当たり前のことかもしれないが、昔から人間は身体を神聖なものと感じ、大切にしてきたが、それは、我々の想像以上である。ほとんど原始人といえる時代の人類が、埋葬の習慣を持っていたことが分かっており、葬儀のために花を飾ったり、絵を描いたりし、さらに、死後の世界を想像し、そこから、宗教や芸術が生まれ、それらが精神文明の起源となったとも考えられるのである。
SFの世界では、人造人間、アンドロイド、サイボーグという確固とした人気分野であるのだが、それらに暗いイメージがある方も多いと思う。
冒すべからず神聖な身体に人の手を入れるというのは、よほど気をつけて描かないと、救いようがないほどドロドロしたものになるということに、作家すら、なかなか気が付かない。それをはっきり理解する人というのは、相当な洞察力の持ち主なのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』や『キャシャーン Sins』、あるいはアメリカ映画の『ロボコップ』などは、名作ではあっても、見ていたら相当に疲れて気分が滅入ってしまうのは、大昔のフランケンシュタインの映画のようなところがあるからだ。これらのテーマで情念に浸ると、どうしても、あまりにドロドロしてしまうのである。
渡辺昇一さんの「日はまだ昇る」という昔の著書の中の話だが、カナダ人教授の前で大学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌ったところ、その教授が「なぜロボットが友達なんだ」とカンカンに怒ったというものがある。鉄腕アトムというアニメは、アトムを、子供達に愛されるよう、限りなく人間の子供っぽく描いていたので、ほとんど陰鬱さは無いが、西洋ではそんなものが無かったのだ。それで、人造人間といえば、フランケンシュタインのイメージなのだそうだ。
アトムは、元々が子供向けだったから良かったが、やはり、大人の視点でロボットを扱うと、どうしても重い雰囲気になる。(実際は、アトムですらトラウマを抱えてしまった子供はいると思う)
ところが、そういったことをよく理解していたのが、平井和正さんというSF作家で、彼が原作を書いた『8マン』は、ロボットの憂鬱を描きながらも、実に爽快なものとなり、ドロドロした情念を感じない。それは偶然ではなく、平井さんの頭の良さというか、人間をよく理解した賢さと思う。その後、他の作家によって書かれた8マンのアフターストーリーは、やはりドロドロして読むと非常に疲れたものだ。2004年に、『8マン』の続編である『8マン インフィニティ』を制作するにあたり、平井さんが、七月鏡一さんを原作者に指名したのは、七月さんが「情念を回避する」話を作れるからだといった意味のことを言われていたのは、実に納得できることである。
また、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)さんの『サイボーグ009』は、見事なまでにドロドロした情念を回避し、サイボーグ戦士達の苦しみすら、どこか「爽やかな憂い」とでも言えるものに出来たことに、石森さんは本当に天才なんだと感じる。あの原案で平凡な作家が書いたら、もう救いようのないものになったはずだ。
2008年に「おくりびと」という映画が大ヒットしたが、それも、人間が、身体を非常に神聖視していることを感じさせる。
少し以前から、葬儀や法要といったものを、機械化、IT化したものが増えてきており、その様子は確かに滑稽に見えるのだが、そういったものが発展するのは、面倒を避けたいという面あるのだが、それでも止める訳にはいかないという精神的なものもあり、その矛盾が馬鹿馬鹿しさを感じさせるのだろう。
その大切な身体を、もっと本当に大事にしなければならない。
そして、どれだけ身体を本当の意味で愛してきたかは、死んだ時に分かる。
日本最古の古典とも言われる『ホツマツタヱ』で、最高神アマテル(古事記では天照大神という女神にあたるが、アマテルは男神である)が、人々に、正しい食(穀物が最良だが、次に鱗のある魚)をしていれば、死んだ身体は美しく、菊のような高貴な香りがあるが、獣肉や鳥肉を食べていれば臭く見苦しいと言う。
キリスト教の聖女ベルナデッタ・スビルーが有名だが、キリスト教でもヒンズー教でも、聖人の遺体が腐敗しないという奇跡現象がある。これは、彼らが肉食をせず、粗食で少食であったことが大きく関係しているに違いない。
そして、死後、美しい屍となる生活をしていれば、生きているうちに、その者の立場において、良い運命に恵まれると思う。それを探求し、数多くの人に関して、「万に1つの誤りなし」であることを証明したのが、江戸後期の大観想家、水野南北だ。
