ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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ホツマツタヱについて

日本の民族的古典といえば、古事記と日本書紀であるが、これよりも古く、日本の古代文字である神代文字(かみよもじ)で書かれたホツマツタヱというものがある。
ホツマツタヱは、古事記や日本書紀と類似してはいるが、内容は大きく異なる。
ところが、ホツマツタヱは江戸時代あたりに書かれた偽書であるという説も有力であるらしい。
私は、まさかそんなことはあるまいとは思うが、実を言うと、そんなことはどうでも良いと思っている。
仮に偽書であったとしても、これほどの優れた内容の大書を書くのは恐るべき才能だし、それを書いた者は、間違いなく天啓を得て書いたのだと思っている。
絵画においても、有名な画家の絵が模倣されることはよくあったが、その全てが価値の無い偽物という訳ではなく、オリジナルの作者の手法をヒントにした独自の絵画と見なされることもよくある。
また、絵画のことだけではないが、模倣品が本物を上回ることもある。
私は、もし偽書だとしても、ホツマツタヱは、古事記、日本書紀を超えるものだと思う。ただし、そうは言っても、古事記や日本書紀に価値が無いと言うつもりも毛頭無い。もとより、古事記も日本書紀も、正確な歴史書ではなく、重要なことを神話の形で象徴的に表現したのであり、それは、ギリシャ神話や旧約聖書と同じである。
ギリシャ神話は伝承の寄せ集めなのだが、神々の誕生と世界の創世については、ヘシオドスの叙事詩「神統記」が、その後の、トロイア戦争を描いたホメーロスの叙事詩「イーリアス」、その続編「オデュッセイア」が最も正統なものと考えて良いと思う。また、神々について、ホメーロス風の詩で詠った「ホメーロス風賛歌」というものもあるが、これらは無名の詩人達の作品と言われ、著者について、全く分かっていない。
それなら、「ホメーロス風賛歌」は偽書ということになるかもしれないが、その素晴らしさから世界的な価値が認められており、これを非常に重要視している研究者も多い。
それでいえば、やはりホツマツタエは、偽書というか、後の世の創作であるとしても、やはり、その内容により、優れたものと見なすべきと思う。

私は一昨年、神道の祝詞である大祓詞(おおはらえのことば)を5千回程唱えたことがある。1回唱えるのに少なくとも3分以上はかかり、休日は1日百回以上唱えたが、そのためには、6~7時間かかった。
神道家の葉室頼昭さんの著書の指示の通り、意味は全く考えず、ただ、言葉として唱えた。
政木和三さんも、仏教のお経は意味が大切だが、祝詞には意味は無く、唱えることが大切だと言っておられた。
5千回唱えても、私は、正確にソラで憶えることは出来なかった(憶えようという気もなかったが)。
ところが、音としいては、心身に沁み込んでいたのではないかと思う。そして、古事記を読んだ時より、ホツマツタヱを読んだ時の方が、我が内なる大祓詞とよく共鳴するのである。その感覚で、ああ、ホツマツタヱは本物であると感じたのである。

また、私の好きな女神に稚日女尊(わかひるめのみこと)という、瑞々しい日の女神という意味の神がいる。
稚日女尊は、古事記にはその名が現れず、日本書紀にわずかに登場する。
稚日女尊を主神として祭る神戸生田神社では、稚日女尊は、天照大神の妹神であるとしている。
ホツマツタヱでは、天照大神は男神で、アマテルである。そして、稚日女尊は、イザナキ、イザナミの長女で、アマテルの姉であり、生まれた時に、ヒルコ(日霊子)と名付けられた。古事記では、ヒルコ(水蛭子)は、奇形の未熟児として生まれたので、舟に乗せて捨てたとされる。ホツマツタヱでは、ヒルコ(日霊子)が生まれた時、イザナキ42歳、イザナミ33歳の厄年であったので、決まりに従って、舟に乗せていったん捨て、それをすぐにカナサキが約束通り拾い、連れ帰って育てたのだ。
ヒルコは成長してワカヒメ(和歌姫)となり、歌の達人となって、歌の力で優れた働きをした。
ホツマツタヱを読むと、やはりワカヒメは非常に重要な存在であり、彼女についての記述がほとんど無い古事記や日本書紀はやや不足と思われ、よりもホツマツタヱは本物に違いないと感じるのである。
ホツマツタヱは、我々日本人が自分を知り、その意識の奥深くに住む神を呼び覚ますきっかけとなるに違いない。







