ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

腕振り運動の効果、最新レポート

このブログで、最近は少し話題から離れたが、今回は、腕振り運動(せい手、スワイソウ)に関する新しい報告をする。
やり方は後で再度述べるが、最も簡単で楽な運動でありながら、驚くべき効果のある、達磨大師がインドから中国に伝えた秘法である。

ただ、その効果の程は、特に健康な人では分かり難い場合もあるし、いかなる重病でもこれで治っているとはいえ、必ずしも、ぐんぐん面白いように治るといったものでもない。
この腕振り運動を、ほんの数日、それも1日数百回やっただけで、「効果がありました」と言ってくる人もいて、別に嘘ではないだろうが、ちょっとせっかちではないかと思う。確かに1日やっただけでも効果はあるのだが、もっと壮大な成果を見るまで、根気良くやり抜いて欲しい。往々にして、即効を期待する人は長続きしないものだ。

私は、1日4000回、休日は7000~8000回をやっていたが、ちょっと無理があった。この回数が多過ぎるというのではないし、実際は1日数万回ならもっと良いが、段階というものがある。
それで、1日800回程度に減らしてみた。
そうしたら、毎日やっている腕立て伏せに、興味深い変化が現れた。
私は、毎日夜10時に、腕立て伏せを含む各種のトレーニングをするのだが、今年2月からは腕立て伏せは200回連続で行うようになっていた。
普通の人では、腕立て伏せ200回はなかなか出来ないが(私も出来るようになるまで1年半以上かかった)、私は慣れてきているので、現在はかなり楽に出来る。
ところが、腕振り運動が1日800回になってから数日すると、この腕立て伏せ200回が苦しく感じるようになった。
初めは、「今日はコンディションが悪いのかな」と思ったが、どんどん苦しさが増し、200回が出来ないということはないが、160回くらいで息切れしていったん動きを止めたりと、以前は考えられないようなことになった。
そこで、腕振り運動を1日2000回にしたところ、すぐに、腕立て伏せ200回が軽くなった。さらに、後20~30回は簡単と感じる余裕も出来た。
また、腹筋運動も、腕振り運動が800回の時は、70回で腹筋が痛く感じるほど苦しくなっていたのが、元通り、200回が楽に出来るようになり、物足りない時はつい250~300回までいくようになった。

腕振り運動は、関英男博士が、1日2000回で自分の胃癌を治してしまい、いろいろな人の、癌を含むあらゆる重病が治ってしまったというのは伊達ではないと、改めて実感した。
関博士が著した、専門家向けのテキスト「宇宙学序章グラビトニックス」によれば、この腕振り運動で治った病気として下記のものが取り上げられている。

・肺癌(午前2000回、午後2000回、夜2000回を5ヶ月)
・関節炎
・食道癌
・頚部淋巴線癌(1日1000回)
・半身不随(5、6ヶ月)
・肝硬変
・白内障(朝800回、夜1000回で4週間)
・トラコーマ、色盲、まぶたに生じるこぶ
・心臓病、高血圧
・神経症、精神分裂症
・腎臓病

()内は、治るのに要した期間、および、実施した腕振り運動の回数だ。
関博士は、腕振り運動の効果の仮説理論として、腕振り運動により発生する重力波が、クオーク(最も基本的な素粒子の1つ)の渦を作り、それが、細胞の活性化を助ける有効成分を物質化するのではないかとしている。これは、仮説とは言え、生理学とは全く異なる実験により実際に確認したことから推論したもののようだ。
私は、腕振り運動を行うことで、仙骨を刺激することの効果が大きいと思っている。仙骨の仙は、仙人、仙術の意味がある神秘な文字であるが、その驚異的な機能は、内海康満さんの仙骨良法(療法)であるMRTに詳しい。仙骨は、気やプラーナと呼ばれる未知のエネルギー(関博士の言うグラビトンと思うが)を活性化するのだと思う。

