ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2010年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

子供の時の感覚が甦る私の運動

私は、毎晩欠かさず身体トレーニングをしているが、私のやり方は、畳1枚の広さがあればそれで十分で、何の道具も必要がなく、家の中で出来るので、時間もお金もかからない。そして、満足すべき成果を得ている。
やることは、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動、背筋運動、スワイソウ等であるが、長く続け、効果を上げるには、やり方も大切だと思う。

まず、腕立て伏せを取り上げる。誰でも知ってるポピュラーなトレーニングであるが、あまり良い印象が無いかもしれない。腕立て伏せのイメージが良くないのは学校などでの経験のためではないかと思うが、私は、これはあまりに素晴らしいので、天が誰かに教えた究極のトレーニングに違いないと思っている。
ただ、多くの人が、腕立て伏せのやり方を「床ぎりぎりまで身体を落とし、身体を上げた時には、腕をしっかり伸ばしきらないといけない」といったのが正しいと思い込んでいるのではないかと思う。
これは、学校で教師に見せるためのやり方で、トレーニングでも何でもない。いわば演技、見世物のやり方だと思う。
体操競技などでも、高得点を出すには、意図的に曲げていない部分は全部、「美しく」伸びきっていなければならないが、あれは非常に身体に悪いのである。
私も、最初の頃は、「しっかり曲げ、しっかり伸ばす」方式で腕立て伏せをやっていたが、自己満足にはなるものの、効果がなく、飽きてきてしまうので困った。
ある時、プロボクサーの方に、「自分達はそんなやり方はしない。心掛けるのは『なるべく速く』だけだ」と言われ、感じるところがあってやってみたら、充実感を感じ、効果も素晴らしかった。
とにかく高速に、形はあまり気にしない。短時間に気力を込めてやる必要がある。逆に言えば、気力が充実する。腹や太腿の筋肉への負担も大きく、それらの部位が震えてくるほどだ。また、心肺への負荷も高く、息切れも起こすが、胸にも力が入るので息がし難い。百数十回も続けると心臓が高鳴り、終わった時には息も絶え絶えとなる始末だ。しかし、短時間に力を出す充実感は爽快であり、やや苦しくても、その気分を味わうため毎日欠かせなくなる。そして、当然ながら心肺機能が高まるのも感じる。少し前に、ノロウイルス感染で倒れた時も、さすがにその日は休んだが、まだ体調の戻らないにも関わらず、翌日はいつもと同じ回数を実施した。
腹筋運動も同様で、やはり、「出来る限り速く」だけを心掛けてやっている(あまりに無茶で極端な高速化までは注意しないのでそのつもりで)。
トレーニングは見世物ではないのだから、動きの大きさや優雅さなどはどうでも良い。超一流のスポーツ選手のトレーニングを見ていると、あらゆる動きの振幅が非常に小さく、動いているのかどうか分からない場合もよくあるのに気付く。
もちろん、あまりに歪んだ姿勢、体勢や、いい加減な動きも戒められるべきで、多少の研究も必要かもしれないが、馬鹿でもない限り、「程々」とか「ものには限度」ということを忘れなければそれで良いと思う。

さすがにスクワット(しゃがんで立つ運動)は、高速でやると飛び跳ねてしまうし、それでは膝を痛めるので、こればかりは軽やかさを心掛けているが、あまり深く曲げないハーフスクワットを、そこそこの速さでやるのが良いかもしれない。そこは自分でいろいろ試して見ると良い。ただ、私は深くしゃがんだ姿勢から静かに伸ばすという方法でやっている。それでバランスを取る時に、全身が適度に鍛えられるからだ。最初は、ふらつくことも多かったが、しばらくすると、動きがぴたっと「決まる」ようになった。

これらの運動と、少食、菜食(青野菜より根菜、果物が主だが)の組み合わせにより、身体の調子が非常によく、とにかく軽く感じるようになった。歩いていたり、階段を昇る時に、まるで身体の重さを感じないことに驚く程である。それは丁度、子供の時の感覚であり、あの無限のエネルギーを取り戻したようである。子供の頃、スキップで移動するのは、まるで、空中に浮かんでいるようなもので、どこまででも行けるような気がしたものだが、まさにあの感じが甦ったのである。
運動も、学校で教わったようなやり方や、宣伝に乗せられてむしろ身体に悪いことを金と手間をかけてやるのではなく、実質重視でやるのが当然良く、私のようなOne Matアスリート(畳1枚の広さで実施できる運動)方式を考えてみてはいかがかと思う。





