称「ロック」となり、自分を虐げた世界に復讐するかのように大きな悪事を繰り返し、その世界をも手にいれようとする。だが、ある時、ロックと同じ歳くらいの若い男が、ロックを訪ねてくる。どう見ても、ただの田舎者だが、彼の顔を見ると、冷酷無情のロックの顔が見る見る緩み、子供のようになる。しかし、その男は、有無を言わせず、ロックの顔面にパンチを叩き込み、さらに、容赦なくてロックを叩きのめす。彼は、社会的には下層の庶民だが、子供の時、いじめられていたロックをかばい、いじめっ子達をやっつけ、そして、ロックと一緒に遊んであげていたのだった。天才的頭脳の情け無用の極悪人ロックも、彼にだけは弱かったのだ。
世の中で、富と権力を傘にのさばっている者達だって、そんな存在の1人や2人はいるものだ。
結局、ロックは滅ぶことになる。

イタリアの大俳優だったジュリアーノ・ジェンマが主演したマカロニ・ウエスタン『怒りの荒野』では、父親の知れない娼婦の子であるスコットは、町の皆に虫けらのように扱われながら生きてきたが、流れ者の凄腕ガンマン、タルビーの子分になってのし上がり、遂に、タルビーと共に町を手中に収め、かつて自分を虐げた連中を震え上がらせる。
スコットにも、弱い相手がいた。親代わりに彼の面倒を見てくれたマーフという老人だった。ところが、今は小さな馬屋を営むマーフは、昔、遠い町で保安官をやっていた。その時、タルビーのことを知っていたのだ。マーフは、町の支配者となったタルビーを追い出し、スコットを救うために、保安官に復帰するが、タルビーに殺される。目が覚めたスコットはタルビーと決闘して見事、タルビーを倒すが、自分も銃を投げ捨てる。
スコットの場合は、破滅を免れた。

弱かった者が、復讐心を起こすと、とりあえず悪霊と言うが、そんな闇の力の援助を受け、急に力がつき、思いを果たしていって快楽に酔うことがよくある。
だが、悪霊としては、そうやって、心の弱い者をもてあそび、また、自分も偽りの力を楽しむのだが、最後には、その者を、悲惨な状態で捨てて喜ぶのである。
そうやって滅んだ、成り上がりの事業家、政治家、犯罪者は数知れない。ヒットラーなんてのも、そんな者だったのかもしれない。
『エメラルド・タブレット』にも、闇の力に対する警告は、何度もしつこく繰り返している。このような秘教の教えに熱心に取り組む者には、復讐心を持つ虐げられた人達は少なくないことを知っているのだろう。そして、それはそれで悪いことではない。人間は苦しい目に遭わなければ、強くなろうとは思わない。幼い頃から恵まれてきた人間というのは、意気地がないものだし、それはやはり正しいことではない。
しかし、いつまでも、復讐心や恨みの心を原動力にしていては、やがて、暗黒の力に絡め取られ、餓鬼、阿修羅の世界に入り、やがて地獄に落ちる。
そして、『エメラルド・タブレット』が、ただものが書いたものではないのは、この書では、悪の力を否定するのではなく、その中にも、透明な力があることを教えていることだ。

子供の女の子に人気がある、アニメのプリキュア・シリーズの最初の作品『ふたりはプリキュア』では、敵がどこか、見ている者に痛みを感じさせた。子どもには分からないだろうが、敵達は、心が弱いから悪になったことが、大人が見れば分かるのだ。ポイズニーという名の敵の女戦士は、「力のない正義は悪に劣るのよ」と言ったが、彼女は、悪とは、所詮、「劣る」存在であることを認めていた。きっと、彼女も、元々は弱い存在だったのだろう。強くなりたくて、心を悪魔に売ったが、どこかにまだ、純粋な魂が残っていたから、そんなことを言ったのだろう。しかし、手遅れだった。彼女は滅ぶしかなかった。
ピーサードという敵も、全くそうだった。彼は、心の純粋なプリキュア達を前に、なぜか卑怯な手を使わず、「全力でかかってこい」と言って、真正面から対決する。そして、破れたピーサードに、プリキュア達は哀れみを感じる。今は、ただの子供向けアニメになったが、実は素晴らしい作品だった。

現在、放送中の『灼眼のシャナ・ファイナル』で、かつては、シャナに石ころのように扱われた男子高校生、坂井悠二は、シャナ達の敵の首領にまでのし上がり、シャナの前に帰ってきて言う。「シャナ、僕は強く、強くなった!」と。そして、高邁を理想を語るが、シャナは同調しない。
私は、もう何年も前に、小説でその部分を読み、悠二が強くなったことは喜んでいたが、結局、彼も、どこか弱いのだろう。

『スター・ウォーズ』では、ジェダイになることを望む、ルーク・スカイウォーカーに、ヨーダは、フォース(力)の暗黒面に取り込まれないよう、強く戒めた。ルークの父、アナキン・スカイウォーカーは暗黒の力に負け、ダースベイダーとなった。それを止められなかったことを、ヨーダは悔やんでいたのだろう。

あなたも、秘教の教えを学べば、坂井悠二のように、アナキン・スカイウォーカーのように強くなれるだろう。
しかし、力の暗黒面に負ければ、黒悪魔の思うつぼである。
至高の力を目指すための教えと、暗黒力に対する警告は、下記にご紹介する書に詳しい。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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