さて、腕振り運動(せい手、スワイソウ)のやり方を述べる。最後に、関連する文献もご紹介する。

(1)自然体で、姿勢良く立つ。
(2)まず、両腕をまっすぐ伸ばして前に上げるところから始める。関博士は手の平は常に内向けとしている。気功の流派によっては、手の平は下向きとするところもあるが、こだわる必要はないと思う。私は両方使い分けているが、最近は、手の平は下向きでやることが多い。
(3) 腕を後ろに振る時に少し力を入れ、前に振る時は、力を抜いて自然に前に振れるようにする。これも、逆に、前に振る時に力を入れ、後ろに振る時に脱力する流派もある。使い分ければ良いと思うが、まずは、後ろに振る時に力を入れるやり方をお薦めする。尚、力を入れると言っても、ほんのわずかである。顔を大きくしかめたり、筋肉疲労が起こるほど力を入れるのはいけない。柔らかく優雅にやるべきである。ところで、私は、後ろに振る時に力を入れる場合は、手の平は下向き、前に振る時に力を入れる場合は、手の平は内向きでやっている。それが調子が良いからだが、「気功革命」という優れた気功の本の挿絵でもそうなっている。

全体を通し、肘を曲げず、常に腕は左右同時で平行になるように振ることが大切だ。また、肩の力をなるべく抜き、気楽に優雅にやって欲しい。スポーツ運動とは違うのである。
腰や肩が前後に微妙に動くが、これが仙骨の働きである。この動きは自然に任せる。それで仙骨が調整される。

回数は、少なくとも1度に200~300回。出来れば500回以上が良いだろう。
関博士は、健康維持のためには1日500回。病気治しのためには2000回と言われている。
私の直観では、超能力の開発には1日3000回以上。仙人や導師を目指すなら、最低1日8000回である。













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越えてはならぬ一線

大地震や津波、あるいは、竜巻や火山の噴火といった大災害が起こる度に思い知るのが、人間の限界だ。肉体においても、建築においても、あるいは、救助のための手段においてもである。
そして、今回の東北地方太平洋沖地震では、原子力の利用が、人間の限界を超えたことであることを思い知らされたことになる。しかし、我々はこの戒めを守ることができるのであろうか?また同じことを繰り返し、さらに大きな悲惨を味わい、それでも心を改めないのではないだろうか?そして、滅びが訪れて、遅過ぎる後悔をするのだろうか?しかし、もう十分に遅いに違いないのだ。

本来は、無限の力を持つ神と一体であるはずの人間になぜ限界があるのだろう。
それは、この世には、たとえ神でも越えてはならない一線があることを知るためではないだろうか?
体力、知力に限界がある肉体を持った方がそれが分かりやすいのだ。
そして、大きな力を持った人間ほど、それが身に染みるはずだ。
孔子の「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」や、これと似た、徳川家康の「及ばざるは過ぎたるより勝れり」というのは、人として究極に至った者の諦観(あきらめ、悟って超然とすること)だろう。
もっと簡単に言えば、「ものには限度というものがある」ということだ。
しかし、現在の世界、特に日本では、欲望のために、限度というものをわきまえなくなっている。

たとえ話で、分かりやすく説明したい。
「大いなる西部」という、1958年に制作された西部劇映画の傑作がある。
最初の部分で、誰もいない大平原の中を、若いカップル、マッケイとパットが、馬車で走っていると、無頼漢(ならず者)と思われる5~6人の男達に取り囲まれて、馬車を止められる。男達はマッケイにロープをかけて馬で引きずったりして痛めつける。
現在の映画やテレビドラマを見慣れた者であれば、ここで、金髪の若くて美しいパットがレイプされると思うかもしれない。広大な無人の平原。まさに格好の場所である。確かに、ストーリーの設定上、男達がパットに手を出せない理由はあったが、そうでなくても、そんなことは起こらない。保安官の1人も登場しない西部劇だが、性的描写は一切ない。なぜなら、これは人間の映画だからだ。
ただ一度、この映画で最も下劣な品性を持つ男が、監禁した美しい女性教師を襲う場面はある。その男は、この作品の中で、敵対する2つの勢力の1つであるヘネシー家のどら息子(素行の悪い息子)である。
しかし、ボスである父親が現れ、この下種(げす)な息子を床に叩きのめすと、「犬のように這って出て行け」と命じる。ボスは決して高潔な人格者でもなければ、息子の敵でもない。その女性教師を、たくらみに利用するために監禁したのも彼だ。そんな彼ですら、息子の行いは我慢ならない恥ずべきことで、「お前は犬だ」となじったのだ(犬以下だろうが)。
その他のことに関しても、いかに険悪な場面、感情的な場面であっても、この映画では、荒くれ男達も、簡単に暴力を振るったり、ましてや、銃を人に向けたりはしない。
人としての、越えてはならない一線を守っているのだ。それが出来ないのは、さきほどの、根は臆病者のどら息子バックと、もう一方のボス、テリルの美しい一人娘パットの2人だけだ。彼らは、強大な力を持つボスの息子、娘で、甘やかされて育ち、いい年をしてあまりに未熟なのだ。バックは、どら息子とはいえ、 30歳は越えているだろが(演じた役者は40歳に近かった)、精神的には子供だった。