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満腹するまで食べて自分と世界を不幸にするな

水野南北は、江戸時代の10代将軍家治(いえはる)から11代の家斉(いえなり)までの時代の観相家だ。観相とは、顔や身体の相で運命を鑑定する占術である。
南北の観相の実力は凄く、全国から鑑定依頼者が押し寄せ、南北は大富豪になった。さらには皇室に出入りするまでになり、遂には天皇に貴族に叙せられることになる。南北は、若い頃は牢屋敷に入れられるようなチンピラだったことを思えば信じられないことである。弟子は直弟子以外を含め千人を超えていたと言われる。
ところが、それほどの観相の達人でありながら、南北は鑑定が決して百発百中でないことに悩んでいた。
そこで、断食と水行の荒行で禊していたところ、伊勢神宮の外宮で天啓を受け、「食が全て」と悟る。南北は、この伊勢外宮に祭られたトヨウケ神からの啓示と確信する。
トヨウケは、古事記ではイザナミの尿から生まれたワクムスビの娘とされる。しかし、古事記や日本書紀以前の書とも言われるホツマツタヱでは、トヨウケはイザナキ、イザナミの親で、アマテル(天照大神)の祖父に当たり、業績からも、アマテルと並ぶほどの偉大な神人とされている。
南北は以降、鑑定の際に、被鑑定者の食生活について尋ねることとした。ポイントは食が多いか少ないか、美食か粗食かである。すると、南北の鑑定は、万に1つの外れも無くなった。
やがて、南北は、観相そのものについて語らなくなる。それを修得するのに長年、苦労をして何万もの鑑定で磨き上げてきたにも関わらずである。つまり、鑑定するまでもなく、食を慎んでいれば健康で幸運、美食で飽食であれば健康、経済、家族、社会全てにおいて悲運、衰運であると分かったからである。他のことは特に問わず、たとえ遊郭遊びが好きな男であっても、遊びながら食を慎めと言ったとも言われる。南北自身、女好きは生涯治らず、妻は8人いたと言われる。
南北は、大長者になっても、自ら厳しく食を節し、米は決して食べず、麦と野菜と汁の質素な食事をした。酒は大好きであったが、1日1合(約180ml)と厳しく定めた。先述通り、妻は8人おり、いずれも悪妻であったようだが、南北は妾ではなく全て正妻として大事にした。それも、7つの蔵を持つ富豪南北ならではだろう。そして、親切な人達に囲まれ、健康なまま、当時としては異例の75年の長寿を全うした。

南北の時代、江戸は豊かな町で、美食、飽食する者も多かったと思われる。肉食も珍しくはなかった。この点でも、南北の教えは現代の我々にも実に参考になると思う。
美食、飽食であれば、一時は成功して奢る者も、必ず、健康、家庭、経済、友人全てで悲惨なことになるのは、まず例外のないことは十分に実証されていると思う。
しかし、何事も、矛盾があるなら、それを解消することができなければならない。
例えば、今でも豊かな国は実はほんの一部で、世界の大半は貧困であり、多くの餓死者がいる。食を慎むどころか、飢餓に苦しむ人達は全く幸運ではない。南北の教えには欠点があるのだろうか?
だが、食の慎みとは自らの意思で行うものだ。食べ物が3つあれば、1つは食べず、貧しい者に施すか、そうでなくても、心の中で神に捧げることが食の慎みである。
エマニュエル・スウェーデエンボルグは、英国にいた時、夕食を少食食べ過ぎたと思ったことがあった。その時、不思議な現象が起こった中で、1人の霊人が現れ、スウェーデンボルグに「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と言ったという。スウェーデンボルグは、それを肝に銘じ、生涯忘れることはなかった。ゲーテ、カント、ヘレン・ケラー、エマーソン、鈴木大拙らに崇敬されたスウェーデンボルグにおいてさえ、食の慎みとは強く心に留めるべきものであるのだ。
我々が食を節し、それを貧しい国に回すなら、食料は十分なはずと思う。食の慎みは回りまわって世界を幸福にする。食の慎みこそ最大の徳と言われる所以はそこにあると思う。







