ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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ハルヒ(張る霊)との出会い

人生に目的はあるのだろうか?

解剖学者の養老孟司さん、精神分析学者の岸田秀さん、仏教評論家のひろさちやさん等は、善意であると思うが、人生というものに目的は無い、あるいは、あるべきで無いといったことを書いておられるように思う。
だが、人生に目的はある。ただ、世間的な目的なら、確かに、無い方が良い。

子供に、大人に聞かせるための人生の夢を言わせてはならない。それは、子供の可能性を著しく狭め、封じ、歪め、窒息させてしまうことだ。
岡本太郎が、「子供は小学生にもなれば、どんな絵を描けば教師に褒めれるか分かるようになる。それで、そんな絵を描くのだが、そんな絵は卑しい」とよく言っていたと思うが、子供の夢も同じである。
何かのテレビCMで、小学生の子供達が夢を語るものがあったが、私はそれを聞いていて、虚しく、悲しく、気味が悪かった。

子供の本当の夢は、世間の大人が聞けば、眉をひそめるようなものでなくてはならない。
大人の言う大きな夢は、奴隷の夢でしかない。
「子供の将来の夢ベスト10」なんてアンケート結果に出てくるような夢を、子供は真面目に言ってはならないし、言わせてもならない。
まだ小学生なのに、本心からの夢を言う子がいないのは、子供は、そんなことを言うと、嫌な思いをさせられることを知っているからだ。
独裁国家では、子供の時から、独裁者に奉仕する目標は賞賛されるが、それに反するか役立たない目標を言うと、非難され、屈辱を与えられることはご存知と思う。しかし、日本でも、根本的には同じである。

そのように、我々は、子供の頃に、奴隷の足枷をはめられてしまっているが、それを外してしまうことが本当の目的である。
我々が語るべき夢は、世間からは、見下されるだけならまだマシで、激しく非難され、狂人扱いされるのが当たり前だし、それを推進すると(すべきだ)、あらゆる迫害を受けるかもしれない。あなたを愛する人でさえ、戸惑わせ、悲しませることだろう。
だが、千万人といえども我往かん、自らの正義を貫け。それでこそ、真に生きるということである。

「宇宙人?未来人?そんなのいるワケねー。でも、ちょっとはいて欲しい、みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ」
「涼宮ハルヒの憂鬱」(谷川流著)の中の、キョン(高校1年生男子)の言葉だが、これも、単に世間に妥協したということではあるが、世間の差し出す宇宙人や未来人の作りもののイメージという意味でなら、ある程度は良いことだ。だが、そこに、世間の常識をはるかに超えた存在である涼宮ハルヒが現れ、キョンの世界は激しく揺さぶられることになるのである。
あなたも、ハルヒ(張る霊)に出会えることを祈る。







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無視に耐える

人は、物欲、金銭欲を克服しても、名誉欲だけは無くならないものらしい。それが、大富豪や英雄達の本音なのだそうだ。
ディール・カーネギーは、人の最大の願望は自己重要感であると述べているが、これもそのことを表しているように思える。
それなら、いじめの中で最も苦しいものは、シカト、つまり、無視であるというのも、うなづけるではないか?

つまり、人にとって最も大切なことは、存在感なのである。
「え?人にとって、一番大事なものは愛じゃないのですか?」
と聞かれそうだが、存在しなければ愛せない。
名誉とか、自分を重要人物だと感じることは、存在感の最高のものだ。一方、無視されることは、存在感を感じさせてもらえないことだ。
聖書によれば、神様ですら、「私は愛するものである」とは言わず、「私は存在するものである」と言っているくらいだ。
愛を説いたと思われているイエスも、自分のことは、「私は存在する」ものだと言っているのである。

デカルトは言ったじゃないか。「我思う、ゆえに、我在り」と。やはり、存在することが最も重要なのだ。
極めつけは、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジの言ったことだ。
「あなたが確信できる唯一のことは、自分が存在するということだけだ」

ところで、名誉欲というのは、他人に頼らないと自分の存在感を感じることのできない哀れな感情なのだ。
いい歳をして、いつまでもドンでいたがる老人というのは、実は、そんな者なのである。心が空虚で寂しいのだ。他人に崇められないと自分が消えてしまいそうで、恐くて仕方がないのだ。
人々に重要人物扱いされて、やっと少し息がつける可哀想な人なのである。
それが分かると、非常識な独断を無理矢理通そうとする哀れなドンをいたわる気持ちにならないだろうか?

