目が覚めてまもない時に、見慣れた街の風景を見ると、その異様なまでの美しさに圧倒されることがある。
普段は都会に住んでいる人が、旅先で、早朝に自然の風景を見た時、その荘厳さに感動したという人も多いだろう。
まだ暗い時に目覚めて、たまたま夜空の星を見ると、星達が本当にささやきかけてくることがある。
W.B.イェイツ(アイルランドの詩人、劇作家。「20世紀最大の詩人」と言われる。ノーベル賞受賞)のような、超感覚的な詩人であれば、昼間ですら、壁の絵画が語りかけてくるのを感じることもあったそうだ。
目覚めたばかりの時は、論理を司る脳である左脳はまだ眠ってることが多く、その左脳が、感覚を司る脳である右脳の働きを妨げないので、世界を左脳(論理)のフィルターを通さずに見ることができる。
アラビアのロレンスが、自叙伝「知恵の七柱」で、そのような経験について述べているのを、コリン・ウィルソンが「右脳の冒険」で引用しているが、ウィルソンは、ロレンスだけでなく、数多くの文豪の作品の中に、そのような話があることを指摘している。
画家で波動や宇宙意識に関して数多くの講演を行っていた足立幸子さんは、「頭はロクなことを考えないので、意識を胸に持っていってなるべくぼーっとしている。すると、素晴らしい閃きがあり、それに従うと間違いがなかった」と言う。
半分眠ったような状態が、人が超越的な存在である時だ。
アメリカの哲学者で、宇宙人とのコンタクティ(接触者)として知られるジョージ・アダムスキーは、「個人の心が意識(宇宙の英知)に従う時、心は意識と溶け合い、宇宙との合一に近付く」と言った。
宮本武蔵の肖像画を見ると、剣を持った彼の目は半眼である。彼の「五輪書」には、見ることについての記述があるが、それは、普通の人がものを見ることとはかなり異なる。「荘子」に、無限の道(タオ)と一体化するには、視線を自然にすることとあるが、それは思慮分別を通さずに、見えるがまま、あるがままに受け入れるということと思う。武蔵も荘子も、個人の心や論理でなく、深い意識で見ることについて説いているのだろう。
至道無難の言う、「生きながら死人となり、思いのままになすが良し」というのも、個人の自我としては、死んだ状態に近いのがよろしいということと思う。
眠りながら起きていることだ。
ジョセフ・マーフィーの代表的著作「潜在意識の力」を、渡部昇一さんは、その内容から「眠りながら成功する」という日本語のタイトルを付けたが、マーフィーは一般読者に分かりやすいように、就寝前の半分眠った状態について説いている。しかし、昼間に出来ないことでもない。
羽生善治さんの、対局中の脳波は眠っている時と同じであることが科学的調査で分かり話題になったことがある。
ただし、本当に寝てはだめだ。
電車の中で大イビキをかいて寝ているようなのは、単なる愚か者だ。
半分寝てはいるが、意識は目覚めていなければならない。
それどころか、真に優れた人間は、眠っていても意識は目覚めている。剣の達人の寝込みを襲っても、達人は易々と反撃してくる。意識が常に目覚めているのだ。
眠ったような状態で戦って歴史的勝利を収めた格闘家の例も多い。
ニサルガダッタ・マハラジも、「眠っている時のことも覚えているようになる」と言っていた。
私は、1日4時間半ほどの睡眠時間を長く続けているが、昼間眠く、幸い昼食を食べないので、その時間よく寝ていた。30分ほどの時間に、ぴくりとも動かず座ったまま熟睡し、ぴったり30分で起きた。
しかし、昼間の活動をしていても夢を見ることに気付き、起きていながら眠れることが分かった。
そんな中、足立幸子さんの本で、意識を胸に置いてぼーっとするのが良いという話を読み、いつも寝ていることにしたら、睡眠はあまり必要がなくなった。ほんの数日前のことだ。眠っているので余計なことを考えず、以前よりは穏やかになり、しかも、何事も以前よりうまくやれるようになった。至高の英知とも、ますます近付いていくに違いない。何より、人にとって眠ることは楽しいことであり、その楽しみが1日に渡って続く。人生が楽しくなるのである。
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普段は都会に住んでいる人が、旅先で、早朝に自然の風景を見た時、その荘厳さに感動したという人も多いだろう。