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流れ者の一匹狼への憧れ

東日本大震災の後、結婚する人が増えているという。だが、私は信じていない。多分、政府の情報操作か、そうでなければたまたまだろう。
そりゃ、震災がきっかけで結婚しようと思った人もいるに違いない。そして、何人かのそんな人を見つけてテレビカメラを向け、あたかもそんな風潮があるように見せかけるわけだ。
よくあるのが、スポーツの試合を見た被災者が「勇気をもらいました」とコメントするものばかりを選んでテレビにでも流せば、見ている人々は、それが被災者の総意だと思ってしまうのだ。被災者はスポーツどころではないはずだ。
日本人が付和雷同しやすいのはご存知と思う。日本は、国民の思想統制のしやすい国である。

ところで、結婚に何か意味があるだろうか?
実は何もない。
だが、国家には大きな意味がある。
結婚すれば、一つ所に住居を決め、家を建てる場合も多い。もちろん、国は、国民が家を持つことを良いことであるように思わせたがっている。家と家族を抱えてしまえば、国の思惑通りに生きるしかなくなる。いかに政府に文句を言っているように見えても、実際は、国の敷いたレールから一歩も外れていないのだ。

結婚というものは、世間に平伏し、本当の人間、本当の自分であることを止めることだ。
だが、多くの人はそうは思っていない。
それは、我々が世間から叩き込まれた迷信のためだ。
その迷信とは、「結婚してこそ立派な一人前の人間」「結婚していないのは恥ずかしいことだ」「結婚しないのは、何か問題があるのだ」「結婚しなければ人生が分からない」などである。結婚している人のどれだけが、「立派で」「恥ずかしくない」「問題のない」「人生が分かった」人間かを考えれば、そんなのが全くの嘘っぱちであることが簡単に分かる。それでも、我々は騙されるのだ。

世間の教義や信念を自分の考えだと思って何も考えない人間は国の奴隷になるしかない。
逆に、国が嫌うのは、住居を定めない1人者である。
面倒な転居手続をきっちりしないと不都合が多いのは、国民を一箇所に定住させるためで、そうさせることが国にとって都合が良いからだ。
さらに、国は、マスコミを使い、住居不定者のイメージを徹底的に貶めている。犯罪者の紹介では「無職」と共に「住所不定」を強調し、住所が定まらない者がいかに悪いものかをイメージ付けるのである。
しかし、住所が定まっていないことの何が問題なのだろうと本当に考えれば、実際は何の問題もないことが分かる。ただ、わが国の法律の中では、生活に不都合が多いというだけのことであり、それは先ほども述べた通り、国が意図的にやっていることだ。

アメリカの西部劇では、流れ者の一匹狼は格好良い。しかし、そのためには強くなくてはならず、凡人には難しい。だが、特に若い男であれば、それに憧れるのは自然で健康的なことだ。
「南から来た用心棒(原題:アリゾナ・コルト)」では、「コルト1丁腰に下げ、男荒野の1人旅」と歌う、身震いせずにいられない素晴らしい主題歌(歌手も美声である)と、主演のジュリアーノ・ジェンマのしびれるような格好良さに、男なら憧れずにいられるだろうか?
いや、そもそも、ジュンマ演じる流れ者の凄腕ガンマン、アリゾナ・コルトは、なぜ旅をするのだろうか?この作品の中で。アリゾナ・コルトは、町の英雄となり、素晴らしい美女にも愛され、町に留まって幸福に暮らせたはずだ。しかし、彼は、全てを捨て、敢えて苦難が待ち受ける旅に出るのである。それは、彼が世間に平伏し、国の奴隷になりたくないからではないのか?苦難があっても、あるいは、寂しくても、本当の自分、本当の人間でいる方が、奴隷の人生より素晴らしいことを知っているからではないか?
映画を見ている人は、それを思って感動するのだ。