一方、アインシュタインなんて、ちっとも自分を重要人物だと思っていなかった。
いつもヨレヨレの服を着て、靴下も履かず、頼まれれば中学生の数学の宿題を喜んで熱心に手伝った。中学生の子供に、「近所に偉い数学の先生がいたから、数学の宿題を手伝ってもらった」と言われた親が、それがアインシュタイン博士だと知って卒倒しかけたこともあったらしい。しかし、アインシュタインにとっては、中学生の宿題を手伝うことは、別段、不自然なことではなかった。何せ、自分の得意なことなのだから。

中国の古典「荘子」に、外見といい、能力といい、全く何の取り得も無いのに、男にも女にも慕われまくる男の話がある。若い娘は、その最悪の醜男に、妾でもいいから側に置いて欲しいと請い、男はみな彼と義兄弟となりたがる。王様にいたっては、宰相(総理大臣)の地位に就くよう必死で要請する。
だが、その男は、ただ、来る者拒まず、去る者追わずといった感じで、自分の意見を言うことも、意志を示すこともない。何かを願うことも、逆に、厭うこともない。しかし、宰相の地位は嫌であるらしく、黙って消えてしまい、王様を深く嘆かせる。
荘子は、彼が無為に徹するがゆえに、道(タオ)と一体化していると言う。
それは、おそらく、彼は、自分で自分の存在を確立できているということだろう。彼は、存在するために、他者を必要としない段階に達しているのだ。いうなれば、イエスのように、「私は存在する」ものであると、自分で言えるのだ。
そのために、他者の崇拝や賞賛を必要とする、哀れな老人達とは全く違うのだ。

二目と見られないほどの醜さで、何も出来ない者ですらそうなのである。
なら、外見がそこそこで、1つくらいは特技のあるあなたなら(無くても別に良いが)楽勝である。
上にあげたニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイスは、「私は存在するという感覚(感じ。フィーリング)に、いつも注意するように」である。それも練習次第と思うが、私にもできそうである。
そうすれば、無視されても平気だし、言ってみれば、神になるということだ。マハラジもそれは肯定しているし、しかも、最大の保証をしている。「決して落胆はさせない」と。







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読心術

大昔から、読心術というものがある。今は、その原理はかなり理論的に解明されてきてはいるが、必ずしも昔の人より上手くなった訳ではない。ただ、誰でもレベルの差はあれ、利用できるようになったと言えるかもしれない。
私は、特に親しい訳でもない若い女性と話しながら、彼女の部屋の様子を言い当てて見せ、半分冗談だが、私が彼女の部屋に密かに侵入したか、彼女の部屋には隠しカメラでも設置されているのかと訝られたことがある。
催眠術師の松岡圭祐さんの小説の中には、そのような技術がさりげなく織り込まれていて、そのことを知らなくても、無意識的に面白く感じる。まさに催眠術的な小説だ。