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年齢の幻想を打ち破る

私は、NHK衛星第1テレビ(BS1)の「きょうの世界」のキャスターを務める丁野奈都子さんが好きで、あの番組を時々見るのですが、昨夜のその番組で、自分が老人になった時の姿の映像を作成するコンピュータソフトの話題がありました。まだ製品化される前のものですが、現在の自分の顔から、30年先の自分の顔を作成するといったものです。実験によると、そのソフトで老人になった自分を見た人は貯金を始めるのだそうです。老人になった自分を映像で実感することで、将来への不安や老いの恐怖を起こさせるのであろうということです。

手塚治虫さんと並び称せられる漫画家で、現在も人気がある仮面ライダーシリーズの作者である石ノ森章太郎さんは、子供の頃は「人生50年」の時代で、石ノ森さんも、「うまくいって50年」、そして、自分は40歳くらいまで生きればいいと思っていたようです。40歳以降は老人で、老いさらばえてまで生きていたくないと思っていたようです。
日本は高齢化が進んでいると言われ、20年後は、若者2人で65歳以上の老人1人を支えないといけなくなるとよく言われます。
世間の観念というものは恐ろしいものです。
なぜ65歳を過ぎたら「支えられない」といけないのでしょうか?
石ノ森さんが子供の頃、もう老人と考えられていた40歳は、現在では老人とは程遠く、1883年生まれのナポレオンヒルすら、リンカーン大統領がそうであったように、40歳以降から本当の人生をスタートさせた人々のことをよく取り上げています。
プロレスのジャイアント馬場さんは、「若い頃は、60歳といえばすごい年寄りだと思っていたが、自分がなってみたら、全くそんなことはなかった」と言います。
ただし、大部分の人は、子供の頃や若い頃に植えつけられた観念に従って、昔なら40歳、今でも、60歳になると老人になります。

40代や50代の女性でも美しくあれるのだという美容産業の宣伝をよく見ますが、あれを見ると哀れに思えてなりません。なぜ、40代や50代の女性が性的魅力を売り物にしないといけないのでしょうか?金のために彼女達の愚かな欲望を煽る者達にも問題はありますが、彼女達自身の浅はかさのために、不安と恐怖に怯える弱い存在に留まっていることに気付き、それを超えることが、本当に年齢に打ち勝つ道です。
斎藤一人さんは、200歳まで生きると言います。現在、60歳くらいの彼が子供の頃は、80歳まで生きると言うと笑われたそうですが、今はまさかそんなことはなく、80歳を超えて単に元気なだけでなく、高い能力を持って生きる人も多くいます。そんなことから考えても、200歳まで生きるということに、なんらおかしなことは無いと斎藤さんは言います。

冒頭にあげましたように、「老人になった自分を見る」コンピュータソフトのキャッチフレーズは「30年後の自分を見る」でした。
しかし、私は300年後を考えています。
画家の足立幸子さんは、進化した星では300歳、400歳でも若く、一生老けないし、我々も100歳、200歳でも若くいられると講演でよく言われていたそうです。
世界中で大いに誤解されていますが、実は高度な哲学者であったジョージ・アダムスキーが逢った宇宙人達は、やはり数百歳でも若く、地球的に換算すれば百歳を過ぎた女性が20歳以上に見えず、驚嘆するほど美しかったことを彼は著書に書いています。
1897年に書かれて、現在も世界で愛読され、ヘンリー・フォードが自分の成功の要因と言ったことで知られる、ラルフ・ウォルドー・トラインの“In Tune with the Infinite”(邦訳2冊を最後にご紹介しておきます)には、80歳を過ぎても、25歳以上に見えない女性の話も出てきます。
私は、政木和三さんが存命の時、政木さんに「君は千年生きることも出来る」と言われました。今では、当然、可能と思っています。
私は、1日1食で、肉や魚を食べることをやめてから急速に若返り、身体は17歳の時の数倍強くなり、それまで抱えていた一切の身体の不具合(アトピーやメニエール病)を消しました。高価で、私の考えではかえって身体を損ねる世間の美容法や健康食品は不要で、ただ、食を慎めば、誰でも同じことが起きます。そして、決して、食の楽しみを諦める苦行的な生活をする必要はなく、逆に、食の楽しさは以前とは比較にならないほど大きなものになります。空腹の時には、質素な食事も天国の食物ですから。

