ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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新しい人類の特徴

いじめる者といじめられる者の違いは、多数派と少数派ということである。それ以外に、特に違いはない。
つまり、変わっているといじめられるのだ。

キリスト教徒の中では、イエスの教えに詳しければ賞賛される。また、イエスの教えを信仰する限り、それが自分の価値になる。
ところが、そこに少数の仏教徒が入ると、仏教徒はいじめられる。仏教の価値が認められてしまったら、キリスト教徒達の価値が減ってしまい、下手をしたら失ってしまう。それを恐れて排除する行為がいじめだ。

変わっている者の価値を認めたら、普通の者は価値を失う。しかも、それが本物の価値でないことは本人達も薄々気付いてはいるので、それに触れられたくないことで不安を持っている。その不安がいじめをエスカレートさせる。逆に、変わっている方に本物の価値があると感じられれば、不安は恐怖に変わる。自分の価値がゼロになるという恐怖だ。そうなると、いじめは激烈となる。

「火星人地球大襲撃」というSF映画があるが、地球人類をはるかに超える文明を持つ火星人がなぜか滅んでしまっていた。
その原因は、異質な勢力が登場してきた時、それを排除しようとして失敗したからだ。

声優で歌手の水樹奈々さんの自叙伝「深愛」を読んだが、水樹さんは、幼い頃から演歌の特訓に大半の時間を使っていたので、普通の子達が楽しむポップミュージックやテレビドラマのことが分からない変わった子だった。それは十分ないじめられる理由になるし、実際、いじめられたようだ。
身体が不自由な人間は少ないというだけで、身障者がいじめられるというのは事実だ。
森山風歩さんの自叙伝「風歩」には、筋ジストロフィーのために歩き方がおかしいという理由で、風歩さんは学校で、優等生や教師すら参加した過酷ないじめに遭う様子が書かれている。
その場所で使われない方言を使う者も、異質として排除される。
「わたしのいもうと」という実話を元にした絵本では、小学生の女の子が引越し先で、地方訛りの話し方がきっけかけで、無視という最も効果的な方法で排除されてしまう。

ところで、先にあげた「火星人地球大襲撃」という映画で、なぜかは分からないが、異分子を排除しようとする気持ちを持たない者達が少数ながらいるということが語られていた。普通の人達は自意識を失って幻覚に支配されるのに、なぜか、そんな者達は平静を保てる。なぜそんな者達が存在するかは説明されなかったが、それは制作者の鋭い洞察だ。
人類のDNAの変化なのかもしれないが、実際、異分子を排除しようとしない人間も増えてきている。まだその数は少ないかもしれない。そういった者達自体が少数派なので、なかなか表には出てこないかもしれない。
そして、異分子を排除したがる旧人類は、数が多いまま一気に滅びるかもしれない。かつて、ネアンデルタール人が謎の絶滅をしたように。
異分子を排除しない新しい人類の特徴は少食だ。だが、私のような古いタイプの人類でも、自ら食を慎むことで、DNAを変化させることができるように感じる。
これが、やがて訪れるアセンションかもしれない。













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神の弟子

弟子が師を超えることは決して無い。
もしあるとすれば、師を否定し、決別した弟子だけだ。

我が国にも、幾人かの巨人と呼ばれるほどの傑出した人物が登場し、彼らの多くに弟子がいた。その数が、千人を超えるといったこともあった。しかし、弟子が師を超えることはなかった。師があまりに偉大であったということもあるのだろうが、ほとんどが、師と比べてあまりに小粒だったかもしれない。
その中で、合氣道の藤平光一さんが著書に書かれていたことが印象深かった。藤平さんは、植芝盛平の弟子であったらしいが、否定とは言えないながら、「私の氣と植芝盛平の氣は違う」と述べられていた。本来で言えば、氣が人によって異なるはずがない。もちろん、本当のところは分からないが、藤平さんの、偉大な師に対する精一杯の抵抗のような気がするのだ。もし、藤平さんが「我が師、植芝盛平先生の教えを追求すれども、その足元にも及ばず・・・」などと言っていたら、あのように立派な人物になることは無かったと思う。

弟子に比べ、子が親を超えることは多い。
数学者のウォルフガング・ボヤイは、非ユークリッド幾何学を研究したせいで一生を棒に振ったようなものだが、息子のヤノーシュが同じことをやっているのを見て、慌てて、思いとどまるよう説得した。しかし、息子はあっさりと父を超える。
子は、師の場合と比べ、親の欠点がよく見えるので、否定しやすいのかもしれない。
巨大企業にも、創業者が息子に経営者の座を譲ることがあるが、父を超えて企業を発展させることが出来るかどうかは、親を否定出来るかどうかが重要なことであるに違いない。
巨大でなくても、また、親でなくても、創業者が後継者を指導し過ぎると会社は駄目になるものだ。また、創業者が自分より優れた人物、すなわち、自分の嫌いな人物を遠ざけるようなら、やはり同じだ。

