ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年07月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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美しい屍となる生き方が運を開く

当たり前のことかもしれないが、昔から人間は身体を神聖なものと感じ、大切にしてきたが、それは、我々の想像以上である。ほとんど原始人といえる時代の人類が、埋葬の習慣を持っていたことが分かっており、葬儀のために花を飾ったり、絵を描いたりし、さらに、死後の世界を想像し、そこから、宗教や芸術が生まれ、それらが精神文明の起源となったとも考えられるのである。

SFの世界では、人造人間、アンドロイド、サイボーグという確固とした人気分野であるのだが、それらに暗いイメージがある方も多いと思う。
冒すべからず神聖な身体に人の手を入れるというのは、よほど気をつけて描かないと、救いようがないほどドロドロしたものになるということに、作家すら、なかなか気が付かない。それをはっきり理解する人というのは、相当な洞察力の持ち主なのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』や『キャシャーン Sins』、あるいはアメリカ映画の『ロボコップ』などは、名作ではあっても、見ていたら相当に疲れて気分が滅入ってしまうのは、大昔のフランケンシュタインの映画のようなところがあるからだ。これらのテーマで情念に浸ると、どうしても、あまりにドロドロしてしまうのである。

渡辺昇一さんの「日はまだ昇る」という昔の著書の中の話だが、カナダ人教授の前で大学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌ったところ、その教授が「なぜロボットが友達なんだ」とカンカンに怒ったというものがある。鉄腕アトムというアニメは、アトムを、子供達に愛されるよう、限りなく人間の子供っぽく描いていたので、ほとんど陰鬱さは無いが、西洋ではそんなものが無かったのだ。それで、人造人間といえば、フランケンシュタインのイメージなのだそうだ。
アトムは、元々が子供向けだったから良かったが、やはり、大人の視点でロボットを扱うと、どうしても重い雰囲気になる。(実際は、アトムですらトラウマを抱えてしまった子供はいると思う)
ところが、そういったことをよく理解していたのが、平井和正さんというSF作家で、彼が原作を書いた『8マン』は、ロボットの憂鬱を描きながらも、実に爽快なものとなり、ドロドロした情念を感じない。それは偶然ではなく、平井さんの頭の良さというか、人間をよく理解した賢さと思う。その後、他の作家によって書かれた8マンのアフターストーリーは、やはりドロドロして読むと非常に疲れたものだ。2004年に、『8マン』の続編である『8マン インフィニティ』を制作するにあたり、平井さんが、七月鏡一さんを原作者に指名したのは、七月さんが「情念を回避する」話を作れるからだといった意味のことを言われていたのは、実に納得できることである。
また、石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)さんの『サイボーグ009』は、見事なまでにドロドロした情念を回避し、サイボーグ戦士達の苦しみすら、どこか「爽やかな憂い」とでも言えるものに出来たことに、石森さんは本当に天才なんだと感じる。あの原案で平凡な作家が書いたら、もう救いようのないものになったはずだ。

2008年に「おくりびと」という映画が大ヒットしたが、それも、人間が、身体を非常に神聖視していることを感じさせる。
少し以前から、葬儀や法要といったものを、機械化、IT化したものが増えてきており、その様子は確かに滑稽に見えるのだが、そういったものが発展するのは、面倒を避けたいという面あるのだが、それでも止める訳にはいかないという精神的なものもあり、その矛盾が馬鹿馬鹿しさを感じさせるのだろう。
その大切な身体を、もっと本当に大事にしなければならない。
そして、どれだけ身体を本当の意味で愛してきたかは、死んだ時に分かる。
日本最古の古典とも言われる『ホツマツタヱ』で、最高神アマテル(古事記では天照大神という女神にあたるが、アマテルは男神である)が、人々に、正しい食(穀物が最良だが、次に鱗のある魚)をしていれば、死んだ身体は美しく、菊のような高貴な香りがあるが、獣肉や鳥肉を食べていれば臭く見苦しいと言う。
キリスト教の聖女ベルナデッタ・スビルーが有名だが、キリスト教でもヒンズー教でも、聖人の遺体が腐敗しないという奇跡現象がある。これは、彼らが肉食をせず、粗食で少食であったことが大きく関係しているに違いない。
そして、死後、美しい屍となる生活をしていれば、生きているうちに、その者の立場において、良い運命に恵まれると思う。それを探求し、数多くの人に関して、「万に1つの誤りなし」であることを証明したのが、江戸後期の大観想家、水野南北だ。
イエスが「神の神殿」とまで言ったこの身体を真の意味で大切にし、内なる神と和らぎ、平安を得るのが、賢く、優れた生き方ではないかと思う。