現在の日本では、こんな映画に違和感を感じるほど、人々の心は、個人的な欲望のために歪んではいないだろうか?
権限を持つ役人が多少の賄賂を取るのも、人間臭いといえばそう言える。しかし、そのやり方や額が、殴って赦せる限度を越えているなら、それは、神をも恐れぬ行いだろう。
部下の女性にセクハラするとかの男は、もはや人ですらないし、ましてや、女生徒に手を出す教師となれば、本能剥き出しの動物ですらない。
これは、別に、「きつ過ぎる」ことを言っているのではない。もし、そう感じるなら、やはり異常なのだ。
こんな社会は、言ってみれば、自分を王様か大統領のようなものだと思っている馬鹿な子供に核兵器の発射ボタンを握らせているようなものだ。
現在は、商売になるという理由で、未熟な若者を持ち上げ過ぎていることも、「幼稚な大人」が蔓延している原因だろう。

越えてはならぬ一線を守ることを学ぶために、不都合も多い肉体を持つ我らであるが、そのことを学べば、制限もまた消えていくのだ。
それは神秘であり、驚異である。人が人の本当の姿、真の自己を知るとはそういうことだ。
安っぽい修行をしたり、金を使って自分探しの旅をすることが、真の自分を発見することではない。身体と心を持つことにした理由を思え。
それを学べば、結果として、潜在意識の法則を自在に活用して願望を叶え、超能力も使えるようになるかもしれない。しかし、そんな力を本当に持つ者を見抜くことなど、我々には出来ない。彼らが、不要な個人的欲望を持たないゆえに。







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「ゲゲゲの誰か」と真実の愛

現在でも、漫画を低俗なものであると感じるのは、戦後の国家による思想統制のためであることは疑いないと思う。
それで、「漫画、アニメの王様」と言えば聞こえは良いが、そう呼ばれた手塚治虫さんすら、全国のPTAの目の敵にされたりと、なかなか大変だったようだ。
1968年に「ハレンチ学園」で世に出た永井豪さんとなると、この漫画が当時としては極めて猥褻と感じられ、登場人物達が小学生であることもあり、当然、 PTAからつるし上げられた。ところが、永井さんは、PTAよりむしろ、教育委員会から、まるで犯罪者扱いの様子だったようだ。やはり作品が児童ポルノと見なされたからかと思われたが、永井さんの別の作品の、やはり子供達が主要な登場人物となるエッチな漫画では全く教育界から反応がない。それで永井さんは、「ハレンチ学園」が攻撃されたのは、猥褻だからと言うよりは、教師を馬鹿にしたせいであったと気付いた。分かってしまうと、下らないので笑えたようだ。
性的描写に関しては、永井さんのは、多少度が過ぎても、どこかあっけらかんとしているが、実は、その点で、手塚さんの多くの作品は比較にならないほど凄い。直接、性的表現をしていなくても、手塚さんの作品の少女は、ほとんどが妙に色っぽい。さらに、医学博士でもある手塚さんが本気で描いた時のエロチックさは半端ではない。しかも、表現の対象は少女であることが多いのだが、手塚さんの作品が、全体的に教師というものを崇高に描く傾向にあるせいか、永井さんのように、教育界を敵に回すことはなかったのではないかと思う。やはり単純なものである。また、医学的知識を有効に生かした優れた性教育漫画を描いたことも幸いしていたのだと思う。