イエスには12使徒と呼ばれる高弟がいたが、誰もイエスを超えなかった。
面白いのは、W.B.イェイツの戯曲「カルヴァリー」で、イエスを金で売って裏切ったイスカリオトのユダがイエスを超えたように思えるところだ。
そして、1970年代に発見されたと言われる「ユダの福音書」では、イエスはユダが優れていることを認めており、裏切りすらイエスの意図したことだったと読み取れるかもしれないということだ。もし、イエス自身がユダに自分を超えさせようとしたのなら、イエスは真に偉大な師であったと思う。

いつまでも師を有り難がっているようではいけない。
師を否定し、師と決別し、師を超えなければならない。
最初から師を持たないというのも手であろう。
偉大な人物の中には、特定の師を持たなかった者も少なくはない。彼らがいかに巨大でも、同じ人間である。我々に出来ないはずがない。
そして、人の師を持たずに道を開いた者の師は大自然であり、宇宙であり、神であった。
これは誰にでも出来ることだが、神の弟子になれば良い。神は来るものは拒まない。超えることは出来ないが、悔いは無いはずだ。
そもそも、弟子になるとは、師を超えないことを宣言するようなものだ。そして、神を超えることが出来ないことを自覚するのは良いことだ。それが、人としての謙虚さになる。自我である自己は神ではないことを忘れてはならないからだ。
老子は、3つの貴い宝を持っていると言った。1つは慈愛、1つは、倹約(慎み)、そして、1つが「天下の先に立たないこと」だが、この3つ目が分かり難い。私は、これを、自己を天である神の上に置かないことと解釈している。
神は、この上ない配慮と万能の力であなたを導くだろう。時には、神は、誰かをあなたの師にすることもあるかもしれない。だが、あなたの本当の師は神であることを忘れてはならない。
アインシュタインも神の弟子であった。彼は言う。「神は老獪だ。しかし、悪意はない」と。程度が低い間は、神に悪意があるのではないかと思うものだ。「神はなぜこんなに私をいじめるのだ」とね。
だが、やはり神に悪意は無いのだろう。あるのは愛だけだ。個人的な欲望を捨て、神の意思に身を任せれば、神は優しい師であると気付くかもしれない。







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暮れない昼もない

「明けない夜は無い」と言う人はいるのだけれど、「暮れない昼もない」のである。

有るようで無い、無いようで有る。
この世は、そんなものだ。
何事も、反対のものがある。どんなものも対で出来ているのだ。
それはちっともおかしなことじゃあない。

「嬉しいけど、嬉しくない」
そんな経験は誰にでもある。
恋人と逢った時は嬉しくても、別れる時のことを考えると嬉しくないものだ。

「美味しい。でも美味しくない」
シャナ(見かけは11、12歳の絶世の美少女)は、クラスメイトの吉田一美(15歳。かなり可愛い)の手作りプリンを食べてこう呟く。
愛する坂井悠二が、そのプリンが美味しいことで一美を褒めたからだ。
(高橋弥七郎「灼眼のシャナ」より)

愛よりももっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを
(萩尾望都「半神」より)

悪を滅ぼそうなんてのは、夜を消して昼だけにしてしまおうというようなものだ。
悲しいものを無くしたいなら、この世の全てを無くさないといけない。何かあれば、影は出来るからだ。
でも、犯罪的な悪は困るのだろう。

光をことさらに褒めるから、悪がひがむのだ。
宝石や名画にことさらに高値を付け、有り難がるから、泥棒が盗むのだ。
円空の彫った仏像は至高の芸術品かもしれないが、円空はそれを子供の遊び道具にしてボコボコにされてもお構いなしだった。

騎士道では決闘は避けられぬとしても、本物の騎士はやり過ぎないものだ。
決闘の場でも、遊び心を忘れないのが上等の騎士だ。熱くなるようなのは騎士として未熟で修行が足りない。相手を徹底的にやっつける騎士は、安っぽくて尊敬されない。
武士道にだって、武士の情け、戦わずして勝つという知恵があるのが本物の武士なのに、権力者に都合の良い、頭が空っぽの猪突猛進型の武士を賞賛する風潮が作られたのだ。
テロリストみたいな武士を褒め称えるのだからおめでたいものだ。
人間以外の動物や虫は、メスを争ってオスが戦う時でも、決して致命傷は与えないものだ。決着がついた後で恨んで相手を闇討ちすることもない。この点は、人間が動物に劣るところだ。