ただ、技術的、理論的なことを知らなくても、人間の感覚というのは読心術のような働きをするものだ。それは、多くの人と深く関わるほど磨かれる可能性が高い。
それで、下手な役者の演技は嘘っぽく感じるが、名優となると文字通り視聴者を騙すのである。
しかし、政治家や経済の大物が、必ずしも名優であることはない。
それで、冷静に見れば、彼らが嘘を言っていることも感じるかもしれないが、彼らの多くが、特に緊急事態では、妙に本当のような嘘を言う。自分の意志で嘘を言っているのではないからだ。
それが、脅されて嘘を言っている場合もあるし、何らかの事情で、善意を隠して本当でないことを言っている場合もある。
あまり具体例を言うのは気が引けるが、石原都知事などは、善意でやむなく嘘を言うのが多い人かもしれない。善意であっても、あまり本当のことを言えないのだろう。
例えば、オリンピック招致にしても、負けることは初めから分かっていた。しかし、東京が立候補しなければ、リオ・デ・ジャネイロになることはなく、別のあるところになることは決まっていたが、それはまずいことだった。
新東京銀行にしても、あそこに金をつぎ込まないと、その金以上の金が、別のあるところに流れていたのであるが、それは日本にとって困ることだった。
プロ野球の開幕日のことに関して、世論に逆らって強硬に早期開幕やナイター実施を主張する者は、善意ではないかもしれないが、自分の考えで言っているのではない。半ば脅されて言っていると見るべきだろう。
今回の原子力発電所事故や、あるいは、少し前の日本の金星探査衛星のことでも、関係者は善意で本当ではないことも言っているのかもしれない。

ただ、大切なことは、人の言動をあまり悪意に取らないことだ。悪意に取ると、本当のことが見えてこない。何でも悪意に取る者ほど騙されやすい。批判癖が付いた者は、残念ながら正しい判断は出来ないのだ。
しかし、我々は、幼い頃から、人の言動を悪意に取るよう習慣付けられてしまっている。神様にさえ悪意を感じている者も多いくらいだ。
だが、神に悪意が無いのと同様、人の場合も、ほとんど悪意はないのだ。
それを悪意と取った場合にだけ、本当に悪意になるのである。
そして、人の言動を悪意にさせない力を持った人間が本当の大物であり、真に貴いこの世の光なのである。







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唯一の催眠術

催眠術というものは、別に神秘なものでも何でもないのだが、普通の人は、それをよく知らないという理由で、過剰な印象を持ってしまう。
自己開発セミナー等で、講師が受講者の1人を選び、特別な声の調子や身振り手振りと共に、その受講者に目を閉じさせたり、何かを指示したりした後、講師が「あなたは自分の名前が分からなくなる」と言うと、「名前は?」と聞かれた受講者は、いくらがんばっても自分の名前を言えない。そして、講師は、「私はあなたのお父さんだ」と言った後で、「私は誰ですか?」と聞くと、受講者は「え・・・と、お父さんです」と言ったりする。
面白いところでは、「あなたは7歳だ」と言われた受講者は、7歳らしく話し、振舞い、その頃にあったこと(例えばテレビ番組)の話をしたりする。
他にも、数多くのパフォーマンスのバリエーションがある。
こういったことを催眠術だと言う講師はあまりいないし、中には、「これは催眠術ではない」と言って、何か特別な力によるものであると言う者もあるが、全て、単なる催眠術である。練習すれば、誰でも出来るものだ。

そして、我々は誰でも、既に数十、あるいは、数百以上の催眠術にかかっているのである。
誰でも高いところは恐いが、極端な高所恐怖症であれば、それは催眠術にかかっているのと同じである。
他人の異性の好みは理解し難いものであるが、どんな異性に惹かれるかも催眠術と同じ作用である。
「水戸黄門」という時代劇で、葵の紋所を見せると、大勢の悪者達がなぜか恐れ入って平伏するというお決まりの場面がある。あの悪者達も催眠術にかかっているのであり、黄門様達はそれを利用しているのだろう。そして、何より、あの番組により、国民は催眠術にかけられているのである。権威に逆らうのは恐ろしいことであるという催眠術である。