戦前に貯金に励んでいたのが、終戦時のデフレのために貨幣価値が急激に下がり、その預金は、それを降ろすために町の銀行に行くバス代にもならなかったという話がありました。
世間の保証なんてそんなものです。世間の権威、信念、教義、価値観に従う限り、安らぎはなく、不安や恐怖は大きくなるばかりです。
本当の保証は、言ってみれば宇宙の英知のみです。私は、世間より、真の英知を上位に置くことを始めました。古い自分を終わらせ、新しい自分を始めるとはそういうことです。







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不幸な主人と幸福な下僕

世の中には、矛盾した言葉というものが沢山あるが、最も矛盾した言葉は何かと言うと、「奴隷を愛する」という言葉だと思う。
愛しているなら、奴隷にはしない。

「私はビジネスを愛する」と言う人がいるかもしれない。
しかし、「ビジネスは私に富をもたらしてくれるから」と言うなら、彼はビジネスを自分のために役立つ奴隷と見なしており、自分が主人でビジネスを下僕としているのだから、彼の言葉は矛盾している。
「ビジネスは私の能力を活かし、世界を良いものにする」と言うなら、ビジネスが主であり、自分が下僕なので、彼はビジネスを愛しているのだ。

単なるロックファン、ロックマニアと、ロックを愛する者の違いも同じだ。
ロックを、自分を楽しませてくれるものと考えるなら、やはりロックを自分のために役立つ下僕と見なしており、ロックを愛していることにはならない。ロックを愛するなら、ロックが自分や人々の意識を目覚めさせ、進化させるものと思っているのだ。
プロのシンガーでも、音楽を富をもたらすものと思うなら、やはり音楽を自分のための奴隷にしているのであり、音楽を愛することとは程遠い。いや、正反対だ。ある有名なミュージシャンは、元々は音楽を愛していたし、才能もあったので素晴らしいミュージシャンになり、人々に対して、音楽本来の役割を提供する下僕になっていたが、彼は神に試されたのだろう。彼には大きな富がもたらされ、いつしか彼は、音楽をお金の道具にしてしまい、才能が閉ざされ、そして、破滅した。大きな借金を背負った彼は、今でも音楽を金の道具にせざるを得ず、復活は不可能だろう。才能とは、道を誤る大いなる災いなのだ。弱い人間には、むしろ無い方が幸福かもしれない。
しかし、別の著名なニュージシャンは「ミュージシャンなんてのは、街角でハーモニカを吹いていたら満足なやつでないと駄目なんだ」と言ったが、それは自分が楽しむという意味ではない。ハーモニカを吹くことで閃きを得て、自分のやるべきことを知ったり、あるいは、人々に気付かせたりするということで、あくまで音楽が主で自分は従なのだ。
では、さて、「女を愛する」とか「男を愛する」とはどういう意味なのだろう?

神を愛すると言いながら、神に富や成功を祈れば、それは、神に対し、「私の役に立て」と言うようなもので、神に自分の奴隷になれと要求するようなものだ。神を愛するとは、神の下僕になるということだ。ただ、神は人間の主人のように我がままでもなければ気紛れでもない。主人にするに値するものであり、全面降伏して悔いのない相手に違いない。
ただ、アイルランドの詩聖イェイツが言ったように、「愛は神の領域であり、人に理解できるものではない。だが、憎しみは人の領域であり、これなら理解できる。我々にできるのはただ憎しみを捨てることだ」ということなのだ。全ては神の至高の力が動かすのだから、どんな運命や出来事も憎まないことだ。全ての過去と現状を肯定するよう努めるのが良いに違いない。そして、未来に関しては神に任せることだ。それが神の意志に従うということであり、神と和らぐということと思う。聖者、賢者が約束する幸福の道とはそれである。
簡単に言えば、余計なことを考えず、ぼーっとしていることだ。不要なものを求めないことだ。しかし、考えるべきことは考え、必要なものは求めても良いのだろう。しかし、それらはあまり多くはない。
そうすれば、我々には下僕や奴隷は必要がないことが分かる。「ご主人様」と言われて喜んでいるなら、その喜びが大きいほど、彼の現状は悪いものに違いない。我々は下僕である時に幸福なのである。そして、下僕であることで主人に似てくるのである。