動じない心があれば、ものごとに執着せず、遊び心で流してしまえる。欲があるから心が落ち着かないのだ。
善をことさら賞賛しなければ、悪も無害だ。
善をことさら厚遇しなければ、悪にも味わいが出るものだ。
実際、ヒーローの半分以上は悪なのだ。
別れがあるから燃えるのだ。
空腹があるから美味しいのだ。

有って無し、無くて有り・・・それが分かれば、この世は遊び場になる。
だが、個人的欲望が強いうちは、それが全く分からない。
必要なだけあれば良いと思えばすぐに分かる。
富を求めなくなれば、金に困ることもなくなる。
権力者が作った偽物の騎士道や武士道を捨てることだ。
サムライジャパンなんて幻想を疑うことだ。あれって、誰かが儲けるためのつまらない偽物なのだ。あんなものに踊らされるのは愚か者だ。
熱くならない程度に踊るのは構わないのだけれど、信念、アイデンティティー(主体性)のない人間は、容易く操られるのだ。

満腹するまで食べるのは、信念や主体性の無い人間の特徴だ。
そんな連中は、個人の欲望だけで生きていて、世間の教義や信念から決して離れない。世間が飽食を薦めるからだ。
世間が「それは悪だ」と宣伝すれば糾弾し、世間が褒めれば賞賛する。世界は昼だけであるべきだと本気で思っている。
愚か者になりたくなければ、満腹するまで食べて自分を甘やかさないことだ。







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神秘的な融合体験

自分が消え、何かと一体化してしまったような不思議な体験というものがある。
偉大な人間と、そうでない人間を分ける唯一のことは、それが有るか無いかだけである。

一昨日(2011/1/21)発売だった、声優で歌手の水樹奈々さんの自叙伝「深愛」の中に、さりげなくであったが、まるで神秘体験のようなことが書かれている。
幼い頃から演歌の修行を積んできた水樹さんは、ロック調の歌に苦労していた時、歌って身に付けるしかないと、歌って歌いまくった。その時に、それが起こった。
彼女は「自分自身が音と一体化してしまったような、身体が音楽の中に急激に吸い込まれてしまったような、おかしな感覚だった。ある種のトランス状態だったかもしれない」と記している。

マイケル・ジャクソンが言っていたが、ステージでは、自分が楽器になってしまうのだという。ベースを聴けばベースに、サックスを聴けばサックスになると言う。彼は、いつでも、いとも容易くそうなのだ。だから彼は天才であり、超一流なのだろう。

ノーベル賞作家であるロマン・ロランは、そういったことの中でも最大の体験である、自己が万物と一体化したような体験を大洋感情と言い、芸術の究極の目標であると言った。
同じくノーベル賞作家で、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーであると言ったが、エクスタシーとは、忘我という意味で、やはり万物と一体化してしまって個としての自分が消えてしまうことだろう。
およそ、世界的な芸術家でそれを体験しなかった者はおらず、文豪達は皆、一度は作品の中でそれを語っている。

そういった体験は芸術に限らない。いや、真実を言うなら、人の行うことで芸術でないものはない。人生そのものも芸術だ。
普遍的な意味での大洋感情は、心理学者のアブラハム・マズローの言った「至高体験」であるが、この2つは異なったものではない。全く同じものだ。
我々も、大洋感情、至高体験と言われる、神秘的な融合体験を持つべきなのだ。

禅のお話にこういうものがあるそうだ。
ある男が、人生のはかなさを感じ、寺の僧に相談したら、「座って考えろ」と言う。そこで、ただ座って壁を睨みつけていたが、雑念が次々浮かんでくる。それでも座り続けると、思考が消え、壁に目玉があって自分を睨みつけている。はっと気が付くと、目玉が帰ってきた。
おかしなことがあるものだと思ったが、外に出ると、何か世界が違う。草木や風が語りかけてくるようだ。なんとも爽やかで心が安らいだ。
そこに白隠という高僧が通りかかった。白隠は男を一目見るなり、「千里先の火を消せ」と言ったら、男は、「火になる」と答えた。
このお話の中に、水樹さんやマイケルの音や楽器との融合体験、あるいは、大洋感情や至高体験の秘密の鍵があるように思う。