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本当の優秀さとは

生まれつき優秀な者というのがやはりいるのだろうと思わせられることがよくあった。私は、高校生位の時まで、彼らのことを「優良星の住人」と呼び、自分とは種族が違うのに、なぜ同じ星の上にいるのだろうと思ったものだ。別に学校の成績だけのことではないが、学校では、成績で扱いが全く異なるのであるから、物事を達観できるような歳になるまでは、成績を全く意識しないわけにもいかない。小学校の低学年の頃、1学期が終わって通知表をもらって帰る時、顔見知りの男子に会い、私の成績が「まあ良かった」とその子に言ったところ、彼は自信たっぷりに笑いながら「僕はオール5だよ」と言う。こちらは、5はおろか4の1つも無い。私だって不真面目にやっているわけではないのに、なぜこうなるのだろうと思ったものだ。抜群の成績の彼らも努力はしているのだろうが、努力を効率よく結果に結びつける方法が身に付いているということは言えると思う。彼らの家に行くと、やはりその家全体の雰囲気が自分の家とは違う。やはり金持ちが多く、親もかっちりとした感じでとても落ち着いているし、その子の部屋の様子も、いかにも勉強の出来る子のものと感じた。そんな子の1人に、「お母さんに、君のような子と付き合っちゃいけないと言われた」と伝えられた時は、妙に納得したものだ。また、今、思い出しても、成績だけでなく、ものの考え方という点でも、彼と当時の私とでは大変な違いだった。
まあ、そんな子達が、性格でも悪ければ、我々も救われるところがあるかもしれないが、その方面でも彼らの方がずっと上なのである。だが、彼らを見ていると、彼らは何か悪いことをしたがっているのを発見することがよくあったし、実際、人のものを盗むとか、隠れて悪いことをやっているのを私は知っていた。そういうことでストレスを解消しなければならない事情があるのだろう。映画やテレビドラマでは、そういった裏の面を持たない優等生もよく見る。私とて、あらゆる優等生を見たわけではないので、実際のところは今でも分からないが、そういったパーフェクトな子もいるのだろうと思うようになり、それで、最初に書いたように、自分とは根本的に何かが違う「優良星の住人」がいるのだろうと思ったのである。

エジソンやアインシュタインは学校の成績は良くなかったらしい。彼らは、頭は良くても記憶力が悪かったと言われることもあるが、それよりも、学校で「これはこうだ」と教えられても、彼らの想像力がそれを納得しなかったので、良い成績を得るには効率が悪かったのだろう。例えば、「1たす1は2」と教えられても、「2つが融合すれば、やはり1だ」とか、「1と1から何かが発生して3になる場合が多いと感じる」と、思考が広がるのである。実に、想像力が大きければ大きいほど、試験で良い成績を取るには都合が悪いというよりは、不向きなのである。エジソンは8歳くらいで学校をやめ、アインシュタインは大学の入学試験に合格できず、制度を利用して無試験入学したらしい。
他にも、小学校をやめていたり、あるいは、小学校に入学もしなかった天才的な発明家を知っているが、私の知る以外にも案外にいると思う。私が知る人達は、医療分野や精密機械分野の人達だ。
学校で良い成績を取るには、思考の範囲を限定する必要は確かにあるだろう。ある意味でだが、学校での優等生になる訓練というのは、想像力を抑えることと言えると思う。

