そのまま本のタイトルになっている、映画評論家の淀川長治さんの名言に「私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない」というものがある。
そうであれば、どんなに素晴らしいことかと思うが、そんな人は、まずいないと思う。
誰だって嫌いな人の数人はいるし、ことによってはほとんどの人が嫌いだという者だっている。

しかし、人間が、所詮、いつかはやらないといけない修行は、「嫌いな人の機嫌を取る」ことだ。それは、普通の人にとって、ぞっとすることであるが、どうもこれだけは逃れる術はないようなのだ。
アニメ「神無月の巫女」の中で、裏社会で生きてきた兄ツバサが、16歳の弟ソウマに、お前は何も知らないガキだという意味を込め、「お前は殺したいほど憎いやつに、這いつくばって命乞いをしたことがあるか?」と問う場面がある。そこまで極端な経験は無いにしても、少なくとも、その言葉が胸に刺さるほどでないなら、おそらく、何もできない幼稚な精神の持ち主だろう。
こう言うと、「俺は嫌いな上司、先輩の機嫌を取っているさ。得だからね」と言う者もいるだろうが、その程度は当たり前過ぎる。それすら出来ないなら、幼児以下である。
そろそろシーズンかもしれない「忠臣蔵」のお話(いわゆる元禄赤穂事件)は、おそらく実際の話とはかなり違ったものが伝わっており、主君であった浅野長矩に対する赤穂四十七士の忠義心を称えるものになってしまっている。仮に、そのお話の通りであったとしても、この物語の本当の重要ポイントは、浅野長矩こと浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)のご機嫌を取れなかったことが破滅の原因であったことだ。

子供のうちなら、嫌いな人に対し、そっぽを向いたり、意地の悪いことをしたりもできるが、そんなことをしているうちは、やはり幼稚な子供だ。そんな精神のままで自己実現することなど、あるはずがない。
浅野長矩は当然ながら、自己実現を果たせなかった。
そこで思い出すのが、冒頭にあげた淀川さんの至高の名文句だ。嫌いでないなら、機嫌を取ることもそんなに難しいことではない。そして、宇宙の英知(いわゆる神)は、別に、好きな人の機嫌まで取れとは言っていない。つまり、誰の機嫌も取らなくて良い。
何かを嫌いだというのは、頭が余計なことを考えているのだ。つまり、嫌悪感というのは、妄想が生み出した錯覚だ。
発明家で、世界的な能力開発指導者・研究家であった中山正和さんは、著書に何度も「頭の無駄遣いをするな」と書いているが、これは、余計なことを考えるなということで、それは頭を悪くし、直観力も無くしてしまうのである。
中山さんの結論は、「クヨクヨするな」「考えても仕方がないことを考えるな」であったが、人間は複雑なので、それがなかなか出来ない。

余計なことを考えないということが出来れば、人生、勝ったも同然だろう。考えないと成功はしないだろうが、大きな失敗もしないし、ましてや破滅などしない。どんな馬鹿でも、余計なことを考えて身を滅ぼすのだ。
なぜ余計なことを考えるのかというと、身の程を超えた欲を持つからだ。徳川家康は、天下を取りたければ、身の程をわきまえろと言ったが、それが天下人の究極の結論のように感じる。
最も簡単な方法は、画家の足立幸子さんが教えたように、頭をからっぽにしてぼーっとしていることだ。頭を使わないと馬鹿、阿呆になると思っている人も多いと思うが、余計なことを考えるよりはマシである。実際は、ぼーっとしていると閃きが起こり、やりがいのあることで頭を使う機会に恵まれるようになる。江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人相占い師に、「言い難いが、あなたはアホの相が出ている」と言われ、「それは嬉しい。私はアホになる修行に励んでいたが、いよいよ成果が出たか」と大喜びした。偉大な叡智を持つ聖者は尊きアホであったのだ。







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