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本当に給食費を払えない家

学校の給食費を払わない親のことを以前からよく聞くようになった。
そんな時に必ず話の中心になるのが、経済的に豊かであるにかかわらずに払わないというケースだ。
すると、給食をやめてお弁当にしろとか、払っていない子に給食を出さなければ良いという意見が普通に出てくる。
しかし、本当に払えないという家庭もある。
給食費を払えない家庭が今の時代、稀というなら、昭和40年代には既に稀だった。
著名な作家の太田治子さんが小学生だったのは昭和30年代だが、給食費を払わない子は彼女がクラスでただ1人だった。彼女は太宰治の娘であるが、太宰の妻の子ではなく、太宰より40歳近くも若い母親の静子が1人で育てていた。親子は貧しく、バラック(急造の粗末な建物)の2階で間借り生活をしていて、給食費を払う余裕はなかった。治子は学校でもいつも1人でいたと言い、いじめられたとまでは言わないが(言わないだけかもしれないが)、教師に露骨に無視されていたことは明かしている。孤立した子供には、これは教師による十分ないじめだろう。
今の時代にも、本当に給食費を払えない子は確実にいる。
ある小学校では、給食制度がなく、子供達はお弁当を持ってくるのだが、1人の教師が、お弁当を持って来ない子がいることに気付き、尋ねると、その子はいつも「忘れた」と言う。そうでないことは明らかで、教師は毎日自腹でその子にパンを買って与え、いつ洗濯したか分からないようなその子の服を洗濯してやったようだ。
貧しいなら行政補助をと言う人もいると思うが、いかなる補助金の申請であれ、複雑怪奇で手間がかかり、多くの母親にとってはとても手の出せるものではない。この子供の例では、母親は早朝から深夜まで働いているがゆえにお弁当を用意できないのであり、そんな手続きをする暇も気力も無いに違いない。どこで入手して良いか分からないような書類を漏れなく集めて完璧に記述し、どこにあるのか分からない指定の場所を探し当てて持参しても、いつお金が下りるか曖昧なことを言われたままひたすら待つしかないのではないかと思う。身障者手帳の手続きだって、身動き出来ない一人身の老人に、書類を自力で集めて、役所まで期限日以内に持って来いと言うくらいだ。
まあ、私も大学の学費の件で行政に脅された経験があり、その手のことには心証が悪いのは確かであるので、やや辛辣かもしれない。

できれば、給食費は無償が良い。そのために税金が上がるならやむを得ない。消費税が5パーセント上がることがなんだろうと私なら思う。
発展途上のある国では、国際的なNPO団体の活動により、子供達は学校の給食は無償で出るのだが、子供達はそれをほとんど食べずに家に持って帰る。でないと、家族が飢え死にするのだ。
また、やはりある貧しい国で、日本人の教師が、遠足の時、自腹で子供達のお弁当を用意すると、その見たこともないような素晴らしいお弁当に子供達は大喜びするが、お昼になって、「さあ、食べよう」と言っても誰も食べない。子供達は、空腹であるのに、「こんな素晴らしいお弁当を1人で食べるわけにはいかない。持って帰って家族にも食べさせたい」と言い、結局、誰も食べなかったようだ。
一方、日本では食べ物の半分以上は捨てられているらしい。
それはともかく、払えるのに給食費を払わないなら、それは仕方がないではないか。彼らは、将来、そのツケを悲惨な形で払うことを選んだだけなのだ。それはそれで意味もあるだろう。金が足りないなら、その分、全員の給食の量を減らせば、辛い部分もあるかもしれないが、結果的にはむしろ素晴らしいことになるだろう。私は、ライブドアと同期に上場したソフトブレーンの創業者の宋文洲さんに2度ほどお会いしたことがあるが、彼は小学生の時、片道十数キロの通学をしていたが、お弁当を持っていけなかったらしい。しかし、彼は健康そうだった。むしろ、日本の子供達は食べ過ぎて身体を弱くしているのかもしれない。