「エル・カザド」というアニメでは、ナディーとエリスという2人の少女は、苦難の旅の末、子供がいない豊かで優しい老夫婦に巡り合った。老夫婦は、2人に温かい愛情を示し、ずっと自分達の家にいるよう強く願う。そして、少女達も、この老夫婦が好きだし、その家の居心地も良かった。辛いことばかりの人生を歩んできた2人の少女達には、初めて安らぎの場所だった。
しかし、2人は旅立つのだ。視聴者は誰もおかしいとは思わない。老夫婦も、悲しくはあっても、納得してすっきりしただろう。むしろ、彼女達を無理に止めなくて良かったと思っているだろう。
言い古されたことだが、誰でも、カゴの中の鳥でいるより、自由に空を飛びたいのだ。
荘子も言ったのだ。甲羅を祭られる神亀になるより、泥の中で尻尾をひきずる亀でいたいと。







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見えない本当の自分とは

ブルース・リーの主演映画「燃えよドラゴン」の冒頭部分で、主人公の若き武道家リー(役名と役者名が同じ)が、老師に、「お前が求める究極の技は?」と問われ、「技を持たないこと」と即答したのが印象深い。推測だが、これはブルース・リーの武道家としての主張をそのまま取り入れたのだろう。
ところで、ブルース・リーが主演することを希望していたが、デビッド・キャラダインがその役をすることになった、3年にも及んだアメリカのテレビドラマ「燃えよ!カンフー(原題はカンフー)」は、リーも企画に関わっていたようだが、この作品の中で、少林寺の高僧が言う「少林寺の教えを受けた者は、見ても見えず、聴いても聴こえず、触っても指に感じない」というのも、武道の真髄、いや、宇宙の真理を表していると感じる。
「燃えよドラゴン」で、リーはその後、「自分が在なければ敵は在ない」と言うのである。

モーツァルトは、「音楽の究極の技法は?」と問われ、「音楽を用いないこと」と答えている。
サン・テグジュペリの「星の王子様」の最も重要な言葉は、「本当に大切なものは目に見えない」ではないだろうか?

だが、我々は、見えないもの、あるいは、五感で感じないものを、全く信じることができないようになってしまった。神、天使、妖精は、ただのメルヘンの世界のものでしかなくなった。神といったら宗教臭くて嫌だとか、地震や津波などの自然現象を司る妖精の話は頭から馬鹿にするのだろう。
だが、視力も聴力も持たなかったヘレン・ケラーが、「五感は幻想、理念(深い意味で捉える必要がある)が真理」と言うのである。彼女は、世界の人々に奉仕をするのに、自分の障害を何の不都合とも考えていなかった。

世界の中で、目に見えるもの、五感で感じるものなど、ほんの僅かだ。
心は、五感で感じることしか分からないが、意識の大部分を占める潜在意識を心は感じることができない。ほんの少し、胸や腹に様々な感覚として伝わってくる程度だ。例えば、胸の痛みとか、腹の違和感などである。だが、その感覚は非常に重要なものである。
つまるところ、心や五感は、世界についても、自分についても、ほとんど知らないのだ。
見えないものの存在を信じないということは、世界や自分を、実際よりなんとも小さく考えてしまっているということだ。
真に大きな存在、真に偉大な存在は、見ても見えず、聴いても聴こえず、触っても指に感じないのである。

だが、見えはしなくても、その影響なら感じることが出来る。古来から、魔法というものは、その影響を通して、見えないものとのつながりを作る技術なのだ。
アメリカの精神医ミルトン・エリクソンは、そのあまりに見事な治療のため、魔法を使って治しているのではないかと言われるほどだったが、実際、彼は魔法と同じ方法を使っていたのだ。
潜在意識に至る道は、潜在意識に入り込んだ、個人的、民族的なものの影響が大きい。それは幻想と言って良い。このあたりは、吉本隆明さんが「共同幻想論」でも述べている通り、個人幻想、対幻想、共同幻想などに分けられるのかもしれないが、結局のところ、対幻想(主に家族間の幻想)や共同幻想(国や民族レベル)も、個人幻想の中にあるのだ。だから、我々が自分の幻想を消せば、我々は潜在意識という宇宙に通じるのである。
我々は、自分の心の作用をよく知らないといけない。心がどう反応するのか、どんな反射作用があるのか、常に見張っている必要がある。
そして、我々の心の中に隠れているものを見つけやすくする工夫が必要だ。何だかんだ言っても、人は自分が育った国の伝統の影響を受けている。なら、それを知らなければならない。神道家の葉室頼昭さんが、常に古事記を読めと言っていたが、やはりそれが、我々が自分を知る良い方法なのだ。尚、国は違っても、ギリシャ神話、旧約聖書、易経や老子(道徳経)などは、やはりよく似ているので、読めば役に立つだろう。
ソクラテスが「汝自身を知れ」と言い、ラマナ・マハルシが「私とは何か?」という問題を提起したが、我々は、その解答に容易くたどり着く時が来たのだ。