結論を言えば、人間に根本的な能力の差は、おそらく、0.1グラムも無いと思える。
ある見方での頭の良さの違いというのは確かにある。心理学者のアブラハム・マズローは、大学院生の時、知能テストを受けてみたら、彼のIQ(知能指数)は197で、その名門大学の歴史でも2番目の成績だった。その時マズローは、それまでの自分の人生を振り返り、「ああ、やっぱりそうだったのか」と納得したらしい。彼は、自分の頭が良いとは思っていなかったが、もし他の人より自分の方がずっと頭が良いなら、いろいろなことがすんなり説明できることに気付いたのだ。例えば、他人と議論しても、自分の論の方が正しいと感じていたとかいうことである。
だが、そういった頭の良さというのも実は些細なことではないかと思う。ある平凡な日曜音楽家が、一瞬の天啓を受けて作った曲が世界に誉れ高いフランス国歌になったが、彼はまだ音楽を趣味としていたので譜面を作れたのである。だが、天の音楽を聴きはしても、形に残さなかった者や、科学的な記載の方法を知らないので、それで世に出ることは無いながら、究極の原理を知っていたという者もいると思うが、それは、案外に誰にでも起こり得ることだと思う。電波工学の世界的権威であった関英男博士も、勉強しなくても何でも分かる人というのは、やはりいるし、今後は増えてくるのではと著書に書かれていた。もちろん、のんべんだらりとして何もせずに大発明が出来るわけではないだろうが、関博士の意見は私にも不自然なこととは思えない。
つまり、学校の成績といったものより大切なものがあるということなのだと思う。その大切なものを見つけた者が、大きなことをなしうるのだし、今後、そういったことがますます多くなるに違いない。









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忘れ去られた仙術という力

スポーツでも芸事でも、正統と言われるまともな訓練で育った人とは違い、特異な存在だが、他人に真似のできないような力を発揮する人がいる。
欧米のスポーツは、とても科学的で、体力や技術の勝負となると、圧倒的に有利なのだが、近年、人間というのは、それとは異なる力を秘めていることを西洋でも認識してきたのだろう。しかし、日本の武道などでは、そういったことは昔からよく知られていることだった。
だが、現代の我々日本人は、西洋的に、目に見えることばかり追い、試験の成績のような、一律した評価にばかり価値を置くようになってしまった。

昭和4年の、今で言う全日本剣道選手権のような大会では、全国選抜された剣士の平均年齢が49歳であったという。半分位は50代以上ということになり、60代も4人いたらしい。
当時は、まだ、剣道にも剣術が色濃かったのではないかと思う。柔道も、元は柔術と言われるものがあったが、柔道史上最強と言われる木村政彦も柔術の流派の出らしい。剣術にしろ柔術にしろ、昔の日本にあった、必ずしも論理的ではないが、何か特別なものがあったのではないかと思う。
そして、特にスポーツや武道ではなくても、現代の論理的なやり方とは著しく異なってはいても、異常な力を発揮する者というのは、何らかの理由で古来の「術」を体得しているのではないかと思うのである。
それは、松下幸之助さんのような会社経営でもそうかもしれないが、岡本太郎の芸術は、明らかにそのようなものと思われる。芸術が、柔術や剣術のような術の文字を今でも用いていることは興味深いと思う。

その道の名人、達人のことを仙人ということもあるが、実際に、仙術というものは、人の秘められた神秘的な力を顕現させる方法ではないかと思う。そして、現在は、仙術というものは全く知られなくなり、単なる御伽噺とか空想と思われている。
仙人とか仙術というのは、中国のものだが、インドのヨーガや、西洋のカバラー、日本の古神道などにも、非常に共通したものがあり、特別な術が、その土地の自然などに影響されて個性化した形で存在していたに違いない。カバラーの魔術師ダイアン・フォーチュンも、魔法はヨーガと共通したところがあることを認めるが、やはり、西洋魔法は、西洋の自然や慣習の中で、長い間に形成された、身体的、精神的な特徴の影響があり、ヨーガが、西洋人には合わない部分もあると述べている。
いかなる道を志す場合にも、仙術を用いることをしないと、特別なものにはならない。逆に、仙術により、考えもしなかったほど、早く、高度な位置に到達できるかもしれないし、事実は、あきらかにその通りであると思う。
以下に、仙人、魔法使い、導師になる、あるいは、その力を一端を握るのに実際に有効、あるいは、参考になると思う書物を紹介しておく。