まだ暗い時に目覚めて、たまたま夜空の星を見ると、星達が本当にささやきかけてくることがある。
W.B.イェイツ(アイルランドの詩人、劇作家。「20世紀最大の詩人」と言われる。ノーベル賞受賞)のような、超感覚的な詩人であれば、昼間ですら、壁の絵画が語りかけてくるのを感じることもあったそうだ。
目覚めたばかりの時は、論理を司る脳である左脳はまだ眠ってることが多く、その左脳が、感覚を司る脳である右脳の働きを妨げないので、世界を左脳(論理)のフィルターを通さずに見ることができる。
アラビアのロレンスが、自叙伝「知恵の七柱」で、そのような経験について述べているのを、コリン・ウィルソンが「右脳の冒険」で引用しているが、ウィルソンは、ロレンスだけでなく、数多くの文豪の作品の中に、そのような話があることを指摘している。
画家で波動や宇宙意識に関して数多くの講演を行っていた足立幸子さんは、「頭はロクなことを考えないので、意識を胸に持っていってなるべくぼーっとしている。すると、素晴らしい閃きがあり、それに従うと間違いがなかった」と言う。
半分眠ったような状態が、人が超越的な存在である時だ。
アメリカの哲学者で、宇宙人とのコンタクティ(接触者)として知られるジョージ・アダムスキーは、「個人の心が意識(宇宙の英知)に従う時、心は意識と溶け合い、宇宙との合一に近付く」と言った。
宮本武蔵の肖像画を見ると、剣を持った彼の目は半眼である。彼の「五輪書」には、見ることについての記述があるが、それは、普通の人がものを見ることとはかなり異なる。「荘子」に、無限の道(タオ)と一体化するには、視線を自然にすることとあるが、それは思慮分別を通さずに、見えるがまま、あるがままに受け入れるということと思う。武蔵も荘子も、個人の心や論理でなく、深い意識で見ることについて説いているのだろう。
至道無難の言う、「生きながら死人となり、思いのままになすが良し」というのも、個人の自我としては、死んだ状態に近いのがよろしいということと思う。
眠りながら起きていることだ。
ジョセフ・マーフィーの代表的著作「潜在意識の力」を、渡部昇一さんは、その内容から「眠りながら成功する」という日本語のタイトルを付けたが、マーフィーは一般読者に分かりやすいように、就寝前の半分眠った状態について説いている。しかし、昼間に出来ないことでもない。
羽生善治さんの、対局中の脳波は眠っている時と同じであることが科学的調査で分かり話題になったことがある。
ただし、本当に寝てはだめだ。
電車の中で大イビキをかいて寝ているようなのは、単なる愚か者だ。
半分寝てはいるが、意識は目覚めていなければならない。
それどころか、真に優れた人間は、眠っていても意識は目覚めている。剣の達人の寝込みを襲っても、達人は易々と反撃してくる。意識が常に目覚めているのだ。
眠ったような状態で戦って歴史的勝利を収めた格闘家の例も多い。
ニサルガダッタ・マハラジも、「眠っている時のことも覚えているようになる」と言っていた。
私は、1日4時間半ほどの睡眠時間を長く続けているが、昼間眠く、幸い昼食を食べないので、その時間よく寝ていた。30分ほどの時間に、ぴくりとも動かず座ったまま熟睡し、ぴったり30分で起きた。
しかし、昼間の活動をしていても夢を見ることに気付き、起きていながら眠れることが分かった。
そんな中、足立幸子さんの本で、意識を胸に置いてぼーっとするのが良いという話を読み、いつも寝ていることにしたら、睡眠はあまり必要がなくなった。ほんの数日前のことだ。眠っているので余計なことを考えず、以前よりは穏やかになり、しかも、何事も以前よりうまくやれるようになった。至高の英知とも、ますます近付いていくに違いない。何より、人にとって眠ることは楽しいことであり、その楽しみが1日に渡って続く。人生が楽しくなるのである。
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Kayさんの文章、真面目なのにユーモアもあり楽しく読ませていただいています。今日の記事も早速実践してみようと思いました。