昨年、「ゲゲゲの女房」の人気のおかげで、水木しげるさんという漫画家自身にスポットライトが当てられ、それが、漫画家というものが一般に認識される良い機会にはなったのではないかと思う。
昔から、手塚治虫さんや石森ノ章太郎さんの自伝などは多くあり、素晴らしい内容なのだが、どうも、それらはマニアの書物と見なされることが多かったのかもしれない。
しかし、戦争で左腕を失ったという衝撃的な漫画家を、人気俳優たちによるテレビドラマで描いたことで、一気に一般の人達が漫画家や漫画を見直すきっかけになっただろうか?
実は、本当のことを言うと、私は、「ゲゲゲの女房」は一回も見ていないのだが、当たらずといえども・・・ではないかと思う。
私は、水木しげるさんのことなら、少しは昔から知っている。また、水木さんが、養老孟司さんの対談書に登場しているものでは、2人の間で実に素晴らしい対話がされており、人間の精神の神秘について深く考える機会を得ることが出来たと思う。
水木さんは、大芸術家でもあり、大思想家でもあると思う。

話は変わるが、「ゲゲゲの女房」という奇妙なタイトルは、当然、「ゲゲゲの鬼太郎」からきたものと思うが、その「ゲゲゲの鬼太郎」というタイトル自体が謎だ。まあ、調べてみれば、水木しげるさんが、幼い頃、自分の名前の「しげる」が言いにくくて、「げげる」と言っていたのが「げげ」になり、それが、「げげげ」になったのだという。
ところで、そういった「○○の××」というのは、語感の良いタイトルだと思わないだろうか?
「風の谷のナウシカ」とか、「ふしぎの海のナディア」といったアニメがあり、「○○の××」の××は、やはり人名が良いだろう。
映画「タイタニック」で、親身にジャックの世話を焼いた印象的な登場人物であるモリー・ブラウンは、後に「不沈のモリー・ブラウン(The Unsinkable Molly Brown)」と呼ばれ、そのタイトルで映画にまでなったが、この「不沈のモリー・ブラウン」という言葉の響きもなかなか良いと思う。それで、映画の字幕を1回見ただけで憶えていたのだ。

最後に、教育的に閉めたい。
私は、「ゲゲゲの鬼太郎」の女の子版が、高橋弥七郎さんの小説で、アニメ、アニメ映画、漫画にもなった「灼眼のシャナ」だと勝手に思っている(まさに勝手だ)。小説は、2009年にはシリーズ750万部が発行されているというから大変なもので、内容も、若者向けとは言われるが、実に素晴らしい。
「ゲゲゲの鬼太郎」と「灼眼のシャナ」では、タイトルの類似性があることは言うまでもない。
シャナというのは、外見は11、12歳の際立った美少女で、強くて賢いが、恋愛に関しては幼い。そこに、「愛染兄妹」と呼ばれる、兄ソラトと妹ティリエル(絶世の美少年と美少女の双子で、13、14歳くらいの外見)が現れるが、妹とはいえ、ティリエルは完全に母親の立場だ。そして、ティリエルは身も心も、兄ソラトに奉げ、深く愛していると公言し、常に抱擁し、ディープキスをし、その「愛」を、恋愛に不慣れなシャナに見せ付ける。
シャナは、その様子に強い不快感を感じる。それは、道徳的とか恥ずかしいといった不快感ではない。それが、軽蔑の眼差しとなって2人を見るのが、ティリエルの神経を逆撫でする。
「オンナにもなれていないお前に、この愛の崇高さは分からない」という、ティリエルの言葉に、シャナは「お前たちは、すがり合っているだけにしか見えない」と断じる。
シャナは、不器用ながらも純粋に愛する坂井悠二(15歳)や、幼い時からずっと共に居た、心から敬愛しているアラストールに対する、「真実の愛」を知っているので、愛染兄妹の「愛」が偽物だと分かったのだろう。
さて、高橋弥七郎さんが何のつもりで、この愛染兄妹を登場させたのかは知らないが、私には、現在の日本の、教育熱心な母親と、その息子に見える。
母親は、自分では息子を本当に愛していると思い、息子のために何でもしてあげたいと思っている。息子が必要なものを何でも先回りして用意して自己満足し、高い月謝を払って良い塾に通わせ、良い成績を取らせ、良い学校に進学させ、良い仕事につけさせようとする。息子の方も、ある時期までは、それで満足している。
しかし、そんな姿は、私には、シャナが愛染兄妹に対して感じた「気色悪い」という感覚しか覚えない。
そして、やはりシャナが言い放ったように、そんな母と息子は、「すがりあっているだけ」なのだろう。いずれ、その母と息子は哀れなこととなる。まあ、そんなに後のことではない。
シャナがアラストールに対して強く持っていて、悠二に対しても、それがあると気付き始めたように、真実の愛とは敬意を伴ったものなだろう。
それにしても、「気色悪い」「すがりあっている」母と息子の何と多いことだろう。