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雨乞い師になりたければ

スイスの著名な精神医で心理学者のC.G.ユングは、雨乞い師(レインメーカー)の話がお気に入りだったようだ。
雨乞い師のようなものが本当に存在するだろうか?
当然、存在する。
そして、現在の人類、その中でも、特に日本人は、雨乞い師と反対のことではっきりと成果を上げているのだ。つまり、気象的な干ばつ以上に恐ろしい干ばつをもたらしているのである。
雨乞い師は、見世物商売ではない。そして、自然が雨を降らせないなら、それを妨げようなどとも思わない。しかし、人の心が招いた干ばつなら、手を差し伸べることもあるということだ。

成功とは何かは、人によってそれぞれ違う考えがあるかもしれない。
なぜ人によって成功の定義が異なるかというと、欲にまみれた人間が多いからだ。成功に色々な定義などありはしない。真の成功はただ1つだ。
しかし、食う腹しか持たぬ愚かな人間に合わせて言うなら、成功とは満足することだとでも言えよう。

だが、これだけは憶えておくべきだ。
成功をもたらすテクニックや秘密など絶対に存在しない。そんなものがあると言う者は、単に金儲けがしたいだけなのだ。その証拠に、テクニックや秘密の方法で成功した者などいない。逆に、テクニックや秘密で悲惨を味わった者は欲に駆られた者の数だけいる。つまり、数え切れない。

ユングの雨乞い師の話の中に、成功に必要な全てがある。
雨乞い師になれれば無敵であり、幸福でいられる。
抽象的に言うなら、そのために思い出すべきことは、ヨブ記にある「神と和らぎ平和でいなさい。そうすれば幸福になる」だけだ。
だが、こんな抽象的な言い方をするから宗教は嫌われるのだ。宗教者は世間知らずなので、こんな言い方しか出来ないのだろうか?

ユングのお話に出てくる雨乞い師に、誰かが雨を降らせる秘訣を聞いた。雨乞い師は当然「無し」と言った。
では、どうやって雨を降らせるのかと聞くと、雨乞い師は「何もしない」と言った。
ただ、敢えて言えば、雨乞い師は「神の意思に身を任せた」と言う。この言葉に対して、多少頭の良い学問バカが、またまた難しい抽象論を唱える。
神の意思に身を任せるとは、「何事もほどほどにやる」というだけのことだ。もっと具体的に言うなら、「ほどほどに酒を飲む」ということだ。
酒を飲むと言えば、「飲んで飲まれて飲んで」とばかりに、浴びるほど飲むか、ルドルフ・シュタイナーのように一滴も駄目と言うのが人間だ。至高の英知を持つシュタイナーすら誤ったのだ。だから彼の話は難し過ぎる(無論、本質は優れたものではあるが)。
空海や水野南北のように、1日1合(ほぼコップ1杯)と決めて飲むのが本当に賢い人だ。ただ、それは特に優れた人の場合で、凡人なら2合でも良い。だが、3合飲むなら愚か者だ。
甘いお菓子が好きなら、そこそこに食べれば良いが、みっともなく肥満するなら馬鹿だということだ。
しかし、今の日本は、人々が肥満しようがアル中になろうが、儲かりさえすれば、限度を知らずに飲み食いするよう煽ることが横行している。すなわち、神の意思を無視した国なのである。あらゆる意味で干ばつが起こるのは当然である。さて、これを整えるほどの強力な雨乞い師はいるのだろうか?
イエスは、「ソロモンよりもヨナよりも優れた者がここにいる」と救世主宣言をしたが、空海や南北、あるいは、黒住宗忠を超える救世主が日本にいるだろうか?
もしいるとすれば、彼はイエスがそうであったように、大嘘つきと呼ばれるだろう。あらゆる中傷にまみれ、罪人扱いされるに違いない。逆に言えば、世間に崇拝されるなら、彼はただのペテン師だ。
そして、世間に蔑まれ、罵倒される救世主は現代にもいるのだ。彼は偉大な雨乞い師であり、全ての雨乞い師の主人であり師匠である。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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