世の中には、矛盾した言葉というものが沢山あるが、最も矛盾した言葉は何かと言うと、「奴隷を愛する」という言葉だと思う。
愛しているなら、奴隷にはしない。
「私はビジネスを愛する」と言う人がいるかもしれない。
しかし、「ビジネスは私に富をもたらしてくれるから」と言うなら、彼はビジネスを自分のために役立つ奴隷と見なしており、自分が主人でビジネスを下僕としているのだから、彼の言葉は矛盾している。
「ビジネスは私の能力を活かし、世界を良いものにする」と言うなら、ビジネスが主であり、自分が下僕なので、彼はビジネスを愛しているのだ。
単なるロックファン、ロックマニアと、ロックを愛する者の違いも同じだ。
ロックを、自分を楽しませてくれるものと考えるなら、やはりロックを自分のために役立つ下僕と見なしており、ロックを愛していることにはならない。ロックを愛するなら、ロックが自分や人々の意識を目覚めさせ、進化させるものと思っているのだ。
プロのシンガーでも、音楽を富をもたらすものと思うなら、やはり音楽を自分のための奴隷にしているのであり、音楽を愛することとは程遠い。いや、正反対だ。ある有名なミュージシャンは、元々は音楽を愛していたし、才能もあったので素晴らしいミュージシャンになり、人々に対して、音楽本来の役割を提供する下僕になっていたが、彼は神に試されたのだろう。彼には大きな富がもたらされ、いつしか彼は、音楽をお金の道具にしてしまい、才能が閉ざされ、そして、破滅した。大きな借金を背負った彼は、今でも音楽を金の道具にせざるを得ず、復活は不可能だろう。才能とは、道を誤る大いなる災いなのだ。弱い人間には、むしろ無い方が幸福かもしれない。
しかし、別の著名なニュージシャンは「ミュージシャンなんてのは、街角でハーモニカを吹いていたら満足なやつでないと駄目なんだ」と言ったが、それは自分が楽しむという意味ではない。ハーモニカを吹くことで閃きを得て、自分のやるべきことを知ったり、あるいは、人々に気付かせたりするということで、あくまで音楽が主で自分は従なのだ。
では、さて、「女を愛する」とか「男を愛する」とはどういう意味なのだろう?
神を愛すると言いながら、神に富や成功を祈れば、それは、神に対し、「私の役に立て」と言うようなもので、神に自分の奴隷になれと要求するようなものだ。神を愛するとは、神の下僕になるということだ。ただ、神は人間の主人のように我がままでもなければ気紛れでもない。主人にするに値するものであり、全面降伏して悔いのない相手に違いない。
ただ、アイルランドの詩聖イェイツが言ったように、「愛は神の領域であり、人に理解できるものではない。だが、憎しみは人の領域であり、これなら理解できる。我々にできるのはただ憎しみを捨てることだ」ということなのだ。全ては神の至高の力が動かすのだから、どんな運命や出来事も憎まないことだ。全ての過去と現状を肯定するよう努めるのが良いに違いない。そして、未来に関しては神に任せることだ。それが神の意志に従うということであり、神と和らぐということと思う。聖者、賢者が約束する幸福の道とはそれである。
簡単に言えば、余計なことを考えず、ぼーっとしていることだ。不要なものを求めないことだ。しかし、考えるべきことは考え、必要なものは求めても良いのだろう。しかし、それらはあまり多くはない。
そうすれば、我々には下僕や奴隷は必要がないことが分かる。「ご主人様」と言われて喜んでいるなら、その喜びが大きいほど、彼の現状は悪いものに違いない。我々は下僕である時に幸福なのである。そして、下僕であることで主人に似てくるのである。
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愛しているなら、奴隷にはしない。
「私はビジネスを愛する」と言う人がいるかもしれない。
しかし、「ビジネスは私に富をもたらしてくれるから」と言うなら、彼はビジネスを自分のために役立つ奴隷と見なしており、自分が主人でビジネスを下僕としているのだから、彼の言葉は矛盾している。
「ビジネスは私の能力を活かし、世界を良いものにする」と言うなら、ビジネスが主であり、自分が下僕なので、彼はビジネスを愛しているのだ。
単なるロックファン、ロックマニアと、ロックを愛する者の違いも同じだ。
ロックを、自分を楽しませてくれるものと考えるなら、やはりロックを自分のために役立つ下僕と見なしており、ロックを愛していることにはならない。ロックを愛するなら、ロックが自分や人々の意識を目覚めさせ、進化させるものと思っているのだ。
プロのシンガーでも、音楽を富をもたらすものと思うなら、やはり音楽を自分のための奴隷にしているのであり、音楽を愛することとは程遠い。いや、正反対だ。ある有名なミュージシャンは、元々は音楽を愛していたし、才能もあったので素晴らしいミュージシャンになり、人々に対して、音楽本来の役割を提供する下僕になっていたが、彼は神に試されたのだろう。彼には大きな富がもたらされ、いつしか彼は、音楽をお金の道具にしてしまい、才能が閉ざされ、そして、破滅した。大きな借金を背負った彼は、今でも音楽を金の道具にせざるを得ず、復活は不可能だろう。才能とは、道を誤る大いなる災いなのだ。弱い人間には、むしろ無い方が幸福かもしれない。
しかし、別の著名なニュージシャンは「ミュージシャンなんてのは、街角でハーモニカを吹いていたら満足なやつでないと駄目なんだ」と言ったが、それは自分が楽しむという意味ではない。ハーモニカを吹くことで閃きを得て、自分のやるべきことを知ったり、あるいは、人々に気付かせたりするということで、あくまで音楽が主で自分は従なのだ。
では、さて、「女を愛する」とか「男を愛する」とはどういう意味なのだろう?
神を愛すると言いながら、神に富や成功を祈れば、それは、神に対し、「私の役に立て」と言うようなもので、神に自分の奴隷になれと要求するようなものだ。神を愛するとは、神の下僕になるということだ。ただ、神は人間の主人のように我がままでもなければ気紛れでもない。主人にするに値するものであり、全面降伏して悔いのない相手に違いない。
ただ、アイルランドの詩聖イェイツが言ったように、「愛は神の領域であり、人に理解できるものではない。だが、憎しみは人の領域であり、これなら理解できる。我々にできるのはただ憎しみを捨てることだ」ということなのだ。全ては神の至高の力が動かすのだから、どんな運命や出来事も憎まないことだ。全ての過去と現状を肯定するよう努めるのが良いに違いない。そして、未来に関しては神に任せることだ。それが神の意志に従うということであり、神と和らぐということと思う。聖者、賢者が約束する幸福の道とはそれである。
簡単に言えば、余計なことを考えず、ぼーっとしていることだ。不要なものを求めないことだ。しかし、考えるべきことは考え、必要なものは求めても良いのだろう。しかし、それらはあまり多くはない。
そうすれば、我々には下僕や奴隷は必要がないことが分かる。「ご主人様」と言われて喜んでいるなら、その喜びが大きいほど、彼の現状は悪いものに違いない。我々は下僕である時に幸福なのである。そして、下僕であることで主人に似てくるのである。
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