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最も確実な保障とは

1977年に書かれた、世界的な経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの著書のタイトル『不確実性の時代』は日本でも流行語になった。
だが、いつの時代でも、世の中なんて、良いことに関しては、不確実であることだけが確実なのである。
例えば、会社に入社し、将来、部長から重役、そして、副社長、社長へと出世できる可能性は、よほどの理由が無い限り不確実である。
ところが、悪い方、つまり、部長にならないとか、解雇されるとかなら、確実に実現できるのである。仕事に身を入れなければ、いかに才能があっても部長になれないし、1ヶ月も無断欠勤すれば、どれほど温情ある会社でも解雇されるだろう。
受験であれば、特殊な場合を除き、確実に志望校に合格する方法はない。ただ、可能性を高める方法があるというだけだ。しかし、確実に不合格になる方法はある。
憧れのあの子を恋人に出来るかどうかは不確実でも、確実に嫌われる方法ならあるだろう。
極悪非道なテロリストに拉致されたら、生き延びられるかどうかは不確実だが、確実に殺される方法ならやはりあるのだ。

悪いことだけが確実な世の中で、神に頼る人がいるのも不思議なことではない。「いや、俺は神なんか信じていない」と言う人だって、極限状態になれば分からないのだ。
かつて、若き日のスティーブ・ジョブズがインドに行った時、とんでもないスコールに見舞われたことがあった。恐怖したスティーブは、神に「助けてくれたら良い人間になります」と祈ったそうだ。彼がその誓いを守ったかどうかは知らないが・・・

イスラム教では、良いことも悪いことも、神の思し召しとして受け入れると聞いたことがある。
彼らは、人と会う約束をする時でも、「神が望むなら、明日の8時に会いましょう」などと言うのだそうだ。しかし、これは、もし寝坊して約束の時間に遅れても、「会うことを神が望まれなかった」ということにして、神に責任を押し付けることができるということだ。日本人からすれば、「そんなアホな」と思うかもしれないが、これが実に都合が良い場合がある。約束を守らなくても、例えば、借金を返さなくても、「俺のせいじゃない。神の思し召しだ」と開き直るふてぶてしさがあり、実際、タフなものだ。別に悪意は無くても、誠実に努力しながら借金を返せない場合もあるだろうが、そんな時、「俺のせいじゃない。神の思し召しだ」と思うことは、悪いことじゃないかもしれない。少なくとも、そんな心構えのない日本人ほどは精神的に追い詰められず、自殺者も少ないはずだ。

とはいえ、イスラム教信者が全て幸福なわけではない。実際は、争いや不満も多いだろう。ただ、参考にはなると言える。

ところで、俗世だって、こんなことは言える。
「流れに乗れなければ滅び、流れに乗れば生き残る。そして、流れを作り出せば勝てる。」
これは、アメリカのノベルという大手ソフトウェア会社が、最も隆盛を誇った1990年代に、その社長が言った言葉だと記憶している。一瞬、雑誌で見ただけだが、非常に印象的だったのでよく憶えている。
そして、俗世を超えた世界にも流れがあるのだ。
世間的には認めてはもらえぬだろうが、金融破綻したり、大災害が起こったりするのは、その流れに逆らった結果なのだ。販売やサービスをせず、金を動かすだけで利益を上げていると、いつか破綻するなんてのは、大昔にヘンリー・フォードだって言ってたし、地上の高天原である日本の聖地、陸奥(神の道の奥義の意)の地で原発を動かせば何が起きても不思議は無い。
その流れは、学識も情報もなくても、誰にでも分かる。そして、それに沿った行いをしている限り、確実なのである。
その流れを作っているのは、我々には見えない何かだ。それを神と言っても良いだろうし、宇宙の英知としても良いと思う。
そして、その流れとは、一言で言うなら世界平和であろう。なら、その方向である、調和をもたらす行いをしている限り、安全なのである。
ジョージ・アダムスキーは、「神が最も確実な保障」と言ったが、世界的な非難を背負った彼が、全く平気で、悠々と大きな活動を行っていたことから考えても、真実味がある。
ある社長が、「社員の生活を保障するのは社長の仕事」と言っていたが、その会社は実に確実に成長している。確かに勘の鋭い、流れの読めそうな社長だった。
何のことはない。俗世でも、もっと高い世界でも、本当は確実で不安はないのである。それは、夜が明ければ必ず太陽が昇るようなものだ。







