我々は、仕事をする目的を間違えていることから、仕事が重荷になってしまい、日々、無力感に打ちのめされている。それで、グルメやつまらない娯楽で気を紛らわせるが、それはさらに惨めさを増すだけなのだ。
まず、仕事に関する悲劇的な誤りを示していこうと思う。
スポーツでは、アマチュアであっても、国際大会等での成績に応じて賞金が出たり、人気が高いスポーツでは、資金源豊かな協会から、様々な場面で選手やチームにボーナスが支給されることは普通になってきた。
先頃、中国女子サッカーチームに対し、中国国内のある企業から、勝利の際の賞金提供の申し出があり、選手の1人が「モチベーションが上がる」と歓迎する様子が放送されていた。
ところが、我が国の男子サッカー日本代表選手達の中には、国際マッチでの賞金が少ないのが不満で、モチベーションが上がらないことから、増額を求めているといった報道を見たことがある。
様々な言い分はあろうが、まさに、「金が全て」ということである。
これは、何もスポーツだけではない。全ての人が金のためにだけ仕事をするようになってしまっているのだ。
だが、それは正しいことだろうか?あるいは、それは仕方が無いことだろうか?
あなたは、金のためだけに診療をする医者にかかりたいだろうか?そんな医者に家族を任せたいだろうか?
金のためだけに働く教師に自分の子供を預けたいだろうか?そんな教師のいかなる命令にも自分の子供が服従していることを何とも思わないのだろうか?
多くの人が、自分を省みず、医者や教師、あるいは、政治家や警察官は金のためにだけ仕事をしてはいけないと思っている。それどころか、彼らの仕事は「聖職」であり、金のために働くという考えを持つことを許さない。その恐るべき矛盾に気付かない。
我々がそうなら、誰でもそうなのである。実際、既に、大半の医者や教師、政治家も警察官も、金のためだけに働いているのである。
何のために仕事をするのかというと、現在のアメリカ的価値観をすっかり叩き込まれた者には笑われるだろうが、内にある高度な霊性を引き出すためである。
そのためには、仕事によるしかないのである。
ただし、それには、ただ義務として仕事を行わなければならない。
医者は、患者の苦しみを除き、病んだり、傷ついたりした身体を自然で健康な状態にするのが義務だし、教師は、子供を訓練し、賢明で逞しく、誠実な人間に育てるのが義務である。
製造業者なら、人々の役に立つ製品を効率良く作るのが義務だし、セールスマンは、良い製品を人々に届けるために販売することが義務である。
主婦であれば、夫を助け、子供を正しい人間にきちんと育てるのが義務であろう。
ただ義務を果たし、結果にこだわらなければ、自己の人間性を向上させ、理想的な人格を持つようになっていくのである。そうすれば、自ずと幸福になっていく。
だが、例えば、セールスマンは結果にこだわり、とにかく売上げが多ければ多いほど良いと考える向きもあるかもしれないが、そうではない。義務として仕事を誠実に遂行していれば、売れるべき分は売れるのである。もし誠実に販売のための努力をしても売れないのであれば、売るべき製品ではないのである。
報酬を求めず、ただ義務のために仕事をすれば、成果は自然についてくる。
「仕事は義務ではない。激しい情熱がなければならない」と言う事業家も多いが、それは修羅の道である。強い風も、激しい雨も長くは続かない。人に激しいことをさせるのは欲望であり、それは災厄をもたらすのである。
誠実に義務を果たす仕事には、自然に情熱は起こるのである。しかし、過度な情熱、つまり、熱狂は必要ないし、そんなものを持って仕事をすれば、必ず悲惨を味わう。
もしサッカー選手をやるのが義務だと思うなら、立派にサッカー選手をやればいい。
もし戦争で戦うことが本当に義務であるなら、結果を恐れず、勇敢に戦うしかない。
しかし、金のため、利益や報酬のためにやるなら、人間にとって最も大切なものを失う。それに比べれば、巨万の富も、世間の栄誉も、まるで取るに足りない些細なものである。
そして、義務として誠実に仕事をし、結果は供物として神仏に捧げるだけだと思えば、必要なものは必ず手に入るのである。
また、こういった仕事のやり方に徹することが出来た者が、案外に世俗的にも成功し、しかも、それを続ける限り、長く繁栄するのである。ただ、やはり、結果は我々にどうこうできることではなく、天に任せるしかない。しかし、義務を誠実に果たした上で天に任せるのであれば、いかなる結果となっても、我々に後悔は無く、満足を得るはずである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。