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福島、宮城は日本の聖なる地である

谷川流さんの小説「涼宮ハルヒ」シリーズは、とんでもない発行部数を記録しているようだが、私は、この作品が日本の神話に結びついていることがヒットの1つの要因と思っている。
ハルヒというのはヒロインの少女の名だが、私は以前から、ハルヒとは、張(ハ)る霊(ヒ)だと思っていた。春のように膨らみゆく霊(生命)のことだ。著者の谷川さんがどう思っているのかは全く存じないが、博学な谷川さんのことだから、その程度は簡単に思い付いただろうし、それでなくても、神が霊感を授けたのだろう。
ハルヒは美少女だが、普通の人にはエキセントリック(風変わり)に感じる。その性質は、小学6年生の時のある事件がきっかけで始まったようで、それが彼女に神のごとき力を発現させたのだと思われる。
ところで、この作品には、ハルヒと同じ歳の、もう一人の神である少女が登場する。正確には、ハルヒに代わって神になったかもしれない少女だ。谷川さんは、この少女に、佐々木という苗字だけ与えているところが面白い。佐々木とは、神酒(みき)のことなのだ。谷川さんがそう言っているのではなく、伝説からである。
今でも、酒のことをササと言う。ササとは漢字で笹だ。笹と竹は、正確には別のものだが、竹笹という言葉もあるとおり、特に区別しない場合も多い。
神酒は、竹筒に入れられたことから、神酒のことを笹気(ササケ)と言い、それが佐々木になったのだと言われる。
ちなみに、杯(さかづき)というのは、逆月で、その器に逆さに映った月を飲むことからそう名付けられた。
ハルヒの運命を決めた日は、7月7日の七夕であるが、言うまでもなく、七夕には、笹を飾る。ハルヒも、というより、谷川さんも、七夕の重要性に気付いていたのだろう。
七夕は、49の神である49の星を祭ることだ。
斎藤一人さんという日本屈指の事業家は、霊感により、49という数字の重要性を教えられ、大切にしているようだ。

ところで、現在、震災の深い爪痕を残している東北地方は、日高見地方と呼ばれ、その、福島、宮城、岩手、秋田、山形は日本の聖なる地なのである。
日高見とは、朝日が立ち上るのを見る地という意味で、天のタカマノハラと対応する、地上の高天原である。福島県には、神の国を示す「常世(とこよ)」の名を持つ地名がいくらかある。
東北地方を陸奥(みちのく)と言うが、陸奥とは、天成る道の奥義という意味で、非常に重要な地だ。
高天原の本拠地は宮城と言われ、今でも七夕の星祭が盛んである。
詳しく知りたい方は、鳥居礼さんが書かれた「ホツマ物語」が実に分かりやすい。これは、日本の古代文字で書かれた「ホツマツタエ」という古典を、誰もが読めるよう、鳥居さんが物語風に書いて下さったものだ。(※「ホツマツタエ」は捏造書であるという説もあるが、私はそう思っていない)

日本の聖なる地である、日高見地方を原発で汚した報いが今回の大震災かもしれない。
そして、陸奥全てから、日本全土にまで、放射能汚染が広まろうとしている。日本人が廻向(徳を積み、それを回りに向けること)しなければ、日本の滅びは確実であると思うし、もうそうなり始めている。
そのためには、我々の食を、ホツマツタエに書かれているように改めることが、まず必要だ。美食、飽食を捨て、アマテル(天照大神)の説く、良い食にするのだ。
水野南北も、チンピラだった若い時、禅僧に、「食の慎みこそ最高の徳」と教えられて運命を変えたのである。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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