だが、本当は、催眠術には1つしかない。
それは、自分には限界があると思い込んでいるという催眠術だ。
新約聖書には、イエスが多くの奇跡を起こしたことが書かれている。重病人を手で触れただけで、あるいは、声をかけただけで完治させ、嵐を叱って鎮め、数個のパンと数匹の魚を増やして数千人の腹を満たした。
日本では、江戸末期の神道家、黒住宗忠がイエスのような奇跡を数多く起こし、また、イエス同様、弟子達にも行わせた。近代では、岡田虎二郎や植芝盛平らも、色々な不思議を行った。
しかし、それを聞いても、我々は、他愛もない作り話と思ってしまう。たとえ本当かもしれないと思っても、自分には出来ないと思ってしまう。
イエスは、弟子達が自分のようなことが出来なかったり、出来ると思ってもいなかったことを何度も嘆いている。せっかくいいところまで出来たのに完全にやれなかった弟子を叱ったこともあった。
イエスは、「私がやったことは誰でも出来る。いや、君たちはもっと大きなことが出来る」と言ったのだった。
そのために必要なことは、ただ、唯一の催眠術から醒めることだ。自分がイエスに及ばないと思い込んでいる催眠術である。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師から「あなたは至高者である」と言われ、その言葉を忘れなかったので、何の努力をすることもなく、4年で催眠術から醒めた。つまり、悟りを開いた。しかし、4年もかかった。
関英男博士は、「私は元々超能力者である」と思うことを薦めていた。自分が超能力者でないという催眠術から醒めるためだ。

私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者。
~ラルフ・ウォルドー・エマーソン「精神について」より~

現代においては、催眠術の研究も参考になるかもしれない。しかし、異性を口説くとか、自分の都合のいいように人を操るとかの程度の低いものに関わってはならない。それは、よりひどい催眠術に好んでかかるようなものだ。下に良い書籍をご紹介する。













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力の言葉

日本には、昔から、言霊といって、言葉には霊力があり、使う言葉がものごと、出来事に影響を与えると考えられていた。
しかし、それは日本だけのことではない。聖書(旧約聖書)においても、「はじめに言葉ありき」から始まり、知恵ある人は言葉というものを軽く扱わなかった。
そして、いかなる国の言葉でも、その仕組みや成り立ちを調べれば、そこに驚くべき英知や神秘が認められるのである。

関英男博士は、人にとって最も重要なことは洗心であり、つまるところ、それが全てと述べておられた。
洗心とは辞書にも載っていない言葉であるが、文字を見れば意味は分かると思う。文字通りの、心を洗う、浄化するということだが、さらに日本的に言えば、穢れを祓うといった意味になろうか。
この世が3次元で、死後の世界を4次元とし、天界がもっと上としても、天界には階層があって、より高い天界というものがあるとも言われる。
そして、関博士は、Oリングテストでの測定であるが、洗心という言葉だけで14.7次元で、般若心経は極めて高いながら9.3次元と言うから、本当であれば大変なものである。
関博士は、科学者としては電波工学の世界的権威で、このブログで何度も取り上げたように、腕振り運動を普及させた人だ。そして、エマニュエル・スウェーデンボルグのように、高名な科学者でありながら、ある時期から、現代科学の範疇を超えた超科学(高次元科学)や、超能力、霊能力の研究を行ったせいで誹謗・中傷されたことも多いが、本人はそんなことは全く意に介さない高貴な人格者であったようだ。それは、橋本健博士や政木和三博士も同じであった。関博士は、腕振り運動のおかげで、90歳を超えても元気に世界中を飛び回り、頭脳も明晰で、常日頃は、膨大な海外の論文を取り寄せて研究に余念なく、著作にも励んでおられたようだ。