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つまらない情報メディアが雄大な大海を覆い隠している

スマートフォンなどの情報端末や、ソーシャルメディアを器用に使うというのは、与えられたものを使いこなすという利用スキルではあっても、決してコンピュータやITに対するリテラシー(利用技術)では無いし、ITを理解している訳ではない。
言うまでもなく、ITそのものには全く暗いが、沢山のスマートフォンやタブレット機器に、数多くのアプリケーションをインストールして使っているという人は特に若者に多い。しかし、彼らがテクノロジ文明を背負える訳では無い。
彼らは、情報機器やソーシャルメディアを使って、何か意義のあることをしているのだろうか?
そんなことはほとんど無い。ただ、金を消費させられる仕組みに組み込まれているだけのことだ。

私はスマートフォンもタブレットPCも所有していない。
以前、ASUS(アスース。台湾のPCメーカー)のタブレットPC(Eee Slate EP121)を買おうと思ったことがある。ペンタブレットで絵でも描いたら面白いと思ったのだ。こんなに素晴らしいお絵描きPCなんて、今まで無かった。しかし、なぜか日本で販売されていないようだ。他のタブレット端末には何の興味もないので、何も持っていない。

何も大したことの出来ない、これらの情報機器やソーシャルメディアがかくも世間を賑わすのはなぜだろう?
明らかに、そう目論んだ者がいるのである。多分、表立っては姿を見せない、何かの意図を持った者であろう。金のためだけなら良いが、そうでもないかもしれない。
敵とは、真意を幻影の裏側に隠すものだ。幻影を壊せば我々は勝てる。だが、我々は幻影を真実と思い込み、踊らされているのだ。
現在の情報端末機器とソーシャルメディアにより、人々は思考せず、反応するだけの傾向はますます強まっている。これは、携帯メールと小型ゲーム機の登場の頃から、長い時間の間に着々と進められてきたのだ。

コンピュータについて、人々がもっと理解すれば、情報機器に対する幻想も醒める。素晴らしいことをしていたと思っていたのが、実際は、本当につまらないことをしていたのだと悟る。それは、世の中によくあることで、敏感な感性がある者なら分かることなのである。

コンピュータなんて、カメラの露出装置や、エレベーター、エアコン、さらには、原子炉や人工衛星などをコントロールする制御用のものや、電卓や電子辞書、ゲーム器、PC、大型コンピュータ、スーパーコンピュータといった情報処理用のものまで、基本的な構造は同じだ。どれも大雑把には、処理装置(頭脳部分)と記憶装置で出来ている。その処理装置(プロセッサ)や記憶装置(メモリ)の性能や容量や数、そして、それらの統合のさせ方により性能に差が出てくる。しかし、根本的には同じだ。
それは、人間も含め、動物の神経機能や生理機能が根本的にはどの種も同じことや、善人も悪人も、天才も凡人も頭脳や精神の構造自体は変わらないことに似ている。
コンピュータの基本が分かれば、幻影に振り回されず、これまで「凄いことができるなあ」と思っていたことが、技術的には確かに凄いとしても、単にハッタリであることが分かるのである。
私など、処理の中身がイメージできてしまうので、ゲームなど、全くやる気にならない。もちろん、高度なIT技術者にもゲーム愛好家はいるが、私とは目の付け所が違うかもしれない。
自動車でも飛行機でも、全て自然を参考にして作ったものだ。そして、それは、コンピュータも同じなのだ。だから、自然の本当の神秘を感じることが出来れば、やはりゲームなど稚拙なものだと分かり、全く興味が無くなるはずだ。だが、我々は、つまらないものに目を向けさせられ、本当に素晴らしいものが見えなくなっているのだ。
つまならいもので満足してはならない。砂浜のちょっと綺麗な石や貝殻ばかり見ている一方で、真理の大海は目の前に壮大に存在しているのである。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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