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非難することは本当に恐ろしいことだ

政治家などの有名人の失言がよく報道されている。
発言の中のほんの一部を切り取って、失言になってしまうように作為したものも少なくない。
そして、マスコミは、あなたに、避難、批判に同調るよう煽るが、絶対に乗ってはいけない。
決して、決して、付和雷同してはならない。
それがいかに恐ろしいことであるか説明する。

発言を非難するということは、その発言に悪意があると判断したということだ。そうだね?
いくらなんでも、単に馬鹿だという理由だけで、人を叩きのめすほど狭量ではあるまい。
ところが、マスコミが非難を煽るような失言をしたことになっている者には、ほとんどの場合、悪意はないのだ。

悪意のない言動を悪意に取るというのは、不幸になるための超特急、いや、超音速ジェットだ。UFOとまでは言わないが、ロケットにならなり得るほどだ。
ところが、善意で言っていることや行いが悪意に取られることが非常に多い。
人の言動を悪意に取る習性の人間は、間違いなく不幸な状況にあり、さらに不幸になる。
逆に、たとえ悪意の言葉も悪意に取らない者は、運を引き寄せ、幸福への道をまっしぐらに進んでいる。

本当のところを言うと、人の言動を善意にするか悪意にするかは、受け取る者次第なのだ。
少なくとも、こうは言える。人の言動を善意に取る者に対しては、本当に善意が集まるし、悪意に取る者は実際に悪意ばかり受けるようになる。
ではビジネスで狡猾な交渉相手が言うことや、さらには、詐欺師の言うことを善意に取れというのかといった極端なことを言うなら呆れたことだ。世間に飲み込まれてはならないが、世間をうまく渡るのは自分の責任である。

学校でも職場でも、他人の自分に対する言動を何でも悪意に取ってしまう人は確かにいる。そんな人は、おそらく、不幸なことに家庭で、幼い頃にそんな習慣を身に付けさせられてしまったのだ。
そんな人にとっては、どんな場所も楽しいはずはないし、毎日が辛く、将来が不安で、人生に疑問を感じるほどであるはずだ。
だが、今は、大なり小なり、人の善意を信じられず、すぐに悪意だと決め付けてしまう人が多い。それは、学校生活やマスコミの影響が大きいのだ。
しかし、本当のところ、他人に悪意はないのだ。皆、ほとんどの場合、善意でそうしているのである。

身に付いた習性も、意志の力で変えられるのである。そして、変えるべきは、他者を非難したがる習慣だ。
人の善意を集めたいなら、非難や批判をなるべく避けることだ。少なくとも、自分で調べた訳でもないなら、マスコミが煽る批判、非難には絶対に乗ってはならない。
ある意味、テレビを見ないこと、新聞を読まないことが、最悪を避ける方法ではあるが、賢い人は、それらも、それなりの道具として少しは活用するのである。