イエスが「神の神殿」とまで言ったこの身体を真の意味で大切にし、内なる神と和らぎ、平安を得るのが、賢く、優れた生き方ではないかと思う。
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SFの世界では、人造人間、アンドロイド、サイボーグという確固とした人気分野であるのだが、それらに暗いイメージがある方も多いと思う。
冒すべからず神聖な身体に人の手を入れるというのは、よほど気をつけて描かないと、救いようがないほどドロドロしたものになるということに、作家すら、なかなか気が付かない。それをはっきり理解する人というのは、相当な洞察力の持ち主なのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』や『キャシャーン Sins』、あるいはアメリカ映画の『ロボコップ』などは、名作ではあっても、見ていたら相当に疲れて気分が滅入ってしまうのは、大昔のフランケンシュタインの映画のようなところがあるからだ。これらのテーマで情念に浸ると、どうしても、あまりにドロドロしてしまうのである。
渡辺昇一さんの「日はまだ昇る」という昔の著書の中の話だが、カナダ人教授の前で大学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌ったところ、その教授が「なぜロボットが友達なんだ」とカンカンに怒ったというものがある。鉄腕アトムというアニメは、アトムを、子供達に愛されるよう、限りなく人間の子供っぽく描いていたので、ほとんど陰鬱さは無いが、西洋ではそんなものが無かったのだ。それで、人造人間といえば、フランケンシュタインのイメージなのだそうだ。
アトムは、元々が子供向けだったから良かったが、やはり、大人の視点でロボットを扱うと、どうしても重い雰囲気になる。(実際は、アトムですらトラウマを抱えてしまった子供はいると思う)
ところが、そういったことをよく理解していたのが、平井和正さんというSF作家で、彼が原作を書いた『8マン』は、ロボットの憂鬱を描きながらも、実に爽快なものとなり、ドロドロした情念を感じない。それは偶然ではなく、平井さんの頭の良さというか、人間をよく理解した賢さと思う。その後、他の作家によって書かれた8マンのアフターストーリーは、やはりドロドロして読むと非常に疲れたものだ。2004年に、『8マン』の続編である『8マン インフィニティ』を制作するにあたり、平井さんが、七月鏡一さんを原作者に指名したのは、七月さんが「情念を回避する」話を作れるからだといった意味のことを言われていたのは、実に納得できることである。
また、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)さんの『サイボーグ009』は、見事なまでにドロドロした情念を回避し、サイボーグ戦士達の苦しみすら、どこか「爽やかな憂い」とでも言えるものに出来たことに、石森さんは本当に天才なんだと感じる。あの原案で平凡な作家が書いたら、もう救いようのないものになったはずだ。
2008年に「おくりびと」という映画が大ヒットしたが、それも、人間が、身体を非常に神聖視していることを感じさせる。
少し以前から、葬儀や法要といったものを、機械化、IT化したものが増えてきており、その様子は確かに滑稽に見えるのだが、そういったものが発展するのは、面倒を避けたいという面あるのだが、それでも止める訳にはいかないという精神的なものもあり、その矛盾が馬鹿馬鹿しさを感じさせるのだろう。
その大切な身体を、もっと本当に大事にしなければならない。
そして、どれだけ身体を本当の意味で愛してきたかは、死んだ時に分かる。
日本最古の古典とも言われる『ホツマツタヱ』で、最高神アマテル(古事記では天照大神という女神にあたるが、アマテルは男神である)が、人々に、正しい食(穀物が最良だが、次に鱗のある魚)をしていれば、死んだ身体は美しく、菊のような高貴な香りがあるが、獣肉や鳥肉を食べていれば臭く見苦しいと言う。
キリスト教の聖女ベルナデッタ・スビルーが有名だが、キリスト教でもヒンズー教でも、聖人の遺体が腐敗しないという奇跡現象がある。これは、彼らが肉食をせず、粗食で少食であったことが大きく関係しているに違いない。
そして、死後、美しい屍となる生活をしていれば、生きているうちに、その者の立場において、良い運命に恵まれると思う。それを探求し、数多くの人に関して、「万に1つの誤りなし」であることを証明したのが、江戸後期の大観想家、水野南北だ。
イエスが「神の神殿」とまで言ったこの身体を真の意味で大切にし、内なる神と和らぎ、平安を得るのが、賢く、優れた生き方ではないかと思う。
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