言葉に関する、面白い話がある。
1937年にアメリカの探検家ベアード.T.スポールディングによって書かれた「ヒマラヤ聖者の生活探求」という本に、不思議な廟の話がある。廟とは、先祖などを祭る建物で、日本では、神を祭るほこらのことを神廟と言う。その本に書かれている廟は「神癒の廟」と呼ばれるもので、病人がその中を通るだけで治ってしまうということである。スポールディング達、アメリカの調査隊の面々が直接そこを訪れ、実際に確認し、記録したようだ。重症患者でも、一瞬で癒されることもあったという。多少の時間がかかる場合があっても、百パーセント治っているようであった(病気の根本原因である心が治っていない場合は再発するようだが)。
この廟で病気が癒される理由は、その廟の中では、長い年月の間、「生命、愛、平和」という言葉しか使われなかったからで、その言葉の波動が廟を満たしているからであるという。
こういったことを信じるかどうかは直感に頼るしかないが、我々も、常日頃、「生命、愛、平和」という言葉を頻繁に使っても、もちろん不利益はないし、おそらく、素晴らしく良い影響があると思う。
また、同書の別の箇所に書かれてたが、やはり、高い波動を持つ言葉のみが使われる、ある極めて古い建築物は、一切の補修を行ったことがなく、たとえ破損があっても、勝手に修復されるのだそうである。

もう少し、身近に感じるかもしれないことを話そう。
ジョセフ・マーフィーは、成功し、豊かになるためには、就寝の際、「成功、富裕」という言葉を静かに繰り返すことを薦めている。なぜ就寝時かと言うと、日中であれば、このような言葉は、意識が反発する危険が大きいからであり、私の考えでも、個人的欲望のせいで心が濁りやすいと思う。しかし、表の意識(顕在意識)が希薄になる、眠りに入る時であれば、それが起こりにくいのは確かだろう。それで、深い意識(潜在意識)に、これらの言葉が抵抗なく受け入れられ、潜在意識の驚異の力が、その言葉の状態、即ち、成功し、富んだ現実を作り出すのである。
成功や富自体は悪いものでないばかりか、良いものだ。元々、個人的欲望がなく、世界のために尽くそうとすれば、自然に豊かになる。それを知って行うなら、驚くべき効果があるだろう。
また、マーフィーの本には、日中でも、口癖のように、「成功、富、歓喜」という言葉を繰り返して成功した人の話もある。ポイントは、決して、欲望に支配されることなく、淡々と、ただ口癖のようにやることだろう。それが出来るなら、きっと素晴らしい効果が期待できるだろう。そのためには、自分だけでなく、むしろ、万人に対しての言葉であると思えば良い。それならば、成功は確実と思う。

「ヒマラヤ聖者の生活探求」では、イエスや釈迦が若々しい肉体を持った姿で、著者達の前に登場する。荒唐無稽と思うかもしれないが、彼らが話す言葉の荘厳さや高貴さを思えば、彼らの存在を自然に感じるほどである。
そのイエスが、最も力がある至高の言葉と言ったのが、神という言葉だ。聖書は、神という言葉が最も多くあるがゆえに、最も価値ある書であるという。
英語のGODと日本語の神は異なるという説もよく聞くが、私はそうは思わない。確かに、キリスト教やユダヤ教の神は、「唯一の神」で、古事記や、あるいは、ギリシャ神話では、沢山の神々が登場する。しかし、根本的には1つである神が、様々な姿で現れることはヒンズー教の中でも示されている。そして、古事記でもギリシャ神話でも、あまり言われないが、ただ1つの根本神があることは、はっきりしているのである。
よって、実際には、一神教とか多神教といった区別などない。神は1つであり、それは、言い換えれば、宇宙の英知とか、至高の力というものであるが、全ての人の内に神がいるとも言えるのである。
イエスは、神という言葉には、特別な波動があり、この言葉を、使えば使うほど良く、いくら使っても、多過ぎるということはないと言う。
そして、聖書には多くの神という言葉が使われているように、古事記もまたそうである。古事記も聖書同様、力の書なのである。古事記を読むと、この世での力もまた高まるのである。
我々が神という言葉を見たり聞いたりするのは、多くが神話や伝説の中だ。そして、どの国にも神話がある。そして、神話が顧みられない国は滅ぶと言われる。とはいっても、神話から道徳を学んだり、神話による共同幻想で同朋意識を持つことが重要なのではないと思う。やはり、神という言葉に力があるのだろう。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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