他人を疑うことは自分を疑うことだ。
それは、自分が信じられないという最悪の事態を招く。不幸になりたくないなら、少なくとも、不要な非難、批判をしないことである。







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なぜ日本では略奪がないのか

東北地方太平洋沖地震の被災地で略奪行為が起こらないことについて、海外では、賞賛や驚きの声があるようです。
これは、1つには、被災地への交通が遮断されているからということもあります。日本でも、被災地への交通が容易になると、不審な他県ナンバーの車が出没し、実際に、不法な行為が行われることは少なくありません。

日本というのは、農耕社会かサラリーマン社会で、いずれにしても、1つの場所に住み着く者が多く、地元で村八分にされることを強く恐れます。それで、日本人は他人の目を気にする国民性を持つようになりました。
邱永漢さんの本に「地元で商売をやるな」と書かれていたのを憶えていますが、商売というのは、どうしても破廉恥な面があるので、生まれ育った場所を失いたくないなら、商売は他所でやれということと思いますが、台湾でも事情は同じということで、日本なら、なおさらそうであると思います。
なら、日本では、地元で略奪などできるはずがありません。
海外では、地元よりも、ファミリーやグループの結束の方がはるかに強いことが多く、そんなところでは、略奪は当たり前になることがあるのですね。

上記は、世間的な意味で、日本で略奪が起こらない理由ですが、愚かな世間の教義や信念の範疇で言っても、略奪は、「割に合わない」行いです。
しかし、もっと深い洞察を持ってすると、略奪行為は、「あまりにも割に合わない」ことです。
これは、説明をする前に、略奪を行った者のその後を見れば良いと思います。確実に悲惨なことになっていますから。これは、宗教的、道徳的な脅しではなく、世間よりも深く考えることが出来るなら、理屈の上でも当然のことです。
略奪する者は、略奪されることを免れず、いずれ、身体を含めた自分のものを容赦なく奪われることになっています。
歴史の中の支配者には、「占領して、敵の美しい妻や娘を奪うことが最大の喜びである」と言った者もいるのですが、彼らは例外なく、後に全てを失っています。
昔の日本の泥棒というものは、泥棒なりの仁義を守る者が多かったのです。例えば、貧しい者からは奪わず、それどころか、不正な方法で富を得た者から奪い、貧しい者に施していました。それで、英雄的な泥棒などもいた訳です。そして、悪徳な金持ちの方も、ある程度の泥棒を容認し、奪われることを一種の浄罪と見なした者もいたようです。
泥棒であるからには、最後には不幸は免れませんが、ただの盗賊よりは人生を楽しめたかもしれないと思います。

では、略奪行為が悲惨な末路を呼ぶ原理について説明します。
略奪という行為をする度に、その者にとって、世界はどんどん狭くなります。
と言いますのは、強引な行為でしかものごとを達成できないのだという観念がひどく大きくなり、予期せぬことが起こることを赦せなくなってくるからです。
何でも、力ずくでやることになり、予期せぬ良いことすら喜べなくなります。彼らにとって、予期せぬ良いことは、予期せぬ悪いことと同じです。
しかし、人生の本当の楽しみや豊かさは、たとえ悪いことであっても、予期せぬ出来事を味わい、喜ぶことです。
自我が理解できることしか赦せない世界観というのは、恐ろしく空虚で恐怖に満ちたものです。そんな中で生きることを地獄と言うのです。しかも、歳と共に身体は衰えますが、そうなると、世界はますます小さくなり、窒息させられるような気分にならざるを得ません。
この説明も、まだまだ浅い範囲であり、略奪行為のもたらす悲惨というのは、もっと厳しいものです。しかし、話を簡単にするために、今回はこのくらいに留めておきます。

予期せぬことでさえあれば、起こることが最善だ
~W.B.イェイツの戯曲「カルヴァリー」より。イエスを屈服させたローマ兵士の言葉~

「この世で一番楽しいことは何か知っているかね?スピネル」
「何ですか?エリオル」
「予想しないことが起こることだよ」
~CLAMPの漫画「カードキャプターさくら」より。~







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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