電波工学の世界的権威であった関英男博士は、若き日、研究室で受信器のテストをしている時、受信器が不思議な電波を捉え、彼はその音をじっと聞いていた。
そして、それが宇宙からのものであると直観した時、自分が宇宙と一体化したような不思議な感じがしたという。
この体験のために、関博士は、普通の科学者が扱うものだけではない、見えない世界の探求をすることになる。

神秘的な融合体験は、最高の情熱を持って何かをやっている時とか、強い集中を持って観察し続けた時に起こることが多い。
先にもあげたW.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に起こるようだ」とも言っていた。
何もなければ、古から聖賢達が言い続けてきたように、自分の心を観察すれば良い。
融合の秘法を得るかどうかが、あなたの運命を決するかもしれない。







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本当にもったいないこと

「もったいない」という言葉は、日本の貴い言葉であると言われる。
しかし、今では、本当の意味と全く異なる使い方をされている。
「百万円あげる」と言われて、「要らない」と突っぱねることを、もったいないと言う人がいるが、もらういわれ(理由)のない百万円なら、もらう方がもったいないのである。

もったい(勿体)とは、本質的な価値とか、品位といった意味で、元々は仏教の言葉だ。
日本人は、古来から、見せ掛けではなく、ものの本当の価値とか、品位を大切にしてきたのだ。
だから、本当の価値を踏みにじることや、品位を穢すことを、もったいないと言って、注意し、恐れてきたのである。

例えば、テレビがあれば、本来であれば、それを見ないと、テレビ本来の価値(もったい)を生かせないのであるから、もったいないのである。
しかし、今は、テレビで放送される内容のほとんどがもったい(品位や本当の価値)が無いので、テレビをつけることの方がよほどもったいないのである。

大相撲の力士がピアスをつけたり、茶髪にすることがないのは、日本の伝統では、もったい(品位)を重んじるからだ。
しかし、それなら、力士を指導する立場の協会が品位を持たねばならない。
プロ野球でも、巨人軍はもったいを大事にし、選手の茶髪やピアスを嫌う球団であるが、やはり、球団幹部のもったいが重要になる。
ところで、茶髪やピアスはもったい(品位)が無いのであろうか?それが、外見をことさらに強調したり、異性への過分なアピールであるなら、そうであるのだろう。適度な体裁や魅力のためには、全く無用であるからだ。

日本人がなぜ、この、ものの本質や品位であるもったいを、かくも重んじるのかというと、我々は古来から自然を崇拝する中で、あらゆるものの中に神様が居ると信じているからだ。
動物や草木はもちろん、水や岩にさえ、命や魂があるということを感じてきた。
だから、日本人は、ものをとても大切にし、使い捨ての発想はなく、修復して長く使うことを美徳とした。
ただし、時々聞くが、何年も前の、食べられるはずもない食品を、もったいないと言って冷蔵庫に入れっぱなしにする人がいるが、それは逆にもったいないことだ。そんなものは、早く土に返して再生させないと、その本質の価値を生かせないからだ。そもそも、食べられるうちに食べず、まだあるのに新しいものを買ったから溜まってしまったのであり、そのもったいなさを戒めるべきなのだろう。

さて、では、最ももったいないこととは何であろう。
それは、最も貴重なものの価値を踏みにじることという意味であるが、それはどんなことだろう?
それは、生命を損なうことである。
楽しみのために動物を狩るスポーツハンティングは、動物のもったいを否定することであるが、それをする者もまたもったいを失くしているのである。快楽ほど生命を損なうことはないからだ。
個人的欲望や、恨み、妬み、憎しみ、悲しみもまた、生命を損なうもったいないことだ。
何が生命を損なうかは、分かるはずのことだ。
心が落ち着き無く動き、呼吸が乱れるなら、生命を損なっているのである。
だから、寿命は呼吸の回数に反比例するし、聖人の呼吸の数はとても少なくゆったりとしている。せわしい呼吸をする聖者はいないし、ゆったりと安定した呼吸をする愚か者もいない。
なぜ生命を損なってはいけないかというと、人の生命は神の生命と一体だからだ。
黒住宗忠は、慌てたりして心を乱した時ですら、「神様の命を傷つけてしまった」と思って反省したという。
いらいらしたり、せかせかすることもまた、生命を損なうことなのだ。
生命を大切にすれば、それは神の生命を大切にすることであり、神の力も顕現してくるだろう。
そうなれば、一切の気苦労も無くなる。そのためには、恨み、妬み、悲しみ、イライラ、せかせかの根源である個人的欲望を持たないことだ。
呼吸が乱れない程度の欲なら構わない。しかし、熱狂や興奮を伴うなら、過